原典講読「神の摂理』 318([5.]~[8.])

 

(2) 直訳


[5.] Secundum: [5.] 第二:


Quod confirmato falso non appareat verum, sed quod ex confirmato vero appareat falsum.― 虚偽の確信(証明)で真理が見られないこと、しかし、真理の確信(証明)から虚偽が見られること。―


Omne falsum est in tenebris, et omne verum in luce, ac in tenebris non apparet aliquid, immo nec scitur quid, nisi palpando; すべての虚偽は暗やみの中にあること、またすべての真理は光の中に、そして暗やみの中で何らかのものは見えない、それどころか何か知られない、さわって(手探りして)ないなら。


aliter in luce. 異なって〔いる〕、光の中で。


Quare etiam in Verbo falsa vocantur tenebrae, et inde illi qui in falsis sunt, dicuntur ambulare in tenebris et in umbra mortis; それゆえ、みことばの中でもまた虚偽は暗やみと呼ばれている、またここから彼らは、虚偽の中にいる者、暗やみの中を、また死の陰の中を歩くことが言われる。


et vicissim ibi vera vocantur lux, et inde illi qui in veris sunt, dicuntur ambulare in luce, et vocantur filii lucis. また逆に、そこに真理は光と呼ばれている、またここから彼らは、真理の中にいる者、光の中を歩くことが言われる、また光の子と呼ばれる。


[6.] Quod confirmato falso non appareat verum, et quod ex confirmato vero appareat falsum, patet a multis; [6.] 虚偽の確信(証明)で真理が見られないこと、また真理の確信(証明)から虚偽が見られることは、多くのもの(こと)から明らかである。


ut, quis videret aliquod verum spirituale, nisi Verbum id doceret? 例えば、だれが霊的な何らかの真理を見るのか? みことばがそれを教えないなら。


Foretne mera caligo, quae non discuti potuit, nisi quam per lucem in qua Verbum est, et nisi apud illum, qui vult illustrari? 単なる暗黒だったのではないか? それは追い散らされることができなかった、光によって以外でないなら、その中にみことばがある、また彼らのものでないなら、照らされることを欲する者。


Quis haereticus potest falsa sua videre, nisi admittat genuinum ecclesiae verum; 異端者のだれが自分の虚偽を見ることができるか、教会の純粋な真理を許容しないなら。


prius non videt illud. 以前に〔彼は〕それを見ない。


Locutus sum cum illis qui se in fide separata a charitate confirmaverunt, ac interrogati numne viderint tam multa in Verbo de amore et charitate, de operibus et factis, de custodiendis praeceptis, et quod beatus et sapiens sit qui facit, ac stultus qui non facit; 私は彼らと話した、その者は(自分自身を)愛から分離した信仰の中に確信した、そして私は質問した、見たかどうか、みことばの中にこれほどに多くのものが〔あること〕、愛と仁愛について、働きと行為について、戒めの遵守について、また行なう者は祝福と賢明であること、そして行なわない者は愚か〔である〕。


dixerunt quod illa dum legerunt, non viderint aliter quam quod sint fides, et sic illa sicut occlusis oculis praeteriverint. 彼らは言った、それらを読んでいる時、信仰であること以外に異なって見なかった、またこのように目を閉じて通り過ぎたように。


[7.] Illi qui in falsis se confirmaverunt sunt sicut qui in pariete vident striaturas, et cum in umbra vesperae sunt striatum illud in phantasia vident sicut equitem aut hominem, quae imago visionaria dissipatur a luce diei influente. [7.] 彼らは虚偽の中で(自分自身を)確信した者、壁の中に帯模様(線条)を見る者のようである、また夕方の陰の中のときその帯模様(線条)を想像力の中で乗馬者または人間のように見る、その想像(幻想)像は流入する日の光により消散させられる。


Quis potest sentire immundum spirituale adulterii, nisi qui est in mundo spirituali castitatis? だれが姦淫の霊的な不潔さを感じることができるのか? 貞潔の霊的な清潔さの中にいる者でないなら。


Quis potest sentire crudele vindictae, nisi qui in bono ex amore proximi est? だれが復讐の残酷さを感じることができるのか? 隣人愛からの善の中にいる者でないなら。


Quis adulter et quis cupidus vindictae non subsannat illos qui jucunda illorum vocant infernalia, ac vicissim jucunda amoris conjugialis et amoris proximi caelestia? だれが姦淫者か、まただれが復讐の切望する者か、〔その者は〕彼らをばかに(愚弄)しないか? その者は彼らの快さを地獄のものと呼ぶ、そして逆に結婚愛と隣人愛の快さを天界のもの〔と呼ぶ〕。


et sic porro. またこのようにさらに(=その他、等々)


