韓国新教会との交流が始まるか? その1 

 

 ここで韓国新教会のヤン師夫妻が来日した(527日~30)。同教会へ日本からはすでにKさん(4)Sさんが訪問している。KさんSさんの招待も幾分あってのことであるが、ここで「私的旅行」という名目で、私たち「ジェネラルチャーチ東京グループ」の礼拝に参加された。以下雑談風に(と言おうかそのようにしか語れない)、筋道もなく、私の交流を述べてみる。


 


527() JAL 954便にて1610分成田到着(実際は20分前)。出迎えは私一人。初対面ではあるが事前にSさんから顔写真を知らされているので、大丈夫。4:30頃、ほぼ最後に出てきた。師からの最初の言葉は「Nice meet you!」。奥さまは英語ができない。すなわち、会話は英語でヤン師とだけ。


私は退職してfreeなので、他にだれもいなければ、こうした出迎えを引き受ける(ある意味、「便利な存在」であろう)。宿泊先の新宿まで電車で案内。夫妻は日本初訪問である。途中、訪問希望地を聞くが何の希望もない、興味があるものとして、わずかに聞き出せたのが「神社仏閣」、当然であろう。世間話も適当にする。すなわち、彼から「Can I ask your age?…」などである。師が60歳、私が63歳。ともに定年退職の身である。病院に勤めていたとのこと(後でX線技師であったと知る)


名前を紹介しておこう、しかし、発音などよくわからない。正確でないかもしれない。


 


ヤン・フウ?・デ Yang Gyu Dae(梁圭大) ウン?・シュ・ヒEun Sook Hee(殷叔姫)


 


ローマ字は師本人に書いてもらったのでO.K.と思う。漢字も書いてもらったがやや怪しい。例えば、「圭」には点があり、「姫」は師が最初に書いたときはこれだったが、次に奥さまが書いたときは「女」編がリッシンベンになっていた。


 


宿は歌舞町のど真ん中、しかし周囲にいくらでもあるラブホテルではない。夕方6時過ぎとなり、駅からのホテルまでの途中、スーツを着込んだ「ホスト」がごろごろ。一応、彼らが何者か説明した。わかっただろうか? チェックインをした後、遅くなったこともあって、新宿の案内は少しにして、すぐに夕食にすることにした。最初に「花園神社」に行った。あちこちで「露店」の用意していた。翌日にわかったことであるが、金・土・日と花園神社の「例大祭」であった。


最初、「何でこんなところ(新宿)に宿を取ったのだろう、環境劣悪」と思っていたが、結果的には大正解だった。翌日、日本の伝統的祭りが味わえたのだから。


 


さて、「これが伊勢丹」「これが三越」とデパートを案内し(奥さまが寄られるかもしれないから)、「つな八」へ行った。話は逸れるが江戸(東京)の味をご存じだろうか? 私は次の五つと思っている。「そば、(江戸前)寿司、てんぷら、ウナギ」そして明治に入って「すき焼き」である。


外人が日本(東京)に来た時、まずはこれらを味わってもらうことにしている。すなわち、てんぷら「つな八」である。店まで案内し、帰ろうと思っていたのだか、「一緒に食べろ」というので、接待する側なのに結果的にはごちそうになってしまった。カウンター席で目の前で揚げてもらう。店の揚げているオヤジが「どこから来たんですか?」と聞く、「韓国からです」と答えた。なんと揚げている品物を韓国語で説明している。こんなことがあるもんだ、と驚く。そして「アナゴ」は韓国語でも「アナゴ」いうらしい。話していたら、オヤジが「これ」と、アナゴを手にとって見せてくれた。


 


27日はこれまで。なぜこのようなことを話すかと言うと、Mさんがそうであるが、私の雑談(雑木林)を期待している人がいるからである。続きは明日。

原典講読『聖書』 41, 42

 

(1) 原文


41.  Quoniam Verbum in sensu litterae tale est, sequitur, quod illi qui in Divinis veris sunt et in fide quod Verbum intus in suo sinu sanctum Divinum sit, et magis illi qui in fide sunt quod Verbum tale sit ex sensu spirituali et caelesti ejus, dum in illustratione a Domino legunt Verbum, videant Divina vera in luce naturali; nam lux caeli, in qua est sensus spiritualis Verbi, influit in lucem naturalem, in qua est sensus litterae Verbi, ac hominis intellectuale, quod vocatur rationale, illuminat, et facit ut videat et agnoscat Divina vera, ubi exstant et ubi latent: haec cum luce caeli influunt apud quosdam, quandoque etiam cum nesciunt.


