原典講読『神の摂理』 215([8]~[13]終わり)

 

[8.] Ex eo est, quod qui in amore dominandi ex amore sui est, nihili pendat proximum defraudare, cum ejus uxore adulterari, illum blasphemare, vindictam contra illum usque ad necem spirare, in illum saevire, et similia alia. [8.] そのことからである、自己愛からの支配する愛の中にいる者が、隣人をだますことを無価値なものと見なすこと、彼〔隣人〕の妻と姦淫すること、彼を冒涜する(中傷する)こと、彼に対して復讐を死にまでも吹き込む(~したい)こと、彼に激怒すること、また同じような他のものを。


Hoc trahit homo ex eo, quod ipse diabolus non aliud sit, quam amor dominandi ex amore sui, cum quo conjunctus est, et a quo ducitur; このことを人間はそのことから得る、悪魔そのものは何ものでもないこと、自己愛からの支配する愛以外の、それ〔悪魔〕と結合された、またそれ〔悪魔〕により導かれる。


et qui ducitur a diabolo, hoc est, inferno, ducitur in omnia illa mala; また、悪魔により導かれる者は、すなわち、地獄、すべてのその悪の中に導かれる。


ac ducitur continue per jucunda istorum malorum. そして、絶えず導かれる、悪のその快さによって。


Inde est, quod omnes qui in inferno sunt, velint omnibus malefacere; ここからである、地獄の中にいる者、すべての者は、すべての者に悪を行なうことを欲すること。


at qui in caelo sunt, velint omnibus benefacere. しかし、天界の中にいる者は、すべての者に善を行なうことを欲する。


Ex oppositione illa, existit id quod in medio est, in quo est homo, et est in illo sicut in aequilibrio, ut possit se vel ad infernum vel ad caelum vertere; その対立から、そのことが生じる(存在するようになる)、中間にいること、その中に人間がいる、またその中にいる、均衡の中のように、自分自身をあるいは地獄へ、あるいは天界へ向けることができるような。


et quantum favet malis amoris sui, tantum se convertit ad infernum; また、どれだけ自己愛の悪を賛同するか(好感を持つか)によって〕、それだけ自分自身を地獄へ向ける。


at quantum removet illa a se, tantum se convertit ad caelum. しかし、どれだけそれらを自分自身から遠ざけるか〔によって〕、それだけ自分自身を天界へ向ける。


[9.] Datum est mihi sentire, quale et quantum est jucundum amoris dominandi ex amore sui. [9.] 私に感じることが与えられた、自己愛からの支配する愛の快さがどんなもので、どれほど大きいか。


Missus sum in illum, cognoscendi causa; 私はその中に入れられた(送られた)、原因を知るために。


et fuit tale, ut excederet omnia jucunda quae in mundo sunt; またこのようなものであった、すべての快さを越え(まさる)ような、それは世の中にある。


erat jucundum totius mentis ab intimis ad ultima ejus, in corpore autem non aliter sentiebatur quam sicut volupe et lubens intumescente pectre; 全部の心の快さであった、最内部からその最外部までの、けれども身体の中では異なって感じられなかった、ここちよさと愉快さ以外に、胸がふくれて。


et quoque datum est sentire, quod ex illo jucundo sicut ex suo fonte scaturirent jucunda omnium malorum, ut adulterandi, vindicandi, defraudandi, blasphemandi, in genere malefaciendi. そしてまた感じることが与えられた、その快さから、その泉からのようにすべての快さが湧き出る、例えば、姦淫をする、復讐をする、欺く、中傷する(冒涜する)、全般的に悪を行なう〔快さが〕。


Simile jucundum etiam inest amori possidendi aliorum opes quacunque arte, et ex illo concupiscentiis, quae sunt derivations; さらにまた同様の快さがどんな策略ででも他の者の財産を所有しようとする愛に内在する、またそれ〔愛〕から欲望〔が内在する〕、それらは派生物である。


sed tamen non in illo gradu, nisi sit conjunctus cum amore sui. しかし、それでもなお、その段階の中にない、自己愛と結合されていないなら。


Quod autem dignitates et divitias non propter illas, sed propter usus, attinet, non est amor dignitatum et divitiarum, sed amor usuum, cui dignitates et divitiae inserviunt pro mediis; けれども、地位と富は、それらのためでなく、しかし、役立ちのために、~については、地位と富への愛ではない、しかし役立ちへの愛である、その者に地位と富は手段として仕える。


hic amor est caelestis: この愛は天界的である。


sed de hoc plura in sequentibus. しかし、これについて多くのことは続くものの中で〔述べよう〕。


[10.] Tertio: [10.] 第三に:


Quod bini illi amores inter se distincti sint sicut infernum et caelum, patet a nunc dictis, quibus haec adjiciam: 「二つのそれらの愛は互いの間で地獄と天界のように分離し(区別されて)ること」は、今、言われたことから明らかである、それらにこのことを私は付加する(未来)


quod omnes qui in amore dominandi ex amore sui sunt, quoad spiritum in inferno sint, quicunque sint, sive magni sive parvi; すべての者は、自己愛からの支配する愛の中にいる者、霊に関して地獄の中にいる、だれでもいる、あるいは大きい者(重要人物)あるいは小さい者(卑しい者)


et quod omnes qui in illo amore sunt, in amore omnium malorum sint, quae si non faciunt, usque in spiritu suo licita credunt, et inde corpore faciunt, quando non dignitas et honor, ac timor legis obstant: またすべての者は、その悪の中にいる者、悪のすべての愛の中にいる、それらをもし行なわないなら、それでも自分の霊の中で許されると信じている、またここから(それゆえ)体で行なう、地位と名誉がない時、そして法律の恐れが妨げる。


et quod plus est, amor dominandi ex amore sui intime in se recondit odium contra Deum, consequenter contra Divina quae ecclesiae sunt, ac imprimis contra Dominum. またさらにであること、自己愛からの支配する愛が本質的に(それ自体の中に)神に対する憎しみを隠している、したがって(その結果として)神性に対する、それらは教会のものである、そして特に主に対して。


Si agnoscunt Deum, hoc faciunt solum ore; もし、神を認めるなら、このことを口だけで行なう。


et si Divina ecclesiae, hoc faciunt ex timore jacturae honoris. また、もし教会の神的なものを〔認める〕なら、このことを名誉を失うことの恐れから行なう。


Causa, quod ille amor intime recondat odium contra Dominum, est quia intime in illo amore est, quod velit esse Deus, se solum enim colit et adorat. 理由は、その愛は内部で主に対する憎しみを隠していること、内部でその愛の中にいるからである、神であることを欲すること、というのは、自分自身だけを礼拝し、崇拝するから。


Inde est, quod si quis illum honorat, usque eo, ut dicat quod ei Divina sapientia sit, et quod sit numen orbis, illum corde amet. ここからである、もしだれかが彼を尊敬するなら、そこのことまで、言うように、彼に神的な知恵があること、また世界の(異教の)神であること、彼を心から愛する。


[11.] Aliter est cum amore dignitatum et divitiarum propter usus; [11.] 異なっている、役立ちのために地位と富の愛に。


hic amor est caelestis, quia, ut dictum est, est idem cum amore proximi. この愛は天界的である、なぜなら、言われたように、隣人への愛と同じものであるから。


Per usus intelliguntur bona; 役立ちによって善が意味される。


et inde per facere usus intelligitur facere bona; またここから、役立ちを行なうことによって、善を行なうことが意味される。


et per facere usus seu bona, intelligitur servire aliis ac ministrare illis. また、役立ちまたは善を行なうことによって、他の者に(奴隷として)仕えること、そして(しもべとして)えることが意味される。


Hi tametsi in dignitate et in opulentia sunt, usque dignitatem et opulentiam non spectant aliter quam ut media ad faciendum usus, ita ad serviendum et ad ministrandum. これらの者はたとえ地位の中に、また富の中にいても、それでも、地位と富を異なって眺めない、役立ちを行なうための手段として以外に、このように、(奴隷として)仕えるために、また(しもべとして)えるために。


Hi sunt qui intelliguntur per haec Domini verba, これらの者である、この主の言葉によって意味される者、


“Quisquis voluerit inter vos magnus fieri, esse debebit vester minister: 「だれでも、あなたがたの間で、偉大になることを欲する者は、あなたがたの仕える者であるべきである。


et quisquis voluerit …. esse primus, esse debebit vester servus” (Matth. xx. 26, 27): また、だれでも、…最初〔の者〕であることを欲する者は、あたながたのしもべであるべきである」(マタイ20:26, 27)
hi etiam sunt, quibus dominatio in caelo a Domino concreditur;
 さらにまた、これらの者である、その者に主から天界の中の支配をまかせられる。


est enim illis dominatio medium faciendi usus seu bona, ita serviendi, et cum usus seu bona sunt fines seu amores, tunc non illi dominantur, sed Dominus, nam omne bonum est ab Ipso. というのは、彼らに支配は役立ちまたは善を行なう手段であるから、このように仕える、また役立ちまたは善が目的または愛であるとき、その時、彼らは支配しない、しかし、主が〔支配される〕、なぜなら、すべての善はその方からであるから。


