原典講読「神の摂理』 172(後半)

 

(2) 直訳


[3.] Secundo: [3.] 第二:


Quod Dominus sit Verbum, quia est Divinum Verum Divini Boni. 「主はみことばであること、〔みことばは〕神的な善の神的な真理であるからである」。


Quod Dominus sit Verbum, docet apud Johannem his verbis: 主がみことばであることは、ヨハネのもとに、これらの言葉で教える―
“In principio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum;
 「初めにことばがあった、またことばは神とともにあった、ことばは神であった。


….et Verbum Caro factum est, et habitavit in nobis” (i. 1,14); ……また、ことばは肉となった、また私たちの中に住んだ」(1:1, 14)
hoc quia hactenus non aliter intellectum est, quam quod Deus doceret hominem per Verbum, ideo explicatum est per vocem elevationis, quae involvit quod Dominus non sit ipsum Verbum.
 このことは今まで異なって理解されなかったので、神が人間をみことばによって教えること以外に、それゆえ、高めることの声(言葉)☆によって説明された、それは含む、主がみことばそのものではないことを。


「高めることの声」は英訳では「おおげさな表現」です。elevatioは「誇張」がよいでしょう。


Causa est, quia non sciverunt, quod per Verbum intelligatur Verum Divini Boni, seu quod idem, Divina Sapientia Divini Amoris. 理由がある、知らなかったからである、みことばによって神的な善の神的な真理が意味されること、すなわち、同じこと〔であるが〕、神的な愛の神的な知恵。


Quod haec sint Ipse Dominus, in transactione De Divino Amore et Divina Sapientia, in Parte Prima, ostensum est; これらが主そのものであることは、論文『神の愛と神の知恵について』、第一部の中に、示されている。


et quod haec sint Verbum, in Doctrina Novae Hierosolymae de Scriptura Sacra (n. 1-86). また、これらが、みことばであることは、『聖書についての新しいエルサレムの教え』(1-86)の中に。


[4.] Quomodo Dominus est Divinum Verum Divini Boni, hic paucis etiam dicetur. [4.] どのように主が神的な善の神的な真理であるか、このこともまた簡単に言われる。


Omnis homo non est homo ex facie et corpore, sed ex bono amoris sui et ex veris sapientiae suae; すべての人間は顔と身体から人間ではない、しかし、自分の愛の善から、また自分の知恵の真理から。


et quia homo ex his est homo, est quoque omnis homo suum verum et suum bonum, seu suus amor et sua sapientia; また人間はこれらから人間であるので、すべての人間は自分の真理と自分の善でもある、すなわち、自分の愛と自分の知恵。


absque his non est homo. これらなしに、人間ではない。


Dominus autem est ipsum Bonum et ipsum Verum, seu quod idem, ipse Amor et ipsa Sapientia; けれども、主は善そのものと真理そのものである、すなわち、同じこと〔であるが〕、愛そのものと知恵そのもの。


et haec sunt Verbum, quod in principio fuit apud Deum, et quod fuit Deus, et quod Caro factum est. またこれらはみことばである、それは初めに神のもとにあった、またそれは神であった、またそれは肉となった。


[5.] Tertio: [5.] 第三:


Quod sic ex Verbo doceri sit ab Ipso Domino, quia est ex ipso Bono et ex ipso Vero, seu ex ipso Amore et ex ipsa Sapientia, quae sunt Verbum, ut dictum est: 「したがって、みことばから教えられることは、その方から〔教えられること〕であること」、


sed quisque docetur secundum sui amoris intellectum; しかし、それぞれは自分の愛の理解力にしたがって教えられる。


quod supra est, non manet. 上にある(越える)ものは、とどまらない。


Omnes illi qui docentur a Domino in Verbo, in paucis veris docentur in mundo, sed in multis cum fiunt angeli; すべての者は、彼らは、みことばの中の主により教えられる者、わずかな真理の中で、世の中で教えられる、しかし、多くのもの〔真理〕の中で、天使になるとき。


interiora enim Verbi, quae sunt Divina spiritualia et Divina caelestia, implantantur simul: というのは、みことばの内的なものは、それらは霊的な神的なものと天的な神的なものである、同時に植え付けられるから。


sed haec non apud hominem aperiuntur quam post obitum ejus, in caelo, ubi est in sapientia angelica, quae respective ad humanam, ita ad priorem suam, est ineffabilis. しかし、これらは人間のもとで開かれない、彼の死の後、天界の中で、そこに天使の知恵の中にいる以外に、それは比較すれば(相対的に)、人間のものに、このように自分のプロプリウムに、言語に絶するものである。


Quod Divina spiritualia et Divina caelestia, quae faciunt sapientiam angelicam, insint omnibus et singulis Verbi, in Doctrina Novae Hierosolymae de Scriptura Sacra (n. 5-26) videatur. 霊的な神的なものと天的な神的なものは、それらは天使の知恵をつくる、みことばの中のすべてと個々のものに内在することは、『聖書についての新しいエルサレムの教え』(5-26)の中に見られる。


