(2) 直訳
[4.] Si iidem interrogantur num sciant, a quo conceptus est, num a Deo Patre, vel num a suo Divino, et respondebunt quod a Deo Patre, hoc enim est secundum Scripturam. [4.] もし同じ者に質問するなら、知っているか、どこからみごもったか、父なる神からか、あるいはご自分の神性からか、また〔彼らは〕答える(未来)、父なる神から〔である〕こと、というのは、このことは聖書にしたがっているから。
Annon tunc Pater et Ipse unum sunt, sicut anima et corpus unum sunt? その時、確か、父とその方は一つではないか☆、霊魂と身体が一つであるように?
☆ annonは肯定の答えを期待します。
Quis potest cogitare, quod a duobus Divinis conceptus sit, et si suo, quod illud foret Pater Ipsius? だれが考えることができるのか、神的な二つのものからみごもること、またもし、ご自分〔から〕なら、彼は父そのものであった〔ことにならないか〕?
Si adhuc interrogas, Quae vestra idea est de Divino Domini, et quae de Humano Ipsius? もし、あなたがさらに質問するなら、あなたがたの観念は何か、主の神性について、また何か、その方の人間性について?
dicent quod Divinum Ipsius sit ab Essentia Patris, ac Humanum ab Essentia matris, et quod Divinum Ipsius sit apud Patrem: 〔彼らは〕言う、その方の神性は父の本質からであること、そして人間性は母の本質から、またその方の神性は父のもとにあること。
et si tunc interrogas, Ubinam Ipsius Humanum? また、もしその時、あなたが質問するなら、どこにその方の人間性は〔あるのか〕?
et nihil respondebunt? また、何も答えない(未来)。
separant enim in idea sua Divinum et Humanum Ipsius, ac Divinum faciunt aequale Divino Patris, et Humanum simile humano alterius hominis; というのは、自分の観念の中でその方の神性と人間性を分離するから、そして神性を父の神性を等しいとする、また同様に人間性を他の人間の人間性と〔等しいとする〕。
et non sciunt, quod sic etiam separent animam et corpus; また、知らない、さらにまたこのように霊魂と身体を分離することを。
nec vident contradictionem, quod sic natus fuisset rationalis homo ex sola matre. 矛盾も見ない、このように理性的な人が母だけから生まれたこと。
[5.] Ex idea impressa de Humano Domini, quod simile fuerit humano alterius hominis, factum est, quod Christianus aegre possit adduci ad cogitandum Divinum Humanum, etiamsi diceretur quod anima seu vita Ipsius a conceptione fuerit et sit Ipse Jehovah. [5.] 主の人間性について印象付けられた観念から、人間性は他の人間に似ていたこと、引き起こした(生じた)、キリスト教徒はほとんどもたらすことができないこと、「神的人間性」を考えることへ、たとえ言われても、その方の霊魂またはいのちは〔エホバから〕みごもったことからであった、またエホバそのものであること。
Collige nunc rationes, et expende, num alius Deus universi sit quam Solus Dominus, in quo Ipsum Divinum a quo est quod vocatur Pater, Divinum Humanum quod vocatur Filius, et Divinum procedens quod vocatur Spiritus Sanctus, et sic quod Deus unus sit Persona et Essentia, et quod ille Deus sit Dominus. そこで、理性を集めよ(推理せよ)、また熟慮せよ、全世界に他の神がいるか、主だけ以外に、その方の中に神性そのものそのもとがある、父と呼ばれること(もの)、神的な人間性が子と呼ばれること(もの)、また発出する神性が聖霊と呼ばれること(もの)、またこのように神は一つの位格と本質であること、またその神が主であること。
[6.] Si instas dicendo, quod Ipse Dominus nominaverit Tres apud Matthaeum, [6.] もし、あなたが主張するなら、言うこと、主ご自身が「マタイ」のもとで三つ名前を上げたこと、
“Euntes et discipulos facite omnes gentes, baptizantes eos in nomen Patris, Filii et Spiritus Sancti” (xxviii. 19); 「あなたがたは行って☆、すべての国民を弟子にせよ、彼らを洗礼を授けて、父、子と聖霊の名前の中に」(28:19)。
☆ ここのeuntesがわかりませんでした。しばらくしてからeoの現在分詞の複数主格とわかりました。
sed quod hoc dixerit, ut sciretur quod in Ipso nunc glorificato Divina Trinitas esset, patet a versu proxime antecedente et proxime sequente ibi; しかし、このことが言われたこと、知られるように、栄化されたその方の中に今や神的な三一性があったことは、そこの前の(先立つ)最も近くと続く最も近くの節の中から明らかである。
