原典講読『聖書』 97(続き)

 

[5] Divinum Verum in Verbo, et ejus quale, describitur per cherubos apud Ezechielem, in capite primo, et in nono, et decimo: [5] みことばの中の神的な真理は、またその性質は、エゼキエルのもとにケルビムによって述べられている、最初の章の中に、また九の中に、また十。


at quia nemo scire potest quid per singula descriptionis illorum significatur, nisi cui apertus est sensus spiritualis, ideo mihi detectum est quid in summa per omnia illa, quae de cherubis dicuntur in primo capite apud Ezechielem, significatur, quae haec sunt:- しかし、だれも知ることができないので、それらの記述の個々のものによって何が意味されるか、霊的な意味が開かれた者でないなら、それゆえ、私に明かされた、要約した形で(手短に)、それらすべてのものによって、それらはケルビムについて言われている、エゼキエルのもとの最初の章の中に、何が意味されるか、それらはこれらである―


Describitur Divina sphaera externa Verbi (vers. 4); みことばの外なる神的なスフェアが述べられている(4)
Illa repraesentata sicut homo (vers. 5);
 その表象は人間のように〔見えた〕(5)
Conjuncta spiritualibus et caelestibus (vers. 6);
 霊的なものと天的なもので結合された(6)
Naturale Verbi, quale est (vers. 7);
 みことばの自然的なもの、どんなものであるか(7)
Spirituale et caeleste Verbi conjunctum naturali ejus, quale (vers. 8, 9);
 みことばの霊的なものと天的なもの、その自然的なものに結合した、性質(8, 9)
Divinus Amor boni et veri caelestis, spiritualis et naturalis inibi, distinctim, et simul (vers. 10, 11);
 その中に天的な、霊的なまた自然的な善と真理の神的な愛、区別して、また一緒に(10, 11)
Quod ad unum spectent (vers. 12);
 一つのものに向かって眺めること(12)
Sphaera Verbi ex Divino Bono et Divino Vero Domini, ex quibus Verbum vivit (vers. 13, 14);
 主の神的な善と神的な真理からのみことばのスフィア、それらからみことばは生きる(13, 14)
Doctrina boni et veri in Verbo et ex Verbo (vers. 15-21);
 みことばの中の、またみことばからの善と真理の教え(15-21)
Divinum Domini supra illud et in illo (vers. 22, 23);
 その上のまたその中の主の神性(22, 23)
Et ex illo (vers. 24, 25);
 またそれから(24, 25)
Quod Dominus sit supra caelos (vers. 26);
 主は天界の上におられること(26)
Et quod Ipsi sit Divinus Amor et Divina Sapientia (vers. 27, 28).
 また神的な愛と神的な知恵はその方のものであること(27, 28)


Haec summaria etiam collata sunt cum Verbo in caelo, et cum illo conformia sunt. これらの概要もまた天界の中のみことばと比較された、またそれと調和した。


@1 xxxvii. pro “xxxvi.”  1 xxxvi」の代わりにxxxvii


@2 1, 31 pro “31” 注1 31」の代わりに1, 31


@3 23 pro “22” 注1 22」の代わりに23 


 


(3) 訳文


97.  ほかにも、みことばの文字通りの意味は内部に隠れている純粋な真理のための保護(見張り番)であることを知らなくてはならないまた、その意味はあちらこちらに変えられることができ、把握にしたがって説明されることができるそのことの中に保護(見張り番)があり、またそのことによって、それでも内なるものは傷つけられることと害されることができない。というのは、みことばの文字通りの意味が、ある者と他の者を比べて異なって解釈されても害されないから。しかし、もし内部に隠れている神的な真理が曲解されるなら、それは害するというのは、このことによって、みことばに暴力が加えられるから。このことが起こらないように、文字通りの意味は保護する。また、宗教からの虚偽の中にいて、虚偽を確信しない者のもとで保護する。なぜなら、これらの者は何らかの暴力を加えないから。


[2] この保護(見張り番)が「ケルビム」によって意味され、みことばの中のケルビムによって述べられている。それが、アダムが妻とともにエデンの園から追い出された後、その入口に置かれた「ケルビム」によって意味されている。そのことについて、次のことが書かれている


 


