原典講読「神の摂理』 279([4]~[5])

 

(2) 直訳


[4.] Secundum: [4.] 第二:


Quod error saeculi sit, quod credatur quod status vitae hominis possit momento immutari, et sic homo a mala fieri bonus, consequenter ab inferno educi, et illico in caelum transferri, et hoc ex immediata Domini misericordia.  現代の誤り(間違い)ある、信じられること、人間のいのち(生活)の状態は瞬間に変えられることができること、またこのように悪から善になること、したがって地獄から連れ出されること、またすぐさま天界の中に移されること、またこのことは主の直接の慈悲から。


In hoc errore sunt illi qui separant charitatem a fide, et in sola fide ponunt salvationem; 彼らはこの誤りの中にいる、仁愛を信仰から分離する者、また信仰のみの中に救いを置く。


nam putant quod sola cogitatio et enuntiatio vocum, quae istius fidei sunt, si fiat cum fiducia et confidentia, justificet et salvet; なぜなら、思うから、思考と言葉の発言だけが、それらはその信仰のものである、もし信頼と信任とともに行なわれるなら、義とし、救うこと。


quod etiam a multis ponitur momentaneum, et si non prius, circa ultimam horam vitae hominis. 多くの者からもまた瞬間に起こるものを置く(見なす)、また、もし以前にでないなら、人間のいのちの最後の時間の近く(ごろ)


Hi non possunt aliter credere, quam quod status vitae hominis possit momento mutari, et homo ex immediata misericordia salvari. これらの者は異なって信じることができない、人間のいのち(生活)状態が瞬間(すぐに)変えられることができること以外に、また人間は直接の慈悲から救われること。


Sed quod misericordia Domini non sit immediata, et quod homo non possit a malo momento fieri bonus, et ex inferno educi et in caelum transferri, nisi per operationes Divinae Providentiae continuas ab infantia usque ad extremum vitae hominis, videbitur in ultimo paragrapho hujus transactionis: しかし、主の慈悲は直接のものではないこと、また人間は悪から瞬間に善になることができないこと、また地獄から連れ出されること、天界の中に移されること〔ができない〕絶え間ない神的な摂理の働きによってでないなら、幼児期から人間のいのちの最後まで、この章(論文)の最後の段落に見られる☆。


通常ここは「本章の最後の段落」と訳しますが、ここでは「本書の最後の章」が正しい訳となります。それはこれが本書の最終章の内容332番を指すからです。


hic solum ex eo, quod omnes leges Divinae Providentiae pro fine habeant reformationem et sic salvationem hominis; ここではそのこと(quod以下)から〔そのこと〕だけ〔を述べておこう☆〕、神的な摂理のすべての法則は目的として改心としたがって人間の救いをもつこと。


☆ここは省略された書き方なので、これくらい補わないとならないでしょう。


ita inversionem status ejus, qui nativitate est infernalis, in oppositum, qui est caelestis; そのように彼の状態の逆転を、それは地獄のものに生まれている、〔それを〕正反対のものに、それは天界のものである。


quod non fieri potest nisi progressive, sicut homo recedit a malo et ejus jucundo ac intrat in bonum et ejus jucundum. 累進的に(段々に)でないなら行なわれることができないこと、人間が悪とその快さから退く、そして善とその快さの中に入るに応じて☆。


sicutは、ほとんどの場合「~のように」ですが、このように「~ほど、~に応じて」の意味もあります。


[5.] Tertium: [5.] 第三:


Quod illi qui ita credunt, nihil quicquam sciant quid malum et quid bonum: 彼らは、そのように信じる者、何も、何も知らない、何が悪かまた何が善か―


non enim sciunt, quod malum sit jucundum concupiscentiae agendi et cogitandi contra Divinum ordinem, et quod bonum sit jucundum affectionis agendi et cogitandi secundum Divinum ordinem; というのは、知らないからである、悪は神的な秩序に反して行ない、考える欲望の快さであること、また善は神的な秩序にしたがって行ない、考える情愛の快さであること。


et quod myriades concupiscentiarum sint, quae unumquodvis malum ingrediuntur et componunt, et quod myriades affectionum sint, quae similiter unumquodvis bonum, et quod myriades illae in tali ordine et nexu sint in interioribus hominis, ut non unum possit mutari, nisi simul omnia. また数万(無数)欲望があること、それらはそれぞれの悪(=)り、構成する、また数万(無数)情愛があること、それらは同様にそれぞれの善を〔入り、構成する〕、またこれら数万のものはこのような秩序と関連(結びつき)の中にある、人間の内的なものの中に、一つのものが変えられることができない、同時にすべてのものが〔変えられ〕ないなら。


Illi, qui hoc non sciunt, credere seu opinari possunt, quod malum, quod ut unicum coram illis apparet, possit facile removeri, et bonum, quod etiam ut unicum apparet, possit loco ejus inferri. 彼らは、このことを知らない者、信じることまたは意見をもつ(信念を抱く)とができる、それは悪が、ただ一つのものが彼らの前に見られること、容易に遠ざけられること、また善が、それもまたただ一つのものに見られる、それに代わって持ち込むことができる。


Hi quia non sciunt quid malum et quid bonum, non possunt aliter quam opinari, quod detur momentanea salvatio et immediata misericordia; これらの者は知らないからである、何が悪かまた何が善か、意見をもつ(信念を抱く)と以外に異なってできない、瞬間の救いや直接の慈悲が存在すること。


sed quod non dabiles sint, videbitur in ultimo paragrapho hujus transactionis. しかし、ありえないことは、この章(論文)の最後の段落に見られる☆。


ここも「最後の章」であり、その内容は338番です。


 


(3) 訳文


279. [4.] 第二:「またこのように悪から善になること、したがって地獄から連れ出され、すぐさま天界の中に移されることができること、またこのことは主の直接の慈悲からである、と信じることは、現代の誤りあること」


