パリ再訪(1)、今度はよく見れた

 

今回の旅行(23~29)をざっと振り返ってみる。


高校1年生の娘を初めての海外旅行に連れていくのが主目的ではあるが、私自身、またそれ以上に女房がもう一度行きたかった。ついでに、三男も連れて、一家で行くことにしたのだった。


 


23()11:50成田発、ANAなのであまり異国情緒はないまま空路パリへ。夕方パリ南郊外のムードン泊、ホテルの周りに見るものは何もない。


24():それでも、息子と朝食前に付近を小1時間散歩、工場、大学、モール、などあり。午前中はヴェルサイユ宮殿見物、巨大な庭園をカナルまで行き、集合時間に間に合わせ、駆け足で戻った。昼食前に、この格安ツアーでただ一回の土産物屋に寄るが、私たちはすぐさま外に出て、ヴェルサイユ宮殿の庭園に戻る、このとき今回唯一の小雨、天候には恵まれた。また前回と違ってヴェルサイユの街並みも楽しめた。午後はバスでモン・サンミッシェルへ。ホテルは最高! 部屋の窓から額縁の中のようにモン・サンミッシェルが見える、また、レストランからも。この地区唯一の4つ星ホテル。娘は、部屋のドアを開けた瞬間、歓声を上げたらしい。オフシーズンなのでたまたまこのホテルが取れたとのこと。普段の心がけがよいのかもしれない。これだけで旅行代金の元が取れた気がする。夜、島まで息子・娘と散歩する、天の川がちょうどモン・サンミッシェルから始まっていた。この前、歩かなかった城壁をめぐった。


25():午前中は人影まばらなモン・サンミッシェル、やはり、城壁からの眺めが素晴らしい、あたり一面の潟。


昼ごろからパリへ向かう、昼食はなし、でもバスに座っているだけなので腹はすかない。


パリ到着後、宿泊先に寄ってから、バスでエッフェル塔、凱旋門など見物、エスカルゴの夕食、まずかった。食後「セーヌ川クルーズ」、女房は夜景がきれいだったと言うが、私は眠く、この前の昼間のクルーズのほうが楽しめた。


26():今日から三日間の自由行動、パリを自由にたっぷりと見たかったからこのツアーにしたのだった。


宿はパリ19区、地下鉄「ラ・ヴィレット」駅前、日本人旅行者のたまり場みたいでやや興ざめではあるが、地下鉄まで1分もかからないのは重宝。最初に「パリ・ミュージアム・パス」(2日券)を買うためにパリ観光案内所のある「ピラミッド」駅へ向かう、まだ開いていないので近くのサントノ―レ広場・ヴァンドーム広場(パリでいちばんきれいな広場)を見物する、戻ったが予定の9時に開いていない。オフシーズンなので開店休業なのだろう。直接「オルセー美術館」に向かうことにした。チュイルリー公園を横切り、ソルフリーノ橋を渡る。この橋は女房が前のセーヌ川クルーズで唯一「歩行者専用の橋」として、「渡ってみたいな」と目をつけていたものだった。まさに実現。「オルセー」は名画の宝庫、でも鑑賞は疲れる、続いて「オランジュリー」と美術館の「はしご」をしようとしたが、女房に反対され、目的地を教会へ変更、若葉のころはさぞ美しいであろう並木道を通って「サンジェルマン教会」へ、ここはパリでいちばん古い教会。この教会前のカフェ「レ・ドゥ・マゴ」(文豪たちが通った老舗)には5年前、長男と三男が寄った。文学部へ進み、フランス語も選択した長男にとってはぜひとも訪れたい場所だったのであろう。私たちは割愛、通りを斜めに隔てたムール貝の店「レオン・ド・ブリュクセル」で昼食、うまい。


その後、「ノートルダム寺院」、「パリ市庁舎」(庁舎前にアイスリンクができていてスケートをやっていた)、続いて、今度は私がぜひ訪れたかった場所「カルチェ・ラタン」訳して「ラテン語の街」である。ソルボンヌ大学など、昔、学生たちがラテン語を話したので、この名前がついたという。ラテン語をやっている私としては見逃せない。付近の街並みの美しい「パンテオン」、それからリュクサンブールを訪れた。この公園から南を見れば、この前訪れた「パリ天文台」がある。


