原典講読『神の摂理』 250( [3] ~終わり)

 

(2) 直訳


[3.] Nunc aliquid dicetur de Divina Providentia, cur permittit, quod impii corde evehantur ad dignitates et lucrentur opes. [3.] そこで何らかのものが神的な摂理について言われる、なぜ許されているか、心で不信心な者が地位へ上げられ、また富を得られる。


Impii seu mali aeque possunt usus praestare sicut pii seu boni, immo ex fortiori igne, nam se spectant in usibus, ac honores ut usus; 不信心な者または悪い者は等しく役立ちを果たすことができる、敬虔な者または善い者のように、それどころか、もっと強い火から、なぜなら、自分自身を役立ちの中に眺めるから、そして名誉を役立ちとして。


quare in quo gradu amor sui scandit, in eo accenditur libido faciendi usus suae gloriae causa. それゆえ、自己愛の程度が上がれば上がるほどますます☆役立ちを果たす欲望に火をつけられる、自分の栄光の理由で。


相関文「quoeo~」は「~なるほどますます~」という意味です。


Talis ignis non datur apud pios seu bonos, nisi fomentatus sit subter ab honore. このような火は敬虔な者または善い者のもとに存在しない、名誉により下部に火をつけられないなら。


Quare Dominus impios corde, qui in dignitatibus sunt, per famam nominis eorum regit, et excitat ad faciendum usus communi seu patriae, societati seu civitati in qua sunt, et quoque concivi seu proximo cum quo sunt. それゆえ、主は心で不信心な者を、地位にいる者、彼らの名前の評判(名声)によって支配する、また、公共のまたは祖国の役立ちを行なうようにかきたてる(刺激する)、社会のまたは都市の、その中にいる、そしてまた仲間の市民(同胞)または隣人の、彼らとともにいる。


Hoc est regimen Domini, quod vocatur Divina Providentia cum talibus: これが主の統治(支配)ある、それらが神的な摂理と呼ばれる、そのような者に。


est enim Regnum Domini regnum usuum, et ubi non dantur nisi quam pauci qui usus praestant propter usus, facit ut cultores sui ad eminentiora officia evehantur, in quibus quisque ad bonum faciendum per suum amorem excitatur. というのは、主の王国は役立ちの王国であるから、またそこに存在しないので、役立ちのために役立ちを果たす者が少数以外でないなら、自己を礼拝する者がさらに高位の任務に上げられるようにする、それらの中でそれぞれの者が自分のあいによって善へとかきたてられる(刺激される)


[4.] Pone aliquod regnum infernale in mundo, tametsi non datur, ubi non nisi quam amores sui regnant (ipse amor sui est diabolus), annon quisque usus faciet ex igne amoris sui, et ex splendore gloriae suae, plus quam aliud regnum? [4.] 世の中の何らかの地獄の王国を置け(仮定せよ)、それでも存在しない、そこに自己愛以外でないなら支配しない(自己愛そのものが悪魔である)、それぞれの者が役立ちを行なわないか? 自己愛の火から、また自分の栄光の輝きから、他の何らかの王国よりもさらに。


At apud omnes illos ore fertur bonum publicum, sed corde bonum suum. しかし、彼らのすべての者のもとに、口で公共の善がもたらされる、しかし、心で自分の善が。


Et quia quisque spectat principem suum ut major fiat, spirat enim ut maximus, num talis potest videre quod Deus sit? また、それぞれの者が自分の首領(君主)を眺める、重要な(偉大な)者になるように、というのは最大な者になりたがるから、このような者は神がいることを見ることができるのか?


