そろそそ完成まじかであった「266番」の記事が、マウスを机から落としたら、どこかに消えてしましました。さがしても見つかりません。それでアップロードは送れます。
まだ、新調したパソコンのあつかいに慣れていません。
月: 2010年1月
原典講読『神の愛と知恵』 266
(1) 原文
266. (i.) Quod malus homo aeque ac bonus duabus illis facultatibus gaudeat.― Quod mens naturalis possit quoad intellectum elevari usque ad lucem in qua sunt angeli tertii caeli, ac videre vera, agnoscere illa, et dein loqui illa, in praecedente articulo ostensum est. Ex quo patet, quod quia mens naturalis ita potest elevari, aeque malus homo quam bonus homo facultate illa, quae vocatur rationalitas, gaudeat: et quia mens naturalis potest in tantum elevari, sequitur, quod etiam possit cogitare et loqui illa. Quod autem possit velle et facere illa, tametsi non vult et facit, hoc testatur ratio et experientia. Ratio: quis non potest velle et facere quae cogitat? Sed quod non velit et faciat, sit quod non amet illa velle et facere. Quod possit velle et facere est libertas, quae cuivis homini a Domino est; sed quod non velit et faciat bonum, cum potest, est ex amore
(2) 直訳
(i.) Quod malus homo aeque ac bonus duabus illis facultatibus gaudeat.― (i.) 悪い人間は善い(人間)と等しく、それらの二つの能力を授けられている(恵まれている)こと。
Quod mens naturalis possit quoad intellectum elevari usque ad lucem in qua sunt angeli tertii caeli, ac videre vera, agnoscere illa, et dein loqui illa, in praecedente articulo ostensum est. 自然的な心は理解力に関して光にまで高揚されることができること、その中に第三の天界の天使たちがいる、そして真理を見ること、それらを認めること、またその後、それらを話すこと〔ができる〕、先行する節の中で示された。
Ex quo patet, quod quia mens naturalis ita potest elevari, aeque malus homo quam bonus homo facultate illa, quae vocatur rationalitas, gaudeat: そのことから明らかである、自然的な心はこのように高揚されることができるので、悪い人間は善い人間と等しく☆その能力に、それは推理力と呼ばれる、授けられていること。
☆ aequeと一緒のここのquam(~よりも)に、その意味は薄れます。
et quia mens naturalis potest in tantum elevari, sequitur, quod etiam possit cogitare et loqui illa. また自然的な心はそれほどに高揚されることができるので、ことになる、さらにまたそれらを考えることと話すことができること。
Quod autem possit velle et facere illa, tametsi non vult et facit, hoc testatur ratio et experientia. しかしながら、それらを欲することと行なうことができ、それでも欲しない、また行なわないこと、このことは理性と経験から証言される。
Ratio: quis non potest velle et facere quae cogitat? 理性:だれが考えるものを欲し、行なうことができないか?
