原典講読「神の摂理』 278[secundo]([5, 6]) 

 

(2) 直訳


[5.] Quintum: [5.] 第五:


Quod peccata apud illos non appareant, et quod ideo non removeri possint. 彼らのもとに罪は見られないこと、またそれゆえ、遠ざけられることができないこと。


Omne malum quod non apparet, fomentat se; すべての悪は、それは見られない、それ自体で燃えている。


est sicut ignis in ligno sub cinere; 灰の下の木材の中の火のようである。


et est sicut sanies in vulnere quod non aperitur; また傷の中の膿(うみ)のようである、それは開かれない。


nam omne malum obstructum increscit, et non desinit priusquam totum consummatum est; なぜなら、すべてのふさがれた悪は増大するから、また終わらない、~しないうちに、全体が滅ぼされる。


quare ne aliquod malum obstruatur, permittitur cuique cogitare pro Deo et contra Deum, proque sanctis ecclesiae et contra illa, et in mundo propterea non plecti. それゆえ、何らかの悪がふさがれないように、それぞれの者に神のために(賛成して、選んで)、また神に反して考えることが許されている、教会の聖なるものにもまた〔その〕ために、またそれらに反して、また世の中でこのために打って罰せられない。


De hoc ita Dominus apud Esaiam: このことについて、このように主は「イザヤ書」に―
“A vola pedis usque ad caput non….est integritas, vulnus et cicatrix, et plaga recens, non expressa sunt, non obligata, et non emollita oleo….
 「足の裏から頭まで…健全〔なところは〕ない、傷ときずあと、また新しい打撃、絞り出され(押し出され)ない、包帯されていない、また油で和らげられていない…。


Lavate vos, purificate vos, removete malitiam operum vestrorum a coram oculis meis; あなたがたを洗え、あなたがたを清めよ、わたしの目の前から、あなたがたの悪意の働きを遠ざけよ。


cessate malum facere; 悪を行なうことをやめよ。


discite bonum facere; 善を行なうことを学べ。


…tunc si fuerint peccata vestra sicut coccinea, sicut nix albescent; …その時、もし〔=たとい〕あなたがたの罪が緋()のようであったなら〔=にしても〕、雪のように白くなる。


si rubra fuerint sicut purpura, sicut lana erunt…. もし〔=たとい〕赤()が紫のようであったなら〔=にしても〕、羊毛のようになる。


Si renueritis et rebellaveritis, gladio comedemini” (i 6, 16, [17,] 18, 20); もし、あなたがたが拒む(未来)またあなたがたがそむく(逆らう) (未来)なら、あなたがたは剣で食べられる☆(未来)(イザヤ1:6, 16, 17, 18, 20)


べブル語原典も「食べる、食い尽くす」の語を使っています。新改訳聖書は「(剣に)のまれる」としていますが、私はこの直訳のほうがよくわかります。それで原文で読みます。なお、ここには引用されていませんが、19節に「あなたがたは地のよいものを食べる」とあり、同じ「食べる」の語を使っています。同一文脈で、このように訳語を変更することは(内意を慮る)私の取る立場ではありません。
“gladio comedi” significat falso mali perire.
 「剣で食べること」は悪の虚偽で滅びることを意味する。


[6.] Sextum: [6.] 第六:


Causa hactenus occulta, cur mala non removeri possint absque illorum exploratione, apparentia, agnitione, confessione, et resistentia. 今まで閉ざされた理由、なぜ悪が遠ざけられることができないか、それらの調査、出現、承認、告白、そして抵抗なしに。


In praecedentibus memoratum est, quod universum caelum ordinatum sit in societates secundum [affectiones boni, et universum infernum secundum] concupiscentias mali affectionibus boni oppositas. 先行するもの☆の中で話しに出されている、全天界は[善の情愛]にしたがった社会に配列されていること、[また、全地獄は]善に対立する悪の情愛の欲望[にしたがって]


これがどこか、私には見当たりません。なお[]の部分は編集者による補足であり、こうしないと文意が通りません。


Unusquisque homo quoad spiritum suum est in aliqua societate, in societate caelesti si in affectione boni, at in societate infernali si in concupiscentia mali. それぞれの人間は自分の霊に関して何らかの社会の中にいる、天界の社会の中に、もし善の情愛の中に〔いる〕なら、しかし、地獄の社会の中に、もし悪の欲望の中に〔いる〕なら。


Hoc nescit homo cum in mundo vivit, sed usque quoad spiritum suum in aliqua est; このことを人間は知らない、世の中に生きるとき、しかし、それでも自分の霊に関して何らかのものの中にいる。


absque eo non potest vivere, et per id regitur a Domino. そのことなしに生きることができない、またそのことによって主により支配される☆。


