感想:原典講読『天界と地獄』から
2008年6月17日~2008年6月18日
原典講読『天界と地獄』の「(4) 感想」の部分をまとめてみました。読みやすいようにとやや変えた部分もあります。翻訳しながら思いついたことなのでどうしても「訳語」などの話題が多くなっています。それでも、本文の内容から想起することを語ったものもあります。
ひまなときに拾い読みしていただければ幸いです。
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「6月17日」
「スヴェーデンボリの代表作は?」と聞かれれば、『真のキリスト教』とする人もいるかもしれないが、私は『天界の秘義』とする。でも「一番有名な著作」なら『天界と地獄』である。
初めて読んだスヴェーデンボリの著作が『天界と地獄』だった人は多いのではなかろうか。私もそうである。83年9月(36歳)のときであった。出会いが遅かったのかようにも思うが、その前にキリスト教について勉強していたので、人生の中でちょうどよい時期だったかもしれない。
他の「著作」を読みながら、読了したのが84年の9月。それ以来、英訳書を通読しただけで、あまり読んでいない。どちらかというと、聖書の内意に興味があり、『天界の秘義』などを読んでいた、またそのために、ヘブル語、ギリシア語を学んでいた。そして、93年ごろからは原典を読むために、ラテン語を学び始めたからである。
しかし、このあたりで、『天界と地獄』を読み直す時期が来たのだろうと思う。原典講読の講座を連載しながら、これからの約1年間、じっくり読んでみたいと思っている。
「6月18日」
『天界と地獄』は、スヴェーデンボリが1749年~56年にほぼ毎年1巻、計8巻の『天界の秘義』をロンドンで発刊した後、その創世記の前半の解説の前後で語った事柄のうち、霊界に関することをまとめ、書き改めて、1758年、70歳のとき、同じくロンドンで発行したものである。同じときに「ロンドン五部作」とした発刊した『宇宙間の諸地球』『新しいエルサレムとその天界の教え』『白い馬』もやはり『天界の秘義』にあるものを書き改めたものである(もうひとつは『最後の審判』、これはスヴェーデンボリが前年に経験した事柄である。すなわち、「最後の審判」霊界で1757年に起こった)。
これまで和訳書も多く出されてきたが、それ以上に英訳書も多く(1778年に最初の英訳書が現われ、これまで最低でも20種あると言われている)、また、各国語にも訳されていて、その翻訳書がどれほどの数になるかわからない(その一つに私の訳がこれから仲間入りしようとしている)。
内容については有名なので言うまでもないであろう。本書の表題の副題に「ex auditus et visis」とあるように、霊界で「聞き、見たことから」の著作である。霊界の実相を、本書以上に詳しく、整然と述べたものは、これまでになく、今後もないであろう。キリスト教界だけでなく、全宗教界、全世界から注目を集めた本であり、本書がその後、全世界へ及ぼした影響は計り知れない。
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さて、この講座では、(1)原文、(2)直訳、(3)訳文、と原典講読『信仰について』と同じ構成とする。関連して何か特別に語りたくなったとき(私は根からの雑談好きである)項目(4)を置く。もちろんこの講座の特徴は、「(2)直訳」の部分である。ここがあるから「講座」といえるであろう。
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「『天界の秘義』からEX ARCANIS CAELESTIBUS」の部分について述べておく。
ラテン原典からの本邦初訳の長島訳では省略されている(長島氏は『天界の秘義』訳了後に完全版をつくる計画であった)。本講座ではもちろん取り上げる。そしてその(2)直訳部分では『天界の秘義』からの参照番号を省略し、また文章も簡単なものが多いので、(3)訳文も省略する。そして文頭のQuod「~こと」の訳出もしない。省略しても意味に変わりはなく、すっきりするからである。
「『天界の秘義』から」の参照番号については、なぜこのように大量に付けられているのか疑問に思いる。読者の便を思えば、代表的な個所だけをよいではないかと思ってしまう。それとも、読者にじっくり『天界の秘義』を読み直すひと時を持ってもらいたかったのであろうか。