Sed quod non velit et faciat, sit quod non amet illa velle et facere. しかし、欲しない、また行なわないことは、それらを欲することと行なうことを愛さない☆ことである。
☆ 柳瀬訳も長島訳もここを「愛さないから」と原文にない「から」を付加しています。ニュアンスが変わってしまいます。
Quod possit velle et facere est libertas, quae cuivis homini a Domino est; 欲することと行なうことは自由であること、それは人間のそれぞれに主からある。
sed quod non velit et faciat bonum, cum potest, est ex amore mali, qui repugnat; しかし、善を欲しない、また行なわないこと、できるとき、悪の愛からである、それは反感を抱く。
cui tamen potest resistere, et quoque plures resistunt. それにそれでも抵抗できる、また多くの者も抵抗している。
Hoc ab experientia in mundo spirituali aliquoties confirmatum est. このことは霊界での経験から数回、確認された。
Audivi spiritus malos, qui intus diaboli erant, et qui vera caeli et ecclesiae in mundo rejecerunt; 私は悪い霊らに聞いた、その者らは内部に悪魔であった、またその者らは天界と教会の真理を世で退けた。
lli, dum affectio sciendi, in qua est omnis homo a pueritia, per gloriam, quae quemvis amorem sicut splendor ignis ambit, excitata fuit, tunc illi perceperunt arcana sapientiae angelicae, aeque bene ac perceperunt illa spiritus boni qui intus angeli erant. 彼らは、知る情愛〔にいる〕時、その中にすべての人間は少年期からいる、栄光(称賛)によって、それはそれぞれの愛を火の輝きのように囲む、かきたてられた(刺激された)、その時、彼らは天使の知恵の秘儀を知覚した、等しくよく、それらを知覚した、内部に天使であった善い霊。
Immo spiritus illi diabolici dixerunt, quod quidem possint velle et facere secundum illa, sed quod non velint. 実に、悪魔的な霊であった彼らは言った、確かにそれらにしたがって欲することと行なうことができること、しかし、欲しないこと。
Cum dictum est illis, quod velint illa, modo fugiant mala ut peccata, dixerunt quod etiam id possint, sed quod non velint. 彼らに言われたとき、それらを欲すること、ただ悪を罪として避ける(なら)、彼らは言った、そのこともまた可能であること、しかし、欲しないこと。
Ex quo patuit, quod malis aeque ac bonis sit facultas quae vocatur libertas: そのことから明らかである、悪い者らに善い者たちと等しく能力があること、それは自由と呼ばれる。
consulat quisque se, et animadvertet quod ita sit. だれでも自分自身を思いめぐらす(なら)、そしてそのようであることを認めるであろう。
Quod homo possit velle, est quia Dominus, a quo est facultas illa, continue dat ut possit; 人間が欲することができること、主が、その方からその能力がある、絶えずできるようにと与えられているからである。
nam supra dictum est, Dominus in binis illis facultatibus apud unumquemvis hominem habitat, ita in facultate seu in potentia quod possit velle. なぜなら、上に言われたように、主は二つのそれら能力の中に、それぞれの人間のもとに住まわれるから、このように(したがって)欲することができることの能力の中に、すなわち力の中に。
Quod facultatem intelligendi, quae vocatur rationalitas, concernit, illa non datur apud hominem, 。priusquam mens ejus naturalis venit ad suam aetatem; 理解する能力は、それは推理力と呼ばれる、人間のもとに存在しない、彼の自然的な心がその適当な年齢にやって来るより前に。
interea est sicut semen in fructu immaturo, quod non potest in terra aperiri, et in virgultum excrescere. その間は、未熟な果実の中の種のようである、それは地の中で開かれ、また灌木に生長することができない。
Facultas illa nec datur apud illos, de quibus supra (n. 259). それらの能力は彼らのもとにもまた存在しない、そのことについては上に(259番)。
(3) 訳文
