感想:原典講読『天界と地獄』から その4

 

119(no.286) 「柳瀬訳」での重大な誤りについて


 ラテン語の接続詞seuは英語のorに相当し、訳語として「または」「すなわち」である。その訳語の使い分けは文脈にもよるが(ラテン語の場合)、句読点が区別の基準となる(英語の場合は絶対的基準)


 すなわち、英語で「A or B」と「A, or B」は後者にカンマ一つが付くだけであるが、意味は異なってくる。「AまたはB」と「AすなわちB」であり、前者はABを並置して述べているが、後者はAについて言葉を変えて(説明して)述べている。


 「柳瀬訳」を読んで、「何か今ひとつよくわからないな」という印象を持たれている読者がいるかと思う。その原因の一つがここにある。すなわち、柳瀬訳はその全部が「AまたはB」と訳されていて、この区別がなされていない! 今後、柳瀬訳を読むとき、「または」が出てきたら、「すなわち」と置き換えて読めば、よくわかるところがあるだろう。


 


1113(no.290) mensanimusについて


 スヴェーデンボリは多くの概念にある種の「段階」を設定している。「心」も同様である。ここのmenscor(愛の座としての心)と対比して用いられることが多く、「知性の座としての心」である。理性的な心であり、「精神」の訳語がいちばんぴったりするかもしれない。animusは「意識や思考の座としての心」であるが、mensと対比するとき「下位の心、外的なまたは自然的な心」であり、「アニムス」と音訳することもある。アニムスが内在するから「動物(アニマル)」である。ここからアニムスの最も下に位置するる心は、動物にも意識や感覚があるので「動物と共通する心」といえるかもしれない。


 柳瀬訳のこの個所は「合理的な心」と「自然的な心」であり(よい意味で)意訳している。


 


1114(no.291) 人間と霊界との結びつきについて


 「神の存在について」はさて置き、自分の中(あるいは世の中)の「善と悪の存在」について考えたことがあるだろうか。たいした善人とも思えない自分でも「善業」らしいことを行なうことがある。また、悪はしょっちゅう行なっている。そして、「私の中に、なぜ、こんな悪(善)があるんだろう?」と、それらの根源について、それが決して自分自身に根ざしていると思えないことがある。善にしろ悪にしろ、自分以外の「外から」やって来たとしか思えない。その「外とは何か」と考えるとき、これから述べられるここの教えを肯定するともに、その流入してくる「外」である「霊界(天界と地獄、また霊たちの世界の総称)」の存在を信じざるをえない。〔神の存在は信じないが、悪魔の存在は信じる、という人がいる〕


 


1119(no.296) まったくの誤訳となっている長島訳


 ここの冒頭の部分の文章が長島訳では次のものである。「主が人をみちびかれるにあたって、霊をとおしてなさるということは、天界の秩序によるものではなく、地獄から悪に由来するものですから、神の秩序にまったく反しているのです」(何度か読み直してほしい)


 変である。文意は「霊を通して人間を導く(厳密には「支配する」)ことは、地獄から悪に由来する(「由来する」という言葉は訳者の勝手な勝手な思い込みによる付加)ので、神の秩序に反する」である。


 現実に「霊を通して人間が(ある意味で)支配されている」、そしてそのことが「神の秩序に反する」というのである。では、どうすれば、神の秩序にかなうのか? 現実に行なわれていることは「神の秩序」そのもののはずである。この世で起こること、行なわれることは、神の秩序、神の摂理にしたがっているはずである。これでは「変である」。すなわち、誤訳だから。


 一般論として、翻訳文では「文意が通じない時は、(理解できない自分の頭が悪いのかな、と思わず)、誤訳かなと疑い、原典にあたるのが、正しい、しかも精神的に健康な態度である」。


 〔私の訳は次のものである、「人間が主により霊たちを通して支配されることは、〔人間が〕天界の秩序にいないからである、なぜなら、〔人間は〕地獄のものである悪の中に、したがって神的な秩序に完全に反するものの中に生まれているから」


 