[12.] Quarto: [12.] 第四に:


Quod discrimen illorum aegre ab homine sciatur, est quia plerique, qui in dignitate et in opulentia sunt, etiam usus faciunt, sed non sciunt num usus faciant propter se aut num propter usus; 「愛のそれらの相違はほとんど人間に知られないこと」は、大部分の者であるからである、その者は地位の中と、富(裕福)中にいる、役立ちもまた行なう、しかし、自分自身のために役立ちを行なうのか知らない、または役立ちのために〔役立ちを行なう〕のか。


et eo minus, quia amori sui et mundi inest plus ignis et ardoris faciendi usus, quam illis qui non in amore sui et mundi sunt; またそのことをなおさら〔知ら〕ない、自己と世への愛は役立ちを行なう火と熱(情熱)にさらに内在するから、彼らよりも、自己と世への愛の中にいない者。


sed priores faciunt usus propter famam aut propter lucrum, ita propter se; しかし、前の者は名声のためにまたは利益のために役立ちを行なう、このように自分自身のために。


sed qui faciunt usus propter usus, seu bona propter bona, illi non a se faciunt illa sed a Domino. しかし、役立ちのために役立ちを行なう者は、または善のために善を、彼らは自分自身からでなくそれを行なう、しかし、主から。


[13.] Discrimen inter illos aegre ab homine potest cognosci; [13.] それらの間の相違はほとんど人間により知られることができない。


ex causa, quia homo nescit, num ducatur a diabolo, vel num a Domino; 理由から、人間は知らないからである、悪魔により導かれているのか、あるいは主により〔導かれている〕のか。


ille qui ducitur a diabolo, usus facit propter se et mundum, at qui ducitur a Domino, usus facit propter Dominum et caelum; 彼らは、悪魔により導かれている者、役立ちを自分自身と世のために行なう、しかし、主により導かれている者は、悪立ちを主と天界のために行なう。


et omnes illi usus faciunt a Domino, qui fugiunt mala ut peccata, at omnes illi usus faciunt a diabolo, qui non fugiunt mala ut peccata; またすべての者は、彼らは主から役立ちを行なう、その者は悪を罪として避ける、しかし、すべての者は、彼らは悪魔から役立ちを行なう、その者は悪を罪として避けない。


malum enim est diabolus, ac usus seu bonum est Dominus. というのは、悪は悪魔であるから、そして役立ちまたは善は主である。


inde et non aliunde cognoscitur discrimen. ここから、また他のところからでなく相違が知られる。


Utrumque in externa forma apparet simile, sed in interna forma sunt prorsus dissimilia: 両方とも、外なる形の中で同様に(似て)見える、しかし、内なる形の中でまったく似ていない。


unum est sicut aurum, in quo intus est scoria, at alterum sicut aurum in quo intus est purum aurum; 一つのものは金のようである、その中の内部はかなくそである、しかし、もう一つのものは金のようである、その中の内部は純金である。


et est unum sicut fructus arte factus, qui apparet in externa forma sicut fructus ex arbore, cum tamen est cera colorata, in qua intus est pulvis aut bitumen; また一つのものは人工の(作り物の)果実のようである、それは外なる形の中で木からの果実のようにみえる、そのときそれでも着色した蜜蝋である、その中の内部に、ほこり(がらくた)たはアスファルトがある。


at alterum sicut fructus nobilis, sapore et odore amoenus, in quo intus sunt semina. しかし、もう一つのものは、高貴な(みごとな)実のようである、快い味と香りで、その中の内部に種がある。


 


(3) 訳文


215.  [8.] そのことから、自己愛からの支配する愛の中にいる者が、隣人をだますこと、隣人の妻と姦淫すること、隣人を中傷すること、彼に対して死にまでも復讐したいこと、彼に激怒すること、また同じような他のものを何でもないと見なす。このことを人間は、自己愛からの支配する愛以外の何ものでもない悪魔そのものから、悪魔と結合し、また悪魔により導かれることから得ている。また、悪魔、すなわち、地獄により導かれる者は、すべてのその悪の中に導かれる。そして、絶えず悪のその快さによって導かれる。ここから、地獄の中にいるすべての者は、すべての者に悪を行なうことを欲する。しかし、天界の中にいる者は、すべての者に善を行なうことを欲する。