266. (i.) 善い人間と等しく、悪い人間にも、それらの二つの能力が授けられていること。
自然的な心が、理解力に関して、その中に第三の天界の天使たちがいる光にまで高揚され、真理を見て、認め、またその後、それらを話すことができることは、前節の中で示された。そのことから、自然的な心は、このように高揚されることができるので、悪い人間は善い人間と等しく、推理力と呼ばれる能力を授けられていること、また自然的な心はそれほどに高揚されることができるので、またそれらを考え、話すこともできることになることが明らかである。しかし、それらを欲し、行なうことができるのに、それでも欲せず、なわないことが、理性と経験から証明される。
理性からは:だれが考えるものを欲し、行なうことができないか? しかし、欲せず、行なわないことは、それらを欲し、行なうことを愛さないことである。欲することと行なうことが自由であることは、主から人間のそれぞれにある。しかし、できるときに、善を欲せず、行なわないのは、〔それに〕反感を抱く悪の愛からである。それでもその愛に抵抗でき、また多くの者も抵抗している。
経験からは:このことは数回、霊界で確認された。私は、内部で悪魔であり、また世で天界と教会の真理を退けた悪い霊らから聞いたことがある。彼らは、知る情愛にいて、その中にすべての人間は少年期からいるが、それぞれ者の愛を火の輝きのように囲む称賛によって、かきたてられた時、彼らは天使の知恵の秘儀を知覚し、内部で天使であった善い霊と等しくほど良く、それらを知覚した。実に、悪魔的な霊であった彼らは、確かにそれらにしたがって欲し、行なうことができが、しかし、欲しない、と言った。彼らに、ただ悪を罪として避けるなら、それらを欲するであろう、と言われたとき、彼らは、そのこともまた可能である、しかし、欲しない、と言った。そのことから、善い者たちと等しく悪い者らに自由と呼ばれる能力があることが明らかである。だれでも、自分自身を思いめぐらすなら、そのようであることを認めるであろう。人間が欲することができるのは、主からその能力があり、主が絶えずできるようにと与えられているからである。なぜなら、前に述べたように、主はそれぞれの人間のもとのそれら二つの能力の中に、したがって欲することができることの能力の中に、すなわち力の中に住まわれれるから。推理力と呼ばれる理解する能力は、人間の自然的な心がその適当な年齢にやって来るより前に、彼のもとに存在しない。それまでは、未熟な果実の中の種のようであり、それは地の中で開かれ、灌木に生長することができない。それらの能力は、前に述べた者たち(259番)のもとにもまた存在しない。
(4) 同じものを二度訳すことは、これまでもよくやった
やるきにはならず、おもしろいものではないが、無駄でもない。やはり、二度目には早いし、内容的にもやや上回るものとなる。
保存し損なったり、いろいろなことで、丸1日分の翻訳を失ってしまうことが、これまでにもよくあったが、やったことのだいたいの内容は覚えているので、その回復はそれほど大変ではなかった。しかし、これが1週間以上も前のことだと、思い出せないで、やり直しとなり、最初と同じくらいの労力・時間がかかってしまうだろう。
マウスを机の端から落としてしまったのであるが、そんなことで普通は文書が失われることはない。キーボード操作中であったからなのか? 不測の事態に備えて、パソコンには自動的に保存しておくような機能があり、作成途中のものであっても、どこかに保存されている。それで、いろいろ探してみたが見つからない。新調したパソコンの頭が良すぎるのかもしれない(ウインドウズ7)。私が機能を知らないせいもあるかもしれないが、どうやら完全に失われたらしい。これからは(操作中に)誤ってマウスを落とさないようしないといけない。
パリ再訪、一家で
昨年11月、夫婦でフランスへ行った。「レキシコン」の翻訳終了を記念し、凱旋門に登るためであった。これが一番の理由であったが、「女房孝行」の意味もあった。いい加減で、わがままな私なので、日ごろ苦労をかけている女房にせめてもの感謝のしるしである(それなら、私だけの自由な旅行がいい、と言われてしまうかもしれない)。
その「旅行記」を書かなかったのは、なんとなく中途半端な旅だった気がするからである。ニースからアヴィニヨン、リヨンを経て、モンサンミッシェル、パリだった。その間、フランスが大農業、大放牧の国であると実感した。国の広さは日本の1.5倍らしいが、30倍にも感じたい(これが正しかったのは「ある計算」からわかるが割愛)。見渡すかぎり「牛」しかいない。広大さでは北海道の5倍(?)か。
ともかく、パンがうまかった、日本で食べていたパンとは何だったんだろう、という気がしてくる。ワインやチーズが(うまくて)めちゃくちゃ安い。そこで感じた、「フランス人は毎日、フランス料理を食べている!」。
パリでは丸二日間の自由行動であったが、行けるところは限られていた。朝9時前にモンマルトルのサクレ・クール寺院に行ったら、尼僧だけで礼拝を行なっていた、女声合唱が美しく響いた。女房は感激しきりであったようだ。9時に礼拝終了、その後、観光客が集まって来て、おごそかな雰囲気は失われた。「これは」と思う寺院は「朝一」に限るかもしれない。
さて、高校1年生となった娘をそろそろ(初めての)海外旅行に連れて行こうと思っていた。もう少し大きくなったら、親となんか一緒に行かないだろう。初めは「安・近・短」を考えていた。娘も「どこでもいい」とは言っていた。「どうせ行くんなら、パリにしようか」と言ったら、「そりゃ、行けるんならパリがいい」(ま、女の子ならあたりまえだね)。
それで、中途半端だったパリ見物の続きをすることした。今度は上記の娘(長女)、三男と一緒の一家四人の家族旅行である。長男、次男はすでに結婚して家を出ている。三男は5年前の大学2年生の時、長男と一緒にパリに行っているので、これが私と同じく2度目のパリとなる。
凱旋門で万歳をし、そこからエッフェル塔のシャンパンライトと見ただけで、塔には登れなかったが、今回は登れるだろう、またモンサンミッシェルもそこに泊るので、朝、夜の景色が楽しめそうである。
