玉城徹(たまき・てつ)さんの思い出

「いずこにも貧しき道がよこたわり神の遊びのごとく白梅」


 


714日の朝刊に訃報が載っていた。


「玉城徹さん死去」歌人、読売文学賞


歌人の玉城徹さんが13日午前11時、肺炎のため死亡した。86歳。…(中略)…仙台市生まれ。北原白秋に師事し、東大卒業後、教員生活のかたわら、正岡子規や白秋を研究した。…(後略)


そして、代表歌として掲載されていたのが上記の歌である。


 


さて、私との接点であるが「教員生活のかたわら…」の部分である。やや複雑な経緯の後、大学を出て都立高校教員として最初に赴任したのが青梅の「多摩高等学校」。そこの国語の教師が玉城さん。


教員の中では異色であった(同じく私も?)。私の教員生活で範とした先生の一人である。学校の帰り路、喫茶店に誘ってもらい話し、かわいがってもらった。酒が好き(同じく私も)なので、同僚と一本ぶら下げて自宅を訪問したこともあった。その時、新聞社から原稿料が届いていて、教員生活以外に活躍されていると知った。出会ったのは40代後半だった。


大学を出ただけで社会常識のなかった(今でもない)私に、いろいろ教えてくれた。その一つをここで紹介しよう、これはよく覚えている:「お礼は二度言うものである」


何かお世話になったとき、もっとくだけて「もらいもの」でもよい。そのとき当然「お例を言う」。その場で言うのが1回目(これすら言わない人もいるようだ、論外)。後日、またあった時「この前は…」ともう一度言う。これが2回目。一回こっきりでなく、このことは何を意味するか、すなわち「ご恩を忘れていませんよ」、ということ。この言葉で私は人の行動というものを見直すようになった。よい教えだと思う。


 


語れば、つきなくなりそう、というよりもこれ以上は当人を知らなければつまらないであろう、それで「歌の解釈」にはいる。東大では「美学」を学んだようだ。理屈っぽいし、むずかしい。この歌も一見しただけではなんだか全然わからない。投げ出そうと思った、しかし、私は翻訳をしているので、ある程度「解釈」できなければ翻訳業から撤退すべきであろう。実は「文字の通りの意味」だけからで「内意」は汲めない。背景、また精神的なものに踏み込むことが必要となって来る。ここに逸話がある。玉城さんは「長い直線を描くことができない」。すなわち、短い線を重ね、継ぎ足して長い線とする。ある日、私の似顔絵を箸の袋に描いてくれたことがあった。そのときの筆運びはまさにその通りであった。これを歌でいえば「言葉の重ね合わせ」であろう。


「貧しき道」「神の遊び」「白梅」といった言葉を重ね合わせて、そこから何かを浮かび上がらせるのである。でもこれだけでは無理だ。玉城さんの作風は徹底的に「われ」が視点となっている、という。すると、この歌も「われ」すなわち、自分を歌っている、とみなそう。


さて、「白梅」である。最後に唐突な付けたしとも思える「白梅」に悩み、女房に尋ねてみた。女房は多摩校出身、玉城さんのファンである。別の言い方をすれば「私は教え子と結婚した」。


「白梅ってなんだろう?」、すると女房は近くにある「白梅学園」の「いわれ」を持ちだした。どうも「清い生徒に育ってほしいらしい」と。そこで「清さの象徴」ではないかと思い至った。


 すなわち、ここには「清貧」が詠われている。


玉城さん自身が「貧しい道」を歩んでいる(歌を詠んでも、金にはならないネ)、そうした生活の中でもちゃんと「白梅」が咲いている。これはちょっとした「神の遊び」心なのか。(こんな解釈で内意としてはよろしいんでしょうか?)


 さて、私も「清貧」にあこがれる、「貧」は大丈夫、ほぼ退職金はなくなった。「清」はちょっとキビシイ。それでこれに一つ付け足して私の標語とする「清く、貧しく、いやらしく」。


 

原典講読『聖書』 104, 105

 

QUOD PER VERBUM ETIAM SIT LUX ILLIS


QUI EXTRA ECCLESIAM SUNT, ET NON HABENT VERBUM.


みことばによって彼らにもまた光があること、


教会の外にいる者、またみことばを持っていない。


 


(1) 原文


104.  Non potest, dari conjunctio cum caelo, nisi alicubi in tellure sit ecclesia, ubi est Verbum, et per id Dominus notus; quia Dominus est Deus caeli et terrae, et absque Domino nulla salus. Satis est, ut ecclesia sit, ubi Verbum, tametsi illa consistit ex paucis respective: per id usque Dominus praesens est ubivis in universo terrarum orbe, nam per id caelum conjunctum est humano generi; quod conjunctio sit per Verbum, videatur supra (n. 62-69).