 


(2) 直訳


Quoniam Verbum in sensu litterae tale est, sequitur, quod illi qui in Divinis veris sunt et in fide quod Verbum intus in suo sinu sanctum Divinum sit, et magis illi qui in fide sunt quod Verbum tale sit ex sensu spirituali et caelesti ejus, dum in illustratione a Domino legunt Verbum, videant Divina vera in luce naturali; みことばは文字通りの意味の中でこのようなものであるので、いえる、神的な真理の中にいる者彼らは、また信仰の中に、みことばは内部にその内部に(ふところに)、聖なるもの神性があること、またさらに(いっそう)信仰の中にいる者彼らは、みことばはその霊的なまた天的な意味からそのようなものであること、主からの照らしの中でみことばを読む時、神的な真理を自然的な光の中で見る。


nam lux caeli, in qua est sensus spiritualis Verbi, influit in lucem naturalem, in qua est sensus litterae Verbi, ac hominis intellectuale, quod vocatur rationale, illuminat, et facit ut videat et agnoscat Divina vera, ubi exstant et ubi latent: なぜなら、天界の光は、みことばの霊的な意味はその中にある、自然的な光の中に流入するから、みことばの自然的な意味はその中にある、そして人間の知的なもの(知性)を、それらは理性的なものと呼ばれる、照らす、また見る、また認めるようにする、神的な真理がそこに現われている、またそこに隠れている。


haec cum luce caeli influunt apud quosdam, quandoque etiam cum nesciunt. これら〔真理〕は天界の光とともにある者のもとに流入する、さらにまた時々、知らないときに。


 


(3) 訳文


41.  みことばは、文字通りの意味でこのようなものであるので、神的な真理の中にいる者は、また、みことばは内部に、そのふところに聖なる神性があるという信仰の中にいる者は、また、みことばはその霊的な意味と天的な意味からそのようなものであるという信仰の中にいる者はさらに、みことばを主からの照らしの中で読む時、神的な真理を自然的な光の中で見ることがいえる。なぜなら、みことばの霊的な意味は天界の光の中に、みことばの自然的な意味は自然的な光の中にあって、その天界の光が自然的な光の中に流入し、そして理性的なものと呼ばれる人間の知性を照らし、神的な真理がそこに現われている、またそこに隠れていることを見て、認めるようにするからである。これらの真理は天界の光とともに、ある者のもとに、さらにまた時々は知らないうちに流入する。


 


(1) 原文


42.  Quoniam Verbum nostrum in intimo suo sinu, ex sensu caelesti ejus, est sicut flamma quae accendit, et in medio suo sinu, ex sensu spirituali, est sicut lux quae illustrat, inde Verbum in ultimo suo sinu, ex sensu ejus naturali, in quo bini interiores sunt, est sicut rubinus et adamas; ex flamma caelesti sicut rubinus, et ex luce spirituali sicut adamas. Quia tale est Verbum in suo sensu litterae ex transparentia, ideo Verbum in hoc sensu intelligitur


 


[(i)] Per fundamenta muri Hierosolymae;
[(ii.)] Per Urim et Thummim in ephodo Aharonis;
[(iii.)] Per hortum Edenis in quo Rex Tyri fuerat;
[(iv.)] Tum etiam per aulaea et vela Tabernaculi;
[(v.)] Et per externa Templi Hierosolymitani:
[(vi.)] At in ipsa gloria, per Dominum cum transformatus est.


