原典講読「神の摂理』 321([4.]~[8.]おわり)

 

(2) 直訳


[4.] Secundum: [4.] 第二:


Quod credere et cogitare sicut veritas est, quod omne bonum et verum sit a Domino, ac omne malum et falsum ab inferno, appareat sicut impossibile; 真理であるように信じることと考えることは、すべての善と真理は主からであること、そしてすべての悪と虚偽は地獄から、不可能のように見える。


cum tamen id est vere humanum et inde angelicum.― そのときそれでもなおそのことは真の人間性(人間らしさ)とここから天使のものである。


Credere et cogitare quod omne bonum et verum sit a Deo, apparet possibile, modo non aliquid ultra dicatur; 信じることと考えることは、すべての善と真理は主からであること、可能に見える、越えた何らかのものが言われないかぎり。


causa est, quia est secundum fidem theologicam, contra quam non licet cogitare. 理由がある、神学の信仰にしたがっているので、それらに反するものを考えることが許されない。


At credere et cogitare quod omne malum et falsum sit ex inferno, apparet impossibile, quia sic etiam crederetur, quod homo nihil posset cogitare. しかし、信じることと考えることは、すべての悪と虚偽は地獄からであること、不可能に見える、このようにもまた信じられるので、人間は何も考えることができないこと。


Sed usque cogitat homo sicut ex se, tametsi ex inferno; しかし、それでも、人間は自分自身からのように考える、たとえ地獄から〔考える〕にしても。


quia Dominus dat cuivis, quod cogitatio, undecunque sit, appareat in illo sicut sua; 主はそれぞれの者に与えられているので、思考を、どんな源からであっても、彼の中に自分のもののように見える。


alioqui homo non viveret homo, nec posset educi ex inferno, ac introduci in caelum, hoc est, reformari, ut multis supra ostensum est. そうでなければ、人間は人間〔として〕生きない、地獄からも連れ出されることができない、そして天界に導かれること、すなわち、改心されること、上の多くに示されているように。


[5.] Quare etiam Dominus dat homini scire et inde cogitare quod in inferno sit si in malo, et quod ex inferno cogitet si ex malo; [5.] それゆえ、主もまた人間に知ることとここから考えることを与えられている、地獄の中にいること、もし悪の中に〔いる〕なら、また地獄から考える、もし悪から〔考える〕なら。


et quoque dat cogitare media, quomodo possit ab inferno exire, et non cogitare ex illo, sed venire in caelum et ibi cogitare ex Domino; そしてまた、手段を考えることを与えられている、どのように地獄から出ることができるか、またそれ〔地獄〕から考えないこと、しかし、天界にやって来ること、またそこで主から考えること。


et quoque dat homini liberum electionis. そしてまた、人間に選択の自由を与えられている。


Ex quibus videri potest, quod homo possit cogitare malum et falsum sicut ex se, et quoque cogitare quod id et illud sit malum et falsum; それらから見られることができる、人間は悪と虚偽を自分自身から考えることができること、そしてまた考えること、それらやあれらが悪と虚偽であること。


proinde quod sit modo apparentia quod a se, sine qua homo non foret homo. それゆえに、単なる外観であること、自分自身から〔考えるができる〕こと、そのこと〔外観〕なしに人間は人間でなくなった。


Ipsum humanum et inde angelicum est cogitare ex veritate; 真理から考えることは人間性そのものとここから天使的である。


et hoc veritas est, quod homo non cogitet ex se, sed quod ei detur a Domino cogitare, in omni apparentia ut ex se. またこのことは真理である、人間は自分自身から考えないこと、しかし彼に主から考えることが与えられていること、すべての外観の中で、自分自身からのように。


[6.] Tertium: [6.] 第三:


Quod ita credere et cogitare sit impossibile illis qui non agnoscunt Divinum Domini, et qui non agnoscunt mala esse peccata; そのように信じることと考えることは彼らに不可能であることは、主の神性を認めない者、また悪が罪であることを認めない者。


et quod possibile sit illis qui duo illa agnoscunt.― しかし、彼らに可能であること、それら二つを認める者。


Quod id impossibile sit illis qui non agnoscunt Divinum Domini, est quia solus Dominus dat homini cogitare et velle; そのことは彼らに不可能であること、主の神性を認めない者、主だけが人間に考えることと意志することを与えられるからである。


et qui non agnoscunt Divinum Domini, illi sejuncti ab Ipso credunt quod cogitent a se. また、主の神性を認めない者は、彼らはその方から切り離されて〔いて〕自分自身から考えることを信じている。


Quod impossibile etiam sit illis qui non agnoscunt mala esse peccata, est quia hi cogitant ex inferno, et quisque ibi putat quod a se cogitet. さらにまた彼らに不可能であること、悪が罪であること認めない者、その者たちは地獄から考えるからである、またそこにだれもが考える、自分自身から考えること。


