原典講読「神の摂理』 294([3]~[6]終わり)

 

(2) 直訳


[3.] Quod ita sit, vidi saepius confirmatum. [3.] このようであることを、私はしばしば(確信した心で☆)見た。


confirmatumはレキシコンに中性名詞とされ、その訳語はなくex confirmatioで「態度や姿勢を固めた結果」という意味とされています。「確信した心で」は私の訳です。


Datum est quibusdam percipere et sentire quod ducerentur ab aliis; ある者が与えられた、他の者から導かれていることを知覚することと感じること。


tunc exarserunt ira, ut facti sint sicut impotes mentis; その時、怒りで激怒した☆、心でできないように、そのようになった。


exarseruntが見つかりません。レキシコンにはexardeo「激怒する」、exardesco「燃える、激怒する」がありますので、この訳にしておきます。私は詳しく知りませんが、完了形ではこのように語幹から-de-が消えることが(すなわち縮約形)あるのでしょうか?


et dixerunt, quod potius vellent vincti teneri in inferno, quam non licere cogitare sicut volunt, et velle sicut cogitant. また、言った、むしろ地獄の中で縛られて保たれることを欲すること、欲するように考えることを許されないことよりも、また考えるように意志すること。


Hoc non licere, vocabant ligari quoad ipsam vitam, quod durius et intolerabilius est quam ligari quoad corpus. このことを許されないことは、自分のいのちに関して縛られることと呼んだ、それは身体に関して縛られるよりもきびしく、耐えがたいものであること。


Non licere loqui et facere sicut cogitant et volunt, hoc non vocabant ligari, quia jucundum vitae civilis et moralis, quod consistit in loquendo et faciendo, id refrenat et simul quasi lenit. 考え、意志するように話すことと行なうことを許されないこと、このことを縛られることと呼ばない、市民的で道徳的な生活の快さが、それは話すことと行なうことから成り立っている、そのことが抑制する、また同時にいわば和らげるからである。


[4.] Nunc quia homo non vult scire, quod ab aliis ducatur ad cogitandum, sed vult cogitare a se, et hoc quoque credit, consequitur quod ipse in culpa sit, nec potest rejicere illam a se, quamdiu amat cogitare quod cogitat; [4.] そこで、人間は知ることを欲しないので、他の者から思考へ導かれること、しかし、自分自身から考えることを欲する、またこのこともまた信じる〔ので〕、それ自体が過失の中にないということになる、自分自身からそれら〔過失〕を退けることもできない、〔自分が〕考えているもの(quod)を考えることを愛するかぎり☆。


最後の部分は意味が汲み取りづらいですね。私の解釈は、「何か考えているとき、その考えは自分から考えていて、その自分から考えることを愛するかぎり…」ということだと思います。


スヴェーデンボリにはこの表現でわかっているのでしょうが、私はまごつきます。


at si id non amat, exsolvit se a nexu cum illis. しかし、もしそのことを愛さないなら、自分自身をそれら☆との結びつきから解く。


この「それらillud」とは何でしょうか? 「そのことid」が「〔自分が〕考えているもの」であるはずなので、このままでは何を指すかわかりません。そこでこれは、その自分の考えが起こって来るもととなるものとの結びつきもなくなる、と理解しておきます。柳瀬訳は「彼ら」と理解しており、これはあり得ますし、またわかりやすい解釈です。


Hoc fit, cum scit quod malum sit, ac ideo vult fugere illud et desistere ab illo. このことが生ずる、悪であることを知るとき、そしてそれゆえ、それを避けることを欲する、またそれらから離れること。


Tunc etiam ille a Domino eximitur a societate, quae in illo malo est, et transfertur in societatem, in qua id non est. さらにまたその時、彼は主により社会から連れ出される、それはその悪の中にある、また社会の中へ移される、その中にそれはない。


Si autem scit malum, et non fugit illud, tunc imputatur ei culpa, et fit illius mali reus. けれでも、もし悪を知り、またそれを避けないなら、その時、彼に過失が帰せられる、またその悪の罪が生ずる。


Quicquid ergo homo ex se credit facere, hoc dicitur ex homine fieri, et non a Domino. それゆえに、なんでも人間が自分自身から行なうことを信じる、このことは人間から生ずることが言われる、また主からではない。


[5.] Secundum: [5.] 第二:


Quod sic videatur, quod malum sit a Domino. 〔2〕このように(したがって) 悪は主からであるように見られること。


Hoc sicut conclusum potest cogitari ex illis, quae supra (n. 288) ostensa sunt, quae sunt, quod bonum influens a Domino vertatur in malum, ac verum in falsum in inferno. このことは結論のようにそれらから考えられることができる、それらは上に示されている(288)、それらは、主(のもの)から流入する善が悪に変えられること、そして真理は地獄の中の虚偽に。


Sed quis non potest videre, quod malum et falsum non sint a bono et vero, ita a Domino, sed a subjecto et objecto recipiente, quod in malo et falso est, ac id pervertit et invertit? しかし、だれが見ることができないか? 悪と虚偽は善と真理からでないこと、このように主(のもの)から、しかし、受け入れる主体と対象から、それは悪と虚偽の中にある、そしてそれを曲げる(ゆがめる)、またひっくり返す。


ut plene etiam ostensum est supra (n. 292). さらにまた十分に上に示されているように(292)


Unde autem malum et falsum est apud hominem, in praecedentibus pluries ostensum est. けれども、人間のもとの悪と虚偽がどこからかは、先行するものの中で十分に示されている。


Facta etiam est experientia in mundo spirituali cum illis, qui crediderunt, quod Dominus potuisset apud malos removere mala, et loco illorum inferre bona, et sic transferre totum infernum in caelum, et salvare omnes; さらにまた霊界の中で彼らに経験が行なわれた、信じた者、主は悪い者のもとの悪を遠ざけることができること、またそれらに代わって善をもたらすこと、またこのように全地獄を天界に移すこと、またすべての者を救うこと。


sed quod id impossibile sit, ad finem hujus transactionis, ubi de momentanea salvatione, et de immediata Misericordia, agendum est, videbitur. しかし、そのことが不可能であることは、この論文の終わりに、そこに瞬間の救いについて、また直接の慈悲について、扱われている、見られる。


[6.] Tertium: [6.] 第三:


Quod non comprehendant, quod Dominus solus possit facere, ut omnes tam diversimode cogitent.  3〕理解(把握)しないこと、主だけが行なうことができること、すべての者がこのようにいろいろな方法(異なって)考えるように。


Est Divinus Amor Domini infinitus, ac Divina Sapientia Ipsius infinita, ac infinita amoris et infinita sapientiae a Domino procedunt, et illa influunt apud omnes in caelo, et inde apud omnes in inferno, et ab utroque apud omnes in mundo; 主の神的な愛は無限である、そしてその方の神的な知恵は無限〔である〕、そして愛の無限なものと知恵の無限なものが主から発出する、またそれらは天界の中のすべての者のもとに流入する、またここから地獄の中のすべての者のもとに、また両方から世の中のすべての者のもとに。


quare non potest alicui deesse quod cogitet et velit, nam infinita sunt infinite omnia. それゆえ、ある者に欠けることができない、考える、また意志すること、なぜなら、無限なものはすべてのものが無限であるから☆。


「無限なものはすべてのものが無限である」で、その意味がわかるでしょうか? 私は「無限であるもの」は、そのすべてのものが「無限」という属性を備えている、と理解します。