in versu proxime antecedente dicit, quod Ipsi data sit omnis potestas in caelo et in terra: 前の(先立つ)最も近くの節の中に、その方に天の中と地の中ですべての力が与えられたこと。
et in versu proxime sequente dicit, quod Ipse cum illis esset usque ad comsummationem saeculi, ita de Se Solo, et non de Tribus. また続く最も近くの節の中に、その方が彼らとともに世代の完了☆(時代の完成)までもいること、そのようにご自分だけ、また三つについて〔語られて〕ない。
☆ ここにミスプリがありました。consummationemが正しいです。
[7.] Nunc ad Divinam Providentiam, cur permiserit, quod Christiani colerent Deum unum sub tribus Personis, quod est, tres Deos, et huc usque nesciverint, quod Deus unus sit Persona et Essentia in quo Trinitas, et quod ille Deus sit Dominus; [7.] そこで、神的な摂理に向けて(のために)、なぜ許したか、キリスト教徒が三つの位格のもとに一つの神を崇拝すること、すなわち、三つの神を、またここまで(この点まで)知らなかった、神が一つの位格と本質であること、その中に三一性、またその神が主であること。
non in causa est Dominus sed ipse homo; 原因の中に主はない、しかし、人間自身。
Dominus docuit id manifeste in suo Verbo, ut constare potest ex omnibus illis locis, quae in Doctrina Novae Hierosolymae de Domino, adducta sunt; 主はそのことをご自分のみことばの中ではっきりと教えられた、そのすべての個所から明らかにすることができるように、それらは『新しいエルサレムの教え、主について』の中に、提示された。
et quoque docuit in doctrina omnium ecclesiarum, in qua est, quod Divinum et Humanum Ipsius non sint duo, sed una Persona unita sicut anima et corpus: そしてまた、すべての教会の教えの中で教えた、それらの中にある、その方の神性と人間性は二つではないこと、しかし、霊魂と身体のように結合した一つの位格。
[8.] at quod Divinum et Humanum diviserint et Divinum fecerint aequale Divino Jehovae Patris, et Humanum aequale humano alterius hominis, erat prima causa, quia ecclesia post ortum ejus descivit in Babyloniam, quae in se potestatem Divinam Domini transtulit; [8.] しかし、神性と人間性を分割した、また神性を父なるエホバの神性と等しいとした、また人間性を他の人間の人間性と等しい〔とした〕ことは、最初の(最も重要な)理由があった、教会はその出現の後、バビロン〔の状態〕の中にそれた、それは自分自身に主の神的な力を移した。
verum ne diceretur Divina potestas sed humana, fecerunt Humanum Domini simile humano alterius hominis: けれども、神的な力と言われないように、しかし、人間的なもの〔力〕、主の人間性を他の人間の人間性に似たものにした。
et postea, quando ecclesia reformata est, ac sola fides recepta pro unico medio salvationis, quae est ut Deus Pater misereatur propter Filium, nec potuit Humanum Domini aliter spectari; またその後、教会が改革された時、そして信仰のみが救いの唯一の手段として受け入れられた、それは父なる神が御子のゆえに哀れまれたこと、主の人間性もまた異なって眺められることができなかった。
quod non potuerit, est causa, quia nemo potest adire Dominum, et corde agnoscere Ipsum pro Deo caeli et terrae, nisi qui vivit secundum praecepta Ipsius. できなかったことは、理由がある、だれも主に近づくことができないので、また心でその方を天と地の神として認めること、その方の戒めにしたがって生きる者でないなら。
In mundo spirituali, ubi quisque tenetur loqui sicut cogitat, ne quidem potest aliquis nominare Jesum, nisi qui vixit in mundo sicut Christianus; 霊界の中で、その場所に、それぞれの者が考えているように話すことが強いられる、ある者が決してイエスの名前を言うことができないように、その者がキリスト教徒のように世の中で生きなかったなら。
et hoc ex Divina Ipsius Providentia, ne Nomen Ipsius profanaretur. また、このことは神的な摂理から、その方の名前が冒涜されないように。
(3) 訳文
262. [4.] もし同じ者に、どこからみごもったか、父なる神からか、あるいはご自分の神性からか知っているか、と質問するなら、〔彼らは〕、父なる神から〔である〕こと、というのは、このことは聖書にしたがっているから、と答えるであろう。その時、父とその方は、霊魂と身体が一つであるように、一つではないかのか? だれが神的な二つのものからみごもることを考えることができるのか、またもし、ご自分〔から〕なら、主は父そのものであった〔ことにならないか〕?