Quod autem possibile sit illis qui duo illa agnoscunt, constare potest ex illis quae supra (n. 288-294) in copia allata sunt. けれども、彼らに可能である、それら二つのものを認める者、それらから明らかにすることができる、それらは上に(288-294)豊富なもの(多量)が提示されている。


[7.] Quartum: [7.] 第四:


Quod qui in duabus illis agnitionibus sunt, solum reflectant super mala apud se, ac illa ad infernum, unde sunt, rejiciant, quantum illa ut peccata fugiunt et aversantur.― これら二つの承認の中にいる者は、単に自分自身のもとに悪を熟考する(考慮する)、またそれらを自分自身から地獄へ、〔その悪は〕そこからである、押し戻す(追い払う)それらを罪として避け、退けるかぎり。


Quis non scit, vel scire potest, quod malum sit ab inferno, et quod bonum e caelo? だれが知らないか? あるいは知ることができる、悪は地獄からであること、また善は天界から。


Et quis non inde scire potest, quod quantum homo fugit et aversatur malum, tantum fugiat et aversetur infernum? また、だれがここから知ることができないか? どれだけ人間が悪を避け、退けるか〔によって〕、それだけ地獄を避け、退けること。


Et quis inde non scire potest, quod, quantum quis malum fugit et aversatur, tantum velit et amet bonum; また、だれがここから知ることができないか? 〔この〕ことを、どれだけだれかが悪を避け、退けるか〔によって〕、それだけ善を欲し、愛する。


proinde quod tantum a Domino ab inferno eximatur, et ad caelum ducatur? それゆえに、それだけ主により地獄から連れ出される、また天界へ導かれる〔ない〕か?


Haec omnis rationalis homo, modo scit quod infernum et caelum sint, et quod malum sit a sua origine et bonum a sua, videre potest. これらのことを理性的なすべての人間は、地獄と天界があることを知りさえすれば、また悪はその起源から、善はそれからであること、見ることができる。


Nunc si homo reflectit super mala apud se, (quod idem est cum explorare se,) et fugit illa, tunc evolvit se ab inferno, et hoc rejicit ad tergum; そこで、もし人間が自分自身のもとの悪を熟考する、(自分自身を調べることと同じことである)またそれらを避ける、その時、自分自身を地獄から解く、またこれ〔地獄〕を背後に押し戻す(退ける)


ac immittit se in caelum, et ibi Dominum spectat a facie. そして自分自身を天界の中に引き入れる、またそこに主を眺める、顔から。


Dicitur quod homo hoc faciat, sed facit id sicut a se, tunc ex Domino. 人間がこのことを行なうことが言われる、しかし、それを自分自身からのように行なう、その時、主から。


Cum homo agnoscit hoc verum ex bono corde et ex pia fide, tunc latet id intus in omni quod postea sicut ex se cogitat et facit; 人間がこの真理を認めるとき、善い心からと敬虔な信仰から、その時、それ〔真理〕はすべてのものの中に内部に隠れている、その後、自分自身から考え、行なうこと。


quemadmodum prolificum in semine, quod intus comitatur usque ad novum semen; いわば種の中の生殖力〔である〕、内部に伴うこと、新しい種にまで。


et quemadmodum volupe in appetitu cibi, quem semel agnovit sibi salutiferum esse; いわば欲望(食欲など)の食物の中の快さ〔である〕、それをかつて自分自身に健康に良いと認めた。


verbo, est sicut cor et anima in omni quod cogitat et facit. 一言でいえば、考え、行なうことすべてのもの中の心臓と霊魂のようである。


[8.] Quintum: [8.] 第五:


Quod sic Divina Providentia non appropriet alicui malum nec alicui bonum, sed quod propria prudentia appropriet utrumque.― このように神的な摂理はある者に悪を所有物とさせない(専有する)こと、ある者に善をも、しかしプロプリウムの思慮が両方のものを所有物とする(専有する)こと。


Hoc consequitur ex omnibus quae nunc dicta sunt. このことはすべてのことから結果として生ずる(~ということになる)、それらはここで言われた。


Finis Divinae Providentiae est bonum; 神的な摂理の目的は善である。


hoc itaque in omni operatione intendit. そこでこれ〔善〕をすべての働きの中で意図する。


Quare non appropriat alicui bonum, nam sic illud fieret meritorium; それゆえ、それはある者に善を専有しない、なぜなら、このようにそれ〔善〕は功績的なものになるから。


nec appropriat alicui malum, nam sic illum reum mali faceret. ある者に悪も専有しない、なぜなら、このように彼を悪のものにするから。


Utrumque tamen facit homo ex proprio, quia hoc non est nisi quam malum; それでも両方のものを人間はプロプリウムから行なう、これは悪以外でないなら〔何ものでも〕ないので。


proprium voluntatis ejus est amor sui, ac proprium intellectus ejus est fastus propriae intelligentiae; 彼の意志のプロプリウムは自己愛である、そして彼の理解力のプロプリウムは知性のプロプリウムの高慢である。


et ex hoc est propria prudentia. またこのことからである、プロプリウムの思慮。


 