 仁愛を信仰から分離し、信仰のみの中に救いを置く者は、この誤りの中にいる。なぜなら、その信仰から思考と言葉の発言だけが、もし信頼と信任とともに行なわれるなら、義とし、救う、と思い、多くの者もまた、人間のいのちの最期の時の瞬間に、もし以前にでないなら、その近くに起こるものと見なすからである。


 これらの者は、人間のいのち(生活)状態が瞬間変えられるとしか、また人間は直接の慈悲から救われる、としか信じることができない。


 しかし、主の慈悲は直接のものではないこと、また人間は悪から瞬間に善になることができないこと、また地獄から連れ出され天界の中に移されることは、幼児期から人間のいのちの最期まで絶え間ない神的な摂理の働きによってでないならできなことは、本書の最後の章に見られる〔332番〕。ここでは、神的な摂理のすべての法則は、改心を、したがって人間の救いを、そのように、地獄に生まれている彼の状態を、正反対のものである天界のものに逆転させることを、目的としてもち、人間が悪とその快さから退き、そして善とその快さの中に入るに応じて累進的にでないなら行なわれることができないことだけを述べておこう。


ます。


[5.] 第三:「そのように信じる者は、何が悪かまた何が善か、何も知らない」


 というのは、悪は神的な秩序に反して行なって、考える欲望の快さであること、また善は神的な秩序にしたがって行なって、考える情愛の快さであること、またそれぞれの悪に入り、構成する無数の欲望があること、同様にそれぞれの善に入り、構成する無数の情愛があること、また人間の内的なものの中にこれら無数のものは、同時にすべてのものが変えられないなら一つも変えられることができないような秩序と結びつきの中にあることを知らないからである。


このことを知らない者は、ただ一つの悪が彼らの前に、容易に遠ざけられるように見られ、またまたただ一つのものに見られる善が、それに代わって持ち込むことができる、と信じることまたは意見をもつとができる。


これらの者は、何が悪かまた何が善か知らず、瞬間の救いや直接の慈悲が存在する、という意見をもつことしかできないからである。しかし、ありえないことは、本書の最後の章に見られる〔338番〕。 

原典講読「神の摂理』 279([6]~[7])

 

(2) 直訳


[6.] Quartum: [6.] 第四:


Quod illi qui credunt momentaneam salvationem et immediatam misericordiam, non sciant quod affectiones, quae sunt voluntatis, sint merae mutationes status substantiarum pure organicarum mentis; 彼らは、瞬間の救いと直接の慈悲を信じる者、知らないこと、情愛が、それは意志のものである、心の有機体の(器官の)純粋な実体的な変化の状態にほかならない。


et quod cogitationes, quae sunt intellectus, sint merae mutationes et variationes formae illarum; また思考が、それは理解力のものである、それらの形の変化と相違(多様性)ほかならない。


et quod memoria sit status istarum mutationum et variationum permanens. また記憶は、これらの変化のとどまっている(持続している)状態であること。


Quis non agnoscit, quando dicitur, quod affectiones et cogitationes non dentur nisi in substantiis et earum formis, quae sunt subjecta, et quia dantur in [1]cerebro, quod plenum est substantiis et formis, vocantur formae pure organicae. だれが認めないか、言われる時、情愛と思考は実体(物質)その形の中でないなら存在しないこと、それらが主体である、また脳の中に存在するので、それは実体(物質)と形に満ちている、純粋な有機体の(器官の)形と呼ばれる。


Nemo, qui rationaliter cogitat, non potest non ridere ad quorundam phantasias, quod affectiones et cogitationes non sint in subjectis substantiatis, sed quod sint halitus modificati a calore et luce, sicut apparentes imagines in aere et aethere; だれも、理性的に考える者、ある種の幻想に笑うことができない、〔ことは〕ない、情愛と思考は実体(物質)の主体の中にないこと、しかし、熱と光により変えられた息(発散物)であること、空気やエーテルの中に映像(想像の産物)の見られるような。


cum tamen cogitatio non plus dari potest separata a forma substantiali, quam visus a sua quae est oculus, auditus a sua quae auris, et gustus a sua quae est lingua. そのとき、それでもなお、思考は実体的(物質的)な形から分離して存在することできるより多くない、視覚が自分のものからよりも、それは目である、聴覚が自分のものからそれは耳、また味覚が自分のものからそれは舌である。


Specta cerebrum, et videbis substantias innumerabiles, et similiter fibras, et quod nihil non ibi organizatum sit; 脳を眺めよ、また(=すると)なたは無数の実体(物質)を見る、また同様に繊維を、またそこに有機的に設計されていない(有機的にまとめられていない)ものは何もないこと。


quid opus est alia confirmatione, quam oculari illa? 何が必要とされる☆か? 他の証拠が、その目に見える〔証拠〕以外に。


opus estは奪格をともなって「~必要とされる」という意味の非人称構文です。


[7.] Sed quaeritur, Quid ibi affectio et quid cogitatio? [7.] しかし、質問される、何がそこに情愛か、何が思考か?


Hoc concludi potest ab omnibus et singulis quae in corpore; このことはすべてと個々のものから証明されることができる、それらは身体の中の。


ibi sunt plura viscera, singula in sua sede fixa, et suas functiones per mutationes et variationes status et formae operantur; そこに多くの内臓がある、個々のものは自分の固定した場所(位置)の中に、自分の機能(役目)を状態と形の変化と変化(変化による相違)よって働いている。


quod in operationibus suis sint, notum est; 自分の働きの中にあることは、よく知られている。


ventriculus in suis, intestina in suis, renes in suis, hepar, pancreas et lien in suis, ac cor et pulmo in suis; 胃は自分の(働きの)中に、腸は自分の(働きの)中に、腎臓は自分の(働きの)中に、肝臓、すい臓と脾臓は自分の(働きの)中に、また心臓と肺は自分の(働きの)中に。


et omnes illae operae solum intrinsecus moventur, ac intrinsecus moveri est per mutationes et variationes status et formae. また、すべてのこれらの働きは内部だけで働かされる、そして内部で働かされること、状態と形の変化と変化(変化による相違)よって。


