原典講読『聖書』 85(続き2)

 

@1 “terram:”sic editio princeps;  1 terram」―このように初版。


vide autem A.C., n. 2235, ubi legimus “Zionem,” quod textum Hebraicum rectius interpretatur. しかしながら、『秘義』2235番を見よ。そこに私たちは「Zionem」と読む、これはへブル語本文が正しく翻訳されている。


@2 Facite pro “Facito” (vide A.C., n. 4844).  2 Facito」の代わりにFacite(『秘義』4844番を見よ)


@3 xxii. pro “xxxii.”  3 xxxii.」の代わりにxxii.


@4 “Me tibi:”sic editio princeps;  4 Me tibi」―このように初版。


vide autem A.C., n. 9182, ubi legimus “te Mihi,” quod textum Hebraeum rectius interpretatur. しかしながら、『秘義』9182番を見よ。そこに私たちは「te Mihi」と読む、これはへブル語本文が正しく翻訳されている。


@5 tuam pro “suam” (vide A.C., n. 1458).  5 suam」の代わりにtuam(『秘義』1458番を見よ)


@6 “suum”sic editio princeps;  6 suum」―このように初版。


sic quoque A.C., n. 9209, Apoc. Rev. n. 668, V. C. R., n. 51: このようにまた、『秘義』9209番、『啓示された黙示録』668番、『真教』51番。


tuum rectius interpretaretur textum Hebraeum. tuumはへブル語本文が正しく翻訳されている。


@7 “suos: “sic editio princeps;  7 suos」―このように初版。


sic quoque A.C., n. 9209, Apoc. Rev., n. 668, V.C.R., n. 51: このようにまた、『秘義』9209番、『啓示された黙示録』668番、『真教』51番。


tuos rectius interpretaretur textum Hebraeum. tuosはへブル語本文が正しく翻訳されている。


@8 lxxxix. 15 (B.A. 14) pro “lxxix. 5” 注8 lxxix. 5」の代わりにlxxxix. 15(B. A.14)


 


(3) 訳文


85.  みことばの中に同じ事柄の繰り返しのように見える二つのこのような表現があることを、みことばから示すことは長くてうんざりするものになるであろう、なぜなら、紙面を満たすから。しかし、疑いが取り除かれるために、私は、そこに「審判と公正()」が、さらにそこに「国民と人民」が、例えばまた、そこに「楽しさと喜び」が一緒に言われている個所を提示したい。そこに「審判」と一緒に「公正()」が名前を挙げられている個所は次のものである――


 


 「都は……審判で満ちていた、公正が夜を過ごした」(イザヤ1:21)


 「シオンは公平のうちに、またその帰ってくる者は審判のうちに、あがなわれる」(イザヤ1:27)


 「万軍のエホバは審判のうちに高められ、聖なる神は義のうちにきよめられる」(イザヤ5:16)


 「ダビデの王座の上に、その王国の上に座る、それを……審判と義のうちに確立するために」(イザヤ9:7)


 「エホバは高められる、高いところに住まわれるから。また地を審判と公正()満たされた」(イザヤ33:5)


 「エホバは言われた、審判を守れ、また義を行なえ。わたしの救いが近いから……わたしの義が現われるように」(イザヤ56:1)


 「義を行ない、また自分の神の審判を見捨てなかった国民のように、彼らは……義の審判を求める」(イザヤ58:2)


 「生きるエホバによって……審判と義の中で誓え」(エレミヤ4:2)


 「誇る者はこのことについて誇れ……エホバは地に……審判と義を行なわれたこと」(エレミヤ9:24)


 「審判と義を行なえ。……わざわいだ、義なしに自分の家を建て、また審判なしに自分の高殿を建てる者。……あなたの父は……審判と義を行なわなかったか、またその時、彼らはよくなかったか?」(エレミヤ22:3, 13, 15)


 「わたしはダビデに正しい若枝を起こす、彼は王となって支配する……また地に審判と義を行なう」(エレミヤ23:5、第3315)


 「もし男が正しいなら、その者は審判と義を行なう」(エゼキエル18:5)


 もし不信心な者でも「引き返すなら、また審判と義を行なうなら、彼に対して記憶はない、また審判と義を行なうなら、生きに生きる」(エゼキエル33:14, 16, 19)


 「私は私をあなたに永遠に婚約させる……義のうちにまた審判のうちに、また慈悲のうちに、また哀れみうちに」(ホセア2:19)


 「審判を水のように、また義を泉の流れのように流れさせよ」(アモス5:24)


 「あなたがたは審判を胆汁に、義の実をニガヨモギに変えてしまった」(アモス6:12)


 エホバは「私の争いを争われ、私に審判を行なわれ、私を光の中に連れ出される。私はその方の義を見る」(ミカ7:9)


 「エホバよ、あなたの義は神の山のようであり、あなたの審判は大きな深淵のようです」(詩篇36:6)


 エホバは「あなたの義を光のように、またあなたの審判を真昼のように現わされる」(詩篇37:6)


 エホバが「ご自分の民を義のうちに、またご自分の哀れな者たちを審判のうちにさばきますように」(詩篇72:2)


 「義と審判はあなたの王座の支え」(詩篇89:14)


 「私があなたの義の審判を学ぶとき、……あなたの義の審判に、私は日に七度、あなたをほめたたえます」(詩篇119:7, 164)


 ガドは「主の義と、またその方の審判をイスラエルに行なう」(申命記33:21)


 真理の霊は「世に……義について、審判について非難する」(ヨハネ16:8, 10)(また他の個所)


 


 審判と義がこれほど何度も言われていることは、審判は真理について、また義は善について言われるからである。それゆえ、「審判と義を行なうこと」によってもまた真理と善から行なうことが意味される。審判が真理について、また義が善について言われるのは、霊的な王国の中の主の統治は審判と呼ばれ、天的な王国の中の主の統治は義と呼ばれるからである(そのことについて著作『天界と地獄』214, 215番の中に見られる)。審判は真理について言われるので、それゆえ、ある個所では、「真理と公正」と言われている(例えば、イザヤ11:5、詩篇85:11、また他の個所に)


 


(4) 記号「B. A.」について


聖書の節番号についての注釈なので別に説明の必要もないと思い、これまで説明してこなかったが、やはり説明しておこう。この節番号は『欽定訳聖書』の番号、そして私たちの現行の聖書の番号と一致している。


Swedenborg Societyの本のどこにもこの記号の説明はない。説明はないが99%Biblica Anglicaeの省略形であると思う。すなわち「英語版聖書」である。へブル語聖書(同じくスヴェーデンボリが使用したいた聖書の旧約部分)と現在の聖書の章や節番号は多少ずれているものがあるからである。

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