 


(2) 直訳〔ここは『真のキリスト教』216番に引用されている〕


Quoniam Verbum nostrum in intimo suo sinu, ex sensu caelesti ejus, est sicut flamma quae accendit, et in medio suo sinu, ex sensu spirituali, est sicut lux quae illustrat, inde Verbum in ultimo suo sinu, ex sensu ejus naturali, in quo bini interiores sunt, est sicut rubinus et adamas; 私たちのみことばはその内部に(ふところに)内部で、その天的な意味から、炎のようである、それはともす、またその内部に(ふところに)真ん中で、霊的な意味から、光のようである、それは照らす、ここからみことばはその内部に(ふところに)最後のもので、その自然的な意味から、その中に二つの内的なものがある、ルビーとダイヤモンドのようである。


ex flamma caelesti sicut rubinus, et ex luce spirituali sicut adamas. 天的な炎からルビーのように、また霊的な光からダイヤモンドのように。


Quia tale est Verbum in suo sensu litterae ex transparentia, ideo Verbum in hoc sensu intelligitur みことばはその文字通りの意味の中でこのようなものであるので、それゆえ、みことばはこの意味(の中)で意味される、


[(i)] Per fundamenta muri Hierosolymae; [(i)] エルサレムの城壁の基礎(土台)よって。
[(ii.)] Per Urim et Thummim in ephodo Aharonis;
 [(ii.)] アロンのエポデの中のウリムとトンミムによって。


[(iii.)] Per hortum Edenis in quo Rex Tyri fuerat; [(iii.)] エデンの園によって、その中にツロの王がいた。
[(iv.)] Tum etiam per aulaea et vela Tabernaculi;
 [(iv.)] さらにまた幕屋の幕とヴェールによって。
[(v.)] Et per externa Templi Hierosolymitani:
 [(v.)] またエルサレムの神殿の外なるものによって。
[(vi.)] At in ipsa gloria, per Dominum cum transformatus est.
 [(vi.)] しかし、栄光そのものの中に、変容されたときの主によって。


 


(3) 訳文


42.  私たちのみことばは、そのふところの最内部で、その天的な意味から、燃える炎のようであり、またそのふところの真ん中で、霊的な意味から、照らす光のようであり、ここからみことばは、そのふところの最後のもので、その自然的な意味から、その意味の中に二つの内的な意味があって、ルビーとダイヤモンドのようである。天的な炎からルビー、また霊的な光からダイヤモンドのようである。みことばは、その文字通りの意味でこのようなものであるので、それゆえ、みことばのこの意味は次のものによって意味される、


 [(i)] エルサレムの城壁の土台(によって)


 [(ii.)] アロンのエポデの中のウリムとトンミム(によって)


 [(iii.)] ツロの王がいたエデンの園(によって)


 [(iv.)] さらにまた幕屋の幕とヴェール(によって)


 [(v.)] またエルサレムの神殿の外なるもの(によって)


 [(vi.)] しかし、変容されたときの栄光そのものの中の主(によって)

韓国新教会との交流が始まるか? その2

 

528()、東京案内の初日。急きょ妻の美恵子も付き合うことになった。9時ホテルに集合。よく晴れていたので計画にはなかった東京タワーに行くことにした。新宿三丁目の駅に行く途中でまたも花園神社に寄った。露店が出ていた。神社のパンフレットで今日から三日間が「例大祭」と知った。神社の中で神官が祝詞などあげている作法をヤン牧師は興味深そうに見ていた。地下鉄で「神谷町」へ。


神谷町は東京タワーの最寄り駅である。東京タワーへ向かう坂の途中に聖公会「聖アンデレ教会」がある。木造でうれしい。軽井沢の教会を思い出す。教会関係の人間でなければ、まず立ち寄らないところだろう。私たちのジェネラルチャーチは聖公会の礼拝形式を取り入れている。座ってしばらく静寂の時を持つ。
 東京タワーは混んでいた、地方からのいわゆる「おのぼりさん」だらけ。修学旅行の中学生が目に付いた。最上部まで行く。
東京タワーは東京見物の定番なので、これまでもよく来た。その度すこしずつ風景が変わる、と言っても、新しくビルが建っている。今回は特別である、すなわち「スカイツリー」。


実は、スカイツリーを見るのは初めてではない。1か月ほど前のことだろうか、ある晴れた朝、双眼鏡を取り出し、ベランダから見た。私は東大和のマンションの最上階8階に住んでいる。幸いなことに周囲にあまり高い建物はない。東を見ると、夜など新宿の明かりがいつまでもともっている。いわゆる不夜城である。その新宿からやや左方面だろうと見当をつけて双眼鏡で眺めていたら、見つけた。二機のクレーンがてっぺんにあるのを確認した、間違いない。東京タワーからも周囲に何もないのでよく見える、およそ半分の高さまで完成、この次に見る時には完成していのだろう。
 タワーからの帰りには道路をはさんで聖アンデレ教会の向かい側にある「フリーメイソン」、すなわち「メメソニック・ロッジ」を紹介した。フリーメイソンをご存じないようだった。


