感想:原典講読『天界と地獄』から

 

感想:原典講読『天界と地獄』から


2008617日~2008618


 


 原典講読『天界と地獄』の「(4) 感想」の部分をまとめてみました。読みやすいようにとやや変えた部分もあります。翻訳しながら思いついたことなのでどうしても「訳語」などの話題が多くなっています。それでも、本文の内容から想起することを語ったものもあります。


 ひまなときに拾い読みしていただければ幸いです。


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 「スヴェーデンボリの代表作は?」と聞かれれば、『真のキリスト教』とする人もいるかもしれないが、私は『天界の秘義』とする。でも「一番有名な著作」なら『天界と地獄』である。


 初めて読んだスヴェーデンボリの著作が『天界と地獄』だった人は多いのではなかろうか。私もそうである。839(36)のときであった。出会いが遅かったのかようにも思うが、その前にキリスト教について勉強していたので、人生の中でちょうどよい時期だったかもしれない。


 他の「著作」を読みながら、読了したのが84年の9月。それ以来、英訳書を通読しただけで、あまり読んでいない。どちらかというと、聖書の内意に興味があり、『天界の秘義』などを読んでいた、またそのために、ヘブル語、ギリシア語を学んでいた。そして、93年ごろからは原典を読むために、ラテン語を学び始めたからである。


 しかし、このあたりで、『天界と地獄』を読み直す時期が来たのだろうと思う。原典講読の講座を連載しながら、これからの約1年間、じっくり読んでみたいと思っている。


 


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 『天界と地獄』は、スヴェーデンボリが1749年~56年にほぼ毎年1巻、計8巻の『天界の秘義』をロンドンで発刊した後、その創世記の前半の解説の前後で語った事柄のうち、霊界に関することをまとめ、書き改めて、1758年、70歳のとき、同じくロンドンで発行したものである。同じときに「ロンドン五部作」とした発刊した『宇宙間の諸地球』『新しいエルサレムとその天界の教え』『白い馬』もやはり『天界の秘義』にあるものを書き改めたものである(もうひとつは『最後の審判』、これはスヴェーデンボリが前年に経験した事柄である。すなわち、「最後の審判」霊界で1757年に起こった)


 これまで和訳書も多く出されてきたが、それ以上に英訳書も多く(1778年に最初の英訳書が現われ、これまで最低でも20種あると言われている)、また、各国語にも訳されていて、その翻訳書がどれほどの数になるかわからない(その一つに私の訳がこれから仲間入りしようとしている)


 内容については有名なので言うまでもないであろう。本書の表題の副題に「ex auditus et visis」とあるように、霊界で「聞き、見たことから」の著作である。霊界の実相を、本書以上に詳しく、整然と述べたものは、これまでになく、今後もないであろう。キリスト教界だけでなく、全宗教界、全世界から注目を集めた本であり、本書がその後、全世界へ及ぼした影響は計り知れない。


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 さて、この講座では、(1)原文、(2)直訳、(3)訳文、と原典講読『信仰について』と同じ構成とする。関連して何か特別に語りたくなったとき(私は根からの雑談好きである)項目(4)を置く。もちろんこの講座の特徴は、「(2)直訳」の部分である。ここがあるから「講座」といえるであろう。


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 「『天界の秘義』からEX ARCANIS CAELESTIBUS」の部分について述べておく。


 ラテン原典からの本邦初訳の長島訳では省略されている(長島氏は『天界の秘義』訳了後に完全版をつくる計画であった)。本講座ではもちろん取り上げる。そしてその(2)直訳部分では『天界の秘義』からの参照番号を省略し、また文章も簡単なものが多いので、(3)訳文も省略する。そして文頭のQuod「~こと」の訳出もしない。省略しても意味に変わりはなく、すっきりするからである。


 「『天界の秘義』から」の参照番号については、なぜこのように大量に付けられているのか疑問に思いる。読者の便を思えば、代表的な個所だけをよいではないかと思ってしまう。それとも、読者にじっくり『天界の秘義』を読み直すひと時を持ってもらいたかったのであろうか。