感想です。「主の支配」はこの世で直接ではなく、自分の(霊の)所属する世界で支配されていることにしたがっていることがわかります。別の言葉でいえば、「自分の霊がどこに住んでるのか」です。


Si in societate infernali est, non potest inde educi a Domino nisi secundum leges Divinae Providentiae Ipsius, inter quas etiam est, ut homo videat quod ibi sit, utque velit exire, ac ut ipse id a se conetur. もし、地獄の社会の中にいるなら、主によりここから連れ出されることができない、その方の神的な摂理の法則にしたがってでないなら、それら〔の法則〕の中にもまたある、人間はそこにいることを見るための、また出ることを欲するための、そして自分自身からそのことそのものを努力するための。


Hoc potes, homo cum in mundo est, non autem post mortem; このことをあなたはできる☆、人間が世の中にいるとき、けれども死後〔でき〕ない。


突然と「あなた」と述べています。このことは、他人事ではなく、「あなたのことですよ」と呼びかけている気持ちが伝わる気がします。


tunc enim manet in societate, cui se inseruit in mundo, in aeternum. というのは、その時、社会の中に留まるから、それに自分自身を挿入する、世の中で、永遠に〔留まる〕。


Haec causa est, quod homo se exploraturus sit, peccata sua visurus et agniturus, ac paenitentiam acturus, et dein perseveraturus usque ad finem vitae. これが理由である、人間が自分自身を調べなければならないこと、自分の罪を見、また認め〔なければならない〕、そして悔い改めを行な〔わなければならない〕、またその後、いのちの終わりまで続け〔なければならない〕。


Quod ita sit, per multam experientiam usque ad plenam fidem potuissem confirmare; そのようであることは、多くの経験によって私は十分な信念にまで確信することができた(過去完了)


sed documenta experientiae adducere non hujus loci est. しかし、〔その〕経験〔から〕の実例(証明)を提示することは、この場所でではない。


@1 19 pro “14” 注1 14」の代わりに「19


 


(3) 訳文


278[Secundo]. [5.] 第五:「彼らのもとに罪は見られないこと、またそれゆえ、遠ざけられることができないこと」


見られないすべての悪は、それ自体で燃えている。灰の下の木の中の火のようである。また傷の中の開かれない膿(うみ)のようである。なぜなら、すべてのふさがれた悪は増大し、全体が滅ぼされるないうちは、終わらないから。それゆえ、何らかの悪がふさがれないように、それぞれの者に神に賛成して、また神に反して、教会の聖なるものにもまた賛成して、またそれらに反して考えることが許されており、世の中でこのために打って罰せられない。


 このことについて、主は「イザヤ書」で次のように〔言われている〕―


 「足の裏から頭まで…健全〔なところは〕ない、傷ときずあと、また新しい打撃、絞り出されず、包帯されず、また油で和らげられていない…。あなたがたを洗え、あなたがたを清めよ、わたしの目の前から、あなたがたの悪意の働きを遠ざけよ。悪を行なうことをやめよ。善を行なうことを学べ。…その時、たとい、あなたがたの罪が緋()のようであったにしても、雪のように白くなる。たとい、赤()が紫のようであったにしても、羊毛のようになる。もし、あなたがたが拒み、またそむくなら、あなたがたは剣で食べられる」(イザヤ1:6, 16, 17, 18, 20)


 


「剣で食べること」は悪の虚偽で滅びることを意味する。


 


[6.] 第六:「それらの調査、出現、承認、告白、そして抵抗なしに、なぜ悪が遠ざけられることができないか、今まで閉ざされた理由」


前に、全天界は善の情愛に、また全地獄は善に対立する悪の情愛の欲望にしたがった社会に配列されていることが話しに出された。


 それぞれの人間は自分の霊に関して何らかの社会の中に、善の情愛の中にいるなら天界の社会の中に、しかし、悪の欲望の中にいるなら地獄の社会の中にいる。このことを人間は世の中で生きるとき知らない、しかし、それでも自分の霊に関して何らかのものの中にいる。そのことなしに生きることができない、またそのことによって主により支配される。もし、地獄の社会の中にいるなら、主によりその方の神的な摂理の法則にしたがってでないならそこから連れ出されることができない。それらの法則には、人間がそこにいることを見るための、また出ることを欲するための、そして自分自身からそのことを努力するためのものもまたある。人間が世の中にいるとき、このことをあなたはできる、けれども死後はできない。というのは、その時、世の中でその社会の中に自分自身を入れ留まり、永遠に留まるからである。


 これが、人間が自分自身を調べ、自分の罪を見、また認め、そして悔い改めを行ない、またその後、いのちの終わりまで〔そのことを〕続けなければならない理由である。そのようであることは、多くの経験によって私は十分な信念にまで確信することができた。しかし、ここは〔その〕経験の実例を提示するところではない。

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