地下鉄で「上野」へ。ここも東京見物の定番である。前日、神社仏閣に興味あると知ったので、ここなら「清水観音堂」「東照宮」があるからである。西郷隆盛の銅像からぶらぶらと北へ向かう。彼の標語「敬天愛人」を説明したが、わからなかったようだ。桜見物の名所なのだが、どうも「桜」についても知らないようだった。東照宮はまだ工事中だった(長い)。その後「韻松亭」へ。


上野へ来たときはたいていここへ案内する。私が最初に来たのは妻の美恵子とであった。それ以来なので美恵子はこれで二度目である。創業明治八年、ガイドブックなどに紹介されないが名料亭だと思う。妻と来て以来、気に入りの店となった。この日はおばさんたちが行列であった。


最初、通りに面した席に案内されたが、せっかく(韓国からの珍客連れ)なので「待ってもよいから、中の席にしてくれ」とねばっていたら、すぐ通してもらえた。食事は「茶壷弁当」。京料理を思わせる、繊細な日本料理である。堪能してもらったと思う。やや遅めの昼食後に「国立博物館」。


その後、銀座を案内し、寿司を食おうと思っていたが(それで妻も同行したのかもしれない)、奥様が「疲れた」とのことで(当日は暑かった)、ホテルに帰ることにした(3時半ごろ)。上野駅へ戻るとき「西洋美術館」の庭に寄る(無料)、ここにはロダンの彫刻がある。「考える人」や「地獄の門」はご存じであった。  


ホテルまで送って、この日はこれまで。翌日聞いた話では、しばらく休憩の後、やはり花園神社に行った、祭りの露店など韓国と同じで、ふと母国いるような気がしたとのこと。どうやら、ワタアメと焼きソバを味わったようだった。よい思い出になっただろう。

原典講読『聖書』 43

 

(1) 原文


43.  [(i.)] Quod vera sensus litterae Verbi intelligantur per fundamenta muri Novae Hierosolymae (in Apocalypsi cap. xxi.), sequitur ex eo, quod per “Novam Hierosolymam” intelligatur nova ecclesia quoad doctrinam (ut in Doctrina de Domino n. 62, 63, ostensum est); quare per “murum” ejus, et per “muri fundamenta,” non aliud potest intelligi quam Verbi externum, quod est sensus litterae ejus; nam ille est, ex quo doctrina est, et per doctrinam ecclesia; et illa est sicut murus cum fundamentis, qui urbem includit et tutatur. De muro Novae Hierosolymae et de ejus fundamentis, leguntur haec in Apocalypsi:


 


Angelus “mensus est murum” urbis Hierosolymae “centum quadraginta quatuor cubitorum, quae erat mensura hominis, hoc est, angeli.” …Et murus habebat fundamenta duodecim, “omni lapide pretioso exornata: fundamentum primum jaspis, secundum sapphirus, tertium chalcedonius, quartum smaragdus, quintum sardonyx, sextum sardius, septimum chrysolithus, octavum beryllus, nonum topazius, decimum chrysoprasus, undecimum hyacinthus, duodecimum amethystus” (xxi. 17-20):


per numerum “centum quadraginta quatuor” significantur omnia vera et bona ecclesiae ex doctrina e sensu litterae Verbi, similiter per “duodecim;” per “hominem” significatur intelligentia, per “angelum” Divinum verum ex quo illa, per “mensuram” quale illorum, per “murum” et per “fundamenta” ejus sensus litterae Verbi, et per “lapides pretiosos” vera et bona Verbi in suo ordine, ex quibus doctrina, et per doctrinam ecclesia.


