原典講読『神の摂理』 264([3]~[6]おわり)

 

(2) 直訳


[3.] Philistaea, per quam intelligitur fides separata a charitate, etiam sensum spiritualem Verbi profanavisset, quia salvationem ponit in aliquibus vocibus quas cogitent et loquantur, et non in bonis quae faciant, ut prius ostensum est; [3.] ペリシテ、それによって仁愛から分離した信仰が意味される、さらにまた、みことばの霊的な意味を冒涜した、救いをある言葉の中に置いたので、それを考えまた話す、また善の中に〔置か〕ない、それを行なう、前に示されたように。


et sic salvificum facit quod non salvificum est, et insuper removet intellectum e credendis. またこのように救いをなすものにした、救いをなさないものを、また、加えて信じるべきものから理解力を移した。


Quid illis cum luce, in qua est sensus spiritualis Verbi? 彼らに光とともに何が〔あるのか〕? その中にみことばの霊的な意味がある。


Numne verteretur in tenebras? 暗やみに変わらないか?


cum sensus naturalis vertitur in illas, quid non sensus spiritualis? 自然的な意味がそれ〔暗やみ〕に変わるとき、何が霊的な意味でない?☆


省略した表現なので何か補わないと意味が通じませんね。


Quis eorum, qui se in fide separata a charitate, et in justificatione per illam solam, confirmavit, vult scire quid bonum vitae, quid amor in Dominum et erga proximum, quid charitas et quid bona charitatis, et quid bona opera, et quid facere, immo quid fides in sua essentia, et aliquod genuinum verum quod facit illam? 彼らのだれが、その者は自分自身に仁愛から分離した信仰を、またそれのみによって義認を確信した、知ることを欲するか? 何が生活の善か、何が主への愛か、また隣人に対する〔愛か〕、何が仁愛か、また何が仁愛の善か、また何が善の働き()か、また何が行なうことか、それどころか何が信仰か、その本質の中で、また何らかの純粋な真理、それらをつくる。


Scribunt volumina, et solum id quod vocant fidem, confirmant; 〔彼らは〕本を書く、またそのことだけを、信仰と呼ぶもの、確信する。


et omnia illa, quae nunc nominata sunt, dicunt fidei isti inesse. またそれらすべてのものは、それらは今、名前を挙げられた、その信仰に内在することを言う。


Ex quibus patet, quod si sensus spiritualis Verbi prius detectus fuisset, fieret secundum verba Domini apud Matthaeum, これらから明らかである、もしみことばの霊的な意味が前に明らかにされたなら、「マタイ(福音書)」のもとの主のことばしたがって生じたであろう、


“Si oculus tuus malus fuerit, totum corpus obtenebratum erit: 「もしあなたの目が悪かったなら、全身が暗くされたであろう。


si ergo lumen quod in te est, tenebrae fit, tenebrae quantae” (vi. 23):  それゆえに、もし光が、それはあなたの中にある、暗やみを生じる、どれほど大きい暗やみ()(6:23)
per “oculum” in verbi sensu spirituali intelligitur intellectus.
 みことばの中で「目」によって、霊的な意味で理解力が意味される。


[4.] Alterum: Quod nec prius genuina vera a Domino revelata sint, in quibus sensus spiritualis Verbi est, et nova ecclesia, quae per sanctam Hierosolymam intelligitur, a Domino instauranda erat.― [4.] 第二:「主により純粋な真理が啓示される前でもないこと、その中にみことばの霊的な意味がある、また新しい教会が、それは「聖なるエルサレム」によって意味される、主により設立されるべきである」―


Praedictum est a Domino in Apocalypsi, quod postquam ultimum judicium peractum est, genuina vera detegenda, nova ecclesia instauranda, et sensus spiritualis detegendus, essent. 主により「黙示録」の中に予言されている、最後の審判の後になし遂げられたこと、純粋な真理が明らかにされる(べきである)、新しい教会が設立される(べき)、また霊的な意味が明らかにされる(べき)、であること。


Quod ultimum judicium peractum sit, in opusculo De Ultimo Judicio, et dein in Continuatione ejus, ostensum est; 最後の審判がなし遂げられたことは、小著『最後の審判について』の中とその後(続いて)その『続き』の中に、示されている。


et quod id intelligatur per caelum et terram quae transitura, in Apocalypsi (xxi. 1). またそのことが天と地によって意味されること、それらは通過(移行)「黙示録」の中に(21:1)