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 スヴェーデンボリは『天界の秘義』の「索引」をすでに個人用に作成していた(「索引」については『霊界体験記』でも作成している)。それで、改めて、『天界の秘義』の著作を見直さないでも、この「『天界の秘義』から」の個所は、すぐさま執筆できたと想像している。


 


620(no.2) alter vitaの訳語「来世」について


 直訳すれば「別の生活」または「もうひとつのいのち」といった訳になる。意味するものは「死後の世界」である。柳瀬訳これを「他生」としているが、これは仏教用語であり、スヴェーデンボリが否定する「前世」の概念を含むのでふさわしくない(長島訳は「来世」)。内容から「来世、あの世」と訳すのがよいと思う。


 


625(no.13) 訳語「相応」について


 correspondentia(英語correspondence)を柳瀬訳も長島訳も「相応」としている。これは鈴木大拙の訳語を踏襲したのであろう。仏教用語として「複数の事柄が親しく和合していたり、統一されていたりすること」の意味があるので、この意味で大拙の役は適当かもしれない。しかし、今日、相応といえば「ふさわしいこと、つりあっていること」の意味が普通である。「身分不相応」や「能力に相応した・・・」といった用い方をするのでこの訳語では「不相応」。特殊な意味合いをもってくる仏教用語は使わないですめば、そのほうがであろう、それでやや意味がぼやけるが「対応」でよいと思う。


 


627(no.20) 「天界は二つの王国に区別されていること」


「天界の区分」について


 天界は「天的」と「霊的」の二つの王国、またno.29からは「第三・第二・第一」(これらは天的・霊的・自然的)と呼ばれる)の三つある、とある。すると「天界は大まかにいくつに分けられるのだろう?」という疑問がわく。「2×3=6なんでしょ」ということになるのか。でも、個別的にはいくらでもある。人間社会を眺めての私見を述べよう。「見方で、見る方向から、いろいろな種類に見える」のだと思う。大きく分けて男と女の二種類、または経済体制の資本主義と共産(社会)主義(これは崩壊したかもしれない)。そしてたとえば、社会階層を上・中・下の三つとするようなものではなかろうか。資本主義社会の上流階級もあれば、社会主義国家の下層民もいるわけであるが、同じ地球の人々である。私たちの心の中では天界といっても、これら二つ、あるいは三つは、渾然一体となっている。


 


71(no.34) 「内部、内的など」の訳語について


 「内なる」や「内的な」など、いろいろと出てくる。スヴェーデンボリは厳密に使い分けているのでここに私の使用する訳語を載せておこう(形容詞であり、それぞれ文法上は原級、比較級、最上級である)


  internus「内なる、内部の」、interior「内側の、内的な」、intimus「最内部の」


  externus「外なる、外部の」、exterior「外側の、外的な」、extremus「最外部の」


 


75(no.46) 類は友を呼ぶ


 このあたりの話は経験と照らし合わせてよくわかる。「気心の知れた」仲間内なら、気持ちがほぐれ自由を感じる。何かの集まりに出て、「場違いだな、私の来るところではなかったかな」と感じたことがあるのではないだろうか。こうしたものの源泉が霊界にあり、霊の状態の同・不同からくるのである。仲のよい仲間を眺めると、何か「似た者どうし」の気する。霊の状態、愛と広い意味での信仰(神だけでなく、何かの主義主張など)が同じなのであろう。


 


77(no.50) 「単純な者は辺境にいる・・・天使たちの最良の者たちである」


 ここから想起することは、都会の町並みと田舎の「家」である。長く都会暮らしした人間が田舎にあこがれるのはどうしてなのか。


 都会の町並みは、こまごまとしていて、またいろいろあって何か新しい発見があるような気がしてくる。しかし「平和」は感じない。


 田舎に行き、点在する民家を見る。萱葺(かやぶき)ならばもっとよい。辺りにあるのは自然だけで目新しいものは何もない。しかし穏やかで平和な気配を強く感じる。そこに最も善良な天使たちが住んでいるからだろう。


