(3) 訳文
233. そこで、神的な摂理のこのアルカナが、理性的な人間に、それがその光の中で見られることができるようにまでも明かされるために、今、提示されたそれらが個々に説明されなければならない。
第一:「人間のもとの内的なものの中に、悪は善と同時に、ここから悪の虚偽も善の真理と同時に存在することができないこと」
人間の内的なものによって彼の内なる思考が意味される。それについて、死後に生じることである霊界とその光の中にやって来る前に、人間は何も知らない。それは、自然界の中で、彼の思考の外なるものの中で愛の快さだけから、また自分自身のもとで見つけ出す悪そのものから、その時、知られることができる。なぜなら、前に示されたように、思考の内なるものは思考の外なるものとともに人間のもとで、分離されることができないような結びつきの中で密着しているから。しかし、これらについては前に多くのものが述べられている。
善と善の真理が、そして悪と悪の虚偽が言われる。善はその真理なしに、また悪もその虚偽なしに存在することができないからであり、契りの床の仲間または夫婦であるからである。なぜなら、善のいのちはその真理から、また真理のいのちはその善からであるから。悪とその虚偽も同様である。
[2.] 人間の内的なものの中に悪がその虚偽とともに、また善がその真理とともに一緒にいることができいないことは、理性的な人間により説明なしに見られることができる。というのは、悪は善と対立し、そして善は悪と対立し、また対立する二つのものは一緒に存在することができないから。
さらにまた、すべての悪に善に対する生来の憎しみがあり、また悪に対してすべての善にそれ自体を守り、悪をそれ自体から遠ざける生来の愛がある。そのことから、一つのものがもう一つのものと一緒に存在することができないことがいえる。また、もし一緒になるなら、最初に衝突と闘争が、またその後、破壊が生じる。そのことを主もまた次の言葉で教えられている―
「それ自体に対して分裂した王国は見捨てられ、それ自体に対して分裂した都または家は立たない。……だれでもわたしともにいないなら、わたしに反している。まただれでもわたしともに集めないなら、追い散らしている」(マタイ12:25, 30)。
また他の個所に、「だれもふたりの主人に同時に仕えることはできません、なぜなら、一人に憎しみを抱いて、もう一人を愛するか、あるいは一人にしがみついて、もう一人を軽蔑するからです」(マタイ6:24)。
二つの対立するものは、一つの実体または形の中に一緒に存在することができず、むしろ、引き離され、滅ぶ。もし、一つのものがもう一つのものへ近づくか接近するなら、すべてのものが、ふたりの敵のようにそれ自体で分離する、それらの一つは自分の陣営の内にまたは自分の防塁の内に、またもう一つはその外に、引っ込む。悪と善の両方の中にいる偽善者のもとでこのようになる。しかし、悪は内にあり、善は外にある、またこのようにそれら二つは分離していて、混ぜられていない。
これらから、今や、悪はその虚偽とともに、また善はその真理とともに、〔その両者が〕一緒にいることができないことが明らかである。
[3.] 第二:「主により人間の内的なものの中に、そこに悪と悪の虚偽が遠く離れているいないかぎり、善と善の真理はもたらされることができないこと」
これは前のものの結果そのものである。なぜなら、悪と善が同時いることができないとき、悪が遠ざけられる前に、善はもたらされることができないから。
人間の内的なものの中にと言われるが、それによって思考の内なるものが意味される。これらについて扱われ、それらの中に主がいるかあるいは悪魔がいることになる。改心の後、主はそこにおられ、また改心の前、悪魔はそこにいる。それで、どれだけ人間が改心するかによって、それだけ悪魔は投げ出される。しかし、どれだけ改心しないかによって、それだけ悪魔は残る。そこに悪魔がいるかぎり主が入ることができないことを、だれが見ることができないか? また人間が戸を閉ざして保つかぎり、それだけ長い間、悪魔はそこにいる。その戸を人間が開け、主と一緒になるのである。
その戸が人間によって開けられる時、主が入られることを主は「黙示録」の中で教えられている、
「わたしは戸に向かって立ち、叩く。もし、だれかがわたしの声を聞き、戸を開けたなら、わたしは彼のところに入る、またわたしは彼とともに、また彼はわたしとともに食事をする」(3:20)。
その戸は、人間が悪を地獄と悪魔のように避け、退けて、遠ざけることによって開けられる。なぜなら、悪あるいは悪魔と言っても同じであるから。そして逆に、善あるいは主と言っても同じである、なぜなら、すべての善の中に主がその内部におられ、すべての悪の中に悪魔がその内部にいるから。