[6.] Quarto: [6.] 第六:


Quod hoc fiat mediate per praedicationes, non tollit immediatum. 「説教(伝道)よって間接的に行なわれること、取り除かないこと、直接のものを」。


Verbum non potest aliter quam mediate per parentes, magistros, praedicatores, libros, et imprimis per lectionem ejus, doceri. みことばは間接的に以外に異なって教えられることができない、両親、教師、説教者、本によって、また特に、それの読むことによって。


Sed usque non docetur ab illis, sed per illos a Domino. しかし、それでも、それらから教えられない、しかし、それらを通して、主から。


Hoc quoque est ex scientia praedicatorum, qui dicunt, quod non ipsi ex se, sed ex spiritu Dei loquantur; 


このこともまた説教者たちの知識からである、その者たちは言う、それら自体は自分自身からでなく、しかし、神の霊から語られること。


et quod omne verum sicut omne bonum sit a Deo.  また、すべての真理は、すべての善のように、神からであること。


Loqui quidem id possunt, ac inferre multorum intellectui, sed non alicujus cordi; 確かに、それを話すことができる、そして多くの者の理解力にもたらすこと〔ができる〕、しかし、ある者の心に〔もたらすことはでき〕ない。


et quod non est in corde, hoc perit in intellectu: また、心の中にないものは、これは理解力の中で滅びる(失われる)


per “cor” intelligitur amor hominis. 「心」によって、人間の愛が意味される。


Ex his videri potest, quod homo a solo Domino ducatur et doceatur; これらから見られることができる、人間は主だけにより導かれ、教えられること。


et quod immediate ab Ipso, cum ex Verbo. また、その方から直接的に、みことばから〔導かれ、教えられる〕とき。


Hoc est arcanum arcanorum sapientiae angelicae. このことは天使の知恵のアルカナのアルカナである。


 


(3) 訳文


172. [3.] 第二:「主はみことばであること、〔みことばは〕神的な善の神的な真理であるからである」。


主がみことばであることは、ヨハネ福音書に、次の言葉で教えられている―


 


 「初めにことばがあった、ことばは神とともにあった、ことばは神であった。……ことばは肉となった、私たちの間に住んだ」(1:1, 14)


 


 このことは今まで、神が人間をみことばによって教えるとしか理解されなかったので、それゆえ、主がみことばそのものではないことを含んでいる誇張された表現として説明された。その理由は、みことばによって神的な善からの神的な真理が、すなわち、同じことであるが、神的な愛からの神的な知恵が意味されることを知らなかったからである。これらが主そのものであることは、著作『神の愛と知恵』の第一部の中に、また、これらが、みことばであることは、『聖書についての新しいエルサレムの教え』(1-86)の中に示されている。


[4.] どのように主が神的な善からの神的な真理であるか、このこともまた簡単に述べよう。すべての人間は、顔と身体からではなく、自分の愛の善から、また自分の知恵の真理から人間である。また人間はこれらから人間であるので、すべての人間は自分の真理と自分の善、すなわち、自分の愛と自分の知恵でもある。これらなしに、人間ではない。けれども、主は善そのものと真理そのもの、すなわち、同じことであるが、愛そのものと知恵そのものである。またこれらは、初めに神のもとにあった、また神であった、また肉となった、みことばである。


[5.] 第三:「したがって、みことばから教えられることは、その方から〔教えられること〕であること」、しかし、それぞれの者は自分の愛の理解力にしたがって教えられる。〔理解力を〕越えるものは、残らない。みことばの中の主により教えられるすべての者は、世では、わずかな真理で教えられる、しかし、天使になるとき、多く真理で、教えられる。というのは、霊的な神性と天的な神性である、みことばの内的なものが同時に植え付けられるから。しかし、これらは人間のもとで彼の死の後、天界の中で、そこに天使の知恵の中にいる以外に開かれず、それは人間のものに、このように自分のプロプリウムに比較すれば、言語に絶するものである。天使の知恵をつくる霊的な神性と天的な神性が、みことばの中のすべてと個々のものに内在することは、『聖書についての新しいエルサレムの教え』(5-26)の中に見られる。


[6.] 第六:「説教よって間接的に行なわれ教えは、直接の教えを排除しないこと」。


 みことばは、両親、教師、説教者、本によって、また特に、それを読むことによって、間接的にしか教えられることができない。しかし、それでも、それらから教えられないで、それらを通して、主から教えられる。このこともまた、それら自体は自分自身からでなく、しかし、神の霊から語られる、また、すべての真理は、すべての善のように、神からである、と言う説教者たちの知識からである。確かに、それを話すことができ、そして多くの者の理解力にもたらすことができるが、しかし、(ある者の)心にもたらすことはできない。また、心の中にないものは、理解力の中で失われる。「心」によって、人間の愛が意味される。


 これらから、人間は主だけにより導かれ、教えられること、また、みことばから導かれ、教えられるとき、その方から直接的に導かれ、教えられることを見ることができる。このことは天使の知恵のアルカナの中のアルカナである。

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