Inde constare potest, quod substantiarum pure organicarum mentis operationes non aliud sint, cum differentia quod operationes substantiarum organicarum corporis sint naturales, at mentis spirituales, et quod hae et illae unum faciant per correspondentias. ここから明らかにすることができる、心の有機体の(器官の)純粋な実体的な働きが他のものではないこと、相違とともに、身体の有機体の(器官の)実体的な働きが自然的であること、しかし、心のものは霊的〔である〕、またこれ〔後者〕とそれ〔前者〕は対応によって一つとなっていること。


 


(3) 訳文


279.  [6.] Quartum: [6.] 第四:「瞬間の救いと直接の慈悲を信じる者は、意志のものである情愛が、心の有機体の純粋な実体的な変化の状態にほかならず、また理解力のものである思考が、それらの形の変化と相違ほかならず、また記憶は、これらの変化のとどまっている状態であること知らない」


 情愛と思考は実体(物質)その形の中でないなら存在しないこと、また主体である脳の中に存在するので、それは純粋な有機体の(器官の)形と呼ばれる実体(物質)と形に満ちている、と言われる時、だれが〔そのことを〕認めないか


 理性的に考える者ならだれも、情愛と思考は実体(物質)の主体の中になく、空気やエーテルの中の映像に見られるような熱と光により変えられた息(発散物)であるといったある種の幻想を笑うことしかできないそのとき、それでもなお、視覚が自分のものである目から、聴覚が自分のものである耳から、また味覚が自分のものである舌から分離して存在するがことできない〔ように〕、それ以上に思考は実体的(物質的)な形から分離して存在するがことできない。


 脳を眺めよ、するとあなたは、無数の実体(物質)を、また同様に繊維を、またそこに有機的にまとめられていないものは何もないことを見る。その目に見える〔証拠〕以外に、他の証拠の何が必要とされるか?


[7.] しかし、「そこの何が情愛か、何が思考か?」と質問される。このことは身体の中のすべてと個々のものから証明されることができる。そこに多くの内臓があり、その個々のものは自分の固定した位置にあって、自分の機能を状態と形の変化と相違によって働かせている。胃は自分の働きの中に、腸は自分の働きの中に、腎臓、肝臓、すい臓と脾臓は自分の働きの中に、また心臓と肺は自分の働きの中にあることは、よく知られている。また、すべてのこれらの働きは内部だけで働いており、そして、状態と形の変化と相違によって内部で働いている。


 ここから、心の有機体の(器官の)純粋な実体的な働きが、身体の有機体の(器官の)実体的な働きが自然的である相違とともに、心のものは霊的である以外の他のものではないこと、またこれら〔心のと身体のもの〕は対応によって一つとなっていることを明らかにすることができる。

原典講読「神の摂理』 279([8]~[9]おわり)

 

(2) 直訳


[8.] Non potest ad oculum monstrari, quales sunt status et formae mutationes et variationes substantiarum organicarum mentis, quae sunt affectiones et cogitations; [8.] 目に示すことができない、心の有機体の(器官の)実体的な状態と形の変化と相違がどんなものであるか、それらは情愛と思考である。


sed usque possunt sicut in speculo videri a mutationibus et variationibus status pulmonis in loquela et cantu; しかし、それでも、鏡の中のように、話し方(話すこと)と歌の中の肺の状態の変化と相違から見られることができる。


est etiam correspondentia; 〔そこに〕もまた対応がある。


nam sonus loquelae et cantus, et quoque articulationes soni, quae sunt voces loquelae et modulamina cantus, fiunt per pulmonem, ac sonus correspondet affectioni, et loquela cogitationi. なぜなら、話し方(話すこと)や歌の音は、また音の関節(音節に区切ること)は、それらは話し方(話すこと)の声と歌の調子(抑揚)である、肺によって行なわれるから、そして音は情愛に対応する、話し方(話すこと)は思考に。


Producuntur etiam ex illis, et hoc fit per mutationes et variationes status et formae substantiarum organicarum in pulmone, et ex pulmone per trachiam seu asperam arteriam in larynge et glottide, et postea in lingua, et demum in labris oris. さらにまたそれらから生み出される、またこのことは肺の中の有機体の(器官の)実体的な状態と形の変化と相違によって行なわれる(生ずる)こと、また肺から気管すなわち気管☆によって、咽頭や声門の中で、またその後、舌の中で、また最後に口の唇の中で。


☆ ここのasperam arteriamは私にとって不明です。すなわち、チャドウイックのレキシコンにありません。田中の『羅和辞典』にはarteriaの項目にarteria apertaとして「気管動脈」の言葉が載っています。英訳はwindpipeであり、これは「気管、のど笛」の意味です。スヴェーデンボリの著作ではおそらくここでしか使われないでしょう、そしてseu(すなわち、または)となっているので、省略して訳します。


Mutationes et variationes status et formae soni primae fiunt in pulmone, alterae in trachia et larynge, tertiae in glottide per varias aperturas ejus orificii, quartae in lingua per varias ejus applicationes ad palatum et dentes, quintae in labris oris per varias formas. 音の状態と形の変化と相違は、最初のものは肺から行なわれる(生ずる)、第二のものは気管と咽頭の中で、第三のものは声門の中で、その口をいろいろと開けることによって、第四のものは舌(の中)で、口蓋や歯へそのいろいろな適用によって、第五のものは口の唇(の中)で、いろろな形によって。


Ex his constare potest, quod merae mutationes et variationes status formarum organicarum successive continuatae, producant sonos et illorum articulationes, quae sunt loquelae et cantus. これらから明らかにすることができる、有機体の(器官の)形の状態の変化と相違にほかならないものが連続的に続けて、音とのそれらの関節(音節に区切ること)を生み出すこと、それらは話し方(話すこと)と歌である。