「年金暮らしでよくそんな金がありますね」と言われちゃいそうだが、普段、このために節約している。23日早朝に立つので、その日から1週間ほど(29日帰国)このブログはお休み。
原典講読『神の愛と知恵』 267
(1) 原文
267. (ii.) Quod malus homo abutatur illis facultatibus ad confirmandum mala et falsa, et bonus homo utatur illis ad confirmandum bona et vera.― Ex facultate intellectuali, quae vocatur rationalitas, et ex facultate voluntaria, quae vocatur libertas, trahit homo quod confirmare possit quicquid vult; naturalis enim homo potest elevare intellectum suum ad superiorem lucem quousque desiderat; sed qui in malis et inde falsis est, non elevat illum altius quam in superiorem regionem naturalis suae mentis, et raro ad regionem mentis spiritualis. Causa est, quia in jucundis amoris naturalis suae mentis est; et si supra illam elevat, perit jucundum amoris ejus: si altius elevatur, et videt vera opposita jucundis vitae suae, aut principiis propriae intelligentiae suae, tunc vel falsificat illa, vel praeterit, et ex contemptu relinquit illa, vel retinet in memoria, ut inserviant amori vitae suae, aut fastui propriae intelligentiae suae, pro mediis. Quod naturalis homo possit confirmare quicquid vult, patet manifeste ex tot haeresibus in Christiano orbe, quarum quaelibet confirmatur a suis. Quod mala et falsa omnis generis possint confirmari, quis non novit? Confirmari potest, et quoque a malis apud se confirmatur, quod Deus non sit, et quod natura sit omne, et quod se ipsam creaverit; quod religio sit modo medium, quo animi simplices teneantur in vinculis; quod prudentia humana faciat omnia, et quod Divina providentia nihil praeter quod universum in ordine, in quo creatum est, sustineat; tum quod neces, adulteria, furta, fraudes, ac vindictae sint licita, secundum Machiavellum et ejus asseclas. Haec et similia plura naturalis homo confirmare, immo libros confirmationibus implere potest; et cum confirmata sunt, tunc falsa illa apparent in luce sua fatua, et vera in tali umbra, ut non possint videri, nisi sicut larvae tempore noctis. Verbo, sume falsissimum, et da illud in propositionem, et dic ingenioso, “Confirma,” et confirmabit usque ad plenam exstinctionem lucis veri; sed sepone confirmationes, redi, et specta ipsam propositionem ex rationalitate tua, et videbis falsum ejus in sua deformitate. Ex his constare potest, quod homo possit abuti duabus illis facultatibus, quae a Domino apud illum sunt, ad confirmandum mala et falsa omnis generis. Hoc non potest aliqua bestia, quia non facultatibus illis gaudet; quare bestia in omnem ordinem suae vitae, et in omnem scientiam amoris sui naturalis, nascitur, secus ac homo.