 


(2) 直訳〔ここは『真のキリスト教』217番に引用されている〕


[(i.)] Quod vera sensus litterae Verbi intelligantur per fundamenta muri Novae Hierosolymae (in Apocalypsi cap. xxi.), sequitur ex eo, quod per “Novam Hierosolymam” intelligatur nova ecclesia quoad doctrinam (ut in Doctrina de Domino n. 62, 63, ostensum est); [(i.)] 「みことばの文字通りの意味の真理が新しいエルサレムの城壁の基礎(土台)(「黙示録」第21章の中の)によって意味されること」はそのことから結果として生じる、「新しいエルサレム」によって教えに関する新しい教会が意味されること(『主について』の教え62, 63番の中に示されたように)


quare per “murum” ejus, et per “muri fundamenta,” non aliud potest intelligi quam Verbi externum, quod est sensus litterae ejus; それゆえ、その「城壁」によって、また「城壁の基礎(土台)」によって、みことばの外なるもの以外に何らかのものが意味されることはできない、それはその文字通りの意味である。


nam ille est, ex quo doctrina est, et per doctrinam ecclesia; なぜなら、それらであるから、それらから教えがある、また教えによって教会が〔ある〕。


et illa est sicut murus cum fundamentis, qui urbem includit et tutatur. またそれらは基礎(土台)とともに城壁のようである、それらは都を囲む、また守る。


De muro Novae Hierosolymae et de ejus fundamentis, leguntur haec in Apocalypsi: 新しいエルサレムについてとその基礎(土台)について、これらが「黙示録」の中に読まれる―
Angelus “mensus est murum” urbis Hierosolymae “centum quadraginta quatuor cubitorum, quae erat mensura hominis, hoc est, angeli.”
 天使がエルサレムの都の「城壁を測る」と、「百四十四キュービット(ペーキュス)、それは人間の尺度であった、これは天使の〔尺度〕」。


…Et murus habebat fundamenta duodecim, “omni lapide pretioso exornata: ……また城壁は十二の基礎(土台)を持った、「すべての宝石で飾られた―


fundamentum primum jaspis, secundum sapphirus, tertium chalcedonius, quartum smaragdus, quintum sardonyx, sextum sardius, septimum chrysolithus, octavum beryllus, nonum topazius, decimum chrysoprasus, undecimum hyacinthus, duodecimum amethystus” (xxi. 17-20): 第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三は玉髄、第四はエメラルド(緑玉)、第五は(べに)しまめのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十は緑玉髄、第十一はヒヤシンス石、第十二は紫水晶」(21:17-21)
per numerum “centum quadraginta quatuor” significantur omnia vera et bona ecclesiae ex doctrina e sensu litterae Verbi, similiter per “duodecim;”
 数「百四十四」によって、みことばの文字通りの意味からの教えからの教会のすべての真理と善が意味される、同様に「十二」よって。


per “hominem” significatur intelligentia, per “angelum” Divinum verum ex quo illa, per “mensuram” quale illorum, per “murum” et per “fundamenta” ejus sensus litterae Verbi, et per “lapides pretiosos” vera et bona Verbi in suo ordine, ex quibus doctrina, et per doctrinam ecclesia. 「人間」によって知性が意味される、「天使」によって神的な真理が〔意味され〕それ〔真理〕からそれ〔知性〕、「寸法」によってそれらの性質(どんなものか)、「城壁」によってまた「基礎(土台)」によって、みことばのその文字通りの意味が、また「宝石」によって、みことばの真理と善が、適切な順序で、それらから教え、また教えによって教会。


 


(3) 訳文


43. [(i.)]「みことばの文字通りの意味の真理が新しいエルサレムの城壁の土台(「黙示録」第21)によって意味されること」は、(『主について』の教え62, 63番で示されたように) 「新しいエルサレム」によって教えに関する新しい教会が意味されることから結果として生じる。それゆえ、その「城壁」、また「城壁の土台」によって、みことばのの文字通りの意味であるその外なるもの以外に何らかのものが意味されることはできない。なぜなら、それらから教えがあり、また教えによって教会があり、またそれらは都を囲み、守る、土台とともに城壁のようであるからである。


 新しいエルサレムとその土台について、次のものが「黙示録」の中にある―


 


 天使がエルサレムの都の「城壁を測る」と、「百四十四ペーキュスあり、それは人間の尺度、すなわち、天使の尺度であった」。……また城壁には十二の土台があり、「すべての宝石で飾られた。第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三は玉髄、第四はエメラルド、第五は紅しまめのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十は緑玉髄、第十一はヒヤシンス石、第十二は紫水晶」(21:17-21)