地下鉄を乗り降りして「ギャルリー・ヴェロ・ドダ」、「ギャルリー・ヴィヴィエンヌ」へ、どんなものかなと行ったが閑散としていた。日本食の街並み「サンタンヌ通り」に来たころは歩き疲れた。夕方ともなったので「北海道」という当地で有名なラーメン屋に入った。普通の味だった。よく歩いたので(しかし、見物には歩くのが一番)、宿についてバタンキュー。〔長くなったのでまた明日〕

原典講読『神の愛と知恵』 269

 

(1) 原文


269.  (iv.) Quod illa, quae facta sunt amoris et inde vitae, ingenerentur proli. Notum est, quod homo nascatur in malum, et quod id trahat ut haereditarium a parentibus: et a quibusdam creditur, quod non a parentibus, sed per parentes ex Adamo; sed hoc est error. Trahit id a patre, a quo est ei anima, ac induitur corpore apud matrem; semen enim, quod est ex patre, est primum receptaculum vitae, sed tale receptaculum, quale fuit apud patrem, est enim in forma amoris ejus, et amor cujusvis in maximis et minimis sibi similis est, et est in illo conatus in formam humanam, in quam etiam abit successive; inde sequitur, quod mala, quae vocantur haereditaria, sint a patribus, ita ab avis et atavis successive derivata in progenies. Hoc etiam experientia docet, est enim quoad affectiones similitudo gentium cum primo genitore suo, et magis similitudo familiarum, et adhuc magis similitudo domuum; immo talis similitudo, ut internoscantur generationes non modo ab animis, sed etiam a faciebus. Sed de ingeneratione amoris mali a parentibus in proles, in sequentibus, ubi de correspondentia mentis, seu voluntatis et intellectus, cum corpore et ejus membris et organis, plura dicentur. Hic solum haec pauca allata sunt, ut sciatur, quod mala a parentibus successive deriventur, et quod per accumulationes unius post alterum increscant, usque ut homo ex nativitate non sit nisi quam malum: et quod malignitas mali crescat secundum gradum occlusionis mentis spiritualis, sic enim mens naturalis etiam superius clauditur; et quod hoc in posteris non restituatur, nisi per fugere mala ut peccata ex Domino; sic non aliter aperitur mens spiritualis, et per illud mens naturalis in formam correspondentem reducitur.


 


(2) 直訳


(iv.) Quod illa, quae facta sunt amoris et inde vitae, ingenerentur proli.― (iv.) それら愛とここからいのち(生活)のものとなったものは、子孫に出生によって伝えられること。


Notum est, quod homo nascatur in malum, et quod id trahat ut haereditarium a parentibus: よく知られている、人間は悪の中に生まれていること、またそれを遺伝として両親から得ていること。


et a quibusdam creditur, quod non a parentibus, sed per parentes ex Adamo; またある者たちにより信じられている、両親からでないこと、しかしアダムから両親を通って。


sed hoc est error. しかし、このことは間違いである。


Trahit id a patre, a quo est ei anima, ac induitur corpore apud matrem; それを父から得ている、それ〔父〕から彼に霊魂がある、そして母のもとで身体を着せられる。


semen enim, quod est ex patre, est primum receptaculum vitae, sed tale receptaculum, quale fuit apud patrem, est enim in forma amoris ejus, et amor cujusvis in maximis et minimis sibi similis est, et est in illo conatus in formam humanam, in quam etiam abit successive; なぜなら、精子()は、それは父からのものである、いのちの最初の容器である、しかし、このような容器〔である〕、父のもとにあったような、なぜなら〔精子は〕彼の愛の形の中にあるから、またそれぞれの者の愛は最大のものと最小のものの中でそれ自体に似ている、またその中には人間の形への努力がある、さらにまたその中へ連続的に出かける。


inde sequitur, quod mala, quae vocantur haereditaria, sint a patribus, ita ab avis et atavis successive derivata in progenies. ここからいえる、悪は、それは遺伝と呼ばれる、父たちからである、このように祖父たちと高祖父(先祖)たちから連続的に子孫の中に。