(2) 直訳
(ii.) Quod malus homo abutatur illis facultatibus ad confirmandum mala et falsa, et bonus homo utatur illis ad confirmandum bona et vera.― (ii.) 悪い人間はそれらを悪と虚偽を確認するために悪用すること、そして善い人間はそれらを善と真理を確認する(強める)ために用いること。
Ex facultate intellectuali, quae vocatur rationalitas, et ex facultate voluntaria, quae vocatur libertas, trahit homo quod confirmare possit quicquid vult; 理解する能力から、それは推理力と呼ばれる、また意志の能力から、それは自由と呼ばれる、人間は何でも欲するものを確認することができることを得ている。
naturalis enim homo potest elevare intellectum suum ad superiorem lucem quousque desiderat; なぜなら、自然的な人間は、自分の理解力を高揚することができるから、高い光の中へ、望む〔ところ〕まで。
sed qui in malis et inde falsis est, non elevat illum altius quam in superiorem regionem naturalis suae mentis, et raro ad regionem mentis spiritualis. しかし、悪の中にまたそこから虚偽の中にいる者は、それをさらに高く高揚しない、自分の自然的な心の高い領域よりも、またまれに霊的な心の領域に。
Causa est, quia in jucundis amoris naturalis suae mentis est; 理由である、自分の自然的な愛の快さの中にいるので。
et si supra illam elevat, perit jucundum amoris ejus: またもしそれを上に高揚させるなら、彼の愛の快さ(楽しさ)は失われる。
si altius elevatur, et videt vera opposita jucundis vitae suae, aut principiis propriae intelligentiae suae, tunc vel falsificat illa, vel praeterit, et ex contemptu relinquit illa, vel retinet in memoria, ut inserviant amori vitae suae, aut fastui propriae intelligentiae suae, pro mediis. もしさらに高く高揚されるなら、また自分の生活の快さ(楽しさ)に正反対の真理を見る、または自分の知性(理解力)の固有の原理に、その時、あるいはそれら〔真理〕を虚偽化する、あるいは見過ごす、また軽蔑からそれらを残す、あるいは記憶の中に押しとどめる、自分の生活の愛に役立つように、あるいは自分の知性(理解力)の固有の高慢に、手段として。
Quod naturalis homo possit confirmare quicquid vult, patet manifeste ex tot haeresibus in Christiano orbe, quarum quaelibet confirmatur a suis. 自然的な人間は何でも欲するものを確認することができることは、キリスト教世界の中のこのように多くの異端からはっきりと明らかである、それらはどんなものでもそれ自体のものら☆により確認される。
☆ suis「それ自体のものら」とは、「その異端に所属する者ら」ということでしょう。
Quod mala et falsa omnis generis possint confirmari, quis non novit? すべての種類の悪と虚偽が確認されることができることを、だれが知らない☆か?
