原典講読『神の摂理』 233([4.]~[8.])

 

(2) 直訳


[4.] Tertium: [4.] 第三:


Si bonum cum suo vero inferretur prius aut plus quam remotum est malum cum suo falso, homo recederet a bono, ac rediret ad suum malum.— もし、善がその真理とともに、悪がその虚偽とともに遠く離れている前かまたは多くもたらされるなら、人間は善から去り、そして自分の悪へ戻る。


Causa est, quia praevaleret malum, et quod praevalet, hoc vincit, si non tunc usque postea. 理由がある、悪が勝った(優勢であった)(接続)からである、また勝つ(優勢である)ものは、これは勝利する、もし、その時でないなら、それでもその後。


Dum adhuc malum praevalet, non potest bonum inferri in intima conclavia, sed solum in atria; 依然として悪が勝つ(優勢である)時、善は最内部の部屋の中に導かれることができない、しかし、ただ張り出し玄関の中に。


quoniam, ut dictum est, malum et bonum non possunt simul esse, et quod solum in atriis est, hoc removetur ab hoste ejus, qui conclavibus est, inde fit recessio a bono et reditio ad malum, quod est pessimum profanationis genus. 言われたように、悪は善と一緒に存在することができないので、またただ張り出し玄関の中にあるものは、これは彼の敵により遠ざけられる(追う払われる)、その者は部屋にいる。ここから善からの撤退(離脱)悪への帰還が生じる、それは冒涜の最悪の種類である。


[5.] Praeterea ipsum jucundum vitae hominis est amare seipsum et mundum super omnia. [5.] さらに(加えて)、人間の快さそのものは自分自身と世をすべてのものにまさって愛することである。


Hoc jucundum non potest momento removeri, sed successive; この快さはすぐには遠ざけられることができない、しかし、連続的に(継続的に、しだいに)


at quantum ex hoc jucundo apud hominem remanet, tantum ibi praevalet malum; しかし、どれだけこの快さから〔何らかのものが☆〕人間のもとに存続する(残る)〔かによって〕、それだけそこに悪が勝つ(優勢である)


この文のこの個所には何かが省略されているように見えます。それで「何らかのもの」としましたが、それは最後に述べられているmalum「悪」でよいようです。


et hoc malum non aliter removeri potest, quam ut amor sui fiat amor usuum, seu ut amor dominandi non sit propter se sed propter usus; またこの悪は異なって遠ざけられることができない、自己愛が役立ちへの愛なるように以外に、すなわち、支配する愛が自分自身のためでないように、しかし、役立ちのために。


sic enim usus faciunt caput, et amor sui seu dominandi primum facit corpus sub capite, ac postea pedes super quibus ambulet. というのは、このように役立ちが頭をつくる(構成する)から、また自己へのまたは支配する愛が最初に頭の下の身体をつくる、そしてその後、足を、その上で歩く。


Quis non videt quod bonum faciet caput, et quod cum bonum facit caput, Dominus ibi sit?  だれが見ないか? 善が頭をつくる(構成する)べき(未来)こと、また頭をつくる(構成する)とき、主がそこにいること。


Bonum et usus unum sunt. 善と役立ちは一つである。


Quis non videt, quod si malum facit caput, diabolus ibi sit? だれが見ないか? もし悪が頭をつくる(構成する)なら、悪魔がそこにいること。


条件文でこのように条件節が直接法のことがあります。


Et quia usque bonum civile et morale, et in externa forma etiam bonum spirituale, recipiendum est, quod hoc tunc faciat pedes et plantas, et proculcetur. また、それでも市民的なまた霊的な善は、また外なる形の中で霊的な善もまた、受け入れられなくてはならないので、その時、これは足と足の裏をつくる(構成する)こと、また踏みつけられる。


[6.] Cum itaque status vitae hominis invertendus est, ut quod supra est infra sit, et haec versura non dari potest momento, jucundissimum enim vitae, quod est ex amore sui et inde dominii, non potest nisi quam sucessive diminui, et verti in amorem usuum, quapropter non potest a Domino inferri bonum prius et plus quam quantum hoc malum removetur; [6.] それで、人間のいのち(生活)の状態が逆転されなければならない☆1とき、上にある☆2ものが下にある☆2ように、またこの逆転はすぐには存在することができない、というのは、いのちの最大の快さは、それは自己愛とここらかの支配する〔愛〕である、連続的に(次第に)減らされること以外でないならできないから、また役立ちの愛に変えられること、そのために、主により善がもたらされることができない、この悪が遠ざけられるかぎり以外に前にまた多く☆3


