十戒の第五戒「殺すな」について

 

連載中の原典講読『神の摂理』265番に第六戒「姦淫するな」が出てきた。そのとき思ったことがあるので、ここに述べよう。姦淫についてではなく、第五戒についてである。


十戒は「出エジプト記」第20章にある。要約すれば:


 


(1-1) わたしのほかに神があってはならない。


(1-2) 偶像をつくってはならない。


(2) 御名をみだりに唱えてはならない。


(3) 安息日を聖なるものとせよ。


(4) 父と母を敬え。


(5) 殺してはならない。


(6) 姦淫してはならない。


(7) 盗んではならない。


(8) 偽りの証言をしてはならない。


(9) 隣人の家をほしがってはならない。


(10) 隣人のものをほしがってはならない。


 


以上であり、これはスヴェーデンボリの番号付けによる十戒であり、へブル語原典にある句読点とは別の、区切りの記号からも、この「十の言葉」がその「番号」である。


しかし、十戒は二つの石板に記されており、一つは神に関する、もう一つは人間に関する「戒め」であるとされてきた。このことはスヴェーデンボリも『真のキリスト教』282番に述べている(同書第五章は「十戒」についてである)


さて、どこまでが「神に関する戒め」であり、どこまでが「人間に関する」すなわち「隣人愛に関する」いましめであろうか。「あなたの父と母を敬え、あなたの神が…」とあるので、ここまでが神に関する戒め、その後の「殺すな」「姦淫するな」…以降が「文の雰囲気」からもして「人間に関するおきて」に思える。それで、これ以外の区分として「偶像をつくるな」を第二戒として、上記の(9)(10)を一つにして「十戒」とする分類がある。以下、ナンバリングは、ずれる。


結局、「殺すな」が前半の第五戒か、後半の第六戒の違いとなる。


 


「殺すな」を第五戒とすれば「神についてのおきて」が四つ、「人間について」が第五以降の六つでバランスを欠く。第六戒とすれば「神について」と「人間について」が五と五となってバランスがよい(これが「十の言葉」ナンバリング変更の理由の一つであったように思える)


 


しかし、ここで、逆にバランスを重視し、伝統的な、またスヴェーデンボリにしたがって「殺すな」を「第五戒」とし「神について」の戒めと見なすことができる、と思った。


 


第五戒「殺すな」は「人を殺す」(これは自然的な意味であり、このままでは人間に関する戒めでしかない)だけでなく、霊的な意味は「人の霊魂を殺す」である(『真のキリスト教』310)


霊魂を殺すことは「人間」にはできない。その時、これは「神について」述べていると思える。それで第五戒は「霊魂を殺さないでください」という神への祈願であろう。


第六戒「姦淫するな」以降は、神に祈願することではない、人間が行なうべきことである。すなわち、「殺すな」は、そのままでは「人間」の行なうべきことであるが、内意を思えば、神に願うことである。


 


それで、この第五戒「殺すな」は神に関する最後の戒めであり、同時に人間に関する最初の戒めへの導入、その「接点」となっていると思う。

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