Nunc quia sonus et loquela non aliunde producuntur quam ab affectionibus et cogitationibus mentis, nam ex his illa existunt, et nusquam absque illis, patet quod affectiones voluntatis sint mutationes et variationes status substantiarum pure organicarum mentis, et quod cogitationes intellectus sint mutationes et variationes formae illarum substantiarum; そこで、音と話し方(話すこと)は別の場所から生み出されないので、心の情愛と思考から以外の、なぜなら、これらからそれらは存在するようになるから、またそれらなしに決して〔生み出され〕ない、明らかである、意志の情愛は心の有機体の(器官の)純粋な実体的な状態の変化と相違であること、また理解力の思考はそれらの実体的な形の変化と相違であること。


similiter ut in pulmonariis. 肺のものの中にのようにと同様に。


[9.] Quoniam affectiones et cogitatnes sunt merae mutationes status formarum mentis, sequitur quod memoria non aliud sit quam status illarum permanens; [9.] 情愛と思考は心の形の状態の変化にほかならないので、~ということになる、記憶は他のものではないこと、そのとどまっている(持続している)状態以外の。


nam omnes mutationes et variationes status in substantiis organicis tales sunt, ut semel imbutae permaneant; なぜなら、有機体の(器官の)実体的なもの中のすべての変化と相違はこのようなものであるから、一度(いったん)収したも(教え込まれたもの)は残るような。


ita imbuitur pulmo producere varios sonos in trachia, ac variare illos in glottide, articulare illos in lingua, et modificare illos in ore; このように肺で吸収される(教え込まれる)、気管の中でいろいろな音を生み出すこと、そして声門の中でそれらを変化させること、舌の中でそれらを音節に区切る(はっきり発音する)こと、また唇の中でそれらを修正する(少し変える)こと。


et quando organica illa semel imbuta sunt, in illis sunt, et reproduci possunt. またそれらの器官は一度(いったん)吸収される(教え込まれる)時、それらの中で、また再現されることができる。


Quod mutationes et variationes illae infinite perfectiores sint in organicis mentis quam in organicis corporis, constat ex illis quae in transactione De Divino Amore et Divina Sapientia (n. [2]199-204) dicta sunt, ubi ostensum est, quod omnes perfectiones crescant et ascendant cum gradibus et secundum illos. それらの変化と相違は無限に完全であること、心の有機体の(器官の)中で、身体の器官の中よりも、それらから明らかである、それらは論文『神的な愛と神的な知恵について』の中で言われている(199-204)、そこに示されている、すべての完全性は段階とともに、それら〔段階〕にしたがって増大し、上昇すること。


De his plura videantur infra (n. 319). これらについて多くことが下に見られる(319)


@1 cerebro pro “cerebris” 注1 cerebris」の代わりにcerebro


@2 199 pro “119” 注1 119」の代わりに199


 


(3) 訳文


279.  [8.] 情愛と思考である心の有機体の(器官の)実体的な状態と形の変化と相違がどんなものであるか、目に示すことはできない。しかし、それでも話すことと歌の中で、肺の状態の変化と相違から、鏡の中のように見られることができる。そこにもまた対応がある。なぜなら、話すことや歌の音は、また音節に区切ることは、それらは話すことの声と歌の調子であるが、肺によって行なわれ、そして音は情愛に、話すことは思考に対応するから。


 さらにまた、それらから生み出され、またこのことは肺の中で、また肺から気管を通して咽頭や声門の中で、またその後、舌で、また最後に口の唇で、有機体の(器官の)実体的な状態と形の変化と相違によって行なわれる。


 音の状態と形の変化と相違は、最初のものは肺から、第二のものは気管と咽頭の中で、第三のものは声門の中で、その口をいろいろと開けることによって、第四のものは舌で、口蓋や歯へそのいろいろな適用によって、第五のものは口の唇で、いろろな形によって行なわれる。


 これらから、有機体の(器官の)形の状態の変化と相違にほかならないものが連続的に続けて、話すことと歌である音とそれらの音節に区切ることを生み出すことを明らかにすることができる。


 そこで、音と話すことは心の情愛と思考から以外の他のところから生み出されないので、なぜなら、これらからそれらは存在するようになり、またそれらなしに決して生み出されないからであり、意志の情愛は心の有機体の(器官の)純粋な実体的な状態の変化と相違であること、また理解力の思考はそれらの実体的な形の変化と相違であることが、肺のものと同様に明らかである。


[9.] 情愛と思考は心の形の状態の変化にほかならないので、記憶はその持続している状態でしかないことがいえる。なぜなら、有機体の(器官の)実体的なもの中のすべての変化と相違は、いったん吸収したもは残るようなものであるから。このように、肺で吸収され、気管の中でいろいろな音を生み出し、そして声門の中でそれらを変化させ、舌でそれらを音節に区切り、また唇でそれらを少し変えるのである。また、それらの器官はいったん吸収される時、それらの中で、また再現されることができる。


それらの変化と相違が、心の有機体の(器官の)中で、身体の器官の中よりも無限に完全であることは、著作『神の愛と神の知恵』の中で言われていること(199-204)から明らかであり、そこに、すべての完全性は段階とともに、それら〔段階〕にしたがって増大し、上昇することが示されている。これらについて多くことが後で見られる(319)

原典講読「神の摂理』 280

 

(1) 原文


280.  Quod peccata cum remissa sunt etiam sint remota, est quoque error saeculi. In illo errore sunt, qui credunt per Sacramentum Cenae sibi remissa esse peccata, tametsi non removerunt illa a se per paenitentiam: in illo etiam sunt, qui per solam fidem credunt salvari; tum etiam qui per dispensationes papales: omnes illi credunt immediatam misericordiam, et momentaneam salvationem. At cum hoc invertitur, fit veritas, nempe quod cum remota sunt peccata, etiam remissa sint; paenitentia enim praecedet remissionem, et absque paenitentia nulla est remissio: quare Dominus mandavit discipulis ut


 


Praedicarent paenitentiam in remissionem peccatorum (Luc. xxiv. [1]47):


Et Johannes “praedicavit baptisma paenitentiae in remissionem peccatorum” (Luc. iii. 3)


 


Dominus remittit omnibus sua peccata; non arguit et imputat; sed usque non potest nisi secundum leges Divinae Providentiae suae illa auferre; nam cum dixit Petro (interroganti quoties remitteret fratri in illum peccanti, num septies),


 


Quod remitteret non modo septies, sed usque ad septuagies septies (Matth. xviii. 21, 22);


quid non Dominus, qui est ipsa Misericordia.