 


79(no.56) 「多様性から益がもたらされる」


 「なるほど」と思う。ここの「56番」また『天界の秘義から』の「すべてのものは多くのものの調和と一致から存在する」は、なるほどそうかと思わされる。こうでなければ、ものに性質は存在しない。


 いろいろなものから成り立っても、そこに調和、一致がなければ、またそこまでにいたらなければ「性質」とはならない。「性質」とはこういうものかと思う。個体のように、何らかの組織体でもこのことがいえる。ばらばらでは組織の体(てい)をなさない。


 


710(no.58) 訳語「支配愛」について


 スヴェーデンボリの文章で「支配愛」に初めて出会うとき、異様な言葉と感じる人が多いかもしれない。もとのラテン語がここのamor regnansである。regnoは「支配する、統制する」という意味で、同族の言葉にregnum「王国」regimen「統治・政治・支配」rex「王」などがある。


 その人間を統治し、君臨する、最上位の愛が「支配している愛」であり、これを簡略して「支配愛」と訳している。スヴェーデンボリ神学を読み解く鍵となる言葉の一つであり、よく使われるのでそのうち慣れるであろうが、訳語として工夫の余地があるかもしれない。ただし、『用語集』のようなものが出て、そこで解説されれば、一般読者がとまどうことはないであろう。


 


714 「原典講読」の実力のつく学び方


 「実力のつくと思える読み方」を考えてみた。


 本来どのように読もうが読者の勝手、忙しい方はさっと目を通すだけかもしれない。それでも、「講読」の名前が付けられていることからも、じっくり学びたい方がおられるかもしれない。老婆心ながらそのような方々への余計な話である。用意するものは別にいらないが、静思社の柳瀬訳、アルカナ出版の長島訳があるとよい。時間があるとき読み比べるなら、いろいろと得るところがあるかもしれない。


 この原典講読に即して述べよう。


 まずは (3) の「訳文」を読んで、だいたいの内容を頭に入れる。


 その後 (1) の「原文」を最低2読む。そのとき、内容がわからなくてもよい。句読点に注意し、セミコロン()コロン()ピリオッド()でその節の文頭に戻って読む。余計な話しのついでにその句読点の働きを述べよう。セミコロンは一まとまりの内容を述べ終えたとき。コロンも一まとまりの内容を述べ終えてはいるが、その内容について、次に補足説明など付け足したいとき。もちろんピリオッドは英語でフルストップとも言われるように、それまでの内容に終止符を打ちたいとき。


 さて、読み方戻れば、たとえば「ABC.」という構成の文は「A-B-C」と続けて読み、もう一度「A-B-C」と読むのでなく、「A-A, B-B, C-C」と読む。こう読む利点の一つは「長くなると前のことを忘れるから」。


 このとき文頭、または2番目に来る「接続詞」が文のつながりの重要なヒントとなる。よく使われる接続詞は書き出しておいて、そのメモを横目で見ながら読み進めるとよい。


 接続詞だけをよく捕えて(押さえながら)眺めていくだけで、なんとなく(嬉しいことに)内容がわかってくる気がするはず。スヴェーデンボリの文章は論理的なので接続詞は普通の文章以上に内容を捕える上で重要である。


 メインである (2) の「直訳」部分では、どの語がどの語に訳されているか見比べるだけで勉強になるはず。学習者のことを慮ってだいたいは原文の語順どおりに訳語も並べるようにしている。辞書を引く必要はない。というより、学ぶための適切な辞書はまだない(チャドウックの『レキシコン』がそのうち出版される)。原語の一語、一語を追っていくとよい。


 さらに実力をつけたい方は、この「直訳」から自分なりの「訳文」をつくってみるとよい。「原文の趣旨を訳文の中でどのように生かしたらよいだろう」、とあれこれ考え、工夫するはずである。


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 さて、私は「あれこれ考える」こと、「ああだろうか、こうだろうかと思い巡らