原典講読『神の摂理』 233([9.]~[13.])

 

(2) 直訳


[9.] Quintum: [9.] 第五:


Sed quod Dominus per Divinam suam Providentiam quam maxime prospiciat ne prius et plus inde recipiatur a voluntate, quam quantum homo sicut a se removet malum in externo homine.― しかし、主はご自分の神的な摂理によって、その記憶が意志により、前にまた多くここから受け入れられないように、人間が外なる人間の中で自分自身からのように悪を遠ざけるかぎり、その記憶を最大に用心される


Nam quod a voluntate, hoc in hominem venit, ac ei appropriatur, ac fit vitae ejus; なぜなら、意志により〔受け入れられる〕ものは、これは人間の中にやって来て、そして彼に専有され、そして彼のいのちとなるから。


et in ipsa vita, quae homini est ex voluntate, non potest malum et bonum simul esse, sic enim periret; またいのちそのものの中に、それは人間に意志からある、悪と善が一緒に存在することができない、というのはこのように滅びるから。


at in intellectu potest utrumque esse, quae ibi vocantur falsa mali aut vera boni, attamen non simul; しかし、理解力の中に(両方)二つとも存在することができる、それらはそこに悪の虚偽または真理の善と呼ばれる、けれども、同時にではない。


alioqui non potuisset homo videre malum a bono, ac cognoscere bonum a malo; そうでなければ、人間は悪を善から見ることができなかった、そして善を悪から知ること。


sed distinguuntur et separantur ibi sicut domus in interiora et exteriora. しかし、そこに区別され、分離される、家が内側と外側の中に〔区別される〕ように。


Cum malus homo cogitat et loquitur bona, tunc exterius cogitat et loquitur: 悪い人間が善を考え、話すとき、その時、外的に考え、話す。


at cum mala tunc interius; しかし、そのとき悪を、その時、内的に。


quare cum loquitur bona, fit loquela ejus sicut ex pariete; それゆえ、善を話すとき、その話し方は壁からのように生ずる。


et comparari potest cum fructu superficietenus pulchro, qui intus vermiculosus et putris est; また表面的に美しい果実に例えられることができる、それは内部に虫でいっぱい、腐っている。


et quoque cum ovo draconis crusta tenus. そしてまた、ヘビ()の卵に、殻に関して〔表面的に美しい〕。


[10.] Sextum: [10.] 第六:


Quod si prius et plus, tunc voluntas adulteraret bonum ac intellectus falsificaret verum, commiscendo illa cum malis et inde falsis.― もし、前にまた多くなら、その時、善と真理に悪とそこから☆虚偽を混ぜて、意志は善を不純化し、理解力は真理を虚偽化すること。


前の232番ではcumだったものがここではindeに変わっています。


Cum voluntas est in malo, tunc illa in intellectu adulterat bonum, ac adulteratum bonum in intellectu est in voluntate malum, confirmat enim quod malum sit bonum, et vicissim; 意志が悪の中にあるとき、その時、それは理解力の中で善を不純にする(汚す)、そして理解力の中の不純にされた善は意志の中の悪である、というのは確信するから、悪が善であること、また〔その〕逆に。


malum ita facit cum omni bono, quod sibi oppositum est. 悪はそのようにすべての善に行なう、それ〔善〕はそれ〔悪〕自体に対立している。


Malum etiam falsificat verum, quia verum boni est oppositum falso mali; 悪もまた真理を虚偽化する、善の真理は悪の虚偽に対立しているので。


hoc quoque facit voluntas in intellectu, et non intellectus ex se. このこともまた意志が理解力の中で行なう、理解力がそれ自体からではない。


Adulterationes boni in Verbo describuntur per adulteria, et falsificationes veri per scortationes ibi. 善の不純化は、みことばの中で姦淫によって述べられている、また真理の虚偽化はそこに淫行によって。


Adulterationes et falsificationes illae fiunt per ratiocinia ex naturali homine qui in malo est, et quoque fiunt per confirmationes ex apparentiis sensus litterae Verbi. それらの不純化と虚偽化は自然的な人間からの〔誤った〕推論によりなされる、その者は悪の中にいる、そしてまた、みことばの文字通りの意味の外観からの確信によってなされる。


[11.] Amor sui, qui est caput omnium malorum, praepollet aliis amoribus ingenio adulterandi bona et falsificandi vera, et hoc facit per abusum rationalitatis, quae cuivis homini tam malo quam bono a Domino est; [11.] 自己愛は、それは悪のすべてのものを捕える(つかむ)、他の愛に強力である、才能(知力)で、善を不純化する〔ことで〕、また真理を虚偽化する、またこのことを推理力の濫(悪用)よって行なう、それは人間のそれぞれに悪い者にも善い者にも主からある。


immo potest per confirmationes facere, ut malum prorsus appareat sicut bonum, ac falsum sicut verum. それどころか、確信によってすることができる、悪をまったく善のように見えるように、そして虚偽を真理のように。


Quid non potest, cum potest mille argumentis confirmare, quod natura se ipsam creaverit, et quod illa dein creaverit homines, bestias et vegetabilia omnis generis; 何ができないか? 千の論証で確信することができるとき、自然がそれ自体そのものを創造したこと、またそれ〔自然〕はその後、人間を創造した、すべての種類の動物と植物を。


tum quod per influxum ex interiori se faciat ut homines vivant, analytice cogitent, et sapienter intelligant? なおまた、それ自体の内なるものからの流入によって人間が生きるようにすること、分析的に考える、また賢明に理解する。


Quod amor sui praepolleat ingenio confirmandi quicquid vult, est quia ultimam superficiem ejus facit quidam splendor lucis in varios colores variegatae. 自己愛は、才能(知力)で、どんなものでも欲するものを確信することに強力であることは、その表面の最外部が光のある輝きをつくっているからである、いろいろな色で色とりどり(多彩な)


Hic splendor est amoris istius gloria sapiendi, et sic quoque eminendi et dominandi. この輝きはその愛の賢明である〔ことの〕栄光である、そしてまたこのようにすぐれている〔こと〕また支配的である〔ことの〕。


[12.] At cum amor ille talia confirmaverat, tunc fit tam caecus, ut non videat aliter quam quod homo sit bestia et quod cogitent similiter, immo quod si bestia quoque loqueretur, foret illa homo sub alia forma. [12.] しかし、その愛がこのようなことを確信したとき、その時、このように盲目になる、人間が獣(動物)であること以外に異なって見ないように、また同じように考えること、それどころか、もし獣(動物)もまた話したなら、それは人間であったこと、他の形のもとに。


Si adduceretur ex quadam persuasione credere quod aliquid hominis vivat post mortem, tunc tam caecus est, ut credat quod etiam bestia, et quod hoc aliquid vivens post mortem sit modo subtilis vitae halitus, sicut vapor, qui usque relabitur ad cadaver suum; もし、ある信念から信じることをひき起こされても、人間の何らかのものが死後も生きること、その時、これほどに盲目である、獣(動物)もまた〔死後に生きる〕ことを信じるように、また死後に生きるこの何らかのものは単にいのちの微細な息(発散物)である、蒸発気のような、それでもそれはその死体に戻される(すべり帰る)


vel quod sit aliquod vitale absque visu, auditu et loquela, ita caecum, surdum et mutum, volitans et cogitans; あるいは、何らかの生命力であること、視覚、聴覚と話すことなしに、このように盲目、つんぼでおし〔である〕、飛んでまた考える。


praeter plures insanias, quas ipsa natura, quae in se mortua est, phantasiae ejus inspirat. 他に多くの狂気〔がある〕、それらを自然そのものが、それは本質的に死んだものである、その幻(想像力)吹き込む。


Hoc facit amor sui, qui in se spectatus est amor proprii; このことを自己愛が行なう、それは本質的に見られた、プロプリウム(固有のもの)の愛である。


et proprium hominis quoad affectiones, quae omnes sunt naturales, non est absimile vitae bestiae, et quoad perceptiones quia ex illis affectionibus sunt, non absimile est noctuae. また人間のプロプリウムは情愛に関して、それらのすべては自然的である、獣(動物)のいのちに似ていなくもない、また知覚に関して、それらの情愛からであるので、フクロウに似ていなくもない。


Quare qui continue immergit cogitationes proprio suo, non potest elevari e luce naturali in lucem spiritualem, et videre aliquid Dei, caeli, et vitae aeternae. それゆえ、絶えず思考を自分のプロプリウムに浸す者は、自然的な光から霊的な光の中に上げられることができない、また、神、天界、また永遠のいのちの何らかのものを見ること。


Quia hic amor talis est, et usque ingenio confirmandi quodcunque lubet, praepollet, ideo etiam simili ingenio potest adulterare bona Verbi, et falsificare vera ejus, dum ex quadam necessitate tenetur confiteri illa. この愛はこのようなものであるので、またそれでも才能(知力)で、どんなものでも気にいるものを確信することが、強力であるので、それゆえまた、同様に才能(知力)で、みことばの善を不純化することができる、またその真理を虚偽化すること、ある必要からそれらを告白する(宣言する)ことを強いられる時。


[13.] Septimum: [13.] 第七:


Quod ideo Dominus non interius immittat hominem in vera sapientiae et in bona amoris, nisi quantum homo in illis potest teneri usque ad finem vitae.― それゆえ、主は人間を知恵の真理の中と愛の善の中に、それらに中に生涯の終わりまで保たれることができないかぎり、内的に入れられないこと。


Hoc facit Dominus, ne homo in gravissimum illud genus profanationis sancti, de quo in hoc articulo actum est, incidat. このことを主は行なわれる、聖なるものの冒涜のその最も重い種類の中に〔落ち込ま〕ないように、そのことについてこの章の中で扱われている、落ち込む。


Propter id periculum etiam Dominus permittit mala vitae, et plura haeretica cultus; その危険のために、主はまたいのち(生活)の悪を許されている、また多くの異端の礼拝(にせ宗教)を。


de quorum permissione videbitur in sequentibus paragraphis. それらの許しについて続く節(段落)の中に見られる。