127(no.318) だれでも自分の宗教にしたがって善に生きれば救われること


 どこにでもなんらかの宗教がある。日本には神道、インドには、アラブの国々には・・・と。どんな宗教も現世だけでなく、来世を、神を視野に入れている(このような宗教がなければ・・・と言うより、それは宗教ではない)。そのとき、現世のみを考慮する考えから視野が、価値観が変わる、神に目を向ける。すなわち、外的なものから内的なものへ目を向ける。これが最も重大事であって、そのとき宗派など、は問題でなくなる、そのために一手段でしかなくなる。こうした考えを持つとき、宗教上の争い(宗教戦争)はなくなる。雑談ながら、この点、日本人はすぐれているのではないだろうか。すなわち、神道、仏教、キリスト教をみごとに融和させて取り入れている。すなわち、初詣、七五三などの宮参り、いろいろな祈願、また結婚式や葬式で、みごとなほどに融通無礙である(ある意味、無宗教ともいえる)


 さて、これをキリスト教界内でいえば、カトリックでも、プロテスタントでもよい、すなわち「新教会」でなくてもよい。この世で善に生きれば、「真の救い主」に気づかなくても、素地ができているので、来世で、そのことを教えられる〔そして天界に行く〕。


 あえて、争ってまで、新教会を広めようとは思わない(布教に積極的になれない、しかしこうした宗教はこれまでいっぱいあった。隠れた存在とも言えよう)。ただ、求める者のために、またこの世と来世との結びつきのために、真の教えが存在すればよい。そしてこのこともまた、主が備えてくださっていると思う。


 


128(no.319) 異教徒は、たとえ世で純粋な真理の中にいなくても、来世で、愛からそれらを受ける


 この結論は重要だと思う。確かに「真理」には高低、優劣があると思える。それでも、宗教であるかぎりそこには「神性を認め、隣人に悪をなさない」という教えがあるはずである。そして、その教えにしたがって、(自分自身に導かれない=自分を神としない)道徳的な生活を送れば、天界に行き、真理への愛から、純粋な真理を受けるのである。この世は完全でないのだから、純粋な真理を得るのは難しいであろう、しかし、どっちみち来世で得られるのである。このとき、真理の純粋さを競っても、すなわち、「どちらの真理ほうが程度が高いか」など意味がなくなる。まして宗教戦争など。


 「たとえ」としてやや的外れかもしれないが「学歴」を考えてみる。学歴は高いほうがよいし、同じ学歴ならいわゆる優秀な学校で学ぶほうがよいであろう。すなわち、より広く、深い人生観を形成できる。でも、人生を決定するのは学ぶことだけではない、その人生観に基づいて、どのように生きるかのほうがよっぽど重要である。


 このことを宗教にあてはめれば「名門宗教」と「低劣な宗教」があるかもしれない。でも、それらを学校だとすれば、たしかに学校の選択も重要であるが、それ以上に、そこで何を学び、それをどう生かすかのほうがはるかに重大事であろう。このとき「どっちの学校がよいの、悪いの」といって争うのは、あまり意味がないとわかる。


 ただし、学校にも営利だけを目的としたものがある(信者から金を集めることだけに関心がある宗教)、このような学校に入ってはいけない。しかし、この心配はここの読者には無用であろう。


 


1211(no.323) みことばは天的なものと霊的なものの表象と表意である


 聖書を29歳になって(遅かったです、でもこれでよかったかもしれない)はじめて読んだとき、「これは普通の本ではない」と直感できた。もちろん「創世記」から読み始めた。天地創造など、一見、幼稚である。しかもギクシャクしている。5節で「第一日」と言いながら、日にちの区別となる「太陽」らしきものは14節にならないと出てこない。その前に(太陽が存在する前に)「夕があり、朝があった」も、すごく変。すなわち、読み始めてすぐさま第5節で「異様だ」と気づく。


 でも『古事記』など読んでいたので、理詰めで考えることはしなかった。このような異様な表現で「何かを語ろうとしている」んだろう、とは察しがつくからである。


 ともかく、知らないことだらけなので、単純に「知識」として読み進んだ。平行して世の解説書も読んだ。しかし、「異様な感じ」がどうしてするのか、その疑問は抱えたままだった。


 その疑問が晴れるのは、37歳になって『天界の秘義』を読んだときである。一言でいえば「聖書には霊的なものが表象され、意味されて、書かれている」からである。


 


1216(no.329) 幼児infansの他の訳書の訳語について


 この語は多くの用例からも(5,6歳の)「幼い子供」「幼児」を意味する。


 さて柳瀬訳のこの329番の見出しは「小さな子供」であり、本文中は「子供」、最後に「小さな子供」となっている。また次の330番では「幼児のようなinfantilis」とある。これだと「小さな子供」と「子供」また「幼児」は別の言葉と思ってしまうが、同一である(英訳書でlittle childrenchildrenとしているのを忠実に訳してあるが)。このような訳し方を私は受け入れことができない(もちろん、文脈によって訳語が変わることはある、ここではその必要を認めない)。同一単語は同一訳語で通して欲しい、意味がぼやけてくる気がするからである。


