スヴェーデンボリはパリを三度訪れていた(訂正記事)

 

昨年116日に「スヴェーデンボリはパリを二度訪れた」と書いたが、訂正する。一度目と二度目はどちらも45年間の大旅行であったので、そのことしか念頭になかった(同記事参照)


ここで、彼の業績をほんの少し見直したら、晩年(80-81)に訪れていた。うっかりこのことを忘れていた。『スヴェーデンボリ叙事詩』第39章、第40(最近になって「あおい出版」のサイトに掲載された)を読めば、わかることであるが、ここでも少し述べておこう。


1768年の秋(80)、アムステルダムでクノーに出会う。4月まで滞在し、そのいきさつが第39章「アムステルダムの友」に書かれている、やや感動的である。その後、パリへ向かう、すなわち1769年春、56月とおそらく最適の季節をパリで過ごしている。


その目的は最後の大作『真のキリスト教』の出版であった(1771年アムステルダムでの出版が有名すぎるのでこの事実を忘れてしまう)。第40章「新しい福音」には、その出版に際し、検閲官から「ロンドンかアムステルダムで出版したことにすれば許す」と言われ、これは自分の生き方にそぐわないとして、結局、アムステルダムで出版することになったことが書かれている。


 


さて、パリにもう一度行くことがあるだろうか? と思っていた私に、よい理由づけができた。スヴェーデンボリも三回訪れたのだから、私もそれにあやかりたい、というものである。この理由は通用するだろうか?

原典講読『神の愛と知恵』 358, 359, 360

 

PARS QUINTA


第五部



QUOD A DOMINO APUD HOMINEM CREATA ET FORMATA SINT


 DUO RECEPTACULA ET HABITACULA IPSIUS,


 QUAE VOCANTUR VOLUNTAS ET INTELLECTUS;


VOLUNTAS PRO DIVINO AMORE IPSIUS,


 ET INTELLECTUS PRO DIVINA SAPIENTIA IPSIUS.


主により人間のもとに創造され、形作られていること


その方の二つの容器と住まい


それらは意志と理解力と呼ばれる


その方の神的な愛のために(として)意志


またその方の神的な知恵のために(として)理解力


 


(1) 原文


358.  Actum est de Divino Amore et de Divina Sapientia Dei Creatoris, qui est Dominus ab aeterno; et de creatione universi; nunc aliquid dicetur de creatione hominis. Legitur quod Homo creatus sit in imaginem Dei secundum similitudinem Ipsius (Genes. i. 26). Per “imaginem Dei” ibi intelligitur Divina sapientia, et per “similitudinem Dei” Divinus Amor; nam sapientia non aliud est quam imago amoris, sistit enim amor se videndum et cognoscendum in sapientia; et quia ibi videtur et cognoscitur, est sapientia imago ejus. Amor etiam est Esse vitae, et sapientia est Existere vitae ex illo. Similitudo et imago Dei apparet perspicue apud angelos; elucet enim amor ab interiori in facie illorum, et sapientia in pulchritudine, et pulchritudo est forma amoris illorum: vidi et cognovi.


 


(2) 直訳


Actum est de Divino Amore et de Divina Sapientia Dei Creatoris, qui est Dominus ab aeterno; 創造者〔である〕神の神的な愛についてと神的な知恵について扱われた、その方は永遠からの主である。


et de creatione universi;  また、全世界の創造について。


nunc aliquid dicetur de creatione hominis. 今や、何らかのものが言われる、人間の創造について。


Legitur quod Homo creatus sit in imaginem Dei secundum similitudinem Ipsius (Genes. i. 26). 人間は神の映像に、その方に似たものにしたがって創造されたことが読まれる(「創世記」1:26)


Per “imaginem Dei” ibi intelligitur Divina sapientia, et per “similitudinem Dei” Divinus Amor; 「神の映像」によってそこに神的な知恵が意味される、また「神に似たもの」によって神的な愛が。


nam sapientia non aliud est quam imago amoris, sistit enim amor se videndum et cognoscendum in sapientia; なぜなら、知恵は愛の映像以外の何ものでもないから、というのも愛は見られるため、また知られるためにそれ自体を知恵の中に示すから。


et quia ibi videtur et cognoscitur, est sapientia imago ejus. またそこに見られ、知られるので、知恵はその映像である。


Amor etiam est Esse vitae, et sapientia est Existere vitae ex illo. さらにまた愛はいのちのエッセ(存在、本質)☆であり、また知恵はそれからのいのちのエキシステレ(実存)☆である。


existereは動詞existo「存在するようになる」の不定形であり、それを実詞としてみなし「実存、実在、現存」の意味です。Esseは「存在」の意味ですが、existere「実存」と一緒のときは「本質と実在」としたほうが収まりがよいように思います。やや別の言葉で言い換えれば「エッセとエキシステレ」は「本質的な存在と実際の存在」、「本質とその現われ」です。


