原典講読『聖書』 51(その1~5)その2

 

(3) 訳文


51. (i.)「みことばは教えなしに理解されないこと」は、みことばは文字通りの意味の中で、霊的なものと天的なものが同時に存在し、そしてそれらのそれぞれの言葉が容器と支えであるようにとの目的のために、対応そのものから構成されるからである。それゆえ、文字通りの意味の中で、ある個所の中では、むき出しの真理はなく、真理の外観と呼ばれるものを着せられている。また多くの真理は、思考を目の前に見るようなものの上に高揚させない単純な者の理解力に適当なものとなっている。またあるものは矛盾のように見えるが、そのときそれでも、みことばの中に、それ自体の光の中で見られるとき、何も矛盾はない。また、預言書のある個所にもまた、前の引用されたそれらのように(15)場所と人物の名前が集められているだけで、それらから何らかの意味が導き出されることができない。そこで、みことばが文字通りの意味の中でこのようなものであるとき、教えがなくては理解されることができないことが明らかである。しかし、このことを例で説明しよう。[2] 言われている、


 


 エホバは悔いられること(出エジプト記32:12、ヨナ3:9、第42)


 また言われている、


 


 エホバは悔いられないこと(民数記23:19、サムエル記Ⅰ15:29)


 これらは教えがなくては調和しない。


 


 言われている、


 


 エホバは父の不法を息子たちの上に三、四代にわたって罰すること(民数記14:18)


 しかし、言われている、


 


 父が息子のために、息子も父のために死ぬことはなく、だれも自分の罪のうちに死ぬこと(申命記24:16)


 


 これらは一致しないのではなく、教えによって一致する。


 


[3] イエスは言われた、


 


 「求めよ、すると与えられる、探せよ、すると見つける、たたけ、すると開けられる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つ、たたく者は開けられる」(マタイ7:7, 821:21, 22)


 


 教えがないなら、だれでも求めるものを受ける、と信じてしまうであろう。しかし、教えから、人間が求める何でも自分自身から受けないで、しかし、主から、これが与えられることが信じられる。というのは、このことを主はまた教えられるから、


 


 「もし、あなたがわたしの中にとどまり、またわたしのことばがあなたがたの中にとどまるなら、あなたがたが欲するものは何でも求めよ、あなたがたに行なわれる」(ヨハネ15:7)


 


[4] 主は言われた、


 


 「貧しい者は幸いである、神の国はあなたがたのものであるから」(ルカ6:20)


 


 教えがないなら、天界は貧しい者たちにのものであり、富んだ者たちものではない、と考えてしまう。しかし、教えからは、霊で貧しい者たちが意味されることが教えられる。なぜなら、主は言われたから、


 


 「霊で貧しい者たちは幸いである、天の王国は彼らのものであるから」(マタイ5:3)


 


[5] 主は言われた、


 


 「さばくな、さばかれないように。…あなたがたがさばくそのさばきで、あなたがたがさばかれる」(マタイ7:1, 2、ルカ6:37)


 


 このことは教えがないなら、悪について悪であることを言ってはならないために、したがって、悪を悪であるとさばいてはならないこと確認するために提示することができる。しかし、教えからさばくこと、しかし、正しくさばくことは許されている。というのは、主は言われたから、


 


 「正しいさばきを、さばけ」(ヨハネ7:24)

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