☆ noscoは完了形で「気づく、知る」の意味があります。
Confirmari potest, et quoque a malis apud se confirmatur, quod Deus non sit, et quod natura sit omne, et quod se ipsam creaverit; 確認されることができる、そしてまた悪い者により彼ら自身のもとで確認される、神が存在しないこと、また自然がすべてであること、またそれ自体そのものを創造したこと。
quod religio sit modo medium, quo animi simplices teneantur in vinculis; 宗教は単なる手段であること、それによって単純な気質(心)の者たちは拘束の中に保たれる。
quod prudentia humana faciat omnia, et quod Divina providentia nihil praeter quod universum in ordine, in quo creatum est, sustineat; 人間の思慮分別がすべてを行なう、また神的な摂理は、宇宙を秩序の中に、その中で創造された、保つことを除いて何もないこと。
tum quod neces, adulteria, furta, fraudes, ac vindictae sint licita, secundum Machiavellum et ejus asseclas. さらに殺人、姦淫、窃盗、欺き、そして復讐は許されるものであること、マキアヴェリと彼の信奉者にしたがって。
Haec et similia plura naturalis homo confirmare, immo libros confirmationibus implere potest; これらをまた同様の多くのことを自然的な人間は確認すること、実に本を確認によって満たすことができる。
et cum confirmata sunt, tunc falsa illa apparent in luce sua fatua, et vera in tali umbra, ut non possint videri, nisi sicut larvae tempore noctis. また確認されたとき、その時、それらの虚偽はその愚かな光の中に見られる、また真理はこのような陰の中に、見られることができないような、夜の時の幽霊のようなでないなら。
Verbo, sume falsissimum, et da illud in propositionem, et dic ingenioso, “Confirma,” et confirmabit usque ad plenam exstinctionem lucis veri; 一言でいえば、極めて誤ったものを取れ、そしてそれを命題にせよ、また才気ある者に言え、「証明せよ」、真理の光のまったくの消滅にまでも証明するであろう。
sed sepone confirmationes, redi, et specta ipsam propositionem ex rationalitate tua, et videbis falsum ejus in sua deformitate. しかし、証明をわきに置け、戻れ、そして命題そのものをあなたの推理力から眺めよ(考慮せよ)、あなたはその虚偽をその醜さの中に見るであろう。
Ex his constare potest, quod homo possit abuti duabus illis facultatibus, quae a Domino apud illum sunt, ad confirmandum mala et falsa omnis generis. これらから明らかにすることができる、人間は二つのこれらの能力で悪用することができること、それらは主により彼らのもとにある、すべての種類の悪と虚偽を確認するために。
Hoc non potest aliqua bestia, quia non facultatibus illis gaudet; このことをある☆獣はできない、それらの能力に授けられていないので。
☆ このaliqis(ある種の)にはあまり意味がないと思います。
quare bestia in omnem ordinem suae vitae, et in omnem scientiam amoris sui naturalis, nascitur, secus ac homo. それゆえ、獣はその生活のすべての秩序の中に、またその自然的なすべての知識の中に、生まれている、人間とは異なって。
(3) 訳文
267. (ii.) 悪い人間はそれらを悪と虚偽を確認するために悪用し、善い人間はそれらを善と真理を確認するために用いること。
推理力と呼ばれる理解する能力と自由と呼ばれる意志の能力から、人間は何でも欲するものを確認することができることを得ている。なぜなら、自然的な人間は、望むところまで高い光の中へ自分の理解力を高揚することができるから。しかし、悪とそこから虚偽の中にいる者は、理解力を自分の自然的な心の高い領域よりも高く、また霊的な心の領域にはまれにしか高揚しない。その理由は、自分の自然的な愛の快さの中にいるからであり、またもし、理解力を上に高揚させるなら、彼の愛の快さは失われる。もし、高く高揚されるなら、自分の生活の快さに、または自分に固有の知性の原理に、正反対の真理を見て、その時、それらの真理を虚偽化するか、あるいは見過ごし、軽蔑からそれらをあとに残すか、あるいは、自分の生活の愛に、あるいは自分に固有の知性の高慢に役立つような手段として、記憶の中に押しとどめる。