 

 数「百四十四」によって、みことばの文字通りの意味からの教えによる教会のすべての真理と善が意味され、同様に「十二」よって意味される。「人間」によって知性が意味され、「天使」によって知性のもととなる神的な真理が、「寸法」によってそれらの性質、「城壁」によってまた「土台」によって、みことばのその文字通りの意味が、また「宝石」によって、みことばの真理と善が、適切な順序で意味され、それらから教えがあり、また教えによって教会がある。

韓国新教会との交流が始まるか? その3(終わり)

 

529()、東京案内の二日目。この日は熊澤夫妻が栄さんとともに車で案内した。すなわち、ヤン牧師夫妻と合わせて5名である。以下は栄さんからざっと聞いた話。


最初に「皇居」、二重橋、桜田門を見たとのこと。銀座は「ここが四丁目」と車窓案内。(銀座は歩かなくてはその価値激減と思う。この次は私が歩いて案内するよ、いわゆる「銀ブラ」)


続いて「築地」。ここも場内には入らない(中に入ってほしかった)で場外の「玉寿司」(チェーン店がいくつかあるがここが本店)でスシ!


その後「浅草」。以上。


だいたい私が前日、熊澤さんにお勧めした場所であった。東京案内の「定番」であるが、二日間ならこれでよいと思う。


さて、夕方、ホテルのそばの店で「歓迎夕食会」。これには私も参加し、上記5名とTさんを含めて7名であった。6時から8時ちょっとすぎまで。話題はヤン牧師がイ・ミョンバク(李明博)に似ていることから(実際には似ていないが、雰囲気が似ている、妻もそう言っていた)、「政治」となった。そこで語られたのは、日本のマスコミは韓国の上層階級だけの見解を紹介しているのではないかということ。庶民の人気は前大統領、盧武鉉(ノ・ムヒョン)が絶大であった、残念ながら、ある種の圧力で自殺してしまった、など。珍しく政治の話となったが、しかし、ここで政治の話はやめておく。


8時ちょっと過ぎの「お開き」ということもあり、私の趣味でもあって「二次会」に誘う。といってもカラオケなどではなく、「ソバを味わおう」いうものである。


栄さんと一緒に4人で新宿二丁目「へぎそば昆」に向かう。途中でやはり花園神社を通りながら。「昆」はずっと以前にある飲み会の後、連れて行ってもらった、うまかったので、それ以来いつか再訪したかった。「へぎそば」なので新潟(越後)のソバであるが、日本のソバであることに変わりはないので、これでよいだろう。そして「うまい」と言ってもらえたのでよかった。


てんぷら・すし・そば、と味わってもらったので後は、うなぎ・すき焼き、であるがこれはまたの機会。そしていつかは日本料理そのものと思える「会席(懐石)料理」を味わってもらおうと思っているが、これはいつになるかわからない。


 


530() ジェネラルチャーチ東京グループの礼拝日。今は船堀駅前で行なっている。11時からの礼拝にヤン牧師夫妻も臨席。私たちとしては説教をお願いしたのであるが、「今回は牧師としてでなく」という本人に希望を尊重し、一般信徒の席で参加していただいた。礼拝後、昼食をはさんで午後の懇親会()では栄さんの通訳で、多岐にわたって話し合いがあった。詳細は省略するが、そこでの会話などを通して、ヤン牧師について私が知ったことをここで改めて記しておこう。


 


20歳ごろスヴェーデンボリに出会う。『真のキリスト教』を英語版から翻訳した。ジェネラルチャーチからの神学教育は受けていないが、韓国新教会の牧師ジン・クワック師の推薦で牧師となる(20071021日韓国でトム・クライン主教より叙階)。今はジン・クワック師の後任として韓国新教会を牧し、現在会員50名ほどに発展させた。


 


さて、230分で話し合いも終わり、熊澤さんの車で成田へと去る。日本の新教会に、また初訪問であった日本そのものにどのような印象を持たれたであろうか? わからない、でも「(歓迎するので)韓国新教会に来てほしい」の言葉が聞けたことは、お世辞でなく本心であると感じた。


ここで韓国新教会の指導者が日本を訪れたことの意義は(今後に向けて)大きいと思っている。