原典講読『神の摂理』 231([4.]~[9]おわり)

 

(2) 直訳


[4.] Quartum genus profanationis ab illis est, qui pia et sancta ore loquuntur, et quoque simulant, sono et gestu affectiones amoris illorum, et tamen corde non credunt et amant illa.— [4.] 冒涜の第四の種類は彼らからである、「その者は敬虔なことや聖なるものを口で話す、そしてまた偽り装う、声と振る舞いで、彼らの愛の情愛を、またそれでも心でそれらを信じ、愛さない」。


Plerique ex his sunt hypocritae et Pharisaei, a quibus post mortem omne verum et bonum aufertur, et dein mittuntur in tenebras exteriores. これらの者から大部分は偽善者とパリサイ人である、その者から、死後、すべての真理と善は取り去られる、またその後、外部の暗やみの中に送られる。


Illi, qui ex hoc genere se confirmaverunt contra Divinum, et contra Verbum, et inde quoque contra spiritualia Verbi, in tenebris illis sedent muti, impotes loquendi, volentes effutire pia et sancta, sicut in mundo, sed non possunt; 彼らは、その者はこの種類〔の冒涜〕から、自分自身に神性に反して確信して、またみことばに反して、そしてまたここから、みことばの霊的なものに反して、その暗やみの中に口がきけないで座る、話すことができなくて(無能で)、敬虔と聖なることをしゃべりまくることを望んで、世の中のように、しかし、できない。


nam in mundo spirituali quisque adigitur loqui sicut cogitat; なぜなら、霊界の中ではだれもが考えるように話すことを強いられるから。


sed hypocrita vult loqui aliter quam cogitat; しかし、偽善者は考える以外に異なって話すことを欲する。


inde oppositio in ore existit, ex qua est quod possit solum mutire. ここから、対(するもの)口の中に存在するようになる(生じる)、そのものからである、単にブツブツ言うことができること。


Sed hypocrises sunt leviores et graviores, secundum confirmationes contra Deum, et ratiocinationes pro Deo exterius. しかし、偽善はさらに軽い、またさらに重い、神に反する確信にしたがって、また神のために外的な推論〔にしたがって〕。


[5.] Quintum profanationis genus ab illis est, qui Divina sibi attribuunt.— [5.] 冒涜の第五の種類は彼らからである、「その者は、神的なものを自分自身に帰する」。


Illi sunt qui intelliguntur per “Luciferum” apud Esaiam xiv: 彼らは「イザヤ」14のもとの「明けの明星(魔王)」によって意味される者である」―


per “Luciferum” ibi intelligitur Babel, ut constare potest a vers. 4, 22, illius capitis, ubi etiam illorum sors describitur: 「明けの明星(魔王)」によってそこにバベル(バビロン)が意味される、422節から明らかにすることができるように、その章に、そこに彼らの運命もまた述べられている。


iidem etiam sunt qui intelliguntur et describuntur per meretricem sedentem super bestia coccinea, in Apocalypsi xvii. さらにまた同じ者である、その者は緋色の獣の上に座っている淫婦によって意味され、述べられている、「黙示録」17の中に。


Multis in locis in Verbo nominatur Babel et Chaldaea;  みことばの中の個所の中の多くにバベルとカルデアが名前を挙げられている。


et per ” Babelem” ibi intelligitur profanatio boni, et per “Chaldaeam” profanatio veri, utraque apud illos qui sibi Divina attribuunt. また「バベル」によってそこに善の不純化が意味される、また「カルデア」によって真理の虚偽化が、二つとも彼らのもとで〔冒涜が行なわれる☆〕その者は自分たちに神性を帰する。


ここの文は明らかに言葉足らずです。冒涜が問題となっているので、「冒涜が行なわれる」といった言葉が省略されていると見なしましょう。


[6.] Sextum profanationis genus ab illis est, qui Verbum agnoscunt, et usque Divinum Domini negant. [6.] 冒涜の第六の種類は彼らからである、「その者は、みことばを認める、またそれでも主の神性を認めない」。


Hi in mundo vocantur Sociniani, et quidam Ariani. これらの者は世の中でソッツィーニの信奉者と呼ばれる、またある者はアリウス主義の信奉者。