@1 47 pro “27”


 


(2) 直訳


Quod peccata cum remissa sunt etiam sint remota, est quoque error saeculi. 罪は赦される☆とき、遠ざけられもする☆こと、〔このこと〕もまた現代の誤りある。


「罪が許される」にはsunt「現在法」であり、「遠ざけられる」はsint「接続法」なので別ものだと、わかるのですが、これを翻訳する上で、どのように訳せばよいのでしょうか? 意味からすれば「罪が許される」のは事実であっても(現在法)、それだからといってその罪が「遠ざけられた」と思ってしまっては(接続法)いけない、ということでしょう。この意味合いをうまく表現することです。


この文のように、ラテン語は現在法と接続法を用いてこのことを簡潔明瞭に表現しています。これはラテン語(使用者にとって)の最大の利点ではないか、と思っています。


In illo errore sunt, qui credunt per Sacramentum Cenae sibi remissa esse peccata, tametsi non removerunt illa a se per paenitentiam: その誤りの中にある、聖餐によって自分自身に罪が赦されていると信じる者、それでもそれ〔罪〕を自分自身から悔い改めによって遠ざけていない。


in illo etiam sunt, qui per solam fidem credunt salvari; さらにまたその中にいる、信仰のみによって救われることを信じる者。


tum etiam qui per dispensationes papales: なおまた(他に)、教皇の特免状によって〔このことを信じる者〕もまた。


omnes illi credunt immediatam misericordiam, et momentaneam salvationem. すべてのそれらの者は、直接の慈悲を信じている、また瞬間の救いを。


At cum hoc invertitur, fit veritas, nempe quod cum remota sunt peccata, etiam remissa sint; しかし、このことがひっくり返されるとき、〝真理〟☆1が生ずる、すなわち、罪が遠ざけられる☆2とき、さらにまた赦される☆2


1 通常「真理」はverumですが、このようにveritasが使われることがあります。そしてスヴェーデンボリはその使い分けをしています! そこで私はvetitasは〝真理〟と訳すことにしました。このことについては今後間もなく出版される『信仰について』を見てください。信仰とは〝真理〟です(同書6)


2 当然ながらここでもsuntsintが使われています。繰り返しますが、実際に「罪を遠ざけた」とき(直接法)、「罪は許されている」と思ってもよい(接続法)ということです。


paenitentia enim praecedet remissionem, et absque paenitentia nulla est remissio: というのは、悔い改めは赦しに先行する、また悔い改めなしに決して赦しはないから。


quare Dominus mandavit discipulis ut それゆえ、主は弟子たちに命じられた〔次の〕ように、


Praedicarent paenitentiam in remissionem peccatorum (Luc. xxiv. [1]47): 彼らは宣べ伝えた(接続・未完了)、罪の赦しの中へ☆悔い改めを(ルカ24:47)


☆ ここのinはどのような意味でしょうか?「~の中へ」では理解に苦しみますね。対格を伴うinの他の意味は「~に対して、~に向かって」があるので、これがよいでしょう。なお聖書には「悔い改めと罪の赦し」とあり、「と(カイ)」です。


Et Johannes “praedicavit baptisma paenitentiae in remissionem peccatorum” (Luc. iii. 3) またヨハネは「悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた、罪の赦しの中へ☆」(ルカ3:3)


☆ ここのinは聖書原典に前置詞「エイス」が使われていてこれはラテン語inとほぼ同意語です。それでここは「~に向かって」でよいでしょう。わき道にそれれば、新改訳聖書は「罪が許されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」としていますが、「基づく」は意訳ですね。ここは「罪の赦しに向けて悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」です。厳密な直訳である永井訳は「罪の赦に至る悔い改めのバプテスマを…」です。ギリシア語エイス、またラテン語インでも「~に至る」の訳はありえます。


Dominus remittit omnibus sua peccata; 主はすべての者にその罪を赦される。


non arguit et imputat; 非難しない(責められない)、また〔責任など〕転嫁しない(帰されない)


sed usque non potest nisi secundum leges Divinae Providentiae suae illa auferre; しかし、それでも、ご自分の神的な摂理にしたがってでないなら、それ〔罪〕を取り去ることができない。


nam cum dixit Petro (interroganti quoties remitteret fratri in illum peccanti, num septies), なぜなら、ペトロに言われたとき(兄弟にその罪の中に(向けて)その度ごとに(同じ回数だけ)質問した〔ときに〕、七度か)


Quod remitteret non modo septies, sed usque ad septuagies septies (Matth. xviii. 21, 22); 七度だけでなく許された(接続・未完了)こと、しかし七度〔を〕七十回(マタイ18:21, 22)


参考までにここは聖書のことばそのものではありません。マタイ18:23は「わたしはあなたに七度までと言わない。しかし、七度〔を〕七十回」。
quid non Dominus, qui est ipsa Misericordia.
 何を主は〔なされ〕ないか、その方は慈悲そのものであられる。


@1 47 pro “27” 注1 27」の代わりに「47


 


(3) 訳文


280.  罪は赦されるとき、遠ざけられとすることもまた現代の誤りある。


 聖餐によって自分自身に罪が赦されていると信じる者は、その誤りの中にいる、それでもその罪を自分自身から悔い改めによって遠ざけていない。さらに、信仰のみによって、他にまた教皇の特免状によって救われることを信じる者もまたその誤りの中にいる。すべてのそれらの者は、直接の慈悲を、また瞬間の救いを信じている。


 しかし、このことがひっくり返されるとき、〝真理〟が生ずる、すなわち、罪が遠ざけられるとき、さらにまた赦されることである。というのは、悔い改めは赦しに先行し、また悔い改めなしに決して赦しはないから。それゆえ、主は弟子たちに次のように命じられた、