[8.] Tertium:― [8.] 第三:―


Quod posse confirmare quicquid lubet, non sit intelligentia, sed solum ingeniositas, dabilis etiam apud pessimos.― 何でも好むものを確信(証明)することができることは、知性ではない、しかし単に才気(利口)〔である〕、最悪の者のもとにもまたありうること。


Dantur confirmatores dexterrimi, qui non sciunt aliquod verum, et usque possunt confirmare et verum et falsum, et aliqui eorum dicunt, “Quid verum? 最も巧みに☆確信(証明)する者が存在する、その者は何らかの真理を知らない、そしてまた真理と虚偽とを確信(証明)することができる、また彼らのある者は言う、「何が真理か?


☆ 副詞dextre「巧みに、如才なく」の最上級です。


Num sit? 存在するのか?


Annon id est verum quod facio verum?” それは真理ではないのか? 私が真理とするもの」。


Et usque hi in mundo creduntur intelligentes, et tamen non sunt nisi quam incrustatores parietis. またそれでもこれらの者は世の中で知性ある者と信じられている、またそれでも〔そうした者〕ではない、壁の石膏細工人(左官)☆以外でないなら。


「しっくいで上塗りする者」については「エゼキエル書」13:10~15参照。その霊的な意味は『黙示録講解』237:5にあります。


Non alii sunt intelligentes, quam qui percipiunt verum esse verum, et hoc per veritates continue perceptas confirmant. 他の者は知性ある者ではない、真理が真理であることを知覚する者以外に、またこのことを絶えず知覚したいろいろなもの〔真理〕によって確信する。


Hi et illi parum discerni possunt, quia non discerni potest inter lucem confirmationis et lucem perceptionis veri; これらの(後者)とそれらの者(前者)はほとんど見分けられることができない、確信の光と真理の知覚の光の間を見分けられることができないので。


nec apparet aliter quam quod illi qui in luce confirmationis sunt, etiam in luce perceptionis veri sint, cum tamen discrimen est sicut inter lucem fatuam et lucem genuinam; 異なっても見られない、彼らが、確信の光の中にいる者、真理の知覚の光の中にもまたいること以外に、そのときそれでも愚かな光と本物の光の間のような違いがある。


et lux fatua in mundo spirituali est talis, ut vertatur in tenebras influente luce genuina. 霊界の中の愚かな(弱い)☆光はこのようなものである、流入する本物の光を暗やみに変えるような。


fatuusには「愚かな」以外に「弱い」という意味があります。「光」なので「弱い光」が正しいのでしょうが、これよりも「愚かな光」で通じると思います。


Talis fatua lux est apud multos in inferno, qui dum in lucem genuinam emittuntur, prorsus nihil vident: このような愚かな光が地獄の中の多く者ののもとにある、その者は本物の光の中に送り出される時、まったく何も見ない。


ex quibus patet, quod posse confirmare quicquid lubet, sit modo ingeniositas, dabilis etiam apud pessimos. これらから明らかである、何でも好むものを確信(証明)することができることは、知性ではない、しかし単に才気(利口)〔である〕、最悪の者のもとにもまたありうること。


 


(3) 訳文


318.  [5.] 第二:「虚偽の確信からは真理は見られず、しかし、真理の確信から虚偽が見られること」


 すべての虚偽は暗やみの中に、すべての真理は光の中にあり、そして暗やみの中で何らかのものは見えない、それどころか手探りでないなら何か知られないが、光の中では異なる。


 それゆえ、みことばの中でもまた虚偽は暗やみと呼ばれており、またここから、虚偽の中にいる者は、暗やみの中を、また死の陰の中を歩く、と言われる。また逆に、みことばに真理は光と呼ばれていおり、またここから真理の中にいる者は、光の中を歩くと言われ、光の子と呼ばれる。


[6.] 虚偽の確信で真理が見られないこと、また真理の確信からは虚偽が見られることは、多くのことから明らかである。例えば、みことばが霊的な何らかの真理を教えないなら、だれがそれを見るのか? 


