脳梗塞、顛末記(3)バベルの塔の故事

 

いわゆる[闘病」なるものはまったく味わなかった。脳のCTMRIの検査、脳梗塞の原因が心臓に由来するかもしれないのでその検査(私は不整脈があるので、その影響で生じ、それが脳内に流れ込む、ことがあるかもしれない、しかし、違うでしょう)、また採血。それと「リハビリ」があった。


もちろん、点滴は定量を24時間を通して行なう。血液をサラサラにするためであるそれでどこに行くのも支柱につりさげた点滴液がいっしょである。そのためふだんぐっすり眠るたちであるが、夜中に起きてトイレに二度行く。


原因は私が推測するのに、日課としている水泳中のサウナで大汗をかくが、その後に水分を十分に取らないで、そのまま午後の3時ごろから焼酎を飲んでいたことがたまりにたまって、ついに一定限度を超えたことであろう(翻訳をしていなければ定年退職後の単なる「飲ん兵衛」おやじ)。それで、今後は「飲むには飲む」が、きちっとその後に水分を補おう。よく、飲んで目覚めた語、のどが渇くことが多い(またこの冷や水がうまいんだよね)。「水分補給に注意」としか思い浮かばない。


医者、看護師と話しても、「アルコールがよくない」とは一言もなかった。私はよい酒ならかえって脳内の血流はよくなると思っている。 


しかし、女房に言わせれば「酒がすべての元凶、やめたら」となる。これは「見解の相違」でなくて、人生観の相違であろう。すなわち、「酒がなくて何の人生か」であるが、このあたりの議論は深酒と同じく、もう深入りしないでおこう。(ここまでが10日に書いていた記事であった、校正が急に忙しくなり、中断した。しかし、別の発想から書き継ごうと思った、それが次のものである)


もう一つの原因を考えてみよう。すなわち、霊的な原因である。(ここまでが10日に書いていた記事であった、しかし


「創世記」第11章に次のバベルの塔の故事がある。


「全地は、一つのことば、一つの話しことばであった。……「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう……」、「そこで彼らのことばを混乱させ……」、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱(「バラル」)させたからである。


ここには(よく読むと)妙な記事がいっぱいある。まずは、「塔を壊したことは書いていない、町を建てるのをやめた」のである。塔や町と「ことばの乱れ」の脈絡が全然ない、など。内意がわからなければそれまでかもしれない。


さて、このバベルの塔の物語は「私に起こった」。すなわち、「ことばの意味はわかっているけれども、言葉にならない。出てくる言葉はばらばら」、文字通り「ことばは混乱させられた」。


どうしてこのことが私に起こったのか。「名をあげよう」という心があったのであろう。すなわち、名著『天界と地獄』の名翻訳で有名になろうとする気持ちがあり、それが、そろそろ終了するあたりで(塔だって、完成まじかに壊すのが一番の打撃であろう)、中断させられたことである。反省しなければならない。


そして、ありがたいことに直ぐに回復した。これは主の恵み以外の何ものでもなく、このことに思い至った(これは前日の礼拝集会の午後の勉強会での「祈り」であった)

原典講読『神の摂理』 53

 

(1) 原文


53.  Sed ut hoc plenius intelligatur, illustrandum est. Divinum non potest aliud spectare quam Divinum; et non potest alibi id spectare quam in creatis a se. Quod ita sit evidens est ex eo, quod nemo possit spectare alium quam ex suo in se; ille qui amat alterum, spectat illum ex amore suo in se, qui sapiens est spectat alterum ex sapientia sua in se. Videre quidem potest quod alter vel amet illum, vel non amet illum, tum quod vel sapiat, vel non sapiat; sed hoc videt ex amore et ex sapientia in se; quare tantum conjungit se ei, quantum alter amat se sicut ipse amat illum, seu quantum alter sapit sicut ipse, ita enim unum faciunt. [2.] Simile est cum Divino in se; Divinum enim in se non potest ex alio, ut ex homine, spiritu ac angelo, spectare Se; nam nihil Divinum se illis est, a quo; et spectare Divinum ex alio in quo nihil Divini, est, foret spectare Divinum ex nullo Divino, quod non datur. Inde est, quod Dominus ita conjunctus sit homini, spiritui et angelo, ut omne se refert ad Divinum, non sit ab illis sed a Domino. Nam notum est, quod omne bonum et omne verum quod alicui est, non sit ab illo sed a Domino; immo quod ne quidem aliquis nominare possit Dominum, aut nomina Ipsius Jesum et Christum, nisi ex Ipso. [3.] Inde nunc sequitur, quod Infinitum ac Aeternum, quod idem est cum Divino, spectet omnia infinite in finitis, et quod se conjungat illis secundum gradum receptionis sapientiae et amoris apud illos. Verbo, Dominus non potest mansionem habere et habitare apud hominem et angelum quam in Suo; et non in proprio illorum, hoc enim est malum; et si foret bonum, usque est finitum, quod in se et ex se non est capax Infiniti. Ex his patet, quod nusquam dari possit, quod finitus spectet Infinitum, sed quod detur quod Infinitus spectet Infinitum a se in finitis.


 


(2) 直訳


Sed ut hoc plenius intelligatur, illustrandum est. しかし、このことはより十分に理解されるために、説明されなければならない。


Divinum non potest aliud spectare quam Divinum; 神性は神性以外に眺める(目を向ける)ことができない。


et non potest alibi id spectare quam in creatis a se. またそれをそれ自体から創造されたものの中以外の他のところに眺める(目を向ける)ことができない。


Quod ita sit evidens est ex eo, quod nemo possit spectare alium quam ex suo in se; このようであることはこのことから明らかである、だれも他のものを眺める(目を向ける)ことができないこと、それ自身から以外にそれ自身の中に。


ille qui amat alterum, spectat illum ex amore suo in se, qui sapiens est spectat alterum ex sapientia sua in se. 彼は、他の者を愛する、彼を自分自身の愛から自分の自身の中に眺める(目を向ける)、賢明である者は、他の者を眺める(目を向ける)自分自身の知恵から自分の自身の中に。


Videre quidem potest quod alter vel amet illum, vel non amet illum, tum quod vel sapiat, vel non sapiat; 確かに、見ることができる、他の者をあるいは彼を愛する、あるいは彼を愛さない、さらにあるいは賢明である、あるいは賢明でないこと。


sed hoc videt ex amore et ex sapientia in se; しかし、このことを自分自身の中の愛と知恵から見る。


quare tantum conjungit se ei, quantum alter amat se sicut ipse amat illum, seu quantum alter sapit sicut ipse, ita enim unum faciunt. それゆえ、どれだけ自分自身が彼に結合するか〔によって〕、それだけ他の者がその者を愛する、自分自身が彼を愛するように、あるいはそれだけ他の者が賢明である、自分自身のように、(というのは)このように一つとなるから。


[2.] Simile est cum Divino in se; [2.] それ自体の中の神性も同様である。


Divinum enim in se non potest ex alio, ut ex homine, spiritu ac angelo, spectare Se; それ自体の中の神性は他の者から、人間、霊、そして天使たちのように、それ自体を眺める(目を向ける)ことはできないので。


nam nihil Divinum se illis est, a quo; なぜなら、それ自体の神性は彼らに何もないから、それから〔すべてものが生じる〕☆。


a quoまたex quoはその場、その場でいろいろに訳います。いわば文脈次第です。よくわかっていても、訳しづらいのがこのような言葉です。


et spectare Divinum ex alio in quo nihil Divini, est, foret spectare Divinum ex nullo Divino, quod non datur. また他の者から神性を眺める(目を向ける)ことは、何も神性がないものの中で〔眺める(目を向ける)こと〕である、何も神性がない〔もの〕から神性を眺める(目を向ける)ことは、であった(になる)、存在しないこと。


Inde est, quod Dominus ita conjunctus sit homini, spiritui et angelo, ut omne se refert ad Divinum, non sit ab illis sed a Domino. ここからである、主はこのように人間、霊、天使たちと結合している、すべてのものが主に関係するように、彼らからでなく、しかし、主から。


Nam notum est, quod omne bonum et omne verum quod alicui est, non sit ab illo sed a Domino; なぜなら、よく知られているから、すべての善とすべての真理は、それらはある者にある、彼からないから、しかし、主から〔ある〕。


immo quod ne quidem aliquis nominare possit Dominum, aut nomina Ipsius Jesum et Christum, nisi ex Ipso. 実に(それどころか)、決して主の名前を言うことができないこと、またはイエスとキリストそのものの名前を、その方からでないなら。


[3.] Inde nunc sequitur, quod Infinitum ac Aeternum, quod idem est cum Divino, spectet omnia infinite in finitis, et quod se conjungat illis secundum gradum receptionis sapientiae et amoris apud illos. [3.] そこでここから(今や)~ということになる、無限(であるもの)そして永遠(であるもの)は、それらは神と同じ(同一)である、有限なものの中で無限なすべてのものを眺める(目を向ける)、またそれ自体をそれらにそれらのもとに知恵と愛の受け入れの段階にしたがって結合すること。


Verbo, Dominus non potest mansionem habere et habitare apud hominem et angelum quam in Suo; 一言でいえば、主はご自分のものの中以外に人間と天使のもとに住まいを持つことと、住むことができないこと。


et non in proprio illorum, hoc enim est malum; また彼らのプロプリウムの中に〔住め〕ない、これは悪であるので。


et si foret bonum, usque est finitum, quod in se et ex se non est capax Infiniti. また、もし善であった(ある)にしても、それでも有限である、それ自体の中に、またそれ自体から無限(であるもの)の収容できるものでないこと。


Ex his patet, quod nusquam dari possit, quod finitus spectet Infinitum, sed quod detur quod Infinitus spectet Infinitum a se in finitis. これらから明らかである、決して存在しないこと、有限なものが無限(であるもの)を眺める(目を向ける)こと、しかし、存在すること、無限(であるもの)が有限のものの中でそれ自体から無限(であるもの) を眺める(目を向ける)こと。


 


(3) 訳文


53.  しかし、このことはより十分に理解されるために、説明されなければならない。神性は神性以外に目を向けることができない。またそれをそれ自体から創造されたもの以外の他のところの中に目を向けることができない。このようであることは、それ自身から以外にそれ自身の中に、だれも他のものに目を向けることができないことから明らかである。他の者を愛するは、自分自身の愛から自分の自身の中に彼に目を向け、賢明である者は、自分自身の知恵から自分の自身の中に他の者に目を向ける。確かに、あるいは彼を愛し、あるいは彼を愛さない、さらにあるいは賢明であり、あるいは賢明でない他の者を見ることができる。しかし、このことを自分自身の中の愛と知恵から見る。それゆえ、どれだけ自分自身が彼に結合するかによって、それだけ他の者は自分自身が彼を愛するようにその者を愛する、あるいは自分自身のように、それだけ他の者が賢明である、このように一つとなるからである。


[2.] それ自体の中の神性も同様である。それ自体の中の神性は、人間、霊、そして天使たちのように他の者からそれ自体に目を向けることはできないからである。なぜなら、それ自体の神性は彼らに彼らからのものは何もないから。また他の者から神性に目を向けることは、何も神性がないものの中で目を向けることであり、何も神性がないものから神性に目を向けることは、存在しないものになるであろう。ここから、主は、すべてのものが主に、彼らからでなく、しかし、主から関係するように、このように人間、霊、天使たちと結合している。なぜなら、ある者にあるすべての善とすべての真理は、彼からでなく、しかし、主からあり、それどころか、主からでないなら、決して主の名前を、またはイエスとキリストそのものの名前を言うことができないことがよく知られているからである。


[3.] そこでここから、無限であるものそして永遠であるものは、それらは神と同一であり、有限なものの中で無限なすべてのものに目を向け、またそれ自体をそれらのもとに知恵と愛の受け入れの段階にしたがってそれらに結合することがいえる。一言でいえば、主はご自分のもの以外の中に人間と天使のもとに住まいを持つことと、住むこと、また彼らのプロプリウムは悪であるので、この中に住むことができないこと、また、もし善であるにしても、それでも有限であるそれ自体の中に、またそれ自体から無限であるものの収容できるものでないことがいえる。これらから、有限なものが無限であるものに目を向けることが決して存在しないこと、しかし、無限であるものが有限のものの中でそれ自体から無限であるものに目を向けることが存在することが明らかである。