原典講読「神の摂理』 284 

 

(1) 原文


284.  Intellectus hominis est recipiens tam boni quam mali, et tam veri quam falsi; non autem ipsa voluntas hominis; haec erit vel in malo vel in bono; non potest esse utroque; nam voluntas est ipse homo, et ibi amor vitae ejus. Bonum et malum autem in intellectu separata sunt sicut internum et externum; inde potest homo interius in malo esse et exterius in bono: at usque cum homo reformatur, bonum et malum committuntur, et tunc existit conflictus et pugna, quae si gravis est, vocatur tentatio, at si non gravis est, fit sicut fermentat vinum aut sicera. Si tunc bonum vincit, malum cum suo falso removetur ad latera, comparative sicut faex cadit ad fundum vasis; ac bonum fit sicut vinum post fermentationem generosum et sicera clara. At si malum vincit, tunc bonum cum suo vero removetur ad latera, ac fit turbidum ac tetrum, sicut infermentatum vinum ac infermentata sicera. Comparatio cum fermento est, quia “fermentum” in Verbo significat falsum mali (ut Hosch. vii. 4; Luc. xii. 1; et alibi).


 


(2) 直訳


Intellectus hominis est recipiens tam boni quam mali, et tam veri quam falsi; 人間の理解力は善と同じく☆悪の容け入れるものである、また善と同じく虚偽の。


正確には「悪と同じく善の…」でしょうが、どちらを優先するかはこだわらないでよいでしょう。


non autem ipsa voluntas hominis; しかしながら、人間の意志そのもの〔が受け入れるの〕ではない。


haec erit vel in malo vel in bono; これはあるいは悪の中に、あるいは善の中にある(未来)


non potest esse utroque; 両方にあることはできない。


nam voluntas est ipse homo, et ibi amor vitae ejus. なぜなら、意志は人間そのものであるから、またそこに彼のいのちの愛が〔ある〕。


Bonum et malum autem in intellectu separata sunt sicut internum et externum; けれども、善と悪は理解力の中で分離している、内なるものと外なるもののように。


inde potest homo interius in malo esse et exterius in bono: ここから人間は内部(内的に)悪の中にいることができる、また外部で(外的に)善の中に。


at usque cum homo reformatur, bonum et malum committuntur, et tunc existit conflictus et pugna, quae si gravis est, vocatur tentatio, at si non gravis est, fit sicut fermentat vinum aut sicera. しかし、それでも人間が改心されるとき、善と悪は集められる、またその時、衝突と闘(争い)が存在するようになる(生ずる)、それはもし重苦しい(重大、深刻である)なら、試練と呼ばれる、そしてもし重苦しく(重大、深刻で)ないなら、ワインまたはビール☆が発酵するよう〔なもの〕になる。


siceraは穀物から造られたアルコール飲料。発酵するので「ビール」の訳語がふさわしいでしょう(チャドウイック)


Si tunc bonum vincit, malum cum suo falso removetur ad latera, comparative sicut faex cadit ad fundum vasis; もし、その時、善が勝つなら、悪は自分の虚偽とともに脇へ遠ざけられる、比べれば(比較によって)おり(かす)のように容器の底に落ち込む。


ac bonum fit sicut vinum post fermentationem generosum et sicera clara. そして、善は発酵後の優良銘柄のワインのように、またよく透るビール。


At si malum vincit, tunc bonum cum suo vero removetur ad latera, ac fit turbidum ac tetrum, sicut infermentatum vinum ac infermentata sicera. しかし、もし悪が勝つなら、その時、善は自分の真理とともに脇へ遠ざけられる、そして濁り(不透明)、そしてきたない、発酵しきっていないワイン、そして発酵しきっていないビールのように。


Comparatio cum fermento est, quia “fermentum” in Verbo significat falsum mali (ut Hosch. vii. 4; Luc. xii. 1; et alibi). 比(たとえ)酵母(パン種、イースト)にある、みことばの中の「酵母(パン種、イースト)」は悪の虚偽を意味するので(例えばホセア7:4、ルカ12:1、また他の個所に)


☆ 新改訳聖書では「パン種を入れられる」という語が「それがふくれるまで」と意訳しています。


雑談です:柳瀬氏はこのように初期の翻訳では預言者ホセアをここのように「ホセア」と表記していますが、その後は一貫して「ホゼア」と表記しています。あるとき私は「なぜホゼアなのですか」と質問したことがあり、柳瀬氏は「そういうのもあるんだよ」と答えられた。その理由など聞きたかったのでうが、これ以上は恐れ多いので、やめました、しかし、いまだに疑問です。当時、私は『黙示録講解』(9巻、第10)の校正を手伝っており、その際、ホゼアをホセアに修正したかったので、質問したのでした。


 


(3) 訳文


284.  人間の理解力は善と同じく悪を、また善と同じく虚偽を容け入れるものである。しかしながら、人間の意志そのもの〔が受け入れるの〕ではない。意志はあるいは悪の中に、あるいは善の中になくてはならない。両方にあることはできない。なぜなら、意志は人間そのものであり、そこに彼のいのちの愛があるから。けれども、善と悪は理解力の中で、内なるものと外なるもののように分離している。ここから人間は内部で悪の中に、また外部で善の中にいることができる。しかし、それでも人間が改心するとき、善と悪は集められ、またその時、衝突と争いが存在するようになり、それは深刻であるなら、試練と呼ばれ、そして深刻でないなら、ワインまたはビールが発酵するようなものになる。


 その時、もし善が勝つなら、悪は自分の虚偽とともに脇へ遠ざけられ、比べれば、おりのように容器の底に沈む。そして、善は発酵後の優良銘柄のワイン、透き通るビールのようになる。しかし、もし悪が勝つなら、その時、善は自分の真理とともに脇へ遠ざけられ、濁って、きたない、発酵しきっていないワイン、発酵しきっていないビールのようになる。


 酵母(パン種)にたとえたのは、みことばの中の「パン種」は悪の虚偽を意味するからである(例えばホセア7:4、ルカ12:1、また他の個所に)