Infinita illa, quae a Domino procedunt, non solum universaliter influunt, sed etiam singularissime; それらの無限なものは、それらは主から発出する、普遍的に流入するだけでなく、しかしまた最も個々に〔流入する〕。


nam Divinum est universale ex singularissimis, et Divina singularissima sunt quae vocantur Universale, ut supra ostensum est; なぜなら、神性は最も個々のものから普遍的であるから、また最も個々のものの神性は、それらは「普遍的なもの」と呼ばれる。


et Divinum singularissimum etiam infinitum est. また主の最も個々のものもまた無限である。


Ex his constare potest, quod solus Dominus faciat unumquemvis cogitare et velle secundum quale ejus, et secundum leges suae Providentiae. これらから明らかにすることができる、主だけがそれぞれの者に彼の性質にしたがって考えることと意志することを行なわれること、またご自分の摂理の法則にしたがって。


Quod omnia quae in Domino sunt, et a Domino procedunt, infinita sint, supra (n. 46-69,) ostensum est; すべてのものは、それらは主の中にある、また主から発出する、無限である、上に示されている(46-69)


et quoque in transactione De Divino Amore et Divina Sapientia (n. 17-22). そしてまた論文『神的な愛と神的な知恵について』(17-22)の中に。


 


(3) 訳文


294.  [3.] このようであることを、私はしばしば見て、確信した。


 ある者に、他の者から導かれていることを知覚することと感じることが与えられた。その時、怒りで激怒し、心で〔抑えることが〕できないようにもなった。また、欲するように考えることを、また考えるように意志することを許されないよりも、むしろ地獄の中で縛られて保たれることを欲する、と言った。


 このことが許されないことは、身体に関して縛られるよりもきびしく、耐えがたいものであり、自分のいのちに関して縛られることである、呼んだ。考え、意志するように話すことと行なうことが許されないことを縛られることとは呼ばない。話すことと行なうことから成り立っている市民的で道徳的な生活の快さが、そのことが抑制し、また同時にいわば和らげるからである。


[4.] そこで、人間は、〔自分の〕思考へ他の者から導かれることを知ることを欲せず、しかし、自分自身から考えることを欲し、またこのこともまた信じるので、自分自身が過失の中にいないし、考えているものを自分自身で考えることを愛するかぎり、過失を退けることもできない、ということになる。しかし、もしそのことを愛さないなら、自分自身をそれらとの結びつきから解く。


 このことが、悪であることを知るとき生じ、そしてそれゆえ、それを避けること、またそれらから離れることを欲する。


 さらにまたその時、彼は主により悪の中にある社会から連れ出され、その悪の中にない社会の中へ移される。けれでも、もし悪を知り、またそれを避けないなら、その時、彼に過失が帰せられ、またその悪の罪が生ずる。それゆえ、人間が自分自身から行なうと信じるものはどんなものでも、人間から生じ、主からではないことが言える。


[5.] 第二:「このように、 悪は主からであるように見られること」


 このことは、前に(288)示されていること、主(のもの)から流入する善が地獄の中の悪に、そして真理が地獄の中の虚偽に変えられることからの結論のように考えられることができる


 しかし、悪と虚偽は善と真理から、このように主(のもの)からでないこと、しかし、悪と虚偽の中にあって、それをゆがめ、ひっくり返す受け入れる主体と対象からであることを、だれが見ることができないか? さらにまたそのことは前に十分に示されている(292)。けれども、人間のもとの悪と虚偽がどこからかは、これまでのものの中で十分に示されている。


 さらにまた霊界の中で、主は悪い者のもとの悪を遠ざけ、またそれらに代わって善をもたらし、またこのように全地獄を天界に移し、すべての者を救うことができる信じた者に、そのことを経験させることが行なわれた。しかし、そのことが不可能であることは、この著作の終わりに、瞬間の救いについて、また直接の慈悲について扱われているところに見られる。


[6.] 第三:「すべての者がこのように異なって考えるように、主だけが行なうことができることは理解できないこと」


 主の神的な愛は無限であり、そしてその方の神的な知恵は無限であり、そして愛の無限なものと知恵の無限なものが主から発出し、またそれらは天界の中のすべての者のもとに、またここから地獄の中のすべての者のもとに、また両方から世の中のすべての者のもとに流入する。それゆえ、考え、意志することがある者に欠けるはありえない、なぜなら、無限なものはすべてのものにとって無限であるから。