Horum et illorum sors est, quod invocent Patrem, et non Dominum, et continue orent Patrem, quidam etiam propter Filium, ut admittantur in caelum, sed frustra, usque dum absque spe salvationis fiunt; これらとそれらの運命である、父を呼ぶ(祈る)こと、また主でない、また絶えず父を祈る(懇願する)、ある者はさらにまた子のために、天界に入れられるように、しかし、少量、~するまで、救いの希望なしになる。


et tunc demittuntur in infernum inter illos qui negant Deum. またその時、地獄の中に降ろされる、彼らの間に、神を否定する者。


Hi sunt qui intelliguntur per illos これらの者である、彼らによって意味される者


Qui blasphemant Spiritum Sanctum, quibus non remittetur in hoc saeculo nec in futuro (Matth. xii. 32): 聖霊を冒涜する者、彼らに許されない、この時代の中で、来るべき〔時代の〕中でもない(マタイ12:32)
causa est, quia Deus est unus Persona et Essentia, in quo Trinitas, et ille Deus est Dominus;
 理由がある、神は一つの位格(人物)と本質であるからである、その中に三一性〔がある〕、またその神は主である。


et quia Dominus etiam est Caelum, et inde illi qui in caelo sunt in Domino sunt, ideo illi qui negant Divinum Domini, non possunt admitti in caelum, ac in Domino esse: また、さらにまた主は天界であるので、またここから彼らは、天界の中にいる者は主の中にいる、それゆえ、彼らは、主の神性を否定する者、天界に入れられることができない、そして主の中にいること。


quod Dominus sit Caelum, et quod inde illi qui in caelo sunt, in Domino sint, supra ostensum est. 主は天界であること、またここから彼らは、天界の中にいる者は、主の中にいること、上に示されている。


[7.] Septimum profanationis genus ab illis est, qui primum agnoscunt Divina vera, ac vivunt secundum illa, ac postea recedunt et negant illa.— [7.] 冒涜の第七の種類は彼らからである、「その者は、最初に神的な真理を認める、そしてそれらにしたがって生きる、そしてその後、それる(去る)、またそれらを否定する」。


Hoc pessimum genus profanationis est, ex causa quia commiscent sancta profanis, usque adeo ut separari nequeant; これは冒涜の最悪の種類の者である、その理由は、聖なるものを冒涜的なものに混ぜるからである、分離されることができない、これほどまでも。


et tamen separanda sunt, ut sint vel in caelo vel in inferno; またそれでも、分離されなければならない、あるいは天界の中に、あるいは地獄の中にいるために。


et quia hoc apud illos fieri nequit, eruitur omne intellectuale et voluntarium humanum, et fiunt non homines magis, ut prius dictum est. またこのことは彼らのもとで生じることができないので、人間のすべての理解力と意志のものが取り出される、またもやは人間でなくなる、前に述べられたように。


Paene simile fit cum illis, qui Divina Verbi et ecclesiae corde agnoscunt, ac illa prorsus immergunt proprio suo, quod est amor dominandi super omnia, de quo prius plura dicta sunt: ほとんど同様のことが彼らに生じる、みことばと教会の神性を心で認め、そしてそれらを完全に自分のプロプリウムに浸す(投げ込む)、それはすべての上に支配する愛である、それについては前に多くのものが言われた。


hi enim post mortem, dum fiunt spiritus, prorsus non volunt duci a Domino, sed a semet; というのは、これらの者は、死後、霊となる時、主により導かれることをまったく欲しないから、しかし、自分自身から。


et cum taxatur amori illorum frenum, volunt non modo dominari super caelum, sed etiam super Dominum; また彼らの愛に束縛がゆるめられる☆とき、天の上に支配することだけでなく、しかしまた主の上に〔支配することを〕欲する。


ここで相当に時間を使いました。taxaturの言葉です。これは何だろうとずっと辞書で探し続けていましたが(もちろんチャドウイックに載っていません、それで他の辞書も、でもtaxoではおかしい)。最後に初版を見て、びっくりしましたlaxaturとあるではありませんか。すなわち、ミスプリ! ややがっくり。


et quia hoc non possunt, negant Dominum, et fiunt diaboli. また、このことはできないので、主を否定する、また悪魔になる。