Quod genuina vera tunc detegenda sint, praedicitur per haec verba in Apocalypsi: その時、純粋な真理が明らかにされる(べきである)ことは、「黙示録」の中のこれらの言葉によって予言されている―
“Dixit Sedens super throno, ecce nova omnia facio” (vers. 5; tum xix. 17, 18; xxi. 18-21; xxii. 1, 2).
 「王座に座られている方が言われた、見よ、わたしはすべてのものを新しくする」(5節、なおまた19:17, 1821:18-2122:1, 2)


Quod tunc sensus spiritualis Verbi revelandus sit (xix. 11-16): その時、みことばの霊的な意味が啓示される☆こと(19:11-16)


revelo「見えるようにする、啓示する」の未来受動分詞(動形容詞)が使われており、「行なわれようとしている・行なわれるべきである」という意味ですが、これを簡潔にぴったり表現する日本語はないようです(私に見つからないだけかもしれません)


hoc intelligitur per “Equum album,” super quo Sedens vocabatur Verbum Dei, et qui erat Dominus dominorum et Rex regum (de qua re videatur opusculum de Equo albo). このことが「白い馬」によって意味される、その上に座られる方は「神のみことば」と呼ばれる、またその者は主の主、また王の王であった(その事柄については小著『白い馬について』に見られる)


Quod per “sanctam Hierosolymam” intelligatur Nova Ecclesia, quae tunc a Domino instauranda est, videatur in Doctrina Novae Hierosolymae de Domino (n. 62-65), ubi id ostensum est. 「聖なるエルサレム」によって新しい教会が意味されることは、それはその時、主により設立される(べき)ある、『新しいエルサレムの教え、主について』の中に見られる(62-65)、そこにそのことが示されている。


[5.] Ex his nunc patet, quod sensus spiritualis Verbi revelandus esset pro nova ecclesia quae solum Dominum agnoscet et colet, et Verbum Ipsius sanctum habebit, et Divina vera amabit, et fidem separatam a charitate rejiciet. [5.] これらから今や明らかである、みことばの霊的な意味が啓示される(べき)こと、新しい教会のために、それ〔教会〕は主だけを認め、礼拝する、またその方のみことばは聖なるものをもつ、また神的な真理を愛する、また仁愛から分離した信仰を退ける。


Sed plura de hoc Verbi sensu videatur in Doctrina Novae Hierosolymae de Scriptura Sacra (n. 5-26, et seq.); しかし、みことばのこの意味について多くのものが『新しいエルサレムの教え、聖書について』の中に見られる(5-26番、またそれ以降)


et ibi, ut quid sensus spiritualis (n. 5-26). またそこに、例えば、何が霊的な意味か(5-26)


Quod sensus spiritualis sit in omnibus et singulis Verbi (n. 9-17). 霊的な意味が、みことばのすべてと個々のものの中にあること(9-17)


Quod ex sensu spirituali sit quod Verbum sit Divinitus inspiratum, et in omni voce sanctum (n. 18, 19). 霊的な意味からであること、みことばは神的な霊感を与えられたものであること、またすべての言葉の中に聖なるものが〔ある〕(18, 19)


Quod sensus spiritualis hactenus ignotus fuerit, et cur non prius revelatus (n. 20-25). 霊的な真理はこれまで知られなかったこと、またなぜ前に啓示されなかったか(20-25)


Quod sensus spiritualis non alicui posthac detur, nisi qui in genuinis veris a Domino est (n. 26). 霊的な意味はある者にこの後、与えられないこと、主からの純粋な真理のいる者でないなら(26)


[6.] Ex his nunc constare potest, quod ex Divina Domini Providentia sit, quod sensus spiritualis usque ad hoc saeculum coram mundo latuerit, ac interea in caelo apud angelos, qui inde sapientiam suam hauriunt, reservatus fuerit. [6.] これらから今や明らかにすることができる、神的な摂理からであるあること、霊的な意味はこの時代までも世の前に隠れていたこと、そしてその間、天界の中の天使のもとに、その者はここから自分の知恵を汲み取った、保存されていた。


Ille sensus apud antiquos, qui ante Mosen vixerunt, notus fuit, et quoque excultus; 古代人のもとのこの意味は、その者はモーセの前に生きた、知られていた、そしてまた発達した(耕された)☆。


excultusの辞書形はexcoloです。


sed quia posteri eorum, correspondentias, ex quibus solis Verbum eorum et inde religio constabat, verterunt in varias idololatrias, ac Aegyptii in magias, ille ex Divina Domini Providentia occlusus est; しかし、彼らの子孫は、対応を、それらだけから彼らのみことばは、またここから宗教は成り立った、いろいろな偶像崇拝へ変えた、そしてエジプト人は魔法へ、それは神的な摂理から隠された。


primum apud filios Israelis, et postea apud Christianos, propter causas, de quibus supra, et nunc primum pro Nova Domini Ecclesia apertus. 最初にイスラエル民族のもとに、またその後、キリスト教徒のもとに、理由のために、それらについて上に、また今や、初めて主の新しい教会のために、開かれた。