 


 彼らは、罪の赦しへ向けて悔い改めを宣べ伝えた(ルカ24:47)


 またヨハネは「罪の赦しへ向けて悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた(ルカ3:3)


 


 主はすべての者にその罪を赦され、責められず、また帰されない。しかし、それでも、ご自分の神的な摂理にしたがってでないなら、その罪を取り去ることがおできならない。なぜなら、ペトロが兄弟の罪の中に対して、その度ごとに〔許さなければならないか〕、七度か、と質問したときに〔そのとき主は〕言われているから、


 


 七度だけでなく、七度〔を〕七十回〔許す〕(マタイ18:21, 22)


 


 慈悲そのものであられる主が〔そうされない〕何があるのか。


 


(4) 前日の訳について:原語を述べておく訳し方があった


 前日の279[8]の直訳で、「ここのasperam arteriamは私にとって不明です。すなわち、チャドウイックのレキシコンにありません。…省略して訳します」としたことを、もすこし方法がないかな、としばらく考えていた。


 「うるさいこと」また「わからないこと」(これは不正直であるが)を「省略する」訳し方があり、これは本筋とあまり関係なければ、一つの有力な訳し方である(すなわち、訳さないという訳し方)


 しかし、「訳さない訳し方にもう一つある」ことに気が付いた。それが「原語のまま書いておく」方法である。「省略する」のは不正直かもしれないので、わからないままに原語を載せておけば、多少、罪悪感は薄れる。


 それでここは「肺から気管を(trachiam)、すなわちarteria aperta(気管、喉笛)を通して咽頭や声門の中で…」とすれば、気管が二つの表現で述べられているとわかる。しかし、この二語がどのようなニュアンスで使われるのか、私は知らない。それで、ほんとにごく一部の読者にしか役立たないかもしれない(やはり役立たないであろう、訳者の気休めすぎないかもしれない)

原典講読「神の摂理』 281

 

(1) 原文


281.  (iv.) Quod sic permissio mali sit propter finem ut salvatio. Notum est, quod homo in plena libertate cogitandi et volendi sit, sed non in plena libertate loquendi et faciendi quicquid cogitat et vult. Potest enim cogitare sicut atheus, negare Deum, et sancta Verbi [et] ecclesiae blasphemare, immo potest velle loquela et facto illa perdere usque ad eorum internecionem; sed hoc leges civiles, morales et ecclesiasticae arcent; quare impia et scelesta illa intus fovet cogitando et volendo, et quoque intendendo, sed usque non faciendo. Homo qui non atheus est, etiam in plena libertate est cogitandi plura quae mali sunt, ut fraudulenta, lasciva, vindicativa, et alia insana, quod etiam facit per vices. Quis potest credere, quod nisi plena libertas foret homini, non modo non salvari posset, sed etiam in totum periret? [2.] Audiatur nunc causa: Omnis homo in malis plurium generum a nativitate est; illa mala insunt voluntati ejus; et quae voluntati insunt, amantur; nam quod homo ex interiori vult, hoc amat; et quod amat, hoc vult; et amor voluntatis influit in intellectum, et ibi facit ut jucundum ejus sentiatur; inde venit in cogitationes, et quoque in intentiones. Quare nisi permitteretur homini cogitare secundum amorem voluntatis ejus, qui illi ex hereditario insitus est, amor ille inclusus maneret et nusquam in conspectum hominis veniret; et amor mali non apparens est sicut hostis in insidiis, sicut sanies in ulcere, sicut venenatum in sanguine, et sicut putredo in pectore; quae si inclusa tenentur, letum inducunt. At vero cum licet homini cogitare mala amoris vitae suae usque ad intentionem, sanantur illa per media spiritualia, sicut morbi per media naturalia. [3.] Qualis homo futurus esset, si non liceret ei cogitare secundum jucunda amoris vitae suae, nunc dicetur. Non foret homo amplius; perditurus esset binas suas facultates, quae vocantur libertas et rationalitas, in quibus consistit ipsa humanitas; jucunda malorum istorum occuparent interiora mentis ejus, usque adeo ut recluderent portam, et tunc non posset aliter quam similia loqui et agere; et sic insaniret non solum coram se, sed etiam coram mundo, et tandem non sciret velare pudenda. Sed ne talis fiat, permittitur quidem ei cogitare et velle mala hereditatis suae, sed loqui et facere illa; ac interea discit civilia, moralia et spiritualia, quae etiam cogitationes ejus intrant, et removent insanias illas, et per illa a Domino sanatur; sed usque non ultra quam ut sciat custodire portam, nisi etiam agnoscat Deum, et imploret opem Ipsius, ut possit resistere illis: et quantum tunc resistit, tantum non admittit illas in intentiones, et tandem nec in cogitationes. [4.] Cum itaque in hominis libertate est cogitare sicut lubet, propter finem ut amor vitae ejus e latibulis suis in lucem intellectus ejus prodeat, et quod alioqui{1} non sciret aliquid de suo malo, et ita nec fugaret{2} illud, sequitur quod id apud illum accresceret, usque ut non locus redintegrationis superesset apud illum, et aegre apud liberos, si quos gigneret; nam malum parentis traducitur in prolem. Sed hoc ne fiat, Dominus providet.