Hoc etiam experientia docet, est enim quoad affectiones similitudo gentium cum primo genitore suo, et magis similitudo familiarum, et adhuc magis similitudo domuum; このことは経験もまた教える、なぜなら、情愛に関して氏族とその最初の氏族に類似性があるから、またさらに家族(一族)の類似性、またその上さらに家族の類似性〔がある〕。


immo talis similitudo, ut internoscantur generationes non modo ab animis, sed etiam a faciebus. 実にこのような類似性〔がある〕、心(気質)からだけでなく、しかしまた顔から一族(子孫)見分けられるような。


Sed de ingeneratione amoris mali a parentibus in proles, in sequentibus, ubi de correspondentia mentis, seu voluntatis et intellectus, cum corpore et ejus membris et organis, plura dicentur. しかし、両親から子孫の中への悪の愛の出生による伝達について、続くものの中で、そこに心の対応について、すなわち意志と理解力の〔対応について〕、身体やその肢体や器官と、多くのことが言われる。


Hic solum haec pauca allata sunt, sciatur, quod mala a parentibus successive deriventur, quod per accumulationes unius post alterum increscant, usque ut homo ex nativitate non sit nisi quam malum: ここにこれらのわずかなことだけが提示(引用)された、知られる〔ように〕、悪は両親から連続的に導かれること、一つの蓄積、その後の他の〔蓄積〕を通して増大すること、人間が出生から悪以外の何ものでもないようにまで。


et quod malignitas mali crescat secundum gradum occlusionis mentis spiritualis, sic enim mens naturalis etiam superius clauditur; また悪の有害性は霊的な心の閉鎖(閉じること)の段階にしたがって増大すること、なぜなら、自然的な心もまた上方で閉ざされるから。


et quod hoc in posteris non restituatur, nisi per fugere mala ut peccata ex Domino; またこのことは子孫の中で回復されないこと、悪を罪として避けることによって主からでないなら。


sic non aliter aperitur mens spiritualis, et per illud mens naturalis in formam correspondentem reducitur. こうしてそうでなければ霊的な心は開かれない、またそのことによって自然的な心は対応する形に戻される。


 


(3) 訳文


269.  (iv.) 愛とここから生活に属するのものとなったそれらのものは、子孫に伝えられること。


 人間は悪の中に生まれていること、またそれを遺伝として両親から得ていること、よく知られている。またある者たちは、両親からではなく、アダムから両親を通してである、と信じている。しかし、このことは間違いである。それを父から得ていて、彼の霊魂は父から、そして母のもとで身体を着せられるのである。なぜなら、父からのものである精子は、いのちの最初の容器であるが、しかし、父のもとにあったような容器である、なぜなら、精子は彼の愛の形の中にあるから、またそれぞれの者の愛は最大のものと最小のものの中でそれ自体に似ており、またその中には人間の形への努力があり、さらにまたその中へと連続的に進む。ここから、遺伝と呼ばれる悪は父たちから、このように祖父たちや先祖たちから連続的に子孫の中にあることがいえる。このことは経験からもまた教えられる。なぜなら、情愛に関して氏族とその最初の氏族の間に類似性が、またさらに一族に類似性、またその上さらに家族に類似性があるから。実に気質からだけでなく、顔からもまた一族が見分けられるような類似性がある。しかし、悪の愛が両親から子孫へ出生によって伝達されることについては、続いて、心と、すなわち意志と理解力と、身体やその肢体や器官との対応について扱う中で、多くのことを述べよう。


 ここにこれらのわずかなことだけを示たのは、悪は両親から連続的に導かれ、一人また一人と積み上げて、人間が出生から悪以外の何ものでもないようにまで増大すること、また悪の有害性は霊的な心を閉ざす段階にしたがって増大すること、なぜなら、自然的な心もまた上方で閉ざされるから、またこのことは、悪を罪として避けることによって主からでないなら子孫の中で回復されないこと、そうでなければ霊的な心は開かれず、またそのことによって自然的な心は対応する形に戻されること、これらのことが知られるためである。