Sciendum est quod amor vitae, qui etiam est amor regnans, maneat unumquemvis post mortem, et quod non auferri possit. 知られなくてはならない、いのちの愛は、それはまた支配する愛である、それぞれの者に、死後、残る、また取り除かれることができないこと。


[8.] Hujus generis profani intelliguntur per Tepidos, de quibus ita in Apocalypsi: [8.] 冒涜の第八の種類はまぬるい者」によって意味される、彼らについて「黙示録」の中にこのように―
“Novi opera tua, quod neque frigidus sis, neque calidus;
 「わたしはあなたの働き(行ない)を知った(知っている)、あなたは冷たくもないし、熱くもないこと。


utinam frigidus esses, aut calidus; あなたが冷たければよいのに、または熱い。


sed quia tepidus es, et neque frigidus neque calidus, exsputurus sum te ex ore meo” (iii. 14, 15, [16]). しかし、あなたはなまぬるい、また冷たくもないし、熱くもないので、あなたをわたしの口から吐き出そう」(3:14, 15, 16)


Hoc genus profanationis describitur ita a Domino apud Matthaeum: 冒涜のこの種類がこのように主により「マタイ」に述べられている―
“Quando.. immundus spiritus exit ab homine, perambulat arentia loca, quaerens requiem, sed non invenit;
 「汚れた霊が人間から出る時、乾いた場所を歩きまわる、休息(安らぎ)☆を求めて、しかし、見つけない。


requiesは「休養、平安」の意味です。有名な「レクイエム」の語源はミサの冒頭の文句からです。「(魂に)安らぎを」から「鎮魂歌」となるのでしょう。


tunc dicit, revertar ad domum unde exivi; その時、言う、私は家に戻る(未来、形式受動態)、そこから私は出た。


dum redit et invenit illam vacuam, ac scopis purgatam et ornatam sibi, abit, et adjungit sibi septem alios spiritus pejores se, et ingressi habitant ibi; 戻る、またそれを空いているのを見る時、そしてほうきで掃除されていた、またそれに飾られていた、出る、また自分自身より悪い七つの他の霊を自分自身に結びつける、また、入ってそこに住む。


atque fiunt posteriora hominis pejora primis” (xii. [1]43-45): そして人間のその後は、前よりも悪いものになった」(12:43-45)


ここに注記の記号[1]がありますが、該当するものは見当たりません。無視してよいでしょう。


conversio hominis describitur ibi per exitum spiritus immundi ab illo: 人間の回心がそこに述べられている、汚れた霊が彼から出ることによって。


ac reversio ad mala priora, ejectis veris et bonis, per reditum spiritus immundi cum septem se pejoribus in domum sibi ornatam; そして前の悪へ戻る行為が、真理と善を投げ出して〔そこに述べられている〕、汚れた霊が自分自身より悪い七つ〔の霊〕とともに飾られた自分の家に帰ることによって。


ac profanatio sancti a profano, per quod posteriora illius hominis fiant pejora primis. そして冒涜的なものからの聖なるものの冒涜が、人間のその後は、前よりも悪いものになることによって。


Simile intelligitur per hoc apud Johannem, 似たことがこのことによって意味される、「ヨハネ」に、


Jesus dixit ad sanatum in lacu Bethesda, “Ne amplius pecca, ne pejus tibi fiat” (v. 14). イエスはいやされた者に言われた、ベテスダの池の中で、「今後、罪を犯さないように、あなたに悪く生じないように」(5:14)


[9.] Quod Dominus provideat, ne homo interius agnoscat vera, ac postea recedat, et fiat profanus, intelligitur per haec: [9.] 主は備えられていること、人間が内的に真理を認め、そしてその後、それる(去る)、また冒涜を生じないように、これらによって意味される―


[2]Occaecavit illorum oculos et [3]obturavit illorum cor, ut non videant oculis ac intelligant corde, et convertant se, et sanem illos” (Joh. xii. [4]40), 「彼らの目を盲目にした、また彼らの心をふさいだ、目で見ないように、そして心で理解する、また自分自身を回心させる、またわたしが彼らをいやす」(ヨハネ12:40)