もし、主の神性について、その方の人間性について、あなたがたの観念は何か? と、あなたがさらに質問するなら、〔彼らは〕その方の神性は父の本質から、そして人間性は母の本質からである、またその方の神性は父のもとにある、と言う。またもしその時、どこにその方の人間性は〔あるのか〕? と、あなたが質問するなら、何も答えないであろう。というのは、自分の観念の中でその方の神性と人間性を分離し、そして神性を父の神性を等しいとし、また同様に人間性を他の人間の人間性と等しいとし、さらにまたこのように霊魂と身体を分離することを知らず、このように理性的な人が母だけから生まれたことの矛盾も見ないからである。
[5.] 主の人間性について、その人間性が他の人間に似ていたと印象づけられた観念から、キリスト教徒は、たとえ、主の霊魂またはいのちは〔エホバから〕みごもったものであり、またエホバそのものである、と言われても、「神的人間性」を考えるようにはほとんどならなかったことが生じた。そこで、理性を集め、全世界に主以外に他の神がいるか、その方の中に父と呼ばれる神性そのものがあり、子と呼ばれる神的な人間性があり、また聖霊と呼ばれる発出する神性があること、またこのように神は一つの位格と本質であること、またその神が主であることを熟慮せよ。
[6.] もし、あなたが、主ご自身が「マタイ」で三つ名前を上げて言っている主張しても、
「あなたがたは行って、彼らに洗礼を授けて、父、子と聖霊の名前の中に、すべての国民を弟子にせよ」(28:19)。
このことが言われたのは、栄化されたその方の中に神的な三一性があったことが知られるためであったことは、その直前と直後の節から明らかである。直前の節に、その方に天の中と地の中ですべての力が与えられ、また直後の節に、その方が彼らとともに世代の完了までもいること、このようにご自分だけ〔について語られ〕、その三つについて〔は語られて〕ない。
[7.] さて、神的な摂理として、キリスト教徒が三つの位格のもとに一つの神を、すなわち、三つの神を崇拝すること、また、神が一つの位格と本質であり、その中に三一性あること、またその神が主であることこの時点まで知らなかったことが、なぜ許されたかのか、その原因は、主の中になく、人間自身にある。主は、そのことをご自分のみことばの中で、そのすべての個所から明らかにすることができるように、はっきりと教えられており、それらは『新しいエルサレムの教え、主について』の中に示されている。そしてまた、すべての教会の教えの中で、その方の神性と人間性は二つではなく、しかし、霊魂と身体のように結合した一つの位格であることが教えられてきた。
[8.] しかし、神性と人間性を分割し、また神性を父なるエホバの神性と等しいとし、また人間性を他の人間の人間性と等しいとしたことの最も重要な理由は、教会がその出現の後、バビロン〔の状態〕の中にそれ、自分自身に主の神的な力を移したからである。けれども、神的な力でなく、人間的な力と言われないように、主の人間性を他の人間の人間性に似たものにした。またその後、教会が改革され、そして信仰のみが救いの唯一の手段として受け入れられた時、それは父なる神が御子のゆえに哀れまれたことであり、主の人間性もまたそうとしか見られことができなかった。できなかったことの理由は、その方の戒めにしたがって生きる者でないならだれも主に近づくこと、また心でその方を天と地の神として認めることができないことである。