(2) 直訳
[5.] Secundo: [5.] 第二(に):
Quod unica illa essentia, substantia et forma sit Divinus Amor et Divina Sapientia; 「唯一のもの、その本質、実体と形は神的な愛と神的な知恵であること。
ex quibus omnia sunt, quae ad amorem et sapientiam apud hominem se referunt, etiam in transactione De Divino Amore et Divina Sapientia, ad plenum ostensum est. またそれらからすべてのものがある、それらは人間のもとの愛と知恵に関係する」、さらにまた論文『神の愛と神の知恵について』の中に、十分に示されている。
Quaecunque apud hominem apparent vivere, [2]ad voluntatem et intellectum apud illum se referunt, et quod haec duo faciant vitam ejus, quisque ex ratione percipit et agnoscit. どんなものでも人間のもとに生きることが見られる、彼のもとの意志と理解力に関係する、また、これら二つのものが彼のいのちをつくることは、だれも理性から知覚し、認める。
Quid aliud est quam Hoc volo, aut Hoc intelligo, seu Hoc amo, aut Hoc cogito? 何か他のものがあるか? これを私は意志する(欲する)、またはこれを私は理解する以外に、すなわち、これを私は愛する、またはこれを私は考える。
Et quia homo vult quod amat, et cogitat quod intelligit, ideo omnia voluntatis se referunt ad amorem, et omnia intellectus ad sapientiam: また人間は愛するものを意志するので、また理解するものを考える、それゆえ、意志のすべてのものは愛に関係する、また理解力のすべてのものは知恵に。
et quia haec duo non dari possunt apud aliquem a se, nisi ab Ipso qui est ipse Amor et ipsa Sapientia, sequitur quod a Domino ab aeterno seu Jehovah id sit; またこれら二つのものはそれ自体から何らかのもの(自分自身からだれかの)もとに存在することはできないので、その方からでないなら、そのものは愛そのものと知恵そのものである、~ということになる、永遠の主、すなわち、エホバからそれらは存在すること。
si non inde foret, esset homo ipse Amor et ipsa Sapientia, ita Deus ab aeterno, ad quod ipsa humana ratio horret. もし、ここからでなかった(でない)なら、人間は愛そのものと知恵そのものになった(なる)、そのように永遠からの神に、そのことに人間の理性そのものが恐怖を感じる。
Num aliquid dari potest, nisi a priori se? 何かが存在することができるのか? それ自体に〔よりも〕前のものからでないなら。
et num hoc prius dari potest nisi ab adhuc priori se? またこの前のものは存在することができるのか? さらにそれ自体に〔よりも〕前のものからでないなら。
et sic demum nisi a Primo, quod in Se est? またこのようについに最初のものからでないなら、それは本質的に存在する〔ものではないのか〕?
[6.] Tertio: [6.] 第三(に):
Similiter, quod sit ipsum Bonum et ipsum Verum, ad quae omnia se referunt. 「同様に、善そのものと真理そのものがあること、それらにすべてのものが関係する」。
Ab omni, cui est ratio, recipitur et agnoscitur, quod Deus sit ipsum Bonum et ipsum Verum, tum quod omne bonum et verum sit ab Ipso; すべての者により、その者に理性がある、受け入れられ、認められている、神は善そのものと真理そのものであること、なおまたすべての善とすべての真理はその方からであること。
proinde etiam quod omne bonum et verum non aliunde venire possit, quam ab ipso Bono et Vero; それゆえまた、すべての善とすべての真理は他のところからやって来ることができないこと、善と真理そのものから以外に。
haec agnoscuntur ab omni homine rationali, ut primum audiuntur. これらは理性的なすべての人間に認められる、聞かれるとすぐに。
Cum dein dicitur, quod omne voluntatis et intellectus, seu omne amoris et sapientiae, seu omne affectionis et cogitationis, apud hominem, qui a Domino ducitur, se referat ad bonum et verum, sequitur quod omnia quae homo ille vult et intelligit, seu quod amat et sapit, seu quo afficitur et quod cogitat, [3]sint a Domino. そのとき、その後、言われる、意志と理解力のすべてのものは、すなわち(または)、愛と知恵のすべてのものは、すなわち、情愛と思考のすべてのものは、人間のもとの、そのものは主から導かれる、善と真理に関係する、~ということになる、すべてのものは、それを人間は意志し、理解する、すなわち、愛し、知恵がある(味わう)、すなわち、それによって働きかけられる、またそれを考える、主からである。
Inde est, quod quisque in ecclesia sciat, quod omne bonum et omne verum ab homine in se non bonum et verum sit, sed solum id quod a Domino. ここからである、教会の中のだれもが知っていること、人間からのすべての善とすべての真理は本質的に善と真理ではないこと、しかし、それだけである、主からのもの。