Similitudo et imago Dei apparet perspicue apud angelos; 神の似たものと映像は天使のもとにはっきりと見られる。


elucet enim amor ab interiori in facie illorum, et sapientia in pulchritudine, et pulchritudo est forma amoris illorum: というのは、愛が内的なものから彼らの顔の中に、また知恵が美の中に輝き出る(明らかになる)から、また美は彼らの愛の形である。


vidi et cognovi. 私は見た、また知った。


 


(3) 訳文


358. 永遠からの主、創造者であられる神の神的な愛と神的な知恵について、また、世界の創造について扱われた。それで、人間の創造について何らかのものを述べよう。


 人間は神に似たものにしたがってその方の映像に創造された、と書かれている(「創世記」1:26)。そこの「神の映像」によって神的な知恵が、また「神に似たもの」によって神的な愛が意味される。なぜなら、知恵は愛の映像以外の何ものでもないから。愛は見られるため、また知られるためにそれ自体を知恵の中に示し、またそこに見られ、知られるので、知恵はその映像である。さらにまた、愛はいのちのエッセ(本質)であり、知恵はそれからのいのちのエキシステレ(実在)ある。


 神に似たものと映像は、天使のもとにはっきりと見られる。というのは、愛が内的なものから彼らの顔の中に、また知恵が美の中に輝き出るからであり、美は彼らの愛の形である。このことを私は見、また知った。


 


(1) 原文


359.  Homo non potest esse imago Dei secundum similitudinem Ipsius, nisi Deus sit in illo, et sit vita ejus ab intimo. Quod Deus sit in homine, et ab intimo sit vita ejus, sequitur ex illis quae supra (n. 4-6) demonstrata sunt, quod solus Deus sit Vita, et quod homines et angeli sint recipientes vitae ab Ipso. Notum etiam est ex Verbo, quod Deus sit in homine, et quod mansionem apud illum faciat; et quia notum est ex Verbo, solenne est praedicatoribus dicere, ut praeparent se ad recipiendum Deum, ut intret in illos, ut sit in cordibus eorum, ut sint habitaculum Ipsius: similiter loquitur devotus in precibus; ita quidam apertius de Spiritu Sancto, quem credunt in ipsis esse, dum in sancto zelo sunt, et ex illo cogitant, loquuntur et praedicant. Quod Spiritus Sanctus sit Dominus, et non aliquis Deus qui est Persona per se, in Doctrina Novae Hierosolymae de Domino (n. 51-53) ostensum est. Dicit enim Dominus,


 


“In die illo cognoscetis,…quod vos in Me, et Ego in vobis” (Joh. xiv. [20,] 21; similiter cap. xv. [1]4, 5cap. xvii. 23)


 


[1] 4, 5 pro “24”.


 


(2) 直訳


Homo non potest esse imago Dei secundum similitudinem Ipsius, nisi Deus sit in illo, et sit vita ejus ab intimo. 人間は神の映像であることはできない、その方の似たものにしたがって、神が彼の中にいないなら、またそのいのちが最内部からである〔でないなら〕。


Quod Deus sit in homine, et ab intimo sit vita ejus, sequitur ex illis quae supra (n. 4-6) demonstrata sunt, quod solus Deus sit Vita, et quod homines et angeli sint recipientes vitae ab Ipso. 神が人間の中にいる、また最内部から彼のいのちであることは、これらからいえる、それらは上に(4-6)示されている、神おひとりがいのちであること、また人間と天使たちはその方からのいのちの受け入れるものであること。


Notum etiam est ex Verbo, quod Deus sit in homine, et quod mansionem apud illum faciat; みことばからもまたよく知られている、神が人間の中にいること、また彼らのもとに住まいを作ること。


et quia notum est ex Verbo, solenne est praedicatoribus dicere, ut praeparent se ad recipiendum Deum, ut intret in illos, ut sit in cordibus eorum, ut sint habitaculum Ipsius: また、みことばからよく知られているので、説教者により言われることが習わしである、自分自身を神を受け入れるために向けて準備するように、その中に入るように、彼らの心の中にいるように、その方の住まいであるように。


similiter loquitur devotus in precibus; 同様に語る、信心深い者は祈りの中で。


ita quidam apertius de Spiritu Sancto, quem credunt in ipsis esse, dum in sancto zelo sunt, et ex illo cogitant, loquuntur et praedicant. このようにある者は聖霊について公然と〔語る〕、それが自分自身の中にいることを信じる、聖なる熱意の中にいる時、またそれ〔熱意〕から考える、語る、説教する(伝道する)時。


Quod Spiritus Sanctus sit Dominus, et non aliquis Deus qui est Persona per se, in Doctrina Novae Hierosolymae de Domino (n. 51-53) ostensum est. 聖霊は主である、また他の(もう一つの)神でない、それはそれ自体によって位格である〔その〕ことは、『主についての新しいエルサレムの教え』(51-53)の中に示されている。


