雑感「善く生きるとは」

 

 「善く生きる」について以前、200538(すなわちほぼ6年前のこと)、「卒業記念文集」の最後に載せたものがあるので以下に紹介します。最後の担任であり、思い出深いクラスでした。なお「じゃお」とは4年間、ほぼ毎週出した『クラス通信』の名称あり、その名前から「じゃお組」と称しました。


 さらに付言すれば「オヤジ」の逆読みが「じゃお」です。ラテン語についてはクラス通信で何度も述べました(都立四谷商業高等学校定時制はその後、廃校となりました)


 


 


Bis vivit qui bene vivit. 「よく生きる者は二度生きる」


                       担任 鈴木泰之


 


 やはり、ラテン語で締めくくりましょう。英訳すれば“He lives twice who lives well.”


この言葉の意味、「二度生きる」の意味はよくわからない。けれど、よくわからないほうが、その意味をいろいろと思い巡らすことになり、かえってよいのかもしれない。


 


 さて、卒業である。人生には明確にある段階を終えたと思えるときがある。それが「卒業」のように外面的なこともあれば、「私の青春時代は終わった」のように内面的なこともある。そのときに、何を思うか? どのように締めくくるのか?


 


 「私の高校時代とは何だったのだろうか?」 こうした気持ちは、今はわくまい。五、六年して、十数年して振り返り、はじめてわかることもある。


 なつかしく、いとおしく思い出すこともあれば、振り返ってみるほどのものもなく、思い出したくもないかもしれない。その違いは何だろう?


 


 「よく生きたか」、すなわち、月並みな言葉で言えば、「充実した高校時代を送ったか」によるだろう。


 よく生きたとき、追憶の中に、生き生きと楽しい思い出となって、そのときの出来事がその人の中でもう一度「生きる」。逆に、よく生きなかったら、思い出すこともなく、そのまま死んでしまう。


 


 この言葉は、もう一つ別の観点から読み取れる。私は人生の中でいろいろな人に出会ってきた。もう亡くなってしまった人もいる。その人が「よく生きた」人であるとき、「立派な人だったなあ」と思えるとき、その人は私の心の中で生きている。すなわち、その人はその人自身の人生を送り、なおまた私の中に、よい思い出となってもう一度、「二度」生きる。たとえばかつての恋人は私の中に永遠に生きている。


 


 高校時代を「よく生きた」人は、それでよし。不本意ながら、「よく生きなかったかな」と思う人は、これから「よく生き」ようとすればよい。よく生きた人、すなわち、この四谷商業定時制で、いろいろと貴重な経験をした生徒は、その経験を次に生かすことができるであろう。そういう意味でも、その経験が「二度生きる」ことになる。


 


 「二度生きるんだ」の気持ちで、巣立っていってほしい。これを「じゃお組」生徒への最後のはなむけの言葉としよう。


 


(表題の読みは「ビス・ウィウィット・クィ・ベネ・ウィウィット」)

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