1 inverto「ひっくり返す」の動形容詞が使われており、これは(将来の)要性を表わします。


2 同じ「ある」の言葉でもest(直接法)sit(接続法)です。ラテン語に慣れてくるとこのことで何を表現したいのか直ぐわりますが、きっちりとそれを日本語にはできませんね。すなわち、日本語には直接法、接続法という表現手段がないからです。それでも、その表現方法がないだけで、言いたいこと(内容)は通じるようになっています。


3 「前にまた多く」とは、悪が遠ざけられる「前に」また悪より善が「多く」なることです。逆にして意訳してみます。


et si prius et plus, homo recederet a bono, et rediret ad suum malum. また、もし前にまた多くなら、人間は善から去る、また自分の悪へ戻る。


[7.] Quartum: [7.] 第四:


Quod cum homo in malo est, intellectui ejus possint inferri multa vera, et haec in memoria recondi, et tamen non profanari.― 人間が悪の中にいるとき、彼の理解力に多くの真理がもたらされ、またこれらは記憶の中にたくわえられることができ、またそれでも冒涜されることができないこと。


Causa est, quia intellectus non influit in voluntatem, sed voluntas in intellectum; 理由がある、理解力は意志の中に流入しないからである、しかし、意志が理解力の中へ。


et quia non influit in voluntatem, multa vera ab intellectu recipi possunt, et illa recondi in memoria, et tamen cum malo voluntatis non commisceri, proinde sancta non profanari. また、意志の中に流入しないので、多くの真理が理解力により受け入れられることができる、またそれらが記憶の中にたくわえられること、またそれでも悪に意志が混ぜられること〔ができ〕ない、それゆえに聖なるものが冒涜されること〔ができ〕ない。


Et quoque cuivis incumbit, ut vera ex Verbo, aut ex praedicationibus, discat, in memoria reponat, ac de illis cogitet: そしてまた、それぞれの者に迫る(課せられている、義務である)、みことばから、あるいは説教から真理を、学ぶ、記憶の中にたくわえる、そしてそれらについて考えるように〔すること〕。


intellectus enim ex veris quae in memoria sunt, et inde in cogitationem veniunt, docebit voluntatem, hoc est, docebit hominem, quid faciet; というのは、理解(理解力、知力)は、真理から、それらは記憶の中にある、またここから思考の中にやって来るから、意志に教えなくてはならない、すなわち、人間に教えなくてはならない、何を行なうべきか。


hoc itaque est principale medium reformationis. そこで、このことが改心の主要な手段である。


Quando vera solum in intellectu, et inde in memoria sunt, non sunt in homine, sed extra illum. 真理が単に理解力の中に、またここから記憶の中にある時、人間の中にない、しかし、彼の外に。


[8.] Memoria hominis comparari potest cum alvo ruminatorio quorundam animalium, in quem immittunt escas suas; [8.] 人間の記憶は、ある動物の反芻(はんすう)る胃に例えられることができる、その中に自分の食物を入れる。


quae quamdiu ibi sunt, nam in corpore eorum sunt, sed extra illud, at sicut desumunt illas inde et devorant, fiunt vitae illorum, et nutritur corpus. それらがそこにある間、なぜなら、そのからだの中にある、しかしその外に〔ある〕から☆、しかし、そこからそれらを引き出し、また食い尽すように、それらのいのちになる、またからだは養われる。


相当省略された文であり、代名詞も多く、わかりづらいです。しかし、反芻胃のことを述べている、と見れば、理解は可能かと思います。「食物がその胃にある間は、からだの中にあるとはいっても、からだの外にあるようなものであって、もう一度、口にもどし、再度、咀嚼してからなら、養分としてからだに取り入れられる」という内容ですね。


At in memoria hominis non sunt escae materiales, sed spirituales, quae intelliguntur per vera, et in se sunt cognitiones; しかし、人間の記憶の中に物質的な食物はない、しかし、霊的な〔食物〕、それは真理によって意味される、また本質的に知識。


quantum inde homo desumit illa cogitando, quasi ruminando, tantum mens ejus spiritualis nutritur. そこからどれだけ人間がそれらを考えて、いわば反芻して引き出すか〔によって〕、それだけ彼の霊的な心は養われる。


Amor voluntatis est qui desiderat, et quasi appetit, et facit ut hauriantur, et nutriant. 意志の愛は、それは望むものである、またいわば欲しがる☆、また、汲む(吸収する)、また養うようにする。