Dicit enim Dominus, というのは、主は言われている、


“In die illo cognoscetis,…quod vos in Me, et Ego in vobis” (Joh. xiv. [20,] 21; similiter cap. xv. [1]4, 5cap. xvii. 23) 「その日に、あなたがたは知る…あなたがたはわたしの中に、またわたしはあたながたの中に〔いる〕こと」(「ヨハネ」14:20、同様に第154, 5、第1723)


[1] 4, 5 pro “24” 原注[1] 24」の代わりに4, 5


 


(3) 訳文


359. 人間は、神に似たものにしたがって、その方が彼の中にいないなら、またそのいのちが最内部からでないなら、神の映像であることはできない。神が人間の中にいて、最内部から彼のいのちであることは、神おひとりがいのちであり、また人間と天使たちはその方からのいのちを受け入れるものであることからいえる、このことは前に示された(4-6)。みことばからもまた、神が人間の中にいること、また彼らのもとに住まいをつくることはよく知られている。また、みことばからよく知られているので、説教者により、自分たちが神を受け入れるための備えとなり、その中に入ってくださるように、自分たちの心の中におられるように、その方の住まいとなれるように、と語られることが習わしである。同様に、信心深い者は祈りの中で語り、ある者は聖霊について、聖なる熱意の中にいる時、また熱意から考え、語り、説教する時、聖霊が自分の中にいることを信じている、と公然と語る。聖霊は主であり、それ自体によって位格である他の神でないことは、『主についての新しいエルサレムの教え』(51-53)の中に示されている。なぜなら、主は言われているから、


 


 「その日に、…あなたがたは、あなたがたがわたしの中に、またわたしがあなたがたの中にいることを知る」(「ヨハネ」14:20、同様に第154, 5、第1723)


 


(1) 原文


360.  Nunc quia Dominus est Divinus Amor et Divina Sapientia, et haec duo essentialiter sunt Ipse, ut habitet in homine, et homini det vitam, necessum est, ut in homine creaverit et formaverit receptacula et habitacula Sui, unum pro amore, et alterum pro sapientia. Haec receptacula et habitacula apud hominem vocantur voluntas et intellectus; receptaculum et habitaculum amoris, voluntas; ac receptaculum et habitaculum sapientiae intellectus. Quod haec duo sint Domini apud hominem, et quod ex illis duobus sit omnis vita homini, videbitur in sequentibus.


 


(2) 直訳


Nunc quia Dominus est Divinus Amor et Divina Sapientia, et haec duo essentialiter sunt Ipse, ut habitet in homine, et homini det vitam, necessum est, ut in homine creaverit et formaverit receptacula et habitacula Sui, unum pro amore, et alterum pro sapientia. それで(今や)、主は神的な愛と神的な知恵であるので、またこれら二つは本質的にその方である、人間の中に住む(宿る)ために、また人間にいのちを与える、必要である、人間の中にご自分の容器と住まいを創造した、また形作ったこと(ように)、一つは愛のために(として)、もう一つは知恵のために(として)


proの訳語や大きく二つあり「~ために」と「~として」です。そして、文章がここで終わって、続きがなければ(すなわち、続く、文脈から訳語が決まる)、ここの最後の「愛と知恵」が主のものか、人間のものかで解釈が異なります。主のものなら、主の愛のための、主の知恵「のため」の「住まいや容器」であり、人間のものなら、主の容器や住まい「として」の人間の愛と知恵です。前者と解釈しなければならないことは、つぎに続く文からはっきりします。


Haec receptacula et habitacula apud hominem vocantur voluntas et intellectus; 人間のもとのこれらの容器と住まいは意志と理解力と呼ばれる。


receptaculum et habitaculum amoris, voluntas; 愛の容器と住まいは、意志。


ac receptaculum et habitaculum sapientiae intellectus. そして、知恵の容器と住まいは理解力。


Quod haec duo sint Domini apud hominem, et quod ex illis duobus sit omnis vita homini, videbitur in sequentibus. これらの二つは人間のもとの主のものであること、またそれら二つからすべてのいのちが人間にあることは、続くものの中で見られる。


 


(3) 訳文


360. それで、主は神的な愛と神的な知恵であり、またこれら二つのものは本質的に主であるので、人間の中に住み、人間にいのちを与えるために、人間の中に一つは愛のために、もう一つは知恵のために、ご自分の容器と住まいを創造し、形作ることが必要であった。人間のもとのこれらの容器と住まいは意志と理解力と呼ばれる。愛の容器と住まいが意志、そして、知恵の容器と住まいが理解力である。これらの二つのものが人間のもとの主のものであること、またそれら二つのものから人間にすべてのいのちがあることは、続くものの中で見られる。