自然的な人間は何でも欲するものを確認することができることは、キリスト教世界の中のこのように多くの異端からはっきりと明らかであり、それら異端はどんなものでもその信奉者らにより確認されている。すべての種類の悪と虚偽は確認されることができることを、だれが知らないか? 確認されることができ、さらにまた悪い者により彼ら自身のもとで確認されていることがある。神が存在しないこと、また自然がすべてであること、またそれ自体そのものを創造したこと、宗教は単純な気質の者たちを拘束の中に保つ単なる手段であること、人間の思慮分別がすべてを行ない、神的な摂理は、秩序の中で創造されたその宇宙を秩序の中に保つことを除いて何も行なわないこと、さらにマキアヴェリと彼の信奉者にしたがって、殺人、姦淫、窃盗、欺き、復讐は許されるものであることなどである。これらのことや同様の多くのことを自然的な人間は確認し、実に確認によって書物を満たすことができる。また確認される時、それらの虚偽はその愚かな光の中に見られ、また真理は、夜の幽霊のようにしか見えないような、そのような陰の中に見られる。
一言でいえば、まったくの虚偽を取り、それを命題とし、また才気ある者に、「証明せよ」と言ってみよ、彼は真理の光を完全に消滅させるまでにも証明するであろう。しかし、その証明をわきに置き、命題そのものに戻って、あなたの推理力から眺めてみよ、あなたはその虚偽をその醜さの中に見るであろう。これらから、人間は、すべての種類の悪と虚偽を確認するために、主により彼らのもとにある二つのこれらの能力を悪用することができることを明らかにすることができる。 獣は、それらの能力に授けられていないので、このことをできない。それゆえ、獣は、人間とは異なって、その生活のすべての秩序と、その自然的なすべての知識の中に生まれている。
原典講読『神の愛と知恵』 268
(1) 原文
268. (iii.) Quod mala et falsa confirmata apud hominem permaneant, ac fiant amoris et vitae ejus.― Confirmationes mali et falsi non sunt aliud quam remotiones boni et veri, et si increscunt sunt rejectiones, nam malum removet et rejicit bonum, ac falsum verum: inde etiam confirmationes mali et falsi sunt occlusiones caeli, nam omne bonum et verum a Domino per caelum influit; et cum caelum clausum est, tunc homo in inferno est, et ibi in societate ubi simile malum et falsum regnat, a quo dein eximi nequit. Datum est loqui cum aliquibus, qui ante saecula apud se confirmaverunt falsa religionis suae, et vidi quod in iisdem, similiter ut in illis fuerunt in mundo, permaneant: causa est, quia omnia, quae homo apud se confirmat, fiunt amoris et vitae ejus; fiunt amoris, quia fiunt voluntatis et intellectus, ac voluntas et intellectus faciunt vitam cujusvis; et cum fiunt vitae hominis, fiunt non solum totius mentis ejus sed etiam totius corporis ejus. Inde patet, quod homo, qui se confirmaverat in
(2) 直訳
(iii.) Quod mala et falsa confirmata apud hominem permaneant, ac fiant amoris et vitae ejus.― (iii.) 人間のもとで確認された悪と虚偽は存続する、そして愛のものまた(ここから☆1)彼のいのち(生活)のものとなること☆2。
☆1 265番についていたindeがここでは落ちています。indeのあるほうがよいと思います。
☆2 この部分の長島訳について(4)で批評します。
Confirmationes mali et falsi non sunt aliud quam remotiones boni et veri, et si increscunt sunt rejectiones, nam malum removet et rejicit bonum, ac falsum verum: 悪と虚偽の確信は善と真理の移すこと(除去)以外の何ものでもない、またもし増大するなら拒否である、なぜなら、悪は善を遠ざけ(移し)また追い払う(拒否する)から、そして虚偽は真理を。
inde etiam confirmationes mali et falsi sunt occlusiones caeli, nam omne bonum et verum a Domino per caelum influit; ここからもまた悪と虚偽の確信は天界の閉ざすことである、なぜなら、すべての善と真理は主から天界を通して流入するから。
