原典講読『神の摂理』 258([4]~[6]おわり)

 

(2) 直訳


[4.] Porro, unusquisque, qui natus est Christianus, etiam scit quod mala ut peccata fugienda sint, ex eo, quod decalogus tradatur omni puero et omni puellae in manum, et a parentibus et a magistris doceatur; [4.] さらに(加えて)、それぞれの者が、その者はキリスト教徒に生まれている、悪は罪として避けるべきものであることも知っている、それらから、十戒がすべての少年とすべての少女の手の中に渡されていること、また両親からと教師から教えられる。


et quoque omnes cives regni, in specie vulgus, ex solo decalogo e memoria lecto explorantur a sacerdote quid ex Christiana religione sciunt, et quoque monentur ut faciant illa quae ibi. そしてまた、王国のすべての市民は、特に一般の人々は、暗誦した記憶から十戒だけから祭司により調べられる、キリスト教の宗教から何を知っているか、そしてまたそれらを行なうように警告される、それらはそこに。


lego「読む」の分詞はlectumです。legoには「朗読する、暗誦する」の意味がありますので、「朗読して得た記憶から」または「暗誦して記憶から」となります。


Nusquam tunc ab aliquo antistite dicitur, quod non sint sub jugo istius legis, nec quod illa facere non possint quia non aliquod bonum a se. その時、ある者、〔教会の〕指導者から決して言われない、律法のそのくびきの下にいないこと、またそれらを行なうことができないこと、何らかの善は自分自身からでないので。


In toto Christiano orbe etiam receptum est Symbolum Athanasianum, et quoque agnoscitur id quod ultimo ibi dicitur, quod Dominus venturus sit ad judicandum vivos et mortuos, et tunc illi qui bona fecerunt intrabunt in vitam aeternam, et qui mala fecerunt in ignem aeternum. 全キリスト教世界の中にアタナシウス信条もまた受け入れられている、そしてまた、それが認められている、そこに最後に言われている、主は生きている者と死んだ者を裁きにやって来られること、またその時、彼らは、善を行なった者、永遠のいのちに入ること、また悪を行なった者は永遠の火の中に。


[5.] In Suecia, ubi religio de sola fide recepta est, manifeste etiam docetur, quod non detur fides separata a charitate seu absque bonis operibus, hoc in quadam Appendice Memoriali [1]omnibus Libris psalmorum inserta, quae vocatur “Impedimenta seu Offendicula Impaenitentium (Obotfardigas forhinda)” ubi haec verba: [5.] スウェーデンでは、そこに信仰のみについての宗教が受け入れられている、さらにまたはっきりと教えられている、仁愛から分離したまたは善の働きなしの信仰は存在しないこと、これはすべての讃美歌の本に挿入された思い出すためのある付録☆の中に〔ある〕、それは「悔い改めない〔者の〕障害またはつまずき」と呼ばれる、そこにこれらの言葉―


この付録は注にあるように現在はありません。またObotfardigas forhindaは同じ意味のスウェーデン語でしょう。


“Illi qui in bonis operibus sunt divites, monstrant per id quod in fide sint divites, quoniam cum fides est salvifica, operatur illa per charitatem; 「彼らは、善の働きの中で富んでいる者、そのことによって示している、信仰の中で富んでいること、救いは信仰とともにあるので、それは仁愛によって生み出す。


fides enim justificans nusquam datur sola ac separata a bonis operibus, quemadmodum bona arbor non datur absque fructu, sol non absque luce et calore, et aqua non absque humore.” というのは、義とする信仰は決してそれだけそして善の働きから分離したものによって与えられない(存在しない)ら、果実なしに善い木がないように、光と熱なしに太陽がない、また湿気なしに水がない。


[6.] Haec pauca allata sunt, ut sciatur, quod tametsi religiosum de sola fide receptum est, usque bona charitatis, quae sunt bona opera, ubivis doceantur, et quod hoc sit ex Divina Domini Providentia, ne vulgus per illam seducatur. [6.] これらのわずかなものが提示された、知られるために、たとえ信仰のみについての宗教信念の体系が受け入れられても、それでも、仁愛の善が、それは善の働きである、どこでも教えられている、またこれは神的な摂理であること、一般の人々がそれによって惑わされないように。


Audivi Lutherum, cum quo aliquoties in mundo spirituali locutus sum, devoventem solam fidem, et dicentem, quod cum illam stabilivit, monitus sit per angelum Domini, ne id faceret; 私はルター〔のこと〕を聞いた、その者と霊界の中で数回☆話した、信仰のみを呪って、また言って、それを確立した(建てる)とき、主の天使によって警告された、それを行なわないように。


数回とは、通常5~6回です。


sed quod cogitaverit secum, quod si non opera rejiceret, non fieret separatio a religioso Catholico; しかし、自分自身で考えた、もし働き()を捨てなければ、カトリックの宗教から分離が生じなかった。


quare contra monitum fidem illam confirmavit. それゆえ、警告に反してその信仰を確立させた。


@1 Usque ad annum 1819.  1 1819年まで。


 


(3) 訳文


258.  [4.] さらに、その者はキリスト教徒に生まれているそれぞれの者が、悪は罪として避けるべきものであることを、十戒がすべての少年とすべての少女の手の中に渡されており、また両親からと教師から教えられることからも知っている。そしてまた、王国のすべての市民は、特に一般の人々は、暗誦した記憶による十戒だけから祭司により、キリスト教から何を知っているか調べられ、そしてまたそこにあるそれらを行なうように警告される。その時、〔教会の〕指導者から、律法のそのくびきの下にいない、また善は自分自身からでないのでそれらを行なうことができない、とは決して言われない。


 全キリスト教世界でアタナシウス信条もまた受け入れられており、そしてまた、そこの最後に言われていること、主は生きている者と死んだ者を裁きにやって来られ、その時、善を行なった者は永遠のいのちに入り、悪を行なった者は永遠の火の中に入ることが認められている。


[5.] 信仰のみについての宗教が受け入れられているスウェーデンでもまた、、仁愛から分離したまたは善の働きなしの信仰は存在しないことがはっきりと教えられており、これはすべての讃美歌の本に挿入された思い出す(=覚えておくべき)ためのある付録の中にあって、それは「悔い改めない者の障害またはつまずき(Obotfardigas forhinda)」と呼ばれ、それは次の言葉である―


 「善の働きの中で富んでいる者は、そのことによって、信仰の中で富んでいることを示している、仁愛によって生み出す救いは信仰とともにあるからである。というのは、義とする信仰は、それだけによってまた善の働きから分離したものによっては、果実のない善い木なく、光と熱のない太陽がなく、また湿気なしに水がないように決して存在しないから」


[6.] これらのわずかなものは、たとえ信仰のみについての宗教信念の体系が受け入れられても、それでも、善の働きである仁愛の善が、どこでも教えられ、一般の人々がそれによって惑わされないようにとのこれが神的な摂理であることが知られるために提示された。


私はルターと霊界の中で数回話し、彼が信仰のみを呪って、それを確立したとき、主の天使によって、それを行なわないように警告されたが、しかし、自分自身で、もし働き()を捨てなければ、カトリック教から分離しないと考え、それゆえ、警告に反してその信仰を確立させた、と言っていたのを聞いた。