 その対立から、均衡の中のように、その中に人間がいて、自分自身をあるいは地獄へ、あるいは天界へ向けることができるような、中間にいることが生じる。また、どれだけ自己愛の悪を好ましく思うかによって、それだけ自分自身を地獄へ向ける。しかし、それらをどれだけ自分自身から遠ざけるか〔よって、それだけ自分自身を天界へ向ける。


[9.] 私に、自己愛からの支配する愛の快さがどんなもので、どれほど大きいか感じることが与えられた。私は原因を知るためにその中に入れられたが、世の中にあるすべての快さにまさるようなものであった。最内部から最外部までの全心の快さであった、けれども身体の中では、胸がふくらむような、ここちよさと愉快さとしか感じられなかった。そしてまた、その快さから、泉からのようにすべての快さが、例えば、姦淫し、復讐し、欺き、中傷し、全般的に悪を行なう快さが湧き出ることを感じることが与えられた。さらにまた同じく、どんな策略ででも他の者の財産を所有しようとする愛に内在する、またその愛から派生する欲望に内在する快さを感じたしかし、それでも、自己愛と結合されていないなら、その段階の中にない。けれども、地位と富のためでなく、しかし、役立ちのための地位と富については、地位と富への愛ではなく、役立ちへの愛であって、地位と富は手段としてその者に仕える。この愛は天界的である。しかし、これについて多くのことは続くものの中で〔述べよう〕。


[10.] 第三に:「二つのそれらの愛は互いの間で地獄と天界のように分離していること」は、今、言われたことから明らかであり、それらに次のことを付加しよう。自己愛からの支配する愛の中にいるすべての者は、霊に関して地獄の中にいる、重要人物あるいは卑しい者であっても、だれでもその中にいる。 また、その悪の中にいるすべての者は、悪のすべての愛の中にいて、それらを行なわくても、それでも自分の霊の中で許されると信じている、またここから、地位と名誉が、そして法律の恐れが妨げない時、〔心でなく〕体で行なう。またさらに、自己愛からの支配する愛は本質的に神に対する、したがって教会のものである神性に対する、そして特に主に対する憎しみを隠している。もし、神を認めるなら、このことを口だけで行なう。また、もし教会の神的なものを認めるなら、名誉を失うことの恐れからそうしている。その理由は、その愛は内部で主に対する憎しみを隠していて、内部で、神であることを欲する愛の中にいるからである、というのは、自分自身だけを礼拝し、崇拝するから。ここから、もしだれかが彼を、彼には神的な知恵がある、世界の神である、とまで言うほどにまで尊敬するなら、その者を心から愛する。


[11.]役立ちのために地位と富の愛には異なっている。この愛は天界的である、なぜなら、言われたように、隣人への愛と同じものであるから。役立ちによって善が意味される。またここから、役立ちを行なうことによって、善を行なうことが意味される。また、役立ちまたは善を行なうことによって、他の者に役立ち、仕えることが意味される。


 これらの者はたとえ地位の中に、また富の中にいても、それでも、地位と富を、役立ちを行なうための、このように、役立つためのまた仕えるための手段としてしか眺めない。これらの者が、次の主のことばによって意味される者である、


 


 「あなたがたの間で、だれでも、偉大になりたい者は、あなたがたの仕える者であるべきです。また、だれでも……最初の者でありたい者は、あたながたのしもべであるべきです」(マタイ20:26, 27)


 さらにまた、主から天界の中の支配をまかせられる者は、これらの者である。というのは、彼らに支配は役立ちまたは善を行なう、このように仕える手段であるから。また役立ちまたは善が目的または愛であるとき、その時、彼らが支配するのではなく、主が支配される、なぜなら、すべての善はその方からであるから。


[12.] 第四に:「愛のそれらの相違がほとんど人間に知られないこと」は、地位と富にいる者は、役立ちもまた行なうが、しかし、大部分の者が自分自身のために役立ちを行なうのか、または役立ちのために役立ちを行なうのか知らないからである。また、自己と世への愛の中にいない者よりも、さらに自己と世への愛が役立ちを行なう火と熱に内在するので、なおさらそのことを知らない。しかし、その者は名声のためにまたは利益のために役立ちを、このように自分自身のために行なう。しかし、役立ちのために役立ちを、または善のために善を行なう者は、自分自身からでなく、しかし、主からそれを行なう。


