この原典対訳『神の摂理』267番で「久しぶりに「訳」を問題にしてみます」と述べた。それは―
Sed cum amor proximi versus est in amorem sui, et hic amor increvit, tunc amor humanus versus est in amorem animalem; しかし、隣人愛が自己愛にそれた(ひっくり返った)☆とき、またこの愛が増えた(大きくなった)、その時、人間の愛は動物の愛にそれた(ひっくり返った)。
☆このversus estを柳瀬訳は「変化し…」としています。隣人愛が自己愛へ「変化する」とは思えません。また長島訳は「変質し…」としています。これは意訳そのものであり、私はもっと奇妙な訳であると思いますが、これで「なんとなくわかる」ような気になる人もいるかもしれません。英訳(Dick)はturned intoであり、私が典拠とするジョン・チャドウイックの『レキシコン』にはturn over(ひっくり返す)とあり、その後、turn away、twistの訳語があり、この最後の訳が正しいと思います。
であった。私が両氏の訳でひっかかるのは、隣人愛が自己愛に「変わる」「変質する」とすることである。訳していてこのことを疑問に思ないのだろうか?
その後も、しばらくこのことについて考えていたので、それを述べよう。
人間には愛がある。主への愛、それと対極にある悪魔また地獄への愛。また人に「向かう」隣人愛と自己へ「向かう」自己愛である。それをどうとらえるか、それによって「訳」が変わる。極端に言えば、人生観が変わる。
いま「向かう」と述べた。個人は一つである。その中で「愛はさまざま」、といった気もするが、その主体は一つである。話しが飛んで何を言いたいかわからないであろう、何を言いたいのかと言えば、「表と裏」である。ものには表と裏がある。一人の人間の表と裏である。ここでは内面と外面ではない。あくまでも外面的な表と裏である。主へ向かうのが「表」である、そのとき「裏」は悪魔、地獄へ向かっている。愛が人へ向かっているとき、その裏側で自分自身へ向かう愛がある。
同じ愛であるが、向う対象が異なるのである。「上から目線」のような言い方をする。これは目を向けるその本人を問題とするのである。
長くなった、結論を急げば、隣人愛と自己愛は、愛が変質するのではなく、「目線」が「変わる」のである。そのとき、表と裏が逆転する「ひっくり返る」のである。そこでここでの訳は「ひっくり返る」でよいと思うし、愛の対象を取り違えたので、「目線」が「それる」でよいと思う。