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スヴェーデンボリは『天界の秘義』の「索引」をすでに個人用に作成していた(「索引」については『霊界体験記』でも作成している)。それで、改めて、『天界の秘義』の著作を見直さないでも、この「『天界の秘義』から」の個所は、すぐさま執筆できたと想像している。
「6月20日」(no.2) alter vitaの訳語「来世」について
直訳すれば「別の生活」または「もうひとつのいのち」といった訳になる。意味するものは「死後の世界」である。柳瀬訳これを「他生」としているが、これは仏教用語であり、スヴェーデンボリが否定する「前世」の概念を含むのでふさわしくない(長島訳は「来世」)。内容から「来世、あの世」と訳すのがよいと思う。
「6月25日」(no.13) 訳語「相応」について
correspondentia(英語correspondence)を柳瀬訳も長島訳も「相応」としている。これは鈴木大拙の訳語を踏襲したのであろう。仏教用語として「複数の事柄が親しく和合していたり、統一されていたりすること」の意味があるので、この意味で大拙の役は適当かもしれない。しかし、今日、相応といえば「ふさわしいこと、つりあっていること」の意味が普通である。「身分不相応」や「能力に相応した・・・」といった用い方をするのでこの訳語では「不相応」。特殊な意味合いをもってくる仏教用語は使わないですめば、そのほうがであろう、それでやや意味がぼやけるが「対応」でよいと思う。
「6月27日」(no.20) 「天界は二つの王国に区別されていること」
「天界の区分」について
天界は「天的」と「霊的」の二つの王国、またno.29からは「第三・第二・第一」(これらは天的・霊的・自然的)と呼ばれる)の三つある、とある。すると「天界は大まかにいくつに分けられるのだろう?」という疑問がわく。「2×3=6なんでしょ」ということになるのか。でも、個別的にはいくらでもある。人間社会を眺めての私見を述べよう。「見方で、見る方向から、いろいろな種類に見える」のだと思う。大きく分けて男と女の二種類、または経済体制の資本主義と共産(社会)主義(これは崩壊したかもしれない)。そしてたとえば、社会階層を上・中・下の三つとするようなものではなかろうか。資本主義社会の上流階級もあれば、社会主義国家の下層民もいるわけであるが、同じ地球の人々である。私たちの心の中では天界といっても、これら二つ、あるいは三つは、渾然一体となっている。
「7月1日」(no.34) 「内部、内的など」の訳語について
「内なる」や「内的な」など、いろいろと出てくる。スヴェーデンボリは厳密に使い分けているのでここに私の使用する訳語を載せておこう(形容詞であり、それぞれ文法上は原級、比較級、最上級である)。
internus「内なる、内部の」、interior「内側の、内的な」、intimus「最内部の」
externus「外なる、外部の」、exterior「外側の、外的な」、extremus「最外部の」
「7月5日」(no.46) 類は友を呼ぶ
このあたりの話は経験と照らし合わせてよくわかる。「気心の知れた」仲間内なら、気持ちがほぐれ自由を感じる。何かの集まりに出て、「場違いだな、私の来るところではなかったかな」と感じたことがあるのではないだろうか。こうしたものの源泉が霊界にあり、霊の状態の同・不同からくるのである。仲のよい仲間を眺めると、何か「似た者どうし」の気する。霊の状態、愛と広い意味での信仰(神だけでなく、何かの主義主張など)が同じなのであろう。
「7月7日」(no.50) 「単純な者は辺境にいる・・・天使たちの最良の者たちである」
ここから想起することは、都会の町並みと田舎の「家」である。長く都会暮らしした人間が田舎にあこがれるのはどうしてなのか。
都会の町並みは、こまごまとしていて、またいろいろあって何か新しい発見があるような気がしてくる。しかし「平和」は感じない。
田舎に行き、点在する民家を見る。萱葺(かやぶき)ならばもっとよい。辺りにあるのは自然だけで目新しいものは何もない。しかし穏やかで平和な気配を強く感じる。そこに最も善良な天使たちが住んでいるからだろう。
「7月9日」(no.56) 「多様性から益がもたらされる」
「なるほど」と思う。ここの「56番」また『天界の秘義から』の「すべてのものは多くのものの調和と一致から存在する」は、なるほどそうかと思わされる。こうでなければ、ものに性質は存在しない。
