(Praeter alibi.) (その他に、他の個所に)
Quod gentes et simul populi dicantur, est quia per “gentes” intelliguntur qui in bono sunt, et in opposito sensu qui in malo; 国民とまた同時に人民が言われていることは、「国民」によって善の中にいる者が意味されるからである、また対立する意味で悪の中に〔いる〕者が。
et per “populos” qui in veris, et in opposito sensu qui in falsis: また「人民」によって真理の中に〔いる〕者が、また対立する意味で虚偽の中に〔いる〕者が。
quare illi qui e spiritual regno Domini sunt, vocantur populi; それゆえ、彼らが、主の霊的な王国の中にいる者が、人民と呼ばれる。
et illi qui e caelesti regno Domini sunt, vocantur gentes; また彼らが、主の天的な王国の中にいる者が、国民と呼ばれる。
nam in spirituali regno sunt omnes in veris et inde in sapientia, in caelesti autem regno sunt omnes in bono et inde in amore. なぜなら、霊的な王国の中にいるすべての者は真理の中に、またここから知恵の中に〔いる〕、しかしながら、天的な王国の中にいるすべての者は善の中に、またここから愛の中に〔いる〕から。
@1 xiv. pro “xvi.” 注1 「xvi.」の代わりにxiv.
@2 xviii. 7 pro “xvi. 2” 注2 「xvi. 2」の代わりにxviii. 7
@3 7 pro “8” 注3 「8」の代わりに7
@4 lv. pro “liv” 注4 「liv」の代わりにlv.
@5 “Jehovah:”- sic ed. princeps; 注5「Jehovah」―このように初版。
sic Apoc. Rev., n. 483; V.C.R., n. 251; このように『啓示された黙示録』483番。『真教』251番。
vide autem Apoc. Expl., n. 687(b), ubi legimus “Deus,” quod textum Hebraeum rectius interpretatur. しかしながら『黙示録講解』687(b)番を見よ、そこに私たちは「Deus」と読む、これはへブル語本文が正しく翻訳されている。
(3) 訳文
86. 同じ事柄のような繰り返しが、善と真理の結婚ために、みことばの中にあることは、「国民(国)と人民(民)」が言われている個所から明らかに見られることができる。例えば、これらの中に―
「わざわいだ、罪を犯す国、不法の重い民」(イザヤ1:4)。
「暗やみの中を歩いている民は大きな光を見た……あなたは民を増やされた」(イザヤ9:2, 3)。
「アッシリア、わたしの怒りの杖。……わたしはこれを偽善の国民に送る、私の激しい憤りの民に対してわたしはそれを与える」(イザヤ10:5, 6)。
「その日に生じる。エッサイの根は、民の旗として立ち……国民は求める」(イザヤ11:10)。
エホバは「民を……癒されることのできない災害で打ち、怒りとともに国民を支配される」(イザヤ14:6)。
「その日に、万軍の主に贈り物がもたらされる、散らされたまた剃髪にされた民、また……測られて、踏みにじられた国民」(イザヤ18:7)。
「力強い民はあなたを尊ぶ、力のある国民の都はあなたを恐れる」(イザヤ25:3)。
エホバは「……すべての民の上の包みを……すべての国民の上のおおいを、のみ込まれる」(イザヤ25:7)。
「近づけ、国民よ……また民よ、聞け」(イザヤ34:1)。
「わたしはあなたを呼んだ……民を契約に、光の中に国民を」(イザヤ42:6)。
「すべての国民は一つに集められ、また民は集まる」(イザヤ43:9)。
「見よ、わたしは国民に向かって対してわたしの手を、また民に向けて……わたしの旗を上げる」(イザヤ49:22)。
「民に証人としてわたしはその方を、指導者と立法者として国民に与えた」(イザヤ55:4, 5)。
「見よ、民が北の地から来る、また大きな国民が……地の果てから」(エレミヤ6:22)。
「わたしはあなたにもはや国民の中傷を聞かせない、また民のそしりをもはやあなたは受けない」(エゼキエル36:15)。
「すべての民と国民がその方を礼拝する」(ダニエル7:14)。
「国民について物笑いにしないように、また民の中で『彼らの神はどこに?』と言わないように」(ヨエル2:17)。
「わたしの民の残りの者がそれらを略奪する、わたしの国民の残余が彼らを相続する」(ゼパニヤ2:9)。
「多くの民がやって来る、また多数の国民がエルサレムで万軍のエホバを求めるために」(ゼカリヤ8:22)。
「私の目はあなたの救いを見ます、それはすべての民の顔の前に備えられたもの、国民(異邦人)の啓示の光です」(ルカ2:30-32)。
「あなたは……私たちをあなたの血で、すべての……民族と国民から、あがなわれた」(黙示録5:9)。
「あなたは再び民族と国民について預言しなければならない」(黙示録10:11)。
「あなたは私を国民の頭に置く。私の知らない民が私に仕える」(詩篇18:43)。
「エホバは国民の計画をむだに戻し、民の考えをひっくり返される」(詩篇33:10)。
「あなたは私たちを国民の中で物笑いに、民の間で頭の揺れ動く者にされる」(詩篇44:14)。
エホバは「民を私たちの下に、国民を私たちの足の下に従わせられる。……主は国民の上に支配された。……民の有志たちは集められた」(詩篇47:3, 8, 9)。
「あなたを民は称賛する。国民は喜び、歓呼する。あなたが民を正直にさばき、国民を地で導かれることから」(詩篇67:3, 4)。
「私を覚えてください、エホバ、あなたの民の気にいることの中に。……私があなたの国民の楽しさの中で喜ぶように」(詩篇106:4, 5)。 (その他の個所に)
国民とまた同時に人民が言われていることは、「国民」によって善の中にいる者が、また対立する意味で悪の中にいる者が意味されるからである。また「人民」によって真理の中にいる者が、また対立する意味で虚偽の中にいる者が意味されるからである。それゆえ、主の霊的な王国の中にいる者は人民と呼ばれ、主の天的な王国の中にいる者は国民と呼ばれる。なぜなら、霊的な王国の中にいるすべての者は真理の中に、またここから知恵の中にいる、しかし、天的な王国の中にいるすべての者は善の中に、またここから愛の中にいるから。