その中にみことばがある光によってでないなら、また照らされることを欲する者でないなら、追い散らされることのできなかった単なる暗黒だったのではないか? 教会の純粋な真理を許容しないなら、異端者のだれが自分の虚偽を見ることができるのか、それ以前に〔彼は〕その虚偽を見ない。


 私は、愛から分離した信仰を確信した者らと話し、そして私は、みことばの中に、愛と仁愛について、働きと行為について、戒めの遵守について、また行なう者は祝福と賢明であり、そして行なわない者は愚かであることについて、多くのものがあるのを見たかどうか、質問した。彼らは、それらを読んでいる時、信仰であるとしか、また目を閉じて通り過ぎたようにしか見なかった、と言った。


[7.] 虚偽で確信した者は、壁の中に線条を見る者のようである、また夕方の陰の中のとき、その線条を想像力の中で乗馬者または人間のように見るが、その幻想の像は流入する日の光により消散させられる。


貞潔の霊的な清潔さの中にいる者でないなら、だれが姦淫の霊的な不潔さを感じることができるのか? 隣人愛からの善の中にいる者でないなら、だれが復讐の残酷さを感じることができるのか?  姦淫者、復讐を切望する者のだれが、彼らの快さを地獄のものと呼び、そして逆に結婚愛と隣人愛の快さを天界のものと呼ぶ者を、愚弄しないだろうか? 等々。


[8.] 第三:「何でも好むものを確信することができることは知性ではなく、単なる才気であり、最悪の者のもとにもまたありうること」


 最も巧みに証明する者が存在する。その者は何らかの真理を知らず、それでも真理と虚偽とを証明することができる。また彼らのある者は、「真理と何か? 存在するのか? 私が真理とするものが真理ではないのか?」と言う。これらの者は世の中で知性ある者と信じられているが、それでもなお、壁の石膏細工人☆でしかない(☆ 「しっくいで上塗りする者」については「エゼキエル書」13:10~15参照)。


 真理が真理であることを知覚する者以外に、その者は知性ある者ではなく、また絶えず知覚したいろいろなもの〔真理〕によってこのことを確信する。後者と前者は、確信の光と真理の知覚の光の間を見分けられることができないのでとんど見分けられることができない、確信の光の中にいる者が、真理の知覚の光の中にもまたいるとしか見られない、そのときそれでも愚かな光とほんものの光の間のような違いがある。霊界の中の愚かな光は、流入するほんものの光を暗やみに変えるようなものである。このような愚かな光が地獄の中の多く者ののもとにあり、その者はほんものの光の中に送り出される時、まったく何も見ない。


 これらから、何でも好むものを確信することができることは知性ではなく、単なる才気であり、最悪の者のもとにもまたありうることが明らかである。

原典講読「神の摂理』 318([9.]~[11.]おわり)

 

(2) 直訳


[9.] Quartum:― [9.] 第四:―


Quod detur confirmatio intellectualis et non simul voluntaria, et quod omnis confirmatio voluntaria etiam sit intellectualis.― 理解力の確信(証明)存在すること、また意志の〔確信(証明)〕と同時にではなく、しかし、すべての意志の確信(証明)は理解力の中にもまたあること。


Sint exempla illustrationi. 実例〔のため〕に例がある(接続)


Illi qui confirmant fidem separatam a charitate, et usque vitam charitatis vivunt, in genere qui confirmant falsum doctrinae et tamen non vivunt secundum illud, sunt qui in confirmatione intellectuali sunt, et non simul in confirmatione voluntaria: 彼らは、仁愛から分離した信仰を確認する者は、またそれでも仁愛の生活を生きる(送る)、一般的に、その者は教えの虚偽を確信する、またそれでもなおそれにしたがって生きない、その者は理解力〔から〕の確信の中にいる、また同時に意志〔から〕の確信の中に〔い〕ない。


at qui confirmant falsum doctrinae, et vivunt secundum illud, illi sunt qui in confirmatione voluntaria et simul in intellectuali sunt. しかし、教えの虚偽を確信する者は、またそれにしたがって生きる、彼らは意志の確信の中にいる、また同時に理解力〔から〕の〔確信の〕中にいる。


Causa est, quia intellectus non influit in voluntatem, sed voluntas in intellectum. 理由である、理解力は意志の中に流入しないので、しかし意志が理解力の中へ。


Ex his etiam patet quid falsum mali est, et quid falsum non mali: これらからもまた悪の虚偽が何であるか明らかである、また悪のでない虚偽が何か。


quod falsum non mali possit conjungi cum bono, non autem falsum mali, causa est, quia falsum non mali est falsum in intellectu et non in voluntate, et falsum mali est falsum in intellectu ex malo in voluntate. 悪のでない虚偽は善と結合されることができる、けれども悪の虚偽は〔結合されることができ〕ない、理由である、悪のでない虚偽は理解力の中の虚偽であるので、また意志の中にない、また悪の虚偽は意志の中の悪から理解力の中の虚偽である。


[10.] Quintum: [10.] 第五:


Quod confirmatio mali voluntaria et simul intellectualis faciat, ut homo credat propriam prudentiam esse omne, et Divinam Providentiam non aliquid; 意志と同時に理解力〔から〕の悪の確信(証明)は行なうこと、プロプリアムの思慮がすべてであると人間が信じるように、また神的な摂理は何ものでもない。


non autem sola confirmatio intellectualis.― けれども理解力〔から〕の確信(証明)だけ〔なら、このことは行なわれ〕ない。


Sunt plures qui apud se confirmant propriam prudentiam ex apparentiis in mundo, sed usque non negant Divinam Providentiam; 多くの者がいる、その者は自分自身のもとに世の中の外観からプロプリウムの思慮を確信する、しかしそれでも神的な摂理を否定しない。


his est modo confirmatio intellectualis; これらの者には理解力だけ〔から〕の確信がある


at qui simul negant Divinam Providentiam, illis quoque est confirmatio voluntaria; しかし、同時に神的な摂理を否定する者は、彼らにはまた意志〔から〕の確信がある。


at haec una cum persuasione est praecipue apud illos qui cultores naturae et simul cultores sui sunt. しかしこれらは特に彼らの者のもとで信念と一緒に〔なっている〕、自然の崇拝者と同時に自分自身の崇拝者である者。


[11.] Sextum: [11.] 第六:


Quod omne confirmatum voluntate et simul ab intellectu permaneat in aeternum; 意志と同時に理解力〔から〕のすべての確信(証明)は永久に残ること、


non autem id quod modo confirmatum est ab intellectu: けれどもそれは〔残ら〕ない、単に理解力から確信(証明)されるもの。


id enim quod solius intellectus est, non est in homine, sed est extra illum; というのは、それは、理解力のものだけであるもの、人間の中にない、しかし彼の外にあるから。


est solum in cogitatione et nihil intrat hominem, et ei appropriatur, nisi quod excipitur a voluntate, hoc enim fit amoris vitae ejus; 思考の中にだけあり、決して(何も)人間に入らない、また彼に専有される(ない)、意志により受け入れられるものでないなら、というのは、これは彼のいのちの愛のものになるから。


quod hoc permaneat in aeternum, in nunc sequenti numero dicetur. これが永久に残ることは、ここで続く数字(番号☆)の中で言われる。


numerusの意味に「番号」は、チャドウィックの『レキシコン』にありませんでした。ここで「著作」の叙述上の「通し番号」を意味するのは明らかなので、『レキシコン』にこの意味を追加しておきます。


@1 2 pro “3” 注13」の代わりに2


 


(3) 訳文


318.  [9.] 第四:「意志の確信と同時にではなく理解力からの確信が存在すること、しかし、意志からのすべての確信は理解力の中にもまたあること」


 明らかにするために例を示そう。


 仁愛から分離した信仰を確認し、またそれでも仁愛の生活を送る者は、一般的に、その者は教えの虚偽を確信するが、それでもなおそれにしたがって生きない。その者は理解力からの確信の中にいて、また同時に意志からの確信の中にはいない。しかし、教えの虚偽を確信する者は、またそれにしたがって生き、彼らは意志からの確信の中に、また同時に理解力からの確信の中にいる。その理由は、理解力は意志の中に流入しないで、しかし意志が理解力の中へ流入するからである。これらからもまた悪からの虚偽が何であり、また悪からでない虚偽が何であるか明らかである。悪からでない虚偽は善と結合されることができる、けれども悪からの虚偽は結合されることができない。その理由は、悪からでない虚偽は理解力の中の虚偽であって、意志の中になく、また悪からの虚偽は意志の中の悪から理解力の中の虚偽であるからである。


[10.] 第五:「意志と同時に理解力からの悪の確信は、プロプリアムの思慮がすべてであり、神的な摂理は何ものでもない、と人間が信じるようにする、けれども理解力だけからの確信なら、このことは行なわれないこと」


 自分自身のもとに世の外観からプロプリウムの思慮を確信する、しかしそれでも神的な摂理を否定しない多くの者がいる。これらの者には理解力だけからの確信がある。しかし、同時に神的な摂理を否定する者は、彼らには意志からの確信もまたある。しかしこれらは特に、自然の崇拝者と同時に自分自身の崇拝者である者のもとでその信念と一緒になっている。


[11.] 第六:「意志と同時に理解力からのすべての確信は永久に残る、けれども理解力だけから確信されるものは残らないこと」


 というのは、理解力だけからのものは、人間の中になく、彼の外にあり、意志により受け入れられるものでないなら、思考の中にだけあり、決して人間に入らず、彼のものになることもないからである。というのは、意志により受け入れられるものは彼のいのちの愛のものになるから。これが永久に残ることは、ここで続く番号(の個所)中で述べる。