主から発出するそれらの無限なものは、普遍的に流入するだけでなく、最も個々のものにもまた流入する。なぜなら、神性は最も個々のものから普遍的であり、また最も個々のものの神性は、それらは「普遍的なもの」と呼ばれ、また主の最も個々のものもまた無限であるからである。


 これらから、主だけがそれぞれの者に彼の性質にしたがって、またご自分の摂理の法則にしたがって、考えることと意志することを行なわれることを明らかにすることができる。


主の中にあり、また主から発出するすべてのものが無限であることは、前に(46-69)、そしてまた著作『神の愛と知恵』(17-22)の中に示されている。

原典講読「神の摂理』 295

 

(1) 原文


295. (ii.) Quod mali se ipsos continue inducant in mala, sed quod Dominus illos continue abducat a malis.Qualis Divina Providentia est apud bonos, facilius comprehenditur, quam qualis est apud malos: et quia de hac nunc agitur, dicetur in hac serie: (1.) Quod innumerabilia sint in unoquovis malo. (2.) Quod malus in sua mala se ex se continue profundius inducat. (3.) Quod Divina Providentia cum malis sit continua mali permissio, ob finem ut sit continua abductio. (4.) Quod abductio a malo fiat mille modis, etiam arcanissimis, a Domino.


 


(2) 直訳


(ii.) Quod mali se ipsos continue inducant in mala, sed quod Dominus illos continue abducat a malis.― (ii.) 悪い者は自分自身そのものを悪の中へ絶えず導き入れること、しかし、主は彼らを悪から絶えず導き出されること。


Qualis Divina Providentia est apud bonos, facilius comprehenditur, quam qualis est apud malos: 善い者のもとで神的な摂理がどんなものか、容易に理解されること、悪い者のもとでどんなものであるかよりも。


et quia de hac nunc agitur, dicetur in hac serie: またこのこと☆について今、扱われているのでこの系列で言われる。


hacは女性なので、「このこと」は「悪い者」でなく「摂理」です。文脈からは「悪い者のもとでの摂理」です。


(1.) Quod innumerabilia sint in unoquovis malo. (1.) 無数のものがあること、それぞれの悪の中に。


(2.) Quod malus in sua mala se ex se continue profundius inducat. (2.) 悪い者は自分の悪の中へ、自分自身から、自分自身を絶えずさらに深く導き入れること。


(3.) Quod Divina Providentia cum malis sit continua mali permissio, ob finem ut sit continua abductio. (3.) 悪い者のもとの神的な摂理は絶え間のない悪の許しであること、目的のために、絶え間のない連れ去りがあるように。


(4.) Quod abductio a malo fiat mille modis, etiam arcanissimis, a Domino. (4.) 悪から連れ去ることは千の方法で行なわれること、さらにまた最も隠された☆〔方法で〕、主により。


形容詞arcanusの意味は「隠された、秘密の」であり、実詞として「秘密、神秘、秘義」となります。「最も神秘的な方法で」がよい訳でしょう。


 


(3) 訳文


295. (ii.) 「悪い者は自分自身を悪の中へ絶えず導き入れるが、しかし、主は彼らを悪から絶えず導き出されること」


 善い者のもとで神的な摂理がどんなものかは、悪い者のもとでどんなものであるかよりも容易に理解され、またこのことについて、今、扱われているので、次の順で述べよう。


 


(1.) それぞれの悪の中に無数のものがあること。


(2.) 悪い者は、自分自身から、自分の悪の中へ自分自身を絶えずさらに深く導き入れること。


(3.) 悪い者のもとの神的な摂理は、〔悪から〕絶え間なく連れ去られるようにとの目的のために、絶え間のない悪の許しであること。


(4.) 悪から連れ去ることは千の方法で、さらにまた最も神秘的な方法で、主により行なわれること。