Quoniam haec veritas sunt, sequitur quod omne id quod talis homo vult et cogitat, sit a Domino. このことは真理であるので、~ということになる、そのすべてのものは、このような人間が意志し、考えるもの、主からであること。
Quod omnis homo malus nec ex alia origine possit velle et cogitare, in sequentibus videbitur. すべての悪い人間も他の起源から意志し、考えることができないことが、続くものの中で見られる。
[7.] Quarto: [7.] 第四(に):
Quod illa sint vita, ex qua omnium vita et omnia vitae sunt, in transactione De Divino Amore et Divina Sapientia, multis ostensum est. 「それらはいのちであること、それらからすべてのいのちとすべてのいのちに属するものがある」、論文『神の愛と神の知恵について』の中で、多く示されている。
Ratio humana ad primum auditum etiam recipit et agnoscit, quod omnis vita hominis sit voluntatis et intellectus ejus, nam si aufertur voluntas et intellectus, non vivit; 人間の理性もまた聞くと直ぐに受け入れ、認める、人間のすべてのいのちは意志に属すること、また彼の理解力に属する、なぜなら、もし意志と理解力が取り去られるなら、生きないから。
seu quod idem est, quod omnis vita hominis sit amoris et cogitationis ejus, nam si aufertur amor et cogitatio, non vivit. すなわち、同じことであること、人間のすべてのいのちは愛に属すること、また彼の思考に属する、なぜなら、もし愛と思考が取り去られるなら、生きないから。
Nunc quia omne voluntatis et intellectus, seu omne amoris et cogitationis apud hominem est a Domino, ut nunc supra dictum est, sequitur quod omne vitae ab Ipso sit. そこで、意志と理解力の(属する)すべてのものは、すなわち、人間のもとの愛と思考のすべてのものは主からであるので、今、上に言われたように、~ということになる、すべてのいのちはその方からであること。
[8.] Quinto: [8.] 第五(に):
Quod hoc Unicum et Ipsum sit omnipraesens, omnisciens et omnipotens, hoc quoque quisque Christianus ex sua doctrina, et quisque Gentilis ex sua religione, agnoscit. 「この唯一のものとそのものは遍在、全知と全能であること」これもまたキリスト教徒のだれもがその教えから、また異教徒のだれもが自分の宗教から、認める。
Inde etiam quisque, ubicunque est, cogitat quod Deus sit ubi ille, et quod oret ad Deum praesentem; さらにまたここから、だれも、どこにいても、(彼がいる)そこに神がいると考える、現在される神に祈ること。
et cum quisque ita cogitat ac ita orat, sequitur quod non aliter possint cogitare, quam quod Deus ubivis sit, ita omnipraesens: また、だれもがそのように考え、そのように祈るとき、~ということになる、異なって考えることができないこと、神がどこにもいること以外に、そのように遍在〔される〕。
similiter quod sit omnisciens et omnipotens; 同様に、全知と全能であること。
quare omnis orans ad Deum corde suo supplicat, ut ducat illum, quia Ipse potest: それゆえ、自分の心から神に祈るすべての者は、嘆願する、彼らを導くように、その方ができるので。
ita quisque agnoscit tunc Divinam omnipraesentiam, omniscientiam et omnipotentiam: したがってだれもその時、神的な遍在、全知と全能を認める。
agnoscit, quia tunc vertit faciem ad Dominum, et tunc ab Ipso influit illa veritas. 認める、その時、顔を主へ向けるので、またその時、その方からその真理が流入する〔ので〕。
[9.] Sexto: [9.] 第六(に);
Quod hoc Unicum et Ipsum sit Dominus ab aeterno seu Jehovah. 「この唯一のものとそのものは永遠からの主、すなわち、エホバであること」。
In Doctrina Novae Hierosolymae de Domino, ostensum est, quod Deus unus sit essentia et persona, et quod ille Deus sit Dominus; 『主についての新しいエルサレムの教え』の中に、示されている、神は一つであること、本質と位格(で)、またその神は主であること。
et quod ipsum Divinum, quod Jehovah Pater vocatur, sit Dominus ab aeterno, quod Divinum Humanum sit Filius a Divino suo ab aeterno conceptus, et natus in mundo; また神性そのものは、それは父(なる)エホバと呼ばれるものは、永遠からの主であること、神的人間性は永遠からその神性からみごもった子であること、また世で生まれた。
et quod Divinum procedens sit Spiritus Sanctus. また発出する神性は聖霊であること。