 


(2) 直訳〔ここは『真のキリスト教』267番に引用されている〕


Non potest, dari conjunctio cum caelo, nisi alicubi in tellure sit ecclesia, ubi est Verbum, et per id Dominus notus; 天界との結合は存在することができない、地球の中のどこかで教会が存在しないなら、そこにみことばがある、またそれによって主が知られる。


quia Dominus est Deus caeli et terrae, et absque Domino nulla salus. 主は天と地の神であるから、また主なしに救いはない。


Satis est, ut ecclesia sit, ubi Verbum, tametsi illa consistit ex paucis respective: 十分である、教会があること、そこにみことばが〔ある〕、たとえそれが比較的少しの者から成り立っていても。


per id usque Dominus praesens est ubivis in universo terrarum orbe, nam per id caelum conjunctum est humano generi; それによってそれでも主は地球全体の中のどこにも現在される、なぜなら、それによって天界は人類に結合されるから。


quod conjunctio sit per Verbum, videatur supra (n. 62-69). みことばによって結合があることは、上に(62-69)見られる。


 


(3) 訳文


104. 地球上のどこかにみことばがあり、またそれによって主が知られる教会が存在しないなら、天界との結合は存在することができない。主は天と地の神であられ、また主なしに救いはないからである。みことばのある教会があれば、たとえそれが比較的少しの者から成り立っていても十分である。それでも、それによって主は地球全体の中のどこにも現在される、なぜなら、それによって天界は人類に結合されるから。みことばによって結合があることは、前に(62-69)見られる。


 


(1) 原文


105.  Quomodo autem praesentia et conjunctio Domini et caeli datur in omnibus terris per Verbum, dicetur. Universum caelum coram Domino est sicut unus homo, similiter ecclesia; quod etiam actualiter appareant ut homo, videatur in opere De Caelo et Inferno (n. {1}59-86). In illo homine est ecclesia, ubi Verbum legitur, et per id Dominus notus est, sicut cor et sicut pulmo; regnum caeleste ut cor, et regnum spirituale ut pulmo. [2] Sicut ex his binis fontibus vitae in humano corpore omnia reliqua membra et viscera subsistunt et vivunt, ita quoque omnes illi in terrarum orbe, apud quos religiosum est, et Deus unus colitur, et bene vivitur, et per id in homine illo sunt, et referunt membra et viscera ejus extra thoracem, ubi sunt cor et pulmo, ex conjunctione Domini et caeli per Verbum cum ecclesia, subsistunt et vivunt. Nam Verbum in ecclesia, tametsi est apud paucos respective, est vita reliquis a Domino per caelum, sicut membrorum et viscerum totius corporis est vita ex corde et pulmone; est quoque communicatio similis. Quae etiam causa est, quod Christiani apud quos Verbum legitur, constituant pectus illius hominis: sunt etiam in medio omnium, et circum illos sunt Pontificii, circum hos sunt Mahumedani qui agnoscunt Dominum ut Maximum Prophetam ac ut Filium Dei; post hos autem sunt Africani; ac ultimam circumferentiam constituunt gentes et populi in Asia et in Indiis: de qua illorum ordinatione videantur aliqua in opusculo De Ultimo Judicio (n. 48). Spectant etiam omnes, qui in homine illo sunt, versus meditullium, ubi sunt Christiani.


@1 86 pro “87”


 


(2) 直訳〔ここは『真のキリスト教』268番に引用されている〕


Quomodo autem praesentia et conjunctio Domini et caeli datur in omnibus terris per Verbum, dicetur. しかしながら、どのように主と天界の現在と結合が、みことばによってすべての地の中に存在するか、言われる(未来)


Universum caelum coram Domino est sicut unus homo, similiter ecclesia; 天界全体は主の前に一人の人間のようである、同様に教会は。


quod etiam actualiter appareant ut homo, videatur in opere De Caelo et Inferno (n. {1}59-86). 人間として実際に見られることもまた、著作『天界と地獄』の中に(59-86)見られる。


In illo homine est ecclesia, ubi Verbum legitur, et per id Dominus notus est, sicut cor et sicut pulmo; その人間の中で教会である、そこにみことばが読まれる、またそれによって主が知られる、心臓のよう、また肺のよう〔である〕。


regnum caeleste ut cor, et regnum spirituale ut pulmo. 天的な王国は心臓として、また霊的な王国は肺として。


[2] Sicut ex his binis fontibus vitae in humano corpore omnia reliqua membra et viscera subsistunt et vivunt, ita quoque omnes illi in terrarum orbe, apud quos religiosum est, et Deus unus colitur, et bene vivitur, et per id in homine illo sunt, et referunt membra et viscera ejus extra thoracem, ubi sunt cor et pulmo, ex conjunctione Domini et caeli per Verbum cum ecclesia, subsistunt et vivunt. [2] 人間の身体の中の二つのいのちの泉から、すべての残りの四肢や内臓は存続し、生きるように、このようにまたすべての者は、それは地球の中のもの、その者のもとに宗教がある、またひとりの神を礼拝する、またよく生きる、またそのことよってその人間の中にいる、また胸部の外のその四肢と内臓に対応する☆、そこに心臓と肺がある、みことばを通して教会との主と天界の結合から、存続し、生きる。