@1 for alioqui read alioquin I


@2 fugaret: perhaps fugeret intended; fugare I 


 


(2) 直訳


(iv.) Quod sic permissio mali sit propter finem ut salvatio.― (iv) したがって、救いの(ための)目的のために悪の許しがあること。


Notum est, quod homo in plena libertate cogitandi et volendi sit, sed non in plena libertate loquendi et faciendi quicquid cogitat et vult. よく知られている、人間は、考え、意志する完全な自由の中にいること、しかし、話し、行なう完全な自由の中にない、何でも考え、意志する。


Potest enim cogitare sicut atheus, negare Deum, et sancta Verbi [et] ecclesiae blasphemare, immo potest velle loquela et facto illa perdere usque ad eorum internecionem; というのは、無神論者のように考えることができるから、神を否定すること、またみことば()教会の聖なるものを冒涜すること、それどころかそれらを話すことと行なうことを欲することができる、それらの殺害にまで滅ぼすこと。


sed hoc leges civiles, morales et ecclesiasticae arcent; しかし、このことを市民の、道徳の、また教会の法が抑制する。


quare impia et scelesta illa intus fovet cogitando et volendo, et quoque intendendo, sed usque non faciendo. それゆえ、それらの不信心なものや邪悪なことを考え、意志しようと内部に抱く、そしてまた意図しようと、しかしそれでも、行なおうとしない。


Homo qui non atheus est, etiam in plena libertate est cogitandi plura quae mali sunt, ut fraudulenta, lasciva, vindicativa, et alia insana, quod etiam facit per vices. 人間は、その者は無神論者ではない、もまた多くのものを考える完全な自由の中にいる、それらは悪である、例えば、欺き、みだらなこと、復讐、また他の気違いじみたこと、さらにまた時々、行なう。


Quis potest credere, quod nisi plena libertas foret homini, non modo non salvari posset, sed etiam in totum periret? だれが信じることができるか?☆ 完全な自由が人間になかったなら、救われることができないだけでなく、しかしまた全部の中で滅んだであろう。


このままだと、うまい文章ではありません。「~を信じることができる〔者が〕だれか〔いるだろうか〕? なかなか難しいですね、それではその理由を述べてみましょう」といった感じです。 


[2.] Audiatur nunc causa: [2.] そこで(今や)、理由が聞かれる。


Omnis homo in malis plurium generum a nativitate est; すべての人間は多くの種類の悪の中に生まれている。


illa mala insunt voluntati ejus; それらの悪は彼の意志に内在する。


et quae voluntati insunt, amantur; また、意志に内在するものは、愛される。


nam quod homo ex interiori vult, hoc amat; なぜなら、人間が内的なものから欲する(意志する)ものは、これを愛するから。


et quod amat, hoc vult; また、愛するもの、これを欲する(意志する)


et amor voluntatis influit in intellectum, et ibi facit ut jucundum ejus sentiatur; また、意志の愛は理解力の中に流入する、またそこにひき起こす、その快さのように感じられる。


inde venit in cogitationes, et quoque in intentiones. ここから思考の中にやって来る、また意図の中にもまた。


Quare nisi permitteretur homini cogitare secundum amorem voluntatis ejus, qui illi ex hereditario insitus est, amor ille inclusus maneret et nusquam in conspectum hominis veniret; それゆえ、人間に自分の意志の愛にしたがって考えることが許されないなら、それは彼に遺伝から植え付けられている、その愛は閉じ込められて残り、また決して人間の視野の中にやって来ない。


et amor mali non apparens est sicut hostis in insidiis, sicut sanies in ulcere, sicut venenatum in sanguine, et sicut putredo in pectore; また悪の愛は見られない、待ち伏せの中の敵のように、潰瘍の中の膿のように、血液の中の毒のように、また胸の中の腐敗のように。


quae si inclusa tenentur, letum inducunt. それらはもし閉じ込められて保たれるなら、死をひき起こす。


At vero cum licet homini cogitare mala amoris vitae suae usque ad intentionem, sanantur illa per media spiritualia, sicut morbi per media naturalia. しかし、けれども、人間に自分のいのち(生活)愛の悪を考えることが許されるとき、意図にまでも、それら〔悪〕は霊的な手段によって治療される(癒される)、病気が自然的な手段によってのように。


[3.] Qualis homo futurus esset, si non liceret ei cogitare secundum jucunda amoris vitae suae, nunc dicetur. [3.] 人間がどんなものになるか、もし彼に自分のいのち(生活)愛の快さにしたがって考えることが許されないなら、今や言われる。


Non foret homo amplius; 人間ではなかった、もはや。


perditurus esset binas suas facultates, quae vocantur libertas et rationalitas, in quibus consistit ipsa humanitas; 自分の二つの能力は滅ぼされる、それらは自由性と推理力を呼ばれる、それらの中に人間性そのものがある。


jucunda malorum istorum occuparent interiora mentis ejus, usque adeo ut recluderent portam, et tunc non posset aliter quam similia loqui et agere; それらの悪の快さは彼の心の内的なものを占める、扉(入口)を開く、そこまでも、またその時、〔それらの悪に〕似たもの以外に異なって話すことと行なうことができない。


et sic insaniret non solum coram se, sed etiam coram mundo, et tandem non sciret velare pudenda. またこのように(したがって)分自身の前だけでなく、しかしまた世の前で狂う、また最後は陰部を隠すことを知らない☆。


もちろん「恥も外聞もなくなる」ということです。


Sed ne talis fiat, permittitur quidem ei cogitare et velle mala hereditatis suae, sed loqui et facere illa; しかし、このようなことが起こらないように、確かに彼に自分の遺伝悪を考えることと意志することが許されている、しかしそれらを話すことと行なうことは〔許されない〕。


ac interea discit civilia, moralia et spiritualia, quae etiam cogitationes ejus intrant, et removent insanias illas, et per illa a Domino sanatur; そしてその間に、市民的なもの、道徳的なもの、霊的なものを学ぶ、それらもまた彼の思考に入る、またそれらの狂気を遠ざける(取り去る)、それらを通して主により癒される。


sed usque non ultra quam ut sciat custodire portam, nisi etiam agnoscat Deum, et imploret opem Ipsius, ut possit resistere illis: しかし、それでも、扉(入口)守ることを知るように以外には越えない、神もまた認めないなら、またその方の助けを嘆願する、それらに抵抗することができるように。


et quantum tunc resistit, tantum non admittit illas in intentiones, et tandem nec in cogitationes. またその時、どれだけ抵抗するか〔よって〕、それだけそれらを意図の中に入れない、またついに思考の中にも〔入れ〕ない。