Dicitur Ipsum et Unicum, quia prius dictum est, quod Dominus ab aeterno seu Jehovah sit ipsa Vita, quia est ipse Amor et ipsa Sapientia, seu ipsum Bonum et ipsum Verum, ex quibus omnia. そのものと唯一のものと言われる、前に言われたので、永遠からの主、すなわち、エホバはいのちそのものであること、愛そのものと知恵そのものであるので、すなわち、善そのものと真理そのもの、それらからすべてのもの。
Quod Dominus ex Se Ipso creaverit omnia, et non ex nihilo, videatur in transactione De Divino Amore et Divina Sapientia (n. 282-284, n. 349-357). 主は自分自身そのものからすべてのものを創造されたこと、また無からは〔創造され〕ない、論文『神の愛と神の知恵について』の中に見られる(282-284番、349-357番)。
Ex his illa veritas, quod homo a solo Domino ducatur et doceatur, per rationes confirmata est. これらから、その真理が、人間は主だけから導かれ、教えられること、理性によって確信される。
@1 “variatur”:–sic editio princeps. Doctor Im. Tafel praetulit varietur. 注1 「variatur」―このように初版に。イマヌエル・ターフェル博士はむしろvarietur選んだ。
@2 ad pro “se ad” 注2 「se ad」の代わりにad
@3 sint pro “sit” 注3 「sit」の代わりにsint
(3) 訳文
157. [5.] 第二:「唯一のその本質、実体と形は、神的な愛と神的な知恵であり、またそれらからすべてのものがあり、それらは人間のもとの愛と知恵に関係すること」もまた著作『神の愛と知恵』の中に、十分に示されている。
人間のもとに生きていることが見られるどんなものでも、彼のもとの意志と理解力に関係し、また、これら二つのものが彼のいのちをつくることは、だれも理性から知覚し、認める。
これを私は意志する、またはこれを私は理解する、すなわち、これを私は愛する、またはこれを私は考えること以外に。何か他のものがあるのか? また人間は愛するものを意志し、また理解するものを考えるので、それゆえ、意志のすべてのものは愛に、また理解力のすべてのものは知恵に関係する。またこれら二つのものは、その方からでないなら、自分自身からだれかのもとに存在することはできないので、それは愛そのものと知恵そのものであって、永遠の主、すなわち、エホバからそれらは存在するといえる。もし、ここからでないなら、人間は愛そのものと知恵そのもの、したがって永遠からの神になり、そのことにまさに人間の理性が恐怖を感じる。
それ自体よりも前のものからでない何かが存在することができるのか? またさらにそれ自体よりも前のものからでない前のものは存在することができるのか? またこのように最後に最初のものからでないなら〔存在することができるのか〕、それは本質的に存在する〔ものではないのか〕?
[6.] 第三:「同様に、善そのものと真理そのものがあり、それらにすべてのものが関係すること」。
理性があるすべての者により、神は善そのものと真理そのものであること、さらにすべての善とすべての真理はその方からであること、それゆえまた、すべての善とすべての真理は、善と真理そのものから以外の他のところからやって来ることができないことが受け入れられ、認められている。これらは聞かれるとすぐに理性的なすべての人間に認められる。その後、そのとき、主から導かれる人間のもとの意志と理解力のすべてのものは、または愛と知恵のすべてのものは、または情愛と思考のすべてのものは善と真理に関係し、人間が意志し、理解する、または、愛し、味わい、すなわち、それによって働きかけられ、またそれを考えるすべてのものは、主からであるといえる。ここから、人間からのすべての善とすべての真理は本質的に善と真理ではなく、しかし、主からのものだけがそうであることは、教会の中のだれもが知っていることである。このことは真理であるので、このような人間が意志し、考えるものすべてのものは、主からであることがいえる。すべての悪い人間もまた、他の起源から意志し、考えることができないことは、続くものの中で見られる。
[7.] 第四:「それらはいのちであり、それらからすべてのいのちとすべてのいのちに属するものがあること」は、著作『神の愛と知恵』の中で多く示されている。
人間の理性もまた、人間のすべてのいのちは意志に属し、また彼の理解力に属する、と聞くと直ぐに受け入れ、認める。なぜなら、もし意志と理解力が取り去られるなら、生きないから。すなわち、同じことであるが、人間のすべてのいのちは愛に属し、また彼の思考に属する、なぜなら、もし愛と思考が取り去られるなら、生きないから。そこで、人間のもとの意志と理解力のすべてのものは、または、愛と思考のすべてのものは主からであるので、前に言われたように、今や、すべてのいのちはその方からであることがいえる。
[8.] 第五:「この唯一そのものは、遍在、全知、全能であること」、これもまたキリスト教徒のだれもがその教えから、また異教徒のだれもが自分の宗教から、認める。さらにまたここから、神がいると考える者はだれも、どこにいても、そこに現在される神に祈る。また、だれもがそのように考え、そのように祈るとき、神がどこにもいること、そのように遍在されるとしか考えることができないことがいえる。全知と全能も同様である。それゆえ、自分の心から神に祈るすべての者は、その方ができるので、自分たちを導くよう、嘆願する。したがって、だれもその時、神的な遍在、全知、全能を認める。その時、顔を主へ向けるので、またその時、その方からその真理が流入するので、認める。
[9.] 第六;「この唯一そのものは、永遠からの主、すなわち、エホバであること」。
『主についての新しいエルサレムの教え』の中に、神は、本質と位格で一つであること、またその神は主であること、また、父エホバと呼ばれる神性そのものは永遠からの主であり、神的人間性は永遠からその神性からみごもりまた世で生まれた子であること、また、発出する神性は聖霊であることが示されている。前に言われたので、唯一そのものと言われ、永遠からの主、すなわち、エホバは、いのちそのものであり、愛そのものと知恵そのもの、すなわち、善そのものと真理そのものであるので、それらからすべてのものがある。
主は自分自身そのものからすべてのものを創造され、また無からは〔創造され〕ないことは、著作『神の愛と知恵』の中に見られる(282-284番、349-357番)。これらから、人間は主だけから導かれ、教えられるという真理が、理性によって確信される。