(2) 直訳
[5.] Tertio, Quod jucunda externa allectent internum ad consensum, et quoque ad amorem.― [5.] 第三に、「さらにまたよく知られている、外なる快さは内なるものを誘う、同意(一致)へ、また愛へもまた」―
Jucunda sunt duplicis generis, jucunda intellectus et jucunda voluntatis; 快さは二重の種類である、理解力の快さと意志の快さ。
jucunda intellectus sunt etiam jucunda sapientiae, et jucunda voluntatis sunt etiam jucunda amoris; 意志の快さはさらにまた知恵の快さである、また理解力の快さはさらにまた愛の快さである。
nam sapientia est intellectus, et amor est voluntatis. なぜなら、知恵は理解力に属し、また愛は意志に属するから。
Nunc quia jucunda corporis et ejus sensuum, quae sunt jucunda externa, unum agunt cum jucundis internis, quae sunt intellectus et voluntatis, sequitur quod sicut internum renuit coactum ab externo, usque ut avertat se, ita internum grate aspiciat jucundum in externo, usque ut vertat se ad illud; それで、身体の快さとその感覚は、それらは外なる快さである、内なる快さと一つとして働くので、それらは理解力と意志に属する、~ということになる、内なるものが外なるものによる強制を拒否するように、それ自体を背けるようにまで、そのように内なるものは外なるものの中の快さを快く(好意をもって)眺める、それ自体をそれらへ向けるようにまで。
sic fit consensus a parte intellectus, et amor a parte voluntatis. このように同意(一致)が理解力の側から生じる、また愛が意志の側から。
[6.] Omnes infantes in mundo spirituali in sapientiam angelicam, et per illam in amorem caelestem, per jucunda et amoena a Domino introducuntur; [6.] 霊界のすべての幼児は、天使の知恵の中に、またそれによって天界の愛の中に、主からの快さと楽しさによって、導き入れられる。
primum per pulchra in domibus, et per amoena in hortis: 最初に、家の中の美しいものによって、また庭園の中の楽しいものによって。
deinde per repraesentativa spiritualium, quae interiora mentis eorum voluptate afficiunt; その後、霊的な表象するものによって、それらは彼らの心の内的なものを快楽で働きかける。
et demum per vera sapientiae, et sic per bona amoris; また最後に、知恵の真理によって、またこのように愛の善によって。
ita continue per jucunda in suo ordine; したがって、絶えずその秩序の中で(適切な順序で)快さによって。
primum per jucunda amoris intellectus et ejus sapientiae, et demum per jucunda amoris voluntatis, qui fit amor vitae eorum, sub quo reliqua, quae per jucunda intraverunt, subordinata tenentur. 最初に理解力と知恵の愛の快さによって、また最後に意志の愛の快さによって、それは彼らのいのちの愛を生じる、それらの下に他のものが、それらは快さによって入った、従属されたものが保たれる。
[7.] Hoc fit, quia omne intellectus et voluntatis formandum est per externum, antequam formatur per internum; [7.] このことは生じる、理解力と意志のすべてのものは外なるものによって形成されなくてはならないので、内なるものによって形成されるのに先んじて。
omne enim intellectus et voluntatis formatur primum per illa quae intrant per sensus corporis, imprimis per visum et auditum: というのは、理解力と意志に属するすべてのものは最初にそれらによって形成されるから、それらは身体の感覚を通して入る、特に、視覚と聴覚を通して。
at cum primus intellectus et prima voluntas formata sunt, tunc internum cogitationis spectat illa ut externa cogitationis suae, et vel conjungit se cum illis, vel separat se ab illis; しかし、理解力の最初のものと意志の最初のものが形成されるとき、その時、思考力の内なるものはそれらを自分の思考力の外なるもののように眺める、またあるいは自分自身をそれらと結合させる、あるいは自分自身をそれらから分離させる。
conjungit se cum illis si jucunda sunt, et separat se ab illis si non sunt. 自分自身をそれらと結合させる、もし快さがあるなら、また自分自身をそれらから分離させる、もしないなら。
[8.] At probe sciendum est, quod internum intellectus non conjungat se cum interno voluntatis, sed quod internum voluntatis se conjungat cum interno intellectus, ac faciat ut conjunctio reciproca sit; [8.] しかし、正しく(よく)知らなければならない、理解力の内なるものは自分自身を意志の内なるものと結合させないこと、しかし、意志の内なるものは自分自身を理解力の内なるものと結合させること、そして相互の結合であるようにする。
sed hoc fit ab interno voluntatis, et ne hilum ab interno intellectus. しかし、このことは意志の内なるものにより生じる、また少しもない、理解力の内なるものにより。
Inde est, quod homo non per solam fidem possit reformari, sed per amorem voluntatis, qui facit sibi fidem. ここからである、人間は信仰のみによって改心されることができないこと、しかし、意志の愛によって、それは自分自身に信仰をつくる。
[9.] Quarto, Quod detur internum coactum ac internum liberum.― [9.] 第四に、「強制された内なるものと自由な内なるものが存在すること」―
Internum coactum datur apud illos, qui in solo cultu externo et nullo interno sunt; 強制された内なるものは彼らのもとに存在する、単なる外なる礼拝の中に、また内なるものの何もない〔中に〕いる。
internum eorum enim est id cogitare et velle, ad quod externum cogitur. というのは、彼らの内なるものはそれを考えること、また意志することであるから、それに向けて外なるものは強制される。
Hi sunt qui in cultu hominum vivorum et mortuorum sunt, et inde in cultu idolorum, inque fide miraculorum; これらの者である、生きているまた死んでいる人間の礼拝の中にいる者、またここから偶像の礼拝の中に、また奇跡の信仰の中に。
apud hos non datur aliud internum, quam quod simul externum est. これらの者のもとに何らかの内なるものは存在しない、同時に外なるものであるもの以外に。
Apud illos autem qui in interno cultus sunt, datur internum coactum; けれども、彼らのもとに、内なる礼拝の中にいる者、強制された内なるものが存在する。
unum ex timore, et alterum ex amore: 一つは恐怖(恐れ)から、またもう一つは愛から。
internum coactum ex timore, est apud illos, qui in cultu sunt ex timore cruciatus inferni et ejus ignis; 恐怖からの強制された内なるものは、彼らのもとにある、地獄の責め苦とその火の恐怖からの礼拝の中にいる者。
sed hoc internum non est internum cogitationis, de quo prius actum est, sed externum cogitationis, quod hic vocatur internum quia est cogitationis: しかし、この内なるものは思考の内なるものではない、それについて前に扱われた、しかし、思考の外なるもの、それはここに内なるものと呼ばれる、思考に属するものであるので。
internum cogitationis, de quo prius actum est, non potest cogi ab aliquo timore; 思考の内なるものは、それについて前に前に扱われた、何らかの恐怖により強制されることができない。
sed potest cogi ab amore et a timore jacturae ejus. しかし、愛により、またその奪われること(損失)の恐怖から強制されることができる。
Timor Dei in genuino sensu non aliud est. 神への恐れは純粋な意味で別のものではない。
Cogi ab amore et a timore jacturae ejus, est semetipsum cogere; 愛により、またその奪われること(損失)の恐怖から強制されることは、自分自身を強制することである。
quod semetipsum cogere non sit contra libertatem et rationalitatem, videbitur infra. 自分自身を強制することは自由性と推理力に反していないことは、下に見られる。
(3) 訳文
[5.] 第三に、「さらにまた、外なる快さは内なるものを、同意へ、また愛へ誘うことは、よく知られている」―
快さには、理解力の快さと意志の快さの二種類がある。意志の快さは知恵の快さでもあり、また理解力の快さは愛の快さでもある。なぜなら、知恵は理解力に属し、また愛は意志に属するから。それで、外なる快さである身体の快さとその感覚は理解力と意志に属する内なる快さと一つとして働くので、内なるものが外なるものによる強制を、それ自体を背けるようにまで拒否するように、そのように内なるものは外なるものの中の快さをそれ自体をそれらへ向けるようにまで好意をもって眺めることがいえる。このように同意が理解力の側から、また愛が意志の側から生じる。
[6.] 霊界のすべての幼児は、主からの快さと楽しさによって、天使の知恵の中に、またそれによって天界の愛の中に導き入れられる。最初に、家の中の美しいものによって、また庭園の中の楽しいものによって、その後、彼らの心の内的なものを快楽で働きかける霊的な表象物によって、また最後に、知恵の真理によって、またこのように愛の善によって、したがって、絶えずその適切な順序による快さによってである。最初に理解力と知恵の愛の快さによって、また最後に彼らのいのちの愛を生じる意志の愛の快さによって、それらの下に快さによって入り、従属した他のものが保たれる。
[7.] このことは、理解力と意志のすべてのものは外なるものによって形成されなくてはならないので、内なるものによって形成されるものに先んじて生じる。というのは、理解力と意志に属するすべてのものは最初に身体の感覚を通して、特に、視覚と聴覚を通して入るものによって形成されるから。しかし、理解力の最初のものと意志の最初のものが形成されるとき、思考力の内なるものはそれらを思考力の外なるもののように眺める、またあるいはそれらと結合させるか、あるいはそれらから分離させる。もし快さがあるならそれらと結合し、もしないなら、それらから分離する。
[8.] しかし、理解力の内なるものは意志の内なるものと結合しないこと、しかし、意志の内なるものは理解力の内なるものと結合すること、そして相互の結合であるようにすることは、よく知らなければならない。しかし、このことは意志の内なるものにより生じ、、理解力の内なるものによるのでは少しもない。ここから、人間は信仰のみによって改心することができないが、しかし、自分自身に信仰をつくる意志の愛によって改心する。
[9.] 第四に、「強制された内なるものと自由な内なるものが存在すること」―
強制された内なるものは、単なる外なる礼拝の中に、また内なるものが何もない中に者らのもとに存在する。というのは、彼らの内なるものは、強制される外なるもの向けて、それを考え、また意志するものであるから。これらの者が、生きているまた死んでいる人間の礼拝の中に、またここから偶像の礼拝の中に、また奇跡の信仰の中にいる。これらの者のもとには、同時に外なるものであるもの以外に何らかの内なるものは存在しない。
けれども、内なる礼拝の中にいる者たちのもとには、強制された内なるものが存在する。つは恐れから、またもう一つは愛から――恐れからの強制された内なるものは、地獄の責め苦とその火の恐怖からの礼拝の中にいる者たちのもとにある。しかし、この内なるものは思考の内なるものではない、それについて前に扱われたが、しかし、思考に属するものであるのでここに内なるものと呼ばれる思考の外なるものである。思考の内なるものは、それについて前に前に扱われたが、何らかの恐れより強制されることができない。しかし、愛により、またその奪われることの恐れから強制されることができる。純粋な意味の神への恐れは、これとほかならない。愛により、またその奪われることの恐れから強制されることは、自分自身を強制することである。自分自身を強制することは、自由性と推理力に反していないことは、以下に見られる。