Est fumus sicut incendii qui circumstipat, per quem non potest aliquod verum spirituale in sua luce transire. 火災のような煙がある、それが取り囲む、それを通して、何らかの霊的な真理はその光の中で通過することができない。


Vidi illum fumum circum inferna talium. 私はその煙を見た、そのような〔者の〕地獄のまわりに。


Accende lucernam, et inquire, quot in regnis hodie sunt, qui aspirant ad dignitates, qui non sunt amores sui et mundi. 油ランプ(の明かり)をともせ、そしてさがせ、どれだけ多く今日の王国の中にいるか、地位を熱望する者、自己と世への愛にいない者。


Num inter mille invenies quinquaginta, qui amores Dei sunt, et inter hos modo aliquos, qui ad dignitates aspirant? 千の間にあなたは五十見つけるのか? 神の愛にいる者、またそれらの間に単にある者が、地位を熱望する者。


Cum itaque tam pauci numero sunt, qui amores Dei sunt, et tam multi qui amores sui et mundi, et cum hi amores ex suis ignibus plus usus praestant, quam amores Dei ex suis, quomodo tunc potest aliquis se confirmare per id quod mali in eminentia et opulentia prae bonis sint. そのとき、そこで、これほどに数で少ない、神の愛にいる者、またこれほどに多い、自己と世の愛〔にいる〕者、またこの者の愛がその火から多くの役立ちを果たすとき、神の愛〔にいる者が〕その〔火〕から〔果たす〕よりも、どのようにその時、ある者が自分自身にそのことによって確信することができるか、悪い者が善い者よりも卓越や富の中にいること。


[5.] Hoc etiam confirmatur per haec Domini verba: [5.] このこともまたこれらの主のことばによって確信される―
“Laudavit Dominus oeconomum injustitiae, quod prudenter egerit:
 「主は不正な執事(管理人)をほめた、賢明に行なったこと。


nam filii hujus saeculi prudentiores sunt supra filios lucis in generatione sua. なぜなら、この時代の子たちは自分の世代の中で光の子たちよりもさらに賢明であるから。


Sic Ego vobis dico, Facite vobis amicos ex mammone injustitiae, ut quando defeceritis suscipiant vos in aeterna tabernacula” (Luc. xvi. 8, 9): このようにわたしはあなたがたに言う、不正のマモン()らあなたがたに友をつくれ、あなたがたが不足する時、あなたがたを永遠の天(住まい)の中に受け入れるために」(ルカ16:8, 9)
quid per haec in sensu naturali intelligitur, patet:
 これらによって自然的な意味で何が意味されるか、明らかである。


in sensu autem spirituali per “mammonem injustitiae” intelliguntur cognitiones veri et boni, quas mali possident, et quibus ad dignitates et opes sibi comparandas solum utuntur; けれども、霊的な意味で「不正なマモン()」によって真理と善の知識が意味される、それらを悪い者は所有する、またそれらで、地位と富へ、自分自身に得ようとしてだけ、用いる。


illae cognitiones sunt, ex quibus boni seu filii lucis sibi amicos facient, et quae suscipient illos in aeterna tabernacula. それらの知識である、それらから善い者、すなわち、光の子たちは自分自身に友をつくる、またそれらが彼らを永遠の天(住まい)の中に受け入れる。


Quod multi sint amores sui et mundi, ac pauci amores Dei, etiam docet Dominus his verbis: 多くの者がいること、自己と世の愛、また少ない、神の愛、さらにまた主がこれらのことばで教えている―
“Lata porta et spatiosa via est, quae ducit ad interitum, et multi sunt qui intrant per illam:
 「門は広く、また道は幅広い、それは死(滅亡)導く、また多くの者がいる、その者はそれを通って入る。


sed angusta et stricta via est, quae ducit ad vitam, et pauci sunt qui inveniunt illam” (Matth. vii. 13, 14). しかし、道は狭く、また細い、それはいのちへ導く、また少しいる、その者はそれを見つける」(マタイ7:13, 14)


Quod dignitates et opes sint vel maledictiones vel benedictiones, et apud quos, videatur supra (n. 217). 地位と富があるいは呪いであることは、あるいは祝福、またそれらの者のもとで、上に見られる(217)


@1 vilipendat pro “vilipendet” 注1 vilipendet」の代わりにvilipendat


 