 エホバ神が人間を調べられた(見つけ出された)き、「エデンの園の東からケルビムを住ませられ、またここかしこに回転する剣の炎を、いのちの木の道を守るために〔置かれた〕」(創世記3:23, 24)


 


 「ケルビム」によって保護(見張り番)が意味される。「いのちの木の道」によって、みことばを通して人間にある主への入口が意味される。「ここかしこに回転する剣の炎を」によって、文字通りの意味の中のみことばのような最後のものの中の神的な真理が意味され、それはこのように回転することができる。


[3] 類似のものが、幕屋の中の箱の上にあった贖いのふたの両端の上に置かれた「金のケルビム」(出エジプト記25:18-21)によって意味される。このことが「ケルビム」によって意味されたので、それゆえ、主はそれらの間でモーセと話された(出エジプト記25:22、第379、民数記7:89)


主は人間と完全なものの中でないなら、語られないこと、また文字通りの意味の中のみことばは完全なものの中にあることは、前に見られる(37-49)。そこで、このように主はモーセとケルビムの間で話された。


 幕屋の幕の上の、またそこの垂れ幕の上のケルビム(出エジプト記26:1, 31)によって、ほかの何も意味されない。なぜなら、幕屋の幕と垂れ幕は天界と教会の最後のものを、そしてこのようにまたみことばの最後のものを表象したから(前の46番に見られる)エルサレムの神殿の真ん中のケルビム(列王記Ⅰ6:23-28)によっても、神殿の壁と扉の上に刻まれたケルビム (列王記Ⅰ6:29, 32, 35) によっても、同様に、新しい神殿の中のケルビム(エゼキエル41:18-20)によっても、ほかの何も意味されない、〔このことは〕前(47)にもまた見られる。


[4]みことばの内部にあるような、主、天界、神的な真理に直接に近づかないで、しかし、最後のものによって間接的に近づくように、「ケルビム」によって保護(見張り番)が意味されたので、それゆえ、ツロの王についてこのように言われている―


 


 「あなたは定められたものを封じている、知恵に満ち、また美しさで完全〔である〕。エデンの園に……あなたはいた。すべての宝石はあなたのおおい。あなたはケルブ、おおいの広がり。……おおうケルブよ、わたしはあなたを火の石の真ん中で破壊した」(エゼキエル28:12-14, 16)


 


 「ツロ」によって真理と善の知識に関する教会が意味される、またここから「その王」によって、そこにまたそこからそれらの知識がある、みことばが意味される。ここのその王によって、文字通りの意味であるその最後のものの中の、みことばが、また「ケルブ」によって保護(見張り番)が意味されることが明らかである。なぜなら、「あなたは定められたものを封じている。……すべての宝石はあなたのおおい」……「あなたはケルブ、おおいの広がり」。また「おおうケルブよ」のように言われているから。そこにもまた名前を挙げられている「宝石」によって、みことばの文字通りの意味の真理が意味されることは、前に(45)に見られる。「ケルビム」によって神的な真理の最後のものが意味されるので、それゆえ、ダビデに言われる、


 


 エホバは「天を押し曲げて降りて来られた、またケルブの上に乗られる」(詩篇18:9, 10)


 「イスラエルの牧者、ケルビムの上に座る者よ、輝き出てください」(詩篇80:1)


 「エホバは……ケルビムに座られる」(詩篇99:1)


 


 「ケルブの上に乗ること」、「その上に座ること」また「それに座ること」は、みことばの最後の意味の上に〔乗ること〕である。


[5] みことばの中の神的な真理は、またその性質は、エゼキエル書の最初の章、また第九章、第十章の中のケルビムによって述べられている。しかし、それらの記述の個々のものによって何が意味されるか、霊的な意味が開かれた者でないなら、だれも知ることができないので、それゆえ、(手短に)、それらは、エゼキエル書の最初の章の中で、ケルビムについて言われているそれらすべてのものによって、何が意味されるか、要約した形で私に明かされた。それらはこれらである―


 


 みことばの外なる神的なスフェアが述べられている(4)


 その表象は人間のように〔見えた〕(5)


 霊的なものと天的なもので結合された(6)


 みことばの自然的なものが、どんなものであるか(7)


 みことばの霊的なものと天的なものが、その自然的なものに結合した、その性質(8, 9)


  区別され、また一緒にされた、その中の天的な、霊的なまた自然的な善と真理の神的な愛(10, 11)

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