 


(3) 訳文


[9.] 第五:「しかし、主はご自分の神的な摂理によって、その記憶が意志により、前にまた多くここから受け入れられないように、人間が外なる人間の中で自分自身からのように悪を遠ざけるかぎり、その記憶を最大に用心される


 なぜなら、意志により受け入れられるものは、人間の中にやって来て、彼に専有され、そして彼のいのちとなるから。また人間に意志から存在するいのちそのものの中で、悪と善が一緒に存在することができないからである、というのはこのようにして滅びるから。しかし、理解力の中に二つとも存在することができ、それらはそこに悪の虚偽または真理の善と呼ばれる、けれども、同時にではない。そうでなければ、人間は善から悪を見ること、また悪から善を知ることができなかった。しかし、家が内側と外側に区別されるように、そこに区別がなされ、分離される。


 悪い人間が善を考え、話すとき、その時、外的に考え、話す。しかし、悪を考え、話すとき、その時、内的にそうする。それゆえ、善を話すとき、その話し方は壁からのようである。また表面的に美しい〔けれども〕、内部は虫でいっぱいであり、腐っている果実に、そしてまた、殻に関して〔表面的に美しい〕ヘビの卵に例えられることができる。


[10.] 第六:「もし、前にまた多くなら、その時、善と真理に悪とそこから虚偽を混ぜて、意志は善を不純化し、理解力は真理を虚偽化すること」


 意志が悪の中にある時、それは理解力の中で善を不純にし、そして理解力の中の不純にされた善は意志の中の悪である。というのは、悪が善であること、またその逆を確信するから。悪はそのようにすべての善に行なう、その善はその悪自体に対立している。


善の真理は悪の虚偽に対立しているので、悪もまた真理を虚偽化する。このこともまた、意志が理解力の中で行ない、理解力がそれ自体からではない。


みことばの中で、善の不純化は姦淫によって、また真理の虚偽化は淫行によって述べられている。それらの不純化と虚偽化は、悪の中にいる自然的な人間からの〔誤った〕推論によりなされ、そしてまた、みことばの文字通りの意味の外観からの確信によってなされる。


[11.] 悪のすべてのものを捕える自己愛は、他の愛よりも強力に、知力で、善を不純化し、また真理を虚偽化する。またこのことを主から悪い者にも善い者にも人間のそれぞれにある推理力の悪用によって行なう。それどころか、確信によって、悪をまったく善のように、そして虚偽を真理のように見えるようにすることができる。


自然がそれ自体を創造したこと、またその自然はその後、人間を創造し、すべての種類の動物と植物を創造したこと、なおまた、その自然自体の内なるものからの流入によって、人間が生き、分析的に考え、また賢明に理解するようにすることを千の論証で確信することができるとき、何かできないものがあるのか?


 自己愛は、知力で、どんなものでも欲するものを強力に確信するのは、その表面の最外部が、多彩ないろいろな色で光のある輝きをつくっているからである。この輝きはその愛が賢明であり、そしてまたこのようにすぐれていて、また支配的であるという栄光である。


[12.] しかし、その愛がこのようなことを確信した時、人間は〔同じ〕獣であり、同じように考え、それどころか、もし獣もまた話したなら、それは他の形の人間であるとしか見ないほどの、そのような盲目となる。もし、ある信念から人間の何らかのものが死後も生きることを信じるようにされても、その時、獣もまた死後に生き、また死後に生きるこの何らかのものは蒸発気のような単なるいのちの微細な発散物であって、それでもそれはその死体に戻されるあるいは、視覚、聴覚、話すことのない、このように盲目、つんぼでおしであり、飛び回り、考える何らかの生命力である、信じるほどに、これほどに盲目である。他に多くの狂気があるが、それらを本質的に死んだものである自然そのものが、その幻想で吹き込む。


 このことを自己愛が行ない、本質的に見られたその愛はプロプリウム(固有のもの)の愛である。また人間のプロプリウムは情愛に関して、それらのすべては自然的であり、獣のいのちに似ていなくもなく、また知覚に関して、それらの情愛からであるので、フクロウに似ていなくもない。


 それゆえ、絶えず思考を自分のプロプリウムに浸す者は、自然的な光から霊的な光の中に上げられ、神、天界、また永遠のいのちの何らかのものを見ることができない。


 この愛はこのようなものであるので、またそれでも知力で、強力にどんなものでも気にいるものを確信するので、それゆえまた、ある必要から善や真理を告白することを強いられる時、同様に知力で、みことばの善を不純化し、その真理を虚偽化することができる。


[13.] 第七:「それゆえ、主は人間を知恵の真理の中と愛の善の中に、それらに中に生涯の終わりまで保たれることができないかぎり、内的に入れられないこと」


 このことを主は、この章の中で扱われている聖なるものの最も重い種類の冒涜に落ち込まないように、行なわれる。その危険のために、主はまた、生活上の悪を、また多くの異端の宗教を許されている。


それらの許しについては続く節の中に見られる。

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