(3) 訳文


250.  [3.] そこで、神的な摂理について、心で不信心な者が地位へ上げられ、また富を得られることがなぜ許されているか、述べよう。


不信心な者または悪い者は、敬虔な者または善い者のようにと等しく役立ちを果たすことができる。それどころか、もっと強い火から、なぜなら、自分自身を役立ちの中に、そして名誉を役立ちとして眺めるから。それゆえ、自己愛の程度が上がれば上がるほど自分の栄光を理由としてますます役立ちを果たす欲望に火をつけられる。このような火は、名誉により下部に火をつけられないなら、敬虔な者または善い者のもとに存在しない。それゆえ、主は、地位にいて心では不信心な者を、彼らの名声によって支配され、また、公共のまたは祖国の役立ちを、その中にいる社会のまたは都市の役立ちを、そしてまた彼らとともにいる仲間または隣人の役立ちを行なうようにかきたてられる。


 これが主の支配であり、そのような者には神的な摂理と呼ばれる。というのは、主の王国は役立ちの王国であるからであり、またそこには役立ちのために役立ちを果たす者が少数しか存在しないので、自己を礼拝する者がさらに高位の任務に上げられ、それらの中でそれぞれの者が自分の愛によって善へとかきたてられるようにされる。


[4.] 存在しないけれども、世に何らかの地獄の王国を仮定せよ。そこでは自己愛しか支配していないが(自己愛そのものが悪魔である)、それぞれの者が自己愛の火から、また自分の栄光の輝きから、他の何らかの王国よりもさらに役立ちを行なわないか? しかし、彼らのすべての者が公共の善に口し、しかし、心では自分の善をもたらしている。


 また、それぞれの者が、自分の首領を、〔自分自身が〕重要な人物となれるよう眺めている。最大な者になりたがっているからであって、このような者は神がいることを見ることができるのか?


彼らを取り囲む火災のような煙があり、何らかの霊的な真理はその光の中で、それを通して通過することができない。私は、そのような者の地獄のまわりにその煙を見た。


 ランプの明かりをともし、今日の王国の中に、地位を熱望し、自己と世への愛にいない者がどれだけいるか、さがしてみよ。千人の間に神の愛にいる者を五十人、またそれらの間に地位を熱望する者を、あなたは見つけるだろうか? そこで、そのとき、これほどに神の愛にいる者が少なく、また、自己と世の愛にいる者がこれほどに多く、またこの者の愛がその火から、神の愛にいる者が果たすよりも多くの役立ちを果たすとき、悪い者が善い者よりも卓越や富の中にいることを、その時、どのようにしてだれかが自分自身に確信することができるのか。


[5.] このこともまた次の主のことばによって確信される―


 


 「主は、不正な執事が 賢明に行なったことをほめた。なぜなら、この時代の子たちはその世代の中の光の子たちよりもさらに賢明であるから。このようにわたしはあなたがたに言う、不正のマモン()らあなたがたに友をつくれ、あなたがたが不足する時、あなたがたが永遠の住まいの中に受け入れるためである」(ルカ16:8, 9)


 


 これらによって自然的な意味で何が意味されるかは、明らかである。けれども、霊的な意味では、悪い者が所有する「不正なマモン()」によって真理と善の知識が意味され、地位と富をそれらで自分自身に得ようとしてだけ用いる。それらの知識から、善い者、すなわち、光の子たちは、自分自身に友をつくり、また永遠の住まいの中に受け入れられる。


自己と世の愛にいる多くの者がいること、神の愛にいる者が少ないことを、主はまた次のことばで教えられている―


 


 「滅亡へ導く門は広く、道は幅広い。それを通って入る多くの者がいる。しかし、いのちへ導く道は狭く、細い。それを見つける者は少ない」(マタイ7:13, 14)


 


 地位と富が、それらの者のもとで、あるいは呪いあるいは祝福であることは、前に見られる(217)

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