(3) 訳文
15. 旧約聖書のみことばの預言の多くの個所が霊的な意味でなくては理解されないことが知られるために、ほんのいくつかだけを提示したい。例えば、「イザヤ書」のこれである、
「その時、エホバはオレブの岩でミデアンを打ったように、アッシリアに対してむちを振り上げる。またその杖を海の上に、エジプトの道の中で持ち上げる。また、その日になると、彼の重荷はあなたの肩の上から、またくびきはあなたの首から去る。彼はアヤテにやって来て、ミグロンを通り過ぎ、ミクマスに対して自分の腕を与える。メバラを通り過ぎ、ギベアは私たちの宿泊所となり、ラマは身震いし、サウルのギブアは逃げる。ガリムの娘よ、あなたの声をあげて泣きわめけ。ラユシャよ、聞け。哀れなアナトテ。マデメナはさまよう。ゲビムの住民は集まる。今後の日々、ノブの中に存続するのか? シオンの娘の山、エルサレムの丘は、自分の手を動かす。……エホバは森の茂みを鉄器で切り落とし、レバノンは壮大なものによって倒れる」(10:24-34)。
ここには名前だけが出てきて、それらからは霊的な意味の助けなしに、何も汲み取ることができない。その意味からは、そのみことばの中のすべての名前は天界と教会の事柄を意味する。その意味から、それらによって、すべての真理を歪曲することと虚偽を確認する記憶知によって、教会全体が破壊されたことを意味されることが推理される。
[2] 同じ預言書の他のところに―
「その日……エフライムのねたみは去り、ユダの敵は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダはエフライムを苦しめない。しかし、彼らは、海の方、ぺリシテ人の肩の中に飛びかかり、一緒に東の息子から略奪する。エドムとモアブに彼らは手を伸ばす……。エホバはエジプトの海の舌に対して呪い、ご自分の霊の激しさをもって、ご自分の手を川の上に揺り動かし、それを七つの流れの中に、くつで〔踏んで〕道をつくるように打たれる。その時、ご自分の民の残りの者に、アッシリアから残された街道がある」(11:13-16)。
ここもまた、個々の名前によってそこに何が意味されているか知らないなら、だれも、何らかの神的なものを見ない。そのときそれでも、そこの1節から10節までに、きわめて明らかであるように、そこにh主の来臨について、またその時に何が起こるか扱われている。そこで、霊的な意味の助けがなくて、それらによって、無知からの虚偽の中にいて、悪により惑わされることを許さなかった者たちが主へ近づくこと、またその時、教会はみことばを理解し、またその時、彼らはもはや虚偽により害されないことが、順序正しく意味されることを、だれが見るようになるか?
[3] 名前がない個所も同様である。例えば「エゼキエル書」に―
「このように主エホビは言われた。人の子よ、すべての翼の鳥に、また野のすべての獣に言え。あなたがたは集まり、来たれ。あなたがたは、まわりから、わたしのいけにえに集まれ。イスラエルの山の上の大いなるいけにえ、それをわたしはあなたがたにいけにえとする。あなたがたが肉を食べ、血を飲まなくてはならないためである。あなたがたは力ある者の肉を食べ、地の君主たちの血を飲まなくてはならない。……わたしがあなたがたにいけにえとするわたしのいけにえから、あなたがたは脂肪を飽きるまでも食べ、血を酔うまで飲まなくてはならない。あなたがたはわたしの食卓の上で、馬と戦車で、また力ある者で、またすべての戦士〔の肉〕で)で食べ飽きる。……このようにして、わたしはわたしの栄光を国民の間に与える」(39:17-21)。
霊的な意味から、「いけにえ」によって何が意味されるか、「肉」と「血」によって何が、また「馬」、「戦車」、「力ある者」また「戦士」によって何がいみされるか知らない者は、このようなものを食べ、飲まなくてはならないこととしかわからないであろう。しかし、霊的な意味によって、主エホビがイスラエルの山の上で与えたいけにえから「肉を食べ、血を飲むこと」によって、みことばからの神的な善と神的な真理を自分ものとすることが意味されることを教えられる。なぜなら、そこにはすべての者を主の王国へ招くことについて、また特に、主により国民のもとに教会が設立されることについて扱われているから。だれが、そこに「血を酔うまでも飲む」こと、また「馬、戦車、力ある者、またすべての戦士に食べ飽きる」ことのように、「肉」によって肉でなく、「血」によって血でないものが意味されていることを見ることができないか? 預言書の他の何千もの個所でも同様である。