 長島訳は「みどりご」としている。長島氏は日本語を知らない(正確に使っていない、という意味である)。「みどりご」とは(生まれたばかりの)赤ん坊である私は「普通でない日本語の用い方をする人だなあ」と思っているが、これもそうした言葉遣いの一つである。そして、337番以降、突然と「幼児」の言葉を使用している(変更している)、これは上記の趣旨から、いただけない。


 


1222(no.338) 幼児のもつ観念は、あらゆるものが生きているかのようであること


 『天界と地獄』の中で、私にとって一番印象深い部分がここである。幼児の目にはすべてのものが「生きている」と思えるのである。私自身も、目の前の無機物、例えば、パソコン、本・・・などが「いのち」を持っているような気がするときがある。木のような生物にはもちろん「精」が宿っている気がする。


 パソコンや本に生命としての「いのち」はないが、その物体を通してその奥にある「いのち」を感じるのである。たとえば、本なら、その中に書かれている「内容」に、著者の表現したいものに、その著者を生かしているいのち(執筆させる原動力)を感じるのである。また車などもいろいろな動物に思えるときがある、犬、馬、象・・・のように。そして、その車に製作者のいのちを、走っている時には運転手のいのちを感じる。


 こうした思いを抱くのは、目の前の物質世界の奥にある精神世界を意識するからであり、幼児の場合、そんなことを少しも考えずに、おもちゃ、また身の回り物にいのちを感じるのであろう。


 


1225(no.342) 遺伝悪について


 これもスヴェーデンボリ神学の特徴の一つであると思う。すなわち親から受け継ぐものは身体的特徴(これは万人の認めるところ)の外面だけでなく、性格(ある程度年取ると、自分の行動などが親と似ていると気づく、特に「くせ」と言われるものである)など、内面的なものも似ている。しかし、それだけでなく、何と行なった悪まで(語られていないが当然「善」も)遺伝するのである。


 「親の因果が子に報い・・・」と言われ、聖書にも「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」(ヨハネ9:2)とあるが、漠然と「そんなことないだろう」と受け止めていた。しかし、スヴェーデンボリはきちっと語っていた。スヴェーデンボリに出会あって「遺伝悪」を意識させられた。「自分はなんでこんなに悪人なんだろう」と漠然と思っていたことに答えが与えられた。そしてだれにも遺伝悪が隠れていて、いつか現われてくるのである。自分の遺伝悪と向き合わないで一生を終える人がいるとは思えない。そして、自分の悪行が子に遺伝するのは、ちょっと恐ろしいし、借金を子供に残すようで、責任も感じる。


 人は何のために生きるのか、いろいろあるが「遺伝悪と戦い」の一面があると思う。


 ついでに、一つだけよくわからないことがある。自分が遺伝させる悪は、子が生まれるまでのものであって、生まれた後に行なった悪は遺伝するのか、しないのか? 確信ないが、しないと思っている。


 


1227(no.344) ここは印象的な個所と思う


 やや長くなるが本文を以下に引用する。


 「・・・私は大きな都会に街路にいて、少年たちがけんかしているのを見た。やじ馬が群がり集まって、これを大喜びで見ていた。両親自身が幼い子供をこのような争いへ煽り立てていることに気づいた。私の目を通してこれを見た善霊や天使たちは・・・両親が彼らをこのようなことへけしかけることに、私がその恐怖感に気づくほどの拒絶を示した。そして次のように言った。こうして最初の年齢のうちに主から幼児たちに与えられたすべての相互愛とすべての無垢を消滅させてしまい、幼児たちを憎しみと復讐へ導く・・・それで、自分の子どもに善を欲する両親は、このようなことに用心しなければならない」


* * * * *


 気をつけないといけない。つい、「やれ、やれ」という気になってしまう。これを大規模にしたものが「戦争」であろう。原因や理由がどうであろうと、憎しみ、殺し合うことが「人間性」に(神の御心に)反していることは明らか。不正に対する憎しみ、怒りは当然である、その憎しみ、怒りをどのような形で表わし、訴えるか、そこに、知性と知恵、そして愛があるのであろう。 

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