et cum caelum clausum est, tunc homo in inferno est, et ibi in societate ubi simile malum et falsum regnat, a quo dein eximi nequit. そして天界が閉ざされるとき、その時、人間は地獄の中にいる、またそこに社会の中に、同様の悪と虚偽が支配する場所に、そこからその後、連れ出されることができない。
Datum est loqui cum aliquibus, qui ante saecula apud se confirmaverunt falsa religionis suae, et vidi quod in iisdem, similiter ut in illis fuerunt in mundo, permaneant: ある者らと話すことが与えられた、数世紀前、自分自身のもとに自分の宗教の悪と虚偽を確信した者ら、また私は見た、同じものの中に、世の中でそれらの中にいたようなと同様の、どどまっていたこと。
causa est, quia omnia, quae homo apud se confirmat, fiunt amoris et vitae ejus; 理由である、すべてのものは、人間が自分自身のもとで確信したもの、彼の愛と生活のものになるから。
fiunt amoris, quia fiunt voluntatis et intellectus, ac voluntas et intellectus faciunt vitam cujusvis; 愛のものとなる、意志と理解力のものとなるので、そして意志と理解力はそれぞれの(者の)生活(いのち)をつくる。
Inde patet, quod homo, qui se confirmaverat in malis et falsis, a capite ad calcem sit talis; ここからである、人間は、自分自身に悪と虚偽を確信した者、頭からかかとまでこのようなものであること。
et cum totus talis est, non potest per aliquam inversionem aut retorsionem redigi in statum ei oppositum, et sic ab inferno extrahi. また全部がこのようであるとき、何らかの反転または曲げ返しによって彼に反対の状態の中にする(追いやる)ことはできない、またこうして地獄から引き出されることは〔できない〕。
Ex his et ex in hoc articulo videri potest, unde origo mali est. これらからまたこの節から見られることができる、悪の起源がどこからであるか。
(3) 訳文
268. (iii.) 人間のもとで確認された悪と虚偽は存続し、彼の愛に属するものと生活に属するものとなること。悪と虚偽の確信は善と真理を除くこと以外の何ものでもなく、またもし増大するなら拒否である。なぜなら、悪は善を、虚偽は真理を遠ざけ追い払うから。ここからもまた悪と虚偽の確信は天界の閉ざすことである、というのも、すべての善と真理は主から天界を通して流入するから。そして天界が閉ざされる時、人間は地獄の中に、同様の悪と虚偽が支配する場所のそこに社会の中にいて、そこからその後、連れ出されることはできない。
数世紀前の自分自身のもとに自分の宗教の悪と虚偽を確信した者らと話すことが与えられ、私は、彼らが世の中でいたのと同じ似たものものの中にどどまっていたのを見た。人間が自分自身のもとで確信したすべてのものは、彼の愛と生活に属するものになるのが理由である。意志と理解力のものとなるので、愛に属するものとなり、そして意志と理解力はそれぞれの者の生活をつくるのである。ここから、自分自身に悪と虚偽を確信した人間は、頭からかかとまでこのようなものである。また全部がこのようであるとき、何らかの反転または曲げ返しによって彼にとって反対の状態にすること、またこうして地獄から引き出されることはできない。
これらからまたこの節から、悪の起源がどこからであるか知ることができる。
(4) 「そのまま~化していく」とは何なのか? これが長島訳!
この個所の長島訳は「人が確認してしま(っ)た悪と偽りは、永続し、そのまま本人の愛および〈いのち〉に化していく」である。
細かいことを言えば、ここの「および」の使い方に違和感がある。etは「と」と訳して十分通じるし、ここでわざわざ「および」とする必要は何ら感じない。また「および」の普通の用い方とは異なる気がする。
さて、もっと問題なのは余分な付加「そのまま」である。原文にないのは明らか、そしてが同訳の265番ではこの「そのまま」がない。同じ文脈の中での同一文なのだから「同じに訳さなければいけない」と思う。ここだけに「そのまま」を付加する理由がない。その理由をあえて推測すれば「読者にとって読みやすくした」であろう、余計なお世話とはこのこと。
そしてそれ以上に「そのまま~化す」は、私にはまともな日本語と思えない。この「そのまま」付加するなら、その前の「永続」であり、「そのまま永続する」なら多少重複気味な表現ではあるが、読みやすいかもしれない。
「悪と偽りが…(そのまま)本人の愛といのちに化する」とは何か? 一見わかるような表現であるが、私には何のことかわからない。わからないでよいであろう。原文にそんなことは書いてないから。
でも、何も知らない読者は、どのように理解するのか? 私が長島訳を「でたらめ」と評するのは、このようなことが随所に見られるからである。