 


(3) 訳文


264.  [3.] ペリシテは、それによって仁愛から分離した信仰が意味されるが、考えまた話すある言葉の中に救いを置き、行なう善の中に置かないので、前に示されたように、みことばの霊的な意味もまた冒涜した。またこのように救いをなさないものを救いをなすものにし、また、加えて理解力を信じるべきものから移した。彼らに、みことばの霊的な意味が含まれる光があるのか? 暗やみに変わらないか? 自然的な意味が暗やみに変わるとき、霊的な意味は何もないではないか?


 自分自身に仁愛から分離した信仰を、またそれのみによって義認を確信した者のだれが、 何が生活の善か、何が主への愛で、また隣人に対する愛か、何が仁愛か、また何が仁愛の善か、また何が善の働きか、また何が行なうことか、それどころか何が本質的に信仰か、また何が信仰をつくる純粋な真理か、知ることを欲するのか?


 彼らは本を書き、信仰と呼ぶものだけを確信する。また今、名前を挙げたそれらすべてのものは、その信仰に内在する、と言う。これらから、もしみことばの霊的な意味が前に明らかにされたなら、「マタイ福音書」主のことばどおりのことが生じたであろうことが明らかである、


 


 「もしあなたの目が悪かったなら、全身が暗くされたであろう。それゆえに、もし、あなたの中にある光が暗やみを生じるなら、それ暗やみはどれほどもの(6:23)


 みことばの中で「目」によって、霊的な意味で理解力が意味される。


[4.] 第二:「みことばの霊的な意味が含まれる純粋な真理が主により啓示され、「聖なるエルサレム」によって意味される新しい教会が主により設立される以前でもないこと」


 主により「黙示録」の中に、最後の審判の後に、純粋な真理が明らかにされ、新しい教会が設立され、また霊的な意味が明らかにされることがなし遂げられたことが予言されている。最後の審判がなし遂げられたことは、小著『最後の審判について』とその後の『続き』の中に示されている。またそのことが「黙示録」の中に(21:1)、過ぎ去る天と地によって意味される。その時、純粋な真理が明らかにされることは、「黙示録」の中の次の言葉によって予言されている―


 


 「王座に座られている方が言われた、見よ、わたしはすべてのものを新しくする」(5節、なおまた19:17, 1821:18-2122:1, 2)


 


 その時、みことばの霊的な意味が啓示されること(19:11-16)、このことが「白い馬」によって意味され、その上に座られる方は「神のみことば」と呼ばれ、またその者は主の主、また王の王であられた(その事柄については小著『白い馬について』に見られる)。「聖なるエルサレム」によって新しい教会が意味され、それはその時、主により設立されることが、『新しいエルサレムの教え、主について』の中に見られ(62-65)、そこにそのことが示されている。


[5.] これらから今や、主だけを認め、礼拝し、その方のみことばに聖なるものがあり、神的な真理を愛し、仁愛から分離した信仰を退ける新しい教会のために、みことばの霊的な意味が啓示されることが明らかである。しかし、みことばのこの意味について多くのものが『新しいエルサレムの教え、聖書について』の中に見られる(5-26番、またそれ以降)


またそこには、例えば、何が霊的な意味か(5-26)、霊的な意味が、みことばのすべてと個々のものの中にあること(9-17)、霊的な意味から、みことばは神的な霊感を与えられたものであること、またすべての言葉の中に聖なるものがあること(18, 19)、霊的な真理はこれまで知られなかったこと、またなぜ前に啓示されなかったか(20-25)、霊的な意味は、主からの純粋な真理のいる者でないなら、この後、与えられないこと(26)がある


[6.] これらから今や、神的な摂理から、霊的な意味はこの時代まで世の前に隠れていたこと、そしてその間、天界の中の天使のもとに保存されていて、天使はここから自分の知恵を汲み取っていたことを明らかにすることができる。この意味は、モーセの前に生きた古代人のもとで知られ、そしてまた発達した。しかし、彼らの子孫は、対応だけから成り立っていた彼らのみことばが、またここから宗教があった、その対応をいろいろな偶像崇拝へ、そしてエジプト人は魔法へ変え、それは神的な摂理から隠された。最初にイスラエル民族のもとで、またその後、キリスト教徒のもとで、前に述べた理由のために隠されたが、今や、初めて主の新しい教会のために、開かれたのである。

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