いろいろなものから成り立っても、そこに調和、一致がなければ、またそこまでにいたらなければ「性質」とはならない。「性質」とはこういうものかと思う。個体のように、何らかの組織体でもこのことがいえる。ばらばらでは組織の体(てい)をなさない。
「7月10日」(no.58) 訳語「支配愛」について
スヴェーデンボリの文章で「支配愛」に初めて出会うとき、異様な言葉と感じる人が多いかもしれない。もとのラテン語がここのamor regnansである。regnoは「支配する、統制する」という意味で、同族の言葉にregnum「王国」regimen「統治・政治・支配」rex「王」などがある。
その人間を統治し、君臨する、最上位の愛が「支配している愛」であり、これを簡略して「支配愛」と訳している。スヴェーデンボリ神学を読み解く鍵となる言葉の一つであり、よく使われるのでそのうち慣れるであろうが、訳語として工夫の余地があるかもしれない。ただし、『用語集』のようなものが出て、そこで解説されれば、一般読者がとまどうことはないであろう。
「7月14日」 「原典講読」の実力のつく学び方
「実力のつくと思える読み方」を考えてみた。
本来どのように読もうが読者の勝手、忙しい方はさっと目を通すだけかもしれない。それでも、「講読」の名前が付けられていることからも、じっくり学びたい方がおられるかもしれない。老婆心ながらそのような方々への余計な話である。用意するものは別にいらないが、静思社の柳瀬訳、アルカナ出版の長島訳があるとよい。時間があるとき読み比べるなら、いろいろと得るところがあるかもしれない。
この原典講読に即して述べよう。
まずは (3) の「訳文」を読んで、だいたいの内容を頭に入れる。
その後 (1) の「原文」を最低2回読む。そのとき、内容がわからなくてもよい。句読点に注意し、セミコロン(;)コロン(:)ピリオッド(.)でその節の文頭に戻って読む。余計な話しのついでにその句読点の働きを述べよう。セミコロンは一まとまりの内容を述べ終えたとき。コロンも一まとまりの内容を述べ終えてはいるが、その内容について、次に補足説明など付け足したいとき。もちろんピリオッドは英語でフルストップとも言われるように、それまでの内容に終止符を打ちたいとき。
さて、読み方戻れば、たとえば「A;B;C.」という構成の文は「A-B-C」と続けて読み、もう一度「A-B-C」と読むのでなく、「A-A, B-B, C-C」と読む。こう読む利点の一つは「長くなると前のことを忘れるから」。
このとき文頭、または2番目に来る「接続詞」が文のつながりの重要なヒントとなる。よく使われる接続詞は書き出しておいて、そのメモを横目で見ながら読み進めるとよい。
接続詞だけをよく捕えて(押さえながら)眺めていくだけで、なんとなく(嬉しいことに)内容がわかってくる気がするはず。スヴェーデンボリの文章は論理的なので接続詞は普通の文章以上に内容を捕える上で重要である。
メインである (2) の「直訳」部分では、どの語がどの語に訳されているか見比べるだけで勉強になるはず。学習者のことを慮ってだいたいは原文の語順どおりに訳語も並べるようにしている。辞書を引く必要はない。というより、学ぶための適切な辞書はまだない(チャドウックの『レキシコン』がそのうち出版される)。原語の一語、一語を追っていくとよい。
さらに実力をつけたい方は、この「直訳」から自分なりの「訳文」をつくってみるとよい。「原文の趣旨を訳文の中でどのように生かしたらよいだろう」、とあれこれ考え、工夫するはずである。
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さて、私は「あれこれ考える」こと、「ああだろうか、こうだろうかと思い巡らす」ことが「実力をつける」おおもとだと思う。(1) の原文を読みながら、「この語の意味は何だろう?」と思い、(2) の直訳から、「これをうまく訳すとどうなるだろう」と工夫する、ここで「実力がつく」と思う。
あわてて先を急いで読み進めても、頭は空回りするだけ。せっかく原典を読むのだから、スルメを噛むつもりになってじっくり取り組むとよい。
漫然とした、通り一遍の読み方ではあっても、もともとがスヴェーデンボリの文章なのだから、何らかの意味で、人生を生きてゆく上での「実力」はつくと思う。蛇足ながら「この世で成功する」実力ではない。