referoには「対応によって結びつく、対応する」という意味があります。


Nam Verbum in ecclesia, tametsi est apud paucos respective, est vita reliquis a Domino per caelum, sicut membrorum et viscerum totius corporis est vita ex corde et pulmone; なぜなら、教会の中のみことばは、たとえ比較的少ない者のもとに存在しても、主により天界を通して残りの者にいのちがあるから、全身の四肢と内臓にいのちがあるように、心臓と肺から。


est quoque communicatio similis. 同様に結合もまた存在する。


Quae etiam causa est, quod Christiani apud quos Verbum legitur, constituant pectus illius hominis: さらにまたそれが理由である、キリスト教徒たちが、彼らのもとでみことばが読まれる、その人間の胸を構成すること。


sunt etiam in medio omnium, et circum illos sunt Pontificii, circum hos sunt Mahumedani qui agnoscunt Dominum ut Maximum Prophetam ac ut Filium Dei; さらにまたすべての者の真ん中にいる、またその周囲にローマカトリック教徒がいる、この周囲にイスラム教徒がいる、主を最大の預言者として、そして神の子として認める者。


post hos autem sunt Africani; しかしながら、これらの後ろに(続いて)、アフリカ人がいる。


ac ultimam circumferentiam constituunt gentes et populi in Asia et in Indiis: そして周辺の最外部はアジアの中とインドの中の国民と人民が構成する。


de qua illorum ordinatione videantur aliqua in opusculo De Ultimo Judicio (n. 48). それらの配列、それについて、何らかのものが小著『最期の審判』(48)に見られる。


Spectant etiam omnes, qui in homine illo sunt, versus meditullium, ubi sunt Christiani. さらにまたすべての者は眺める、その人間の中にいる者たち、中央に向かって、そこにキリスト教徒たちがいる。


@1 86 pro “87” 注1 87」の代わりに86


 


(3) 訳文


105.  しかしながら、みことばによって、すべての地上にどのように主と天界の現在と結合が存在するか、述べよう。天界全体は主の前に一人の人間のようであり、教会も同様である。また、人間として実際に見られることは、著作『天界と地獄』の中に見られる(59-86)。みことばが読まれ、またそれによって主が知られる教会は、その人間の中で、心臓と肺のようである。天的な王国は心臓のよう、また霊的な王国は肺のようである。


[2] 人間の身体の中の二つのいのちの泉から、すべての残りの四肢や内臓は存続し、生きるように、このようにまた地球上の、その者のもとに宗教があり、またひとりの神を礼拝し、またよく生き、またそのことよってその、また心臓と肺がある胸部の外の四肢と内臓に対応する人間の中にいるすべての者は、みことばを通して教会との主と天界の結合から、存続し、生きる。なぜなら、教会の中のみことばは、たとえ比較的少ない者のもとに存在しても、全身の四肢と内臓に心臓と肺から、いのちがあるように、主により天界を通して残りの者に、いのちがあるから。同様に結合もまた存在する。さらにまたそれが、みことばを読むキリスト教徒たちが、その人間の胸を構成し、さらにまたすべての者の真ん中にいて、その周囲にローマカトリック教徒がいる、この周囲に主を最大の預言者として、そして神の子として認めるイスラム教徒がいる理由である。しかしながら、これらの続いて、アフリカ人がいる。そして周辺の最外部はアジアの中とインドの中の国と民が構成する。それらの配列について、何らかのものが小著『最期の審判』(48)に見られる。さらにまた、その人間の中にいるすべての者は、キリスト教徒たちがいる中央に向かって眺めている。

青い梅いつのまにやら老梅酒

 

 玉城徹さんをしのぶ記事を書いてから、やや考えていた。そして、ふと思った。私も詠んでみようと。ただし短歌をやったことはない。俳句もしくは川柳である。



 青梅の多摩高時代は私の
20代だった。未熟で恥ずかしいこともしょっちゅうだった。しかもこれは今も変わらない。なんだかんだ過ごしながらも、いまや60代。いやゆる「老境」である。


 それで、表題の句となった。「青い梅」は季語なのか? ならば、愚作ながら俳句。



 前後関係を何も言わずに、ある人に「こんな句をつくったけど、どう?」と感想を聞いてみた。しばらくじっと考えていて、「人生ですね、人生を感じます」と言った。大正解。


 


 青梅で教員を始めた(社会人となった)あの頃は「青かったな」、いろいろあったけれど、今や「老人」、少しは、「老成」しただろうか、味わってもらえる「梅酒」となっただろうか。


そうなりたいものだ……しかし、普通の人から見れば、駄作ですね。



 また別の人は「梅酒の形容が『老』以外にないの?」と感想を述べた。私としては、私自身が日々、酒びたりの老人だし、字面から『老酒』の雰囲気もあって、これでよいと思っている。