ここに注記の記号[2][3][4]がありますが、該当するものは見当たりません。無視してよいでしょう。初版では[2]Obturavit[3]occaecavitとなっているので、それらの入れ替えの注釈、[4]は初版で4なのでそのミスプリの訂正でしょう。


“ne convertant se et sanem illos,” significat ne agnoscant vera et dein recedant, et sic fiant profane: 「自分自身を回心させる、またわたしが彼らをいやさないように」は、真理を認め、その後、それ(去り)、またこうして冒涜を行なわないように、を意味する。


propter eandem causam Dominus locutus est per parabolas, ut Ipse dicit (Matth. xiii. 13). 同じ理由のために、主はたとえ話で語られた、その方が言われるように(マタイ13:13)


Quod Judaeis prohibitum fuerit comedere pinguedinem et sanguinem (Levit. iii. 17; vii. 23, 25), significabat ne profanarent sancta, “pinguedo” enim significabat Divinum Bonum, et “sanguis” Divinum Verum. ユダヤ人が脂肪と血を食べることを禁止されたこと(レビ記3:177:23, 25)は、彼らが聖なるものを冒涜しないように、を意味した、というのは「脂肪」は神的な善を意味したから、また「血」は神的な真理を。


Quod semel conversus in bono et vero permansurus sit ad finem vitae, docet Dominus apud Matthaeum: 一度回心した〔なら〕善と真理の中にいのちの終わりまでとどまらなくてはならないことを、主はマタイで教えられている―
Jesus dixit, “Quisquis perseveraverit ad finem, salvabitur” (x. 22; pariter Marc. xiii. 13).
 イエスは言われた、「だれでも最後まで続けた〔者は〕、救われます」(10:22、同じくマルコ13:13)


 


(3) 訳文


231.  [4.] 第四の種類の冒涜は、「敬虔なことや聖なるものを口で話し、そしてまた声と振る舞いで、彼らの愛の情愛を偽り装う、またそれでも心ではそれらを信じないし、愛さない」者からである。


 これらの者から大部分は偽善者とパリサイ人であり、その者から、死後、すべての真理と善は取り去られ、またその後、外部の暗やみの中に送られる。この種類の冒涜をする者は、神性に反し、みことばに反して、そしてまたここから、みことばの霊的なものに反して確信し、その暗やみの中に、話すことができなくて無口で座る。世の中でのように敬虔と聖なることをしゃべりまくることを望むが、しかし、できない。なぜなら、霊界の中ではだれもが考えるように話すことを強いられるが、しかし、偽善者は考えることと異なることを話すことを欲するから。ここから、対立するものが口の中に存在するようになり、そこから、ただブツブツ言うことしかできない。しかし、偽善は、神に反する確信にしたがって、また神のためにする外的な推論にしたがって軽く、また重い。


[5.] 第五の種類の冒涜は、「神的なものを自分自身に帰する」者からである。


 彼らは「イザヤ」第14章の「明けの明星(魔王)」によって意味される者である」―そこの「明けの明星(魔王)」によって、その章の422節から明らかにすることができるように、バベル(バビロン)が意味され、そこに彼らの運命もまた述べられている。さらにまた、「黙示録」第17章に述べられている、緋色の獣の上に座っている淫婦によって意味される者も同じ者である。みことばの中の多く個所にバベルとカルデアの名前が挙げられている。また「バベル」によって、そこに善の不純化が、また「カルデア」によって真理の虚偽化が意味され、二つとも彼らのもとで冒涜が行なわれ、その者は自分たちに神性を帰する。


[6.] 第六の種類の冒涜は、「みことばを認め、それでも主の神性を認めない」者からである。


 これらの者は世でソッツィーニの信奉者と呼ばれ、またある者はアリウス主義の信奉者と呼ばれる。 これらとそれらの運命である、主でなく父を呼び、また、また絶えず父に、ある者はさらにまた子のために天界に入れられるよう祈るが、しかし、たいしたことなく、救いの希望がなくなるまでになる。


またその時、神を否定する者らの間の地獄の中に降ろされる。こ