(4) scientiaとcognitioについて
最初に雑談(全部雑談かもしれない)。「知る」にも段階があると思う。東京(京都その他何でもよい)を例にとれば、本や、映像、また聞いたりして「東京を知った」。これは「聞いて」知っている。単なる知識として知っている段階。
次に東京に実際に出かけて行って「見た」。「百聞は一見にしかず」であり、体験である。単なる知識とは格段に違う(しかし、観察力の差はある。ボケっとしていて見れば、たいした発見も、感動もない)。
もう一つ上の段階が考えられる。そこである程度過ごし(生活し)、その地の人と交流することである。「あ、これが東京流ね。こういう考え方、こういう生き方をするんだね」といった、外面からの印象だけでなく、ある程度、内面を知る、底流にあるものを感じることである。ざっと、この3段階が頭に浮かぶ。
さて「知識」にも3段階あるようである。スヴェーデンボリの言葉ではscienfitica, scientia, cognitoであると思う。scientificaは「事実」という意味もあるが、おもに「記憶知」と訳す。(実はこの記憶知にも三種ある、知的、理性的、感覚的なものである「天界の秘義991」)。「単に知っている」だけの知識である。
scientiaはscio「知る」と関連があるようだ。やはり知識であるが、これが体系化されれば「学問」「科学」である(この意味もある、英語サイエンスの語源である)。
一方、cognitioはcogito「考える」、cognosco「知る、認める」と関連があるようだ。scientiaとcognitioは同じ「知識」ではあっても、cognitioは内的なものに関する知識を指すことが多い。
私は、sicientiaとcognitioの差は「知識」の中の「知」にウエイトを置いたものがscientia、「識」を強く意識したものがcognitioかなと思っている。