脳梗塞、顛末記(1)

 

825()、いつものように午後の水泳から戻り、2時半ごろからビール、焼酎を飲みながら(飲むのはこの午後の3時ごろと真夜中の2回! アル中と言えなくもない)、昼飯、および、ワイドショウ。そのまま、3時間ぐらいの午睡に入る。そしてまた「原典講読」をやり、その日の日課を終える。


この日は5時半ごろ起きた。頭がぼけっとして、ふらふらする。酔いがずっとさめないふうだった。いつもなら、7時頃にはすっかり酔いはさめる。でも、どうにも原典対訳ができない。たとえば「快」という漢字が読めない。たしかこの字は「よい」とか「よろこばしい」ような意味だったなと思い、「よ」から始まることばを辞書(私の辞書は『大辞林』)で、すべてあたった。しかしなかった。「あれ、変だな」と思い女房にどう読むのか聞いたら「こころよい」であった。翌日は息子夫婦が新居を購入し、深川(正確には福住)に引越しすることになっていた。その深川の文字が読めない。「あれ、この地名はなんだったけ」で「ふ・・・、何とかだったな」としかわからない。


結局、「あれ」とか「それ」とか言いっぱなし。それで、必死の思いで3行ほどパソコンをたたいて、ブログを閉じた。(そのまま寝たのであるが、本来はここで緊急入院すべきである)


26日朝6時頃、十分睡眠を取ったつもりが、全然変わらなかった。「立川新緑クリニック」という脳神経科専門の病院に行くことにする。そのときは『天界と地獄』の校正を脇に抱えていた。待ち時間の間に目を通そうと思っていたからである。さっそくMRI (脳の様子を調べる機械です)を撮った。


診察の結果は「一刻を争う、緊急事態です」と脅された。そこには入院施設がないので、たいていのことでは(人気があるので)入院できない「災害医療センター」に入院できるよう手筈を取った。こうしたことは全部女房の働きである。息子の嫁の妹が同センターで看護師をしているので、そのコネがきいたようである。救急車で11時頃入院。途中、救急隊員が「腕が動かせるか」と聞くが、運動機能はなんら問題なし。救急車内に書かれている「文字が読めるか」と聞かれたら、読める文字と読めない文字があった。


いくつか検査し、ベットをあてがわれ、点滴することになった。さて、ベッドわきに座っていろいろとメモしようと書いてみた。最初にメモした言葉が「脳そうこつ」である! 続いて「立川医療センター」と書いた。


何を言いたいか。「脳そうこつ?」「あれ、こんな言葉じゃなかったな?」「なんだったけな?」ということである。「脳こうそく」と書けなかったのであった、ひらがながグチャグチャになってしまった。そして続いて書いた「立川医療センター」はぴたり書けていた。すなわち、漢字は完ぺき、しかもカタカナは部分的に正常。ただし、「記憶喪(損のつもり)失」と書くには書けるが、読み方がわからないので、看護師が「きおく」とルビを振ってくれた。


その次に書いた「リヒバリ」とは何のことか? 本人は「リハビリ」が始まるかもしれないので、そのことを書いたつもりだった。変だと思って「リババリ」と書きなおしたが、もっと変だ。また「ビラハマ」とメモったが、これはついに何を書こうとしたのか(永遠に)忘れてしまった。「これじゃ、今後どうなるのだろうか?」

原典講読『神の摂理』 48

 

(1) 原文


48.  (i.) Quod Infinitum in se ac Aeternum in se, sit idem cum Divino, constare potest ex illis quae in pluribus locis in transactione De Divino Amore et Divina Sapientia, ostensa sunt. Quod Infinitum in se ac Aeternum in se sit Divinum, est ex idea angelica; angeli non aliud per Infinitum intelligunt quam Divinum Esse, ac per Aeternum Divinum Existere. At quod Infinitum in se, ac Aeternum in se, sit Divinum, ab hominibus et videri potest et non videri; videri potest ab illis qui de Infinito non ex spatio, ac de Aeterno non ex tempore, cogitant; sed non videri potest ab illis qui de infinito ac aeterno ex spatio et tempore cogitant. Ita videri potest ab illis, qui elevatius, hoc est, interius in rationali cogitant; ac non videri ab illis qui humilius, hoc est, exterius. [2.] Illi, a quibus videri potest, cogitant quod infinitum spatii non possit dari, proinde nec infinitum temporis quod est aeternum a quo; quia infinitum est absque fine primo et ultimo, seu absque terminis. Cogitant etiam, quod nec dari queat Infinitum a se; quia a se ponit terminum et principium, aut prius a quo; consequenter quod vanum sit dicere Infinitum ac Aeternum a se, quia id foret sicut diceretur Esse a se, quod est contradictorium, nam Infinitum a se foret Infinitum ab Infinito, et Esse a se foret Esse ab Esse; ac illud Infinitum ac Esse foret vel idem cum Infinito, vel foret finitum. Ex his et similibus, quae interius in rationali possunt videri, patet, quod sit Infinitum in se, ac Aeternum in se, et quod hoc et illud sit Divinum, ex quo omnia.