[13.] それらの間の相違はほとんど人間により知られることができない理由は、人間は、悪魔により導かれているのか、あるいは主により導かれているのか知らないからである。悪魔により導かれている者は、役立ちを自分自身と世のために行なう、しかし、主により導かれている者は、悪立ちを主と天界のために行なう。また、彼らは主から役立ちを行なうすべての者は、悪を罪として避ける、しかし、悪魔から役立ちを行なうすべての者は、悪を罪として避けない。というのは、悪は悪魔であり、そして役立ちまたは善は主であるから。他のところからでなく、ここから相違が知られる。二つとも、外なる形の中では似て見える、しかし、内なる形の中ではまったく似ていない。一つは金のようであるが、その中の内部はかなくそである。しかし、もう一つは金のようであって、その内部は純金である。また一つは作りものの果実のようであり、それは外なる形では木からの果実のようにみえるが、それでも着色した蝋であり、その内部は、がらくたまたはアスファルトである。しかし、もう一つは、快い味と香りの、みごとな果実のようであり、その内部に種がある。

原典講読『神の摂理』 216

 

(1) 原文


216.  (ii.) Quod aeterna se referant ad honores et opes spirituales, quae sunt amoris et sapientiae, in caelo. Quoniam naturalis homo jucunda amoris sui, quae etiam sunt jucunda concupiscentiarum mali, vocat bona, et quoque confirmat quod sint bona, ideo honores et opes vocat benedictiones Divinas. At cum naturalis ille homo videt, quod mali aeque ac boni ad honores evehantur et ad opes promoveantur, et magis cum videt quod boni in contemptu et in paupertate sint, et mali in gloria et opulentia, secum cogitat, “Quid hoc? Non potest esse Divinae Providentiae; nam si illa regeret omnia, accumularet bonos honoribus et opibus, et afflictaret malos paupertate et contemptu, et sic adigeret malos ad agnoscendum, quod Deus et quod Divina Providentia sint.” [2.] Sed naturalis homo nisi illustratus a spirituali homine, hoc est, nisi simul spiritualis sit, non videt quod honores et opes possint esse benedictiones; et quoque quod possint esse maledictiones; et quod cum benedictiones sunt, a Deo sint, et quod cum maledictiones sunt, a diabolo sint. Quod etiam dentur honores et opes a diabolo, notum est, nam ex eo vocatur ille princeps mundi. Nunc quia nescitur ubinam honores et opes sunt benedictiones, ac ubinam sunt maledictiones, dicendum est; sed in hoc ordine: (1.) Quod honores et opes sint benedictiones, et quod sint maledictiones. (2.) Quod honores et opes, quando sunt benedictiones, sint spirituales ac aeternae; at quod dum sunt maledictiones, sint temporariae et caducae. (3.) Quod honores et opes, quae sunt maledictiones, respective ad honores et opes quae sunt benedictiones, sint sicut non aliquid ad omne; ac sicut quod in se non est, ad id quod in se est.


 


(2) 直訳


(ii.) Quod aeterna se referant ad honores et opes spirituales, quae sunt amoris et sapientiae, in caelo.  (ii.) 「永遠のものは霊的な名誉と財産()に関係すること、それらは愛と知恵のものである、天界の中の」―


Quoniam naturalis homo jucunda amoris sui, quae etiam sunt jucunda concupiscentiarum mali, vocat bona, et quoque confirmat quod sint bona, ideo honores et opes vocat benedictiones Divinas. 自然的な人間は自分の愛の快さを、それらはまた悪の欲望の快さである、善と呼び、そしてまたそれらが善であることを確信するので、それゆえ、名誉と富を神の祝福と呼ぶ。


At cum naturalis ille homo videt, quod mali aeque ac boni ad honores evehantur et ad opes promoveantur, et magis cum videt quod boni in contemptu et in paupertate sint, et mali in gloria et opulentia, secum cogitat, “Quid hoc? Non potest esse Divinae Providentiae; しかし、その自然的な人間は見るとき、悪い者が等しくそして善い者が名誉へ高められる(昇進される)、また富へ進められる(促進される)こと、またさらに見るとき、善い者が軽蔑の中に、また貧困の中にいること、また悪い者が栄光(輝き、称賛)の中に、また富(裕福)の中に、自分自身に考える、「このことは何か? 神的な摂理は存在することができない。


nam si illa regeret omnia, accumularet bonos honoribus et opibus, et afflictaret malos paupertate et contemptu, et sic adigeret malos ad agnoscendum, quod Deus et quod Divina Providentia sint.” なぜなら、もしそれ〔神的な摂理〕がすべてのものを支配するなら、善い者を名誉と富で積み上げる(与える)、また悪い者を貧困と軽蔑で苦しめる、またこのように悪い者を認めるように強いる(追い立てる)、神が〔おられる〕ことと、神的な摂理があること」。