「欲しがる」ものはここでは食物です、すなわち、ここは食欲です。


Si amor ille malus est, desiderat et quasi appetit immunda; もし、その愛が悪であるなら、不潔なものを望み、またいわば欲しがる。


si autem bonus, desiderat et quasi appetit munda, et illa quae non conveniunt, separat, amandat, et ejicit? けれども、もし〔その愛が〕善なら、清潔なものを望み、またいわば欲しがる、またそれらを、適合しないもの、分離する、追う払う、投げ出す〔のではないか〕?


quod fit variis modis. このことはいろいろな方法で行なわれる。


 


(3) 訳文


[4.] 第三:「もし、善がその真理とともに、悪がその虚偽とともに遠く離れている前かまたは多くもたらされるなら、人間は善から去り、そして自分の悪へ戻る」


 その理由は、悪がまさあったからであり、またまさるものは、もし、その時でないなら、それでもその後に勝利するからである。悪が依然としてまさる時、善は最内部の部屋の中に導かれることができないで、単に張り出し玄関の中にしか導かれない。前に言われたように、悪は善と一緒に存在することができないので、また単に張り出し玄関の中にあるものは、これは部屋にいる彼の敵により追う払われ、ここから善の離脱と悪への帰還が生じ、それは最悪の種類の冒涜である。


[5.] さらに、人間の快さそのものは自分自身と世をすべてのものにまさって愛することである。この快さはすぐには遠ざけられることができないで、徐々に遠ざけられる。しかし、どれだけこの快さからの悪が人間のもとに存続するかによって、それだけその悪がそこでまさる。またこの悪は、自己愛が役立ちへの愛なるようにしか、すなわち、支配する愛が自分自身のためでなく、役立ちのためのものになるようにしか、遠ざけられることができない。というのは、このように役立ちが頭を構成し、自己愛または支配する愛が最初に頭の下の身体を、そしてその後、足を構成し、その上で歩くからである。


 善が頭を構成しなくてはならないこと、また頭を構成するとき、主がそこにいることを、だれが見ないか? 善と役立ちは一つである。もし悪が頭を構成するなら、悪魔がそこにいることを、だれが見ないか? また、それでも市民的なまた霊的な善は、また外なる形の中で霊的な善もまた受け入れられなくてはならないので、その時、これは足と足の裏を構成し、踏みつけられる。


[6.] それで、人間のいのちの状態が、上にあるものが下にあるように、逆転されなければならないとき、またこの逆転はすぐには存在することができない、というのは、いのちの最大の快さは、それは自己愛とここからの支配する愛であるが、減らされること、また役立ちの愛に変えられることが徐々にしかできないからである。そのために、この悪が遠ざけられる以後か減らなければ、主により善がもたらされることができない。また、もし以後か減らなければ、人間は善から去り、自分の悪へ戻る。


[7.] 第四:「人間が悪の中にいるとき、彼の理解力に多くの真理がもたらされ、またこれらは記憶の中にたくわえられることができ、またそれでも冒涜されることができないこと」


 その理由は、理解力が意志の中に流入しないで、意志が理解力の中へ流入するからである。また、意志の中に流入しないので、理解力により多くの真理が受け入れられ、それらが記憶の中にたくわえられ、またそれでも意志は悪に混ぜられることができず、それゆえに、聖なるものが冒涜されることができない。


 そしてまた、みことばから、あるいは説教から真理を学び、記憶の中にたくわえ、そしてそれらについて考えるよう、〔そのことが〕それぞれの者に課せられている。というのは、理解は、記憶の中にある真理から、またここから思考の中にやって来きて、意志に、すなわち、人間に、何を行なうべきか教えなくてはならないから。そこで、このことが改心の主要な手段である。真理が単に理解力の中に、ここから記憶の中にある時、人間の中になく、しかし、その外にある。


[8.] 人間の記憶は、反芻(はんすう)る動物の胃に例えられることができる、その動物は胃の中に自分の食物を入れる。その食物は、その胃にある間は、そのからだの中にあるが、しかしその外にあるようなものである。しかし、その胃から食物を引き出して食べ、それらはいのちになり、またからだは養われる。しかし、人間の記憶の中に物質的な食物はなく、真理によって意味される霊的な食物があり、それは本質的に知識である。その知識から、どれだけ人間がそれらを考え、いわば反芻して引き出すかによって、それだけ彼の霊的な心は養われる。意志の愛は、望むものであり、またいわば〔食欲のように〕欲しがり、吸収し、〔身体を〕養う。もし、その愛が悪であるなら、不潔なものを望み、いわば〔食欲のように〕欲しがる。けれども、もし〔その愛が〕善なら、清潔なものを望み、またいわば〔食欲のように〕欲しがり、適合しないものを分離し、追う払し、投げ出す〔のではないか〕? このことはいろいろな方法で行なわれる。

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