(3) 訳文


321.  [4.] 第二:「すべての善と真理は主から、そしてすべての悪と虚偽は地獄からであることが真理であると信じることと考えることは、不可能のように見える、そのときそれでもなお、そのことは真の人間性であり、ここから天使性である」


すべての善と真理は主からである、と信じ、考えることは、これを越える何らかのものが言われないかぎり、可能に見える。その理由は、それらに反して考えることは許されない、という神学の信仰にしたがっているからである。しかし、すべての悪と虚偽は地獄からであることを信じ、考えることは、人間は何も考えることができない、とこのようにもまた信じられているので、不可能に見える。しかし、それでも、人間は、たとえ地獄から〔考える〕にしても、自分自身からのように考える。主はそれぞれの者に、思考を、どんな源からであっても、彼の中に自分のもののように見えるように与えられているからである。そうでなければ、前の多くのものに示されているように、人間は人間として生きず、地獄からも連れ出されず、天界に導かれることもない、すなわち、改心することができない。


[5.] それゆえ、主もまた人間に、もし悪の中にいるなら地獄の中にいること、またもし悪から考えるなら地獄から考えることを知ることとここから考えることを与えられている。そしてまた、どのように地獄から出て、その地獄から考えないことができ、しかし、天界にやって来て、そこで主から考えることができる手段を与えられている。そしてまた、人間に選択の自由を与えられている。それらから、人間は悪と虚偽を自分自身から考え、そしてまた、それらやあれらが悪と虚偽である、と考えることができることが見られる。それゆえに、自分自身から考えるができることは単なる外観であり、その外観なしに人間は人間ではなくなってしまう。


真理から考えることは人間性そのものとここから天使性である。また、人間は自分自身から考えず、しかし彼に主から、すべての外観の中で、自分自身からのよう考えることが与えられており、このことは真理である。


[6.] 第三:「そのように信じることと考えることは、主の神性を認めない者、また悪が罪であることを認めない者に不可能であること、しかし、それら二つを認める者に可能であること」


主だけが人間に考えることと意志することを与えられるので、主の神性を認めない者に、そのことは不可能である。また、主の神性を認めない者は、その方から切り離されていて、自分自身から考える、と信じている。悪が罪であることを認めない者にもまた不可能である。その者たちは地獄から考え、またそこのだれもが、自分自身から考えている、と思っているからである。


 けれども、それら二つのものを認める者に可能であり、前に豊富に提示されている(288-294)それらから明らかにすることができる。


[7.] 第四:「これら二つの承認の中にいる者は、ただ自分自身のもとに悪を考慮し、それらを罪として避け、退けるかぎり、それの悪を自分自身からもとの地獄へ押し戻すだけである


悪は地獄から、また善は天界からであることを、だれが知らないか、あるいは知ることができないか? またここから、どれだけ人間が悪を避け、退けるかによって、それだけ地獄を避け、退けることを、だれが知ることができないか? またここから、だれかがどれだけ悪を避け、退けるかによって、それだけ善を欲し、愛することを、だれが知ることができないか? それゆえ、それだけ主により地獄から連れ出され、天界へ導かれないか?


 理性的なすべての人間は、これらのことを地獄と天界があることを知りさえすれば、悪と善はそれらを起源することを見ることができる。


そこで、もし人間が自分自身のもとの悪を熟考し(自分自身を調べることと同じことである)またそれらを避けるなら、その時、自分自身を地獄から解き、また地獄を背後に押し戻す。そして自分自身を天界の中に引き入れ、またそこで主を顔から眺める。


 人間がこのことを行なう、と言われる、しかし、それを自分自身からのように行なうが、その時、主から行なっているのである。人間がこの真理を、善い心からと敬虔な信仰から認めるとき、その時、その真理は、その後に自分自身から考え、行なうことすべてのものの中の内部に隠れている。いわば種の中の内部に、新しい種にまで生長する生殖力が備わっているようなものである。また、いわばかつて自分自身に健康に良いと認めた食物に感じる食欲の快さである。一言でいえば、考え、行なうすべてのことの中の心臓と霊魂のようである。


[8.] 第五:「このように神的な摂理は、ある者に悪を、また善も専有させず、しかしプロプリウムの思慮がその両方のものを専有すること」


 このことはここで言われたすべてのことから結果として生ずる。神的な摂理の目的は善である。そこで善をすべての働きの中で意図する。それゆえ、ある者に善を専有させない、なぜなら、このようにしてその善は功績的なものになるから。ある者に悪も専有させない、なぜなら、このようにして彼を悪いものにするから。それでも両方のものを人間はプロプリウムから行なう、これは悪以外の何ものでもないからである。彼の意志のプロプリウムは自己愛であり、そして彼の理解力のプロプリウムは知性のプロプリウムの高慢である。またこのことから、プロプリウムの思慮がある。