[2.] Sed naturalis homo nisi illustratus a spirituali homine, hoc est, nisi simul spiritualis sit, non videt quod honores et opes possint esse benedictiones; [2.] しかし、自然的な人間は霊的な人間から照らされないなら、すなわち、同時に霊的でないなら、名誉と富が祝福であることができることを見ない。


et quoque quod possint esse maledictiones; そしてまた呪いであることができること。


et quod cum benedictiones sunt, a Deo sint, et quod cum maledictiones sunt, a diabolo sint. また、祝福であるとき、神からであること、また、呪いであるとき、悪魔からであること。


Quod etiam dentur honores et opes a diabolo, notum est, nam ex eo vocatur ille princeps mundi. さらにまた、名誉と富は悪魔により与えられることは、よく知られている、なぜなら、そのことから彼は世の君主☆と呼ばれるから。


「新改訳聖書」のヨハネ12:3114:3016:11にある「世の支配者」です。ただし、世の支配者が「名誉と富を与える」とは書いてありません。


Nunc quia nescitur ubinam honores et opes sunt benedictiones, ac ubinam sunt maledictiones, dicendum est; そこで、どこに名誉と富が祝福であるか☆知られていないので、そしてどこに呪いがあるか、言わなくてはならない。


「どこに名誉と富が祝福であるか」は文章として破綻していますが、意味はわかると思います。


sed in hoc ordine:― しかし、この順序の中で―


(1.) Quod honores et opes sint benedictines, et quod sint maledictiones. (1.) 名誉と富は祝福であること、また呪いであること。


(2.) Quod honores et opes, quando sunt benedictiones, sint spirituales ac aeternae; (2.) 名誉と富は、祝福である時、霊的であること、そして永遠〔である〕。


at quod dum sunt maledictiones, sint temporariae et caducae. しかし、呪いである時、一時的なものである、また、はかないもの〔である〕。


(3.) Quod honores et opes, quae sunt maledictiones, respective ad honores et opes quae sunt benedictiones, sint sicut non aliquid ad omne; (3.) 名誉と富は、それらは呪いである、名誉と富にと比較すれば、それらは祝福である、すべてと比べて何ものでもないようなものである。


ac sicut quod in se non est, ad id quod in se est. そして、本質的に存在しないような、それに比べて、本質的に存在するもの。


 


(3) 訳文


216.  (ii.) 「永遠のものは、天界の中の愛と知恵のものである霊的な名誉と富に関係すること」


 自然的な人間は、自分の愛の快さを、また悪の欲望の快さもまた、善と呼び、それらが善であることもまた確信するので、それゆえ、名誉と富を神の祝福と呼ぶ。


 しかし、その自然的な人間は、悪い者が善い者と等しく名誉へ高められ、また富へと進むのを見るとき、またさらに、善い者が軽蔑と貧困の中に、また悪い者が称賛と裕福の中にいるのを見るとき、自分自身に、「このことは何か? 神的な摂理は存在するはずがない。なぜなら、もし神的な摂理がすべてのものを支配するなら、善い者に名誉と富を与え、また悪い者を貧困と軽蔑で苦しめ、また、神がおられ、神的な摂理があることを悪い者が認めるように強いる〔はずである〕から」と考える


[2.] しかし、自然的な人間は霊的な人間から照らされないなら、すなわち、同時に霊的でないなら、名誉と富が祝福でありうること、そしてまた呪いでありうること、また、祝福であるとき神からであり、呪いであるとき悪魔からであることを見ない。さらにまた、名誉と富は悪魔により与えられることは、よく知られている。なぜなら、そのことから悪魔は世の君主と呼ばれるから。


 そこで、名誉と富のどこに祝福があるか、そしてどこに呪いがあるか、知られていないので、次の順序の中で、言わなくてはならない。


 (1.) 名誉と富は祝福であること、また呪いであること。


 (2.) 名誉と富は、祝福である時、霊的であり、永遠であるが、しかし、呪いである時、一時的なものであり、はかないものであること。


 (3.) 呪いである名誉と富は、祝福である名誉と富と比較すれば、すべてと比べて何ものでもないようなもの、そして、本質的に存在するものに比べて本質的に存在しないようなものであること。