(2) 直訳
[3.] Hoc potest illustrari per haec Domini verba, [3.] このことはこれらの主のことばによって説明されることができる、
“Sermo vester erit Immo immo, Non non, quod ultra haec est, ex malo est” (Matth. v. 37); 「あなたがたの会話(話し)は、『むしろ、むしろ☆』、『いいえ、いいえ』、であるべきです。これらを越えるものは、悪からです」(マタイ5:37)。
☆ ここがimmo「むしろ」となっていますが、普通ここは「はい」と訳されています。どうしてここにimmoが使われるのか、私にはわかりません。
talis sermo est omnibus in tertio caelo; このような会話である、第三の天界の中のすべての者に。
illi enim nusquam ratiocinantur de rebus Divinis, num ita sit vel non ita sit, sed in se a Domino vident, quod ita sit vel non ita; というのは、彼らは、神的な事柄について決して推論しないから、そのようであるかあるいはあるいはそのようでないか、しかし、本質的に主から見る、そのようであるかあるいはそのようでない。
quare ratiocinari de rebus Divinis num ita sint vel non, est quia ratiocinator non videt illa a Domino, sed vult videre a semet; それゆえ、神的な事柄についてそのようであるかあるいは〔そのようで〕ないか推論することは、推論する者がそれらを主から見ない、しかし自分自身から見ることを欲するからである。
et quod homo a semet videt, est malum. また、人間が自分自身から見ることは、悪である。
Sed usque vult Dominus non modo ut homo cogitet et loquatur de rebus Divinis, sed etiam ratiocinetur de illis, ob finem ut videat quod ita sit vel non ita; しかし、それでも、主は、人間が神的な事柄について考え、話すようにだけでなく、しかし、それらについて推論する〔ように〕欲する、そのようであるかあるいはそのようでないことを見るようにとの目的のために。
ac illa cogitatio, loquela aut ratiocinatio, modo pro fine habeat ut videat veritatem, dici potest esse a Domino apud hominem, sed est ab homine, usque dum veritatem videt et illam agnoscit. そして、その思考、話しまたは推理は、目的として真理を見るためだけを持つ〔とき〕、人間のもとの主から存在することが言われることができる、しかし、人間からである、真理を見る、またそれを認めるまで〔は〕。
Interea est solum a Domino, quod possit cogitare, loqui et ratiocinari; その間に、主からだけである、考えること、話すこと、また推論することができること。
hoc enim potest ex binis facultatibus, quae vocantur libertas et rationalitas, quae facultas sunt homini a solo Domino. というのは、このことは二つの能力からできるから、それらは自由性と推理力と呼ばれる、それらの能力は人間に主だけからある。
[4.] Tertio: [4.] 第三に:
Quod temporaria separent aeterna a se, et quod aeterna conjungant temporaria sibi. 「一時的なものは、それ自体から永遠なものを分離すること、また永遠なものはそれ自体に一時的なものを結合させること」
Per quod temporaria separent aeterna a se, intelligitur quod homo qui temporarius est ex temporariis in se: 一時的なものは、それ自体から永遠なものを分離することによって、人間が、その者は一時的である、自分自身の一時的なものから〔永遠なものを分離する〕ことが意味される。
et per quod aeterna conjungant temporaria sibi, intelligitur quod Dominus qui aeternus est ex aeternis in Se, ut supra dictum est. また永遠なものはそれ自体に一時的なものを結合させることによって、主が、その者は永遠である、ご自分の中の永遠なものから〔一時的なものを分離する〕ことが意味される。
In praecedentibus ostensum est quod sit conjunctio Domini cum homine, et reciproca hominis cum Domino; 先行するものの中で示されている、人間との主の結合があること、また、主との人間の相互のもの〔結合〕。
sed quod reciproca hominis cum Domino non sit ab homine, sed a Domino; しかし、主との人間の相互のもの〔結合〕は人間からではないこと、しかし、主から。
tum quod voluntas hominis in adversum eat cum voluntate Domini; なおまた、人間の意志は主の意志と背を向けている(背いている)。
seu quod idem, propria prudentia hominis cum Divina Providentia Domini. すなわち、同じこと〔であるが〕、人間のプロプリウムの思慮は主の神的な摂理と〔背を向けている〕。
Ex illis hoc sequitur, quod homo ex temporariis suis separet aeterna Domini a se, sed quod Dominus conjungat aeterna sua temporariis hominis, hoc est, Se homini et hominem Sibi. これらから、このことが、~ということになる、人間は自分の一時的なものから、主の永遠なものに自分自身から分離すること、しかし、主はご自分の永遠なものを人間の一時的なものに結合されること、すなわち、ご自分を人間に、また人間をご自分に。