[4.] Cum itaque in hominis liberte est cogitare sicut lubet, propter finem ut amor vitae ejus e latibulis suis in lucem intellectus ejus prodeat, et quod alioqui{1} non sciret aliquid de suo malo, et ita nec fugaret{2} illud, sequitur quod id apud illum accresceret, usque ut non locus redintegrationis superesset apud illum, et aegre apud liberos, si quos gigneret; [4.] そこで、人間の自由の中に考えることがあるので、好むように、目的のために、彼のいのち(生活)愛が自分の隠れ場から彼の理解力の光の中に出てくる、またそうでなければ自分の悪について何らかのものを知らない、またこのようにそれ〔悪〕を追い払う〔追い払うこと☆〕、~ということになる、それは彼のもとで増える、彼のもとで回復の余地が残らないようにまで、また子供のもとでほとんどない、もしその者に生まれているなら。


「追う払う」か「追い払うこと」かは、下記参照。私は「追い払うこと」でよいと思います。


nam malum parentis traducitur in prolem. なぜなら、両親の悪は子孫の中に伝えられるから。


Sed hoc ne fiat, Dominus providet. しかし、このことが起こらないように、主は備えられている。


@1 for alioqui read alioquin I 注1 alioquiの代わりにalioquinと読む。初版。


@2 fugaret: perhaps fugeret intended; fugare I 注2 fugaret:おそらくfugeretを意図している。初版(I)fugare☆。


ここの「注」ついて解説します。まず初版はfugareとあります。この原文通りに読めばfugarefugoの不定詞であり、意味は「駆逐すること、追い払うこと」です。これは「またしたがって、それ()を追い払うことを知らない」と訳せて、これは非常に有力な読みであり、私は支持します。


しかしその後の編集者によりfugaretと校訂されています。このままで訳せば「またこのようにそれ()を追い出さない」となります。これもありえます。「t」が付くか付かないか、ミスプリかどうか微妙だからです。最後の「おそらくfugeretを意図している」は、実はこれも有力です。というのは「悪」に対し「追い出す」(fugo)も、「避ける」(fugio)もありえるからです。「悪を避ける」というつもりならfugeret illumと記述しなければなりません。スヴェーデンボリはどのようなつもりで、ここを記述したのでしょうか。


ただしこの@1@2とも私がこの講座の定本としているSwedenborg Society1982年版には載っていません。ネット上で@1@2について調べました。


 


(3) 訳文


281.  (iv) 「したがって、救いの目的のために悪の許しがあること」


 人間は、考え、意志する完全な自由の中にいる、しかし、何でも考え、意志することを話し、行なう完全な自由の中にいないことは、よく知られている。というのは、無神論者のように考え、神を否定し、みことばと教会の聖なるものを冒涜すること、それどころか、それらを話すことと行なうことを欲することができ、それらをなくすまでに滅ぼすことができるから。しかし、このことを市民、道徳、また教会の法が抑制する。それゆえ、内部にそれらの不信心なものや邪悪なことを考え、意志しよう、そしてまた意図しようと抱くが、しかしそれでも、行なおうとしない。


 無神論者ではない人間もまた、悪であるくのものを考える完全な自由の中にいる、例えば、欺き、みだらなこと、復讐、また他の気違いじみたことであり、さらにまた時々は行なう。


 完全な自由が人間になかったなら、救われることができないだけでなく、しかしまた全面的に滅んだであろうことを、だれが信じることができるだろうか?


[2.] そこで、理由を聞きなさい。


 すべての人間は多くの種類の悪の中に生まれている。それらの悪は彼の意志に内在する。意志に内在するものは、愛される。なぜなら、人間が内的なものから意志するものは、これを愛し、また、愛するもの、これを意志し、また、意志の愛は理解力の中に流入し、ここから思考の中に、また意図の中にもまたやって来るものを、そこに、その快さのように感じられるものをひき起こすからである。


 それゆえ、人間に遺伝から植え付けられている自分の意志の愛にしたがって考えることが許されないなら、、その愛は閉じ込められて残り、また決して人間の視野の中にやって来ない。また、待ち伏せする敵、潰瘍の中の膿、血液の中の毒の、また胸の中の腐敗のように、悪の愛は見られることがない。それらは閉じ込められて保たれるなら、死をひき起こす。


 しかし、人間に自分のいのち(生活)愛の悪を、その意図までも考えることが許されるとき、それらの悪は、病気が自然的な手段によって治療されるように、霊的な手段によって癒される


[3.] もし彼に自分のいのち(生活)愛の快さにしたがって考えることが許されないなら、人間がどんなものになるか、今、述べよう。自由性と推理力を呼ばれる二つの能力は滅ぼされ、もはや人間ではない。それら二つの能力の中に人間性そのものがある。悪の快さは彼の心の内的なものを、扉を開くまでも占め、またその時、それらの悪に似たものしか話し、行なうことができない。したがって、自分自身だけでなく、世の前でもまた狂い、ついには陰部を隠すことすら知らない。


 しかし、このようなことが起こらないように、確かに彼に自分の遺伝悪を考えることと意志することが許されているが、しかしそれらを話すことと行なうことは許されない。そしてその間に、市民的なもの、道徳的なもの、霊的なものを学び、それらもまた彼の思考に入り、またそれらの狂気を遠ざけ、それらを通して主により癒される。しかし、それでも、神もまた認め、それらの悪に抵抗することができるようにその方の助けを嘆願しないなら、扉守ること以外に、これを越えて知ることはない。またその時、どれだけ抵抗するかよって、それだけそれらの悪を意図の中に、最後には思考の中にも入れない。


[4.] そこで、人間には、彼のいのち(生活)愛が自分の隠れ場から彼の理解力の光の中に出てくる目的のために、またそうでなければ自分の悪について何らかのものを、またしたがってそれの悪を追い払うことを知らず、自由の中で好むように考えるので、その悪は、彼のもとで回復の余地が残らないようにまで、またもしその者に子供が生まれているなら、その子供のもとでほとんどその余地がないほどに増えることがいえる。なぜなら、両親の悪は子孫の中に伝えられるから。


 しかし、このことが起こらないように、主は備えられている。