 


(2) 直訳


(i.) Quod Infinitum in se ac Aeternum in se, sit idem cum Divino, constare potest ex illis quae in pluribus locis in transactione De Divino Amore et Divina Sapientia, ostensa sunt. (i.) 「本質的に無限(であるもの)そして本質的に永遠(であるもの)は神と同じ(同一)であること」は、それらから明らかにすることができる、それらは『神の愛と神の知恵について』の論文の中により多くの個所の中に、示されている。


Quod Infinitum in se ac Aeternum in se sit Divinum, est ex idea angelica; 本質的に無限(であるもの)そして本質的に永遠(であるもの)は、天使の観念からであること。


angeli non aliud per Infinitum intelligunt quam Divinum Esse, ac per Aeternum Divinum Existere. 天使たちは無限(であるもの)によって神的なエッセ以外に何も理解しない、そして永遠(であるもの)によって神的なエキシステレ。


At quod Infinitum in se, ac Aeternum in se, sit Divinum, ab hominibus et videri potest et non videri; しかし、本質的に無限(であるもの)は、そして本質的に永遠(であるもの)は、神的(神性)であること、人間によって見られることができる、また見られることが〔でき〕ない。


videri potest ab illis qui de Infinito non ex spatio, ac de Aeterno non ex tempore, cogitant; 彼らにより見られることができる、無限(であるもの)について空間からでなく、そして永遠(であるもの)について時間からでなく、考える者。


sed non videri potest ab illis qui de infinito ac aeterno ex spatio et tempore cogitant. しかし、彼らにより見られることができない、無限(であるもの)そして永遠(であるもの)について空間と時間から考える者。


Ita videri potest ab illis, qui elevatius, hoc est, interius in rationali cogitant; このように(したがって)彼らにより見られることができる、高揚された者、すなわち、理性的なものの中で内的に考える。


ac non videri ab illis qui humilius, hoc est, exterius. そして彼らにより見られることができない、低い者、すなわち、外的に〔考える〕。


[2.] Illi, a quibus videri potest, cogitant quod infinitum spatii non possit dari, proinde nec infinitum temporis quod est aeternum a quo; [2.] 彼らは、彼らにより見られることができる、空間の無限(であるもの)は存在することができないことを考える、よって(したがって)時間の無限(であるもの)、それから永遠(であるもの)それもまた〔存在し〕ない。


quia infinitum est absque fine primo et ultimo, seu absque terminis. なぜなら、無限(であるもの)終わり(末端、境界)なしであるから、最初と最後、すなわち、境界(限界)なし。


Cogitant etiam, quod nec dari queat Infinitum a se; さらにまた考える、それ自体から無限(であるもの)は存在することができないことを。


quia a se ponit terminum et principium, aut prius a quo; すなわち、それ自体から境界(限界)と始まりを置く(設ける、仮定する、前提とする)から、あるいはそれから最初。


consequenter quod vanum sit dicere Infinitum ac Aeternum a se, quia id foret sicut diceretur Esse a se, quod est contradictorium, nam Infinitum a se foret Infinitum ab Infinito, et Esse a se foret Esse ab Esse; その結果として(したがって)、それ自体からの無限(であるもの)そして永遠(であるもの)を言うことは空虚であること、それはそれ自体からのエッセが言われるようなものである(接続法未完了)ので、それは矛盾である、なぜなら、それ自体からの無限(であるもの)無限(であるもの)からの無限(であるもの)であるから、またそれ自体からのエッセはエッセからのエッセである。


ac illud Infinitum ac Esse foret vel idem cum Infinito, vel foret finitum. そして、その無限(であるもの)そしてエッセはあるいは無限(であるもの)と同じもであるか、あるいは有限であるものであるから。


Ex his et similibus, quae interius in rationali possunt videri, patet, quod sit Infinitum in se, ac Aeternum in se, et quod hoc et illud sit Divinum, ex quo omnia. これらと類似のものから、それらは理性的な者の中で内的に見られることができる、明らかである、本質的に無限(であるもの)そして本質的に永遠(であるもの)は、またこれとそれ(後者と前者)は神的(神性)であること、それらからすべてのもの。


 


(3) 訳文


48.  (i.) 「本質的に無限であるものと本質的に永遠であるものは、神と同一であること」は、著作『神の愛と知恵』の中の多くの個所で示されているものから明らかにすることができる。


 本質的に無限であるものと本質的に永遠であるものは、天使の観念からのものである。天使たちは無限であるものによって神的なエッセ以外に、そして永遠であるものによって神的なエキシステレ以外に何も理解しない。しかし、本質的に無限であるものと本質的に永遠であるものが神性であることは、人間によって見られることができ、また見られることができない。無限であるものについて空間からでなく、そして永遠であるものについて時間からでなく考える者たちにより見られることができるしかし、無限であるものと永遠であるものについて空間と時間から考える者らにより見られることができない。したがって、高揚された者、すなわち、理性的なものの中で内的に考える者たちにより見られることができる。そして、低い者、すなわち、外的に考える者らにより見られることができない。


[2.] 空間の無限であるものは存在することができないこと、したがって時間の無限であるもの、それから永遠であるものまた存在することができないことを考える者たちにより見られることができるなぜなら、無限であるものは境界が、最初と最後が、すなわち、限界がないからである。さらにまた、それ自体から無限であるものは存在することができないことを考えるすなわち、それ自体から限界と始まりを、あるいはそのもとの最初のものを仮定するから。その結果として、それ自体からの無限であるものと永遠であるものを言うことは空虚である、それはそれ自体からのエッセを言うようなものであるので、矛盾である、なぜなら、それ自体からの無限であるものは、無限であるものからの無限であるものであり、またそれ自体からのエッセはエッセからのエッセであるからである。そして、その無限であるものとエッセはあるいは無限であるものと同じもであるか、あるいは有限であるものであるから。


 理性的な者の中で内的に見られることができるこれらと類似のものから、本質的に無限であるものと本質的に永遠であるものは、またそれら両者はすべてのもののもとである神性あることが明らかである