De his quia multis actum est in praecedentibus, non opus est illa pluribus confirmare. これらについて先行するものの中に多くのものが扱われたので、それらはもっと多く確認されることは必要されない。
[5.] Quarto: [5.] 第四に:
Quod Dominus conjungat hominem Sibi per apparentias. 「主は人間をご自分に外観によって結合されること」
Apparentia enim est, quod homo ex se amet proximum, faciat bonum, et loquatur verum. というのは、外観であるから、人間が自分自身から隣人を愛すること、善を行なうこと、また真理を話すこと。
Haec nisi apparerent homini sicut ab illo, non amaret proximum, faceret bonum et loqueretur verum, ita non conjungeretur Domino. これらは人間に彼からのように見えないなら、隣人を愛さない、善を行なわない、また真理を話さない、このように(したがって)主と結合されない。
Sed quia a Domino est amor, bonum et verum, patet quod Dominus per apparentias conjungat hominem Sibi. しかし、主から愛、善と真理があるので、主は外観によって人間をご自分に結合することは明らかである。
Sed de hac apparentia, et de conjunctione Domini cum homine, et de reciproca hominis cum Domino per illam, multis supra actum est. しかし、この外観について、また人間との主の結合について、またそれ〔結合〕によって主との人間の相互のもの〔結合〕について、大いに上に扱われている。
[6.] Quinto: [6.] 第五に:
Quod Dominus conjungat hominem Sibi per correspondentias; 「主は人間をご自分に対応によって結合されること」
hoc fit medio Verbo, cujus sensus litterae ex meris correspondentiis consistit; このことはみことばによってなされる、その文字通りの意味は対応そのものから成り立っている。
quod per illum sensum sit conjunctio Domini cum homine, et reciproca hominis cum Domino, in Doctrina Novae Hierosolymae de Scriptura Sacra, a principio ad finem, ostensum est. その意味によって人間との主の結合があること、また主との人間の相互のもの〔結合があること〕は、『聖書についての新しいエルサレムの教え』の中に、最初から最後まで、示されている。
(3) 訳文
219. [3.] このことは次の主のことばによって説明されることができる、
「あなたがたの会話は、『はい、はい』、『いいえ、いいえ』、であるべきです。これらを越えるものは悪からです」(マタイ5:37)。
第三の天界の中のすべての者にはこのような会話がある。というのは、彼らは、神的な事柄について決して、そのようであるかあるいはあるいはそのようでないか推論しない、しかし、本質的に主から、そのようであるかあるいはそのようでない見るから。それゆえ、神的な事柄についてそのようであるかあるいは〔そのようで〕ないか推論することは、推論する者がそれらを主からに見ないで、しかし自分自身から見ることを欲するからである。また、人間が自分自身から見ることは、悪である。しかし、それでも、主は、人間が神的な事柄について、そのようであるかあるいはそのようでないことを見る目的のために、考え、話すだけでなく、しかし、それらについて推論することを欲する。そして、その思考、話しまたは推理は、真理を見ることだけを目的として持つ〔とき〕、主から人間のもとに存在すると言われることができる、しかし、真理を見、またそれを認めるまで〔は〕人間からである。その間は、考えること、話すこと、また推論することができるのは、主からだけである。というのは、このことは自由性と推理力と呼ばれる人間に主だけからある二つの能力からできるから。
[4.] 第三に:「一時的なものは、それ自体から永遠なものを分離すること、また永遠なものはそれ自体に一時的なものを結合させること」
一時的なものは、それ自体から永遠なものを分離することによって、一時的である人間が自分自身の一時的なものから永遠なものを分離することが意味される。また永遠なものはそれ自体に一時的なものを結合させることによって、永遠であられる主がご自分の中の永遠なものから一時的なものを分離することが意味される。
先行するものの中で、人間との主の結合と、主との人間の相互の結合のあることが示されている。しかし、主との人間の相互の結合は人間からではなく、しかし、主からである。なおまた、人間の意志は主の意志に背を向けている。すなわち、同じことであるが、人間のプロプリウムの思慮は主の神的な摂理に背を向けている。これらから、人間は自分の一時的なものから、主の永遠なものに自分自身から分離すること、しかし、主はご自分の永遠なものを人間の一時的なものに結合されること、すなわち、ご自分を人間に、また人間をご自分に結合されることがいえる。これらについて先行するものの中に多くのものが扱われたので、それらがさらに確認される必要はない。
[5.] 第四に:「主は人間をご自分に外観によって結合されること」
というのは、人間が自分自身から隣人を愛すること、善を行なうこと、また真理を話すことは外観であるから。これらは人間に彼自身からのように見えないなら、隣人を愛さず、善を行なわず、また真理を話さず、したがって主と結合されない。しかし、主から愛、善と真理があるので、主が外観によって人間をご自分に結合されることは明らかである。しかし、この外観について、また人間との主の結合について、またその結合によって主との人間の相互の結合について、前に多く扱われている。
[6.] 第五に:「主は人間をご自分に対応によって結合されること」
このことは、みことばによってなされ、その文字通りの意味は対応そのものから成り立っている。その意味によって、人間との主の結合があること、また主との人間の相互の結合があることは、『聖書についての新しいエルサレムの教え』の中に、最初から最後まで、示されている。