原典講読「神の摂理』 324(~[5])

 

(2) 直訳


Quoniam ex his quoque videri potest, quod Divina Providentia non sit alia praedestinatio quam ad caelum, et quod nec in aliam mutari possit, demonstrandum hic est, quod finis creationis sit caelum ex humano genere, in proposito ordine. これらからもまた見られることができるので、神的な摂理は天界へ予定されている他のものではないこと、また他のものに変えられることもできないこと、ここに示されなければならない、創造の目的が人類からの天界であること、表示(命題)順序の中で。


Primum: 第一:


Quod omnis homo creatus sit ut vivat in aeternum. 「すべての人間は永遠に生きるように創造されていること」


In transactione De Divino Amore et Divina Sapientia, Parte Tertia et Quinta, ostensum est, quod apud hominem sint tres gradus vitae, qui vocantur naturalis, spiritualis, et caelestis, et quod hi gradus actualiter apud unumquemvis sint; 論文『神の愛と神の知恵について』第三部と第五部の中に示されている、人間のもとにいのちの三つの段階があること、それらは自然的、霊的、また天的と呼ばれる、またこれらの段階は実際にそれぞれの者のもとにあること。


et quod apud bestias non sit nisi quam unus gradus vitae, qui est similis ultimo gradui apud hominem, qui vocatur naturalis. また獣のもとにいのちの一つの段階以外でないなら存在しないこと、それは人間の最後の段階に似ていること、それは自然的と呼ばれる。


Ex quo sequitur, quod homo per elevationem vitae suae ad Dominum sit prae bestiis in illo statu, ut possit intelligere tale quod Divinae Sapientiae, ac velle tale quod Divini Amoris est, ita Divinum recipere; そのことから~ということになる、人間は主へ自分のいのちの高揚によって、獣によりもその状態の中にいる、このようなものを理解できるような、神的な知恵〔である〕もの、そしてこのようなものを意志すること、神的な愛のものであるもの、このように神性を受け入れること。


et qui Divinum recipere potest, ita ut videat et percipiat illud in se, ille non potest aliter quam conjunctus Domino esse, et per conjunctionem illam vivere in aeternum. また神性を受けることができる者は、このようにそれを本質に見、知覚するように、彼は主と結合している以外に異なってできない、またその結合によって永遠に生きること。


[2.] Quid Dominus cum omni creatione universi, nisi etiam creavisset imagines et similitudines Sui, quibus communicare possit suum Divinum? [2.] 主は何を、全世界の創造のすべてのものに、さらにまたご自分の像と似姿を創造されなかったなら、それらにご自分の神性を伝達することができるのか?


Alioqui quid foret aliud quam facere ut aliquid sit et non sit, seu ut aliquid existat et non existat, hoc non propter aliud, quam ut posset e longinquo contemplari meras vicissitudines, ac continuas variationes sicut super aliquo theatro? そうでなければ、何が何らかのものなったか? 何らかのものが存在し、また存在しないようにすること以外に、すなわち、なんらかのものを存在するようにし、また存在するようにしない、このことは何らかのもののため(のもの)はない、遠くから単に移り変わりを見つめることができるような以外の、そして何らかの舞台の上のような絶え間のない変化するものを。


Quid Divinum in illis, nisi forent propter finem, ut inservirent subjectis quae Divinum recipirent propius, ac viderent et sentirent id? それらの中の神性と何か? 目的のためにでなかったなら、主体に仕えたような、それは神性をさらに近く受け入れる、そしてそれを見、感じる。


Et quia Divinum est inexhaustae gloriae, num id apud se solum retineret, et num hoc posset? また、神性は栄光の無尽蔵のものであるので、それをご自分のもとにだけしまっておくのか、またこれができるのか?


Amor enim vult suum communicare alteri, immo dare ex suo quantum potest. というのは、愛は自分のものを他のものに伝達することを欲するから、それどころかご自分からできるかぎり与えること〔を欲する〕。


Quid non Divinus Amor, qui est infinitus? 神的な愛とは何か? それは無限である。


Num dare potest et rursus auferre? 与えること、また再び取り去ることができるのか?


Foretne hoc dare quod periturum est? これは与えることにならないか? 滅びるものを。


quod intus in se non est aliquid, quia cum perit fit nihil, non est Est in illo. 内部に本質的に何らかのものではないこと、滅びるとき無となるので、その中に「存在するもの」はない。


Sed dat quod Est, seu quod non desinit esse, et hoc est aeternum. しかし、「存在するもの」を与える、すなわち、存在をやめないもの、またこれは永遠のものである。


[3.] Ut omnis homo vivat in aeternum, aufertur id quod est mortale apud illum. [3.] すべての人間が永遠に生きるために、それは取り除かれる、彼のもとで死ぬべきものであるもの。


Mortale ejus est materiale corpus, quod aufertur per ejus mortem. 彼の死ぬべきものは物質的な身体である、それは彼の死によって取り除かれる。


Sic nudatur immortale ejus, quod est mens ejus, et fit tunc spiritus in forma humana; このように彼の不死のものが現わされる(裸にされる)、それは彼の心である、またその時、人間の形の中の霊になる。


mens ejus est ille spiritus. 彼の心はその霊である。


Quod mens hominis non mori possit, viderunt sophi seu sapientes antiqui; 人間の心が死ぬことができないことは、古代の哲人または賢人が見た。


dixerunt enim, Quomodo potest animus seu mens mori, cum potest sapere? というのは言ったから、「どのように(アニムス)たは心は死ぬことができるか、賢くなることができるとき?」


Interiorem eorum ideam de eo pauci hodie sciunt; そのことについて彼らの内的な観念を、今日ではわずかな者が知っている。


sed fuit illa, quae in communem illorum perceptionem e caelo illapsa est, quod Deus sit ipsa Sapientia, cujus particeps est homo, et Deus immortalis seu aeternus est. しかしそれらであった、それらは天界から彼らの全般的な(共通の)覚の中に注がれた、神は知恵そのものであられること、その小部分が人間である、また神は不死また永遠である。


[4.] Quoniam mihi datum est loqui cum angelis, etiam aliquid ab experientia dicam. [4.] 私に天使たちと話すことが与えられたので、さらにまた何らかのことを経験から私は言おう。


Locutus sum cum illis qui ante multa saecula vixerunt, cum illis qui ante diluvium, et cum quibusdam post diluvium, cumque illis qui tempore Domini vixerunt, et cum uno ex Apostolis Ipsius, et cum pluribus qui in saeculis postea; 私は彼らと話した、多くの世紀の前に生きた者、彼らと、洪水前の者、また洪水後のある者と、彼らともまた、主の時代に生きた者、またその方の使徒からの一人と、また多くの者と、その後の時代の中の者。


et omnes illi visi sunt sicut homines in media aetate, et dixerunt quod nesciant quid mors, solum quod sit damnatio. またすべての者は彼らは真ん中の年齢の中の人間のように見られた、また何が死か知らないことを言った、単に断罪があること。


Omnes etiam qui bene vixerunt, dum in caelum veniunt, in aetatem suam in mundo juvenilem veniunt, et illa manent in aeternum; さらにまたすべての者は、善く生きた者、天界の中にやって来る時、自分の年齢の中に、世の中で若々しく生きた、またそれ〔年齢〕に永遠にとどまる。


etiam qui senes et decrepiti fuerunt in mundo; 世で老人で弱った(よぼよぼの者)であった者もまた。


ac feminae, tametsi fuerunt vetulae et anus, in florem suae aetatis et pulchritudinis redeunt. そして女は、たとえ老いて、年取っても、自分の花の年齢に、また美しさに戻る。


[5.] Quod homo post mortem vivat in aeternum, patet ex Verbo, ubi vita in caelo vocatur “vita aeterna” [5.] 人間が死後、永遠に生きることは、みことばから明らかである、そこに天界の中のいのち(生活)は「永遠のいのち(生活)と呼ばれている。


(Ut Matth. xix. 29; xxv. 46; Marc. x. 17; Luc. x. 25; xviii. 30; Joh. iii. 15, 16, 36; v. 24, 25, 39; vi. 27, 40, 68; xii. 50): (例えば、マタイ19:2925:46、マルコ10: 17、ルカ10:2518:30、ヨハネ3:15, 16, 365:24, 25, 39 6: 27, 40, 6812: 50)
tum etiam simpliciter “vita” (Matth. xviii. 8, 9; Joh. v. 40; xx. 31).
 なおまた単に「いのち(生活)」ともまた(マタイxviii. 18:8, 9、ヨハネ5: 4020: 31)


Dominus etiam dixit ad discipulos, “Quia Ego vivo, etiam vos vivetis” (Joh. xiv. 19): 主もまた弟子たちに言われた、「わたしが生きるので、あなたがたもまた生きる」(ヨハネ14:19)
et de resurrectione, quod Deus sit “Deus viventium, et non Deus mortuorum;” tum Quod non mori amplius possint (Luc. xx. 36, 38).
 またよみがえりについて、神は「生きている者の神、また死んでいる者の神でない」であること、なおまたもはや死ぬことができないこと(ルカ20:36, 38)


 


(3) 訳文


324. これらからもまた、神的な摂理は天界へ予定されものでしかないこと、また他のものに変えられることもできないことを見ることができるので、ここに、創造の目的が人類からの天界であることを提示された順序で示されなければならない。


第一:「すべての人間は永遠に生きるように創造されていること」


I 著作『神の愛と知恵』第三部と第五部の中に、人間のもとに自然的、霊的、天的と呼ばれるいのちの三つの段階があり、またこれらの段階は実際にそれぞれの者のもとにあること、また獣のもとには、いのちの一つの段階しか存在しないで、それは自然的と呼ばれる人間の最も低い段階に似ていることが示されている。


 そのことから、人間は主へ自分のいのちの高揚によって、獣によりも、神的な知恵のようなものを理解できるような、神的な愛のようなものを意志すること、このように神性を受け入れること  の状態の中にいて、また神性を受けることができる者は、主と結合していることしができず、またその結合によって永遠に生きることしかできない、とこのようにその本質に見、知覚するといえる。


[2.] 主は、全世界の創造のすべてのものに、さらにまたご自分の像と似姿を創造されなかったなら、それらにご自分の神性の何を伝達することがおできになるのか?


 そうでなければ、何らかのものが存在し、存在しないようにすること、すなわち、なんらかのものを存在するようにし、また存在するようにしないこと、このことは遠くから単に移り変わりを見つめることができるような以外の、何らかの舞台の上のような絶え間のなく変化するものを見つめること以外の何らかのものとなるか?


神性をさらに近く受け入れ、そしてそれを見、感じる主体に仕えるような目的のためでなかったなら、それらの中の神性と何なのか? また、神性は無尽蔵の栄光に属すものであるのに、それをご自分のもとにだけしまっておかれるのか、またこおことがおできになるのか?


 というのは、愛は自分のものを他のものに伝達すること、それどころかご自分からできるかぎり与えることを欲するから。無限である神的な愛とは何か? 与え、また再び取り去ることのできるものなのか? これは滅びるものを与えることにならないか? 滅びるとき無となり、内部に本質的に何らかのものがないなら、その中に「存在するもの」はない。しかし、「存在するもの」を与えるものは、すなわち、存在をやめないものは、永遠のものである。


[3.] すべての人間が永遠に生きるために、彼のもとの死ぬべきものであるものは取り除かれる。彼の死ぬべきものは物質的な身体であり、それは彼の死によって取り除かれる。このように彼の不死のものが現わされ、それは彼の心であり、またその時、人間の形の中で霊になる。彼の心はその霊である。


 人間の心が死ぬことができないことは、古代の哲人または賢人が見た。というのは「アニムス(気質)たは心は賢くなることができるとき、どのようにして死ぬことができるのか?」と言ったから。そのことについて彼らの内的な観念は、今日ではわずかな者しか知らない。しかし、彼らの全般的な覚の中に、神は知恵そのものであられ、その小部分が人間である、また神は不死また永遠である、というそれらの内的な観念が天界から注がれたのであった。


[4.] 私に天使たちと話すことが与えられたので、さらにまた何らかのことをその経験から述べよう。


 私は、多くの世紀の前に生きた者、洪水前の者また洪水後のある者と、主の時代に生きた者、またその方の使徒からの一人と、またその後の時代の多くの者ともまた話した。またすべての者は中年の人間のように見られ、また死が何がは知らず、単に断罪があることを言った。


さらにまた、善く生きたすべての者は、天界の中にやって来る時、世で老人でよぼよぼであった者もまた、世で若々しく生きた自分の年齢の中で生き、またその年齢に永遠にとどまる。そして女性は、たとえ老いて、年取っても、自分の花の年齢に、また美しさに戻る。


[5.] 死後、人間が永遠に生きることは、みことばから明らかであり、そこに天界の中のいのち(生活)は「永遠のいのち(生活)と呼ばれている。


 (例えば、マタイ19:2925:46、マルコ10: 17、ルカ10:2518:30、ヨハネ3:15, 16, 365:24, 25, 39 6: 27, 40, 6812: 50)


なおまた単に「いのち」とも呼ばれている(マタイxviii. 18:8, 9、ヨハネ5: 4020: 31)


 主もまた弟子たちに、「わたしが生きるので、あなたがたもまた生きる」と言われた(ヨハネ14:19)。またよみがえりについて、神は「生きている者の神、また死んでいる者の神ではない」こと、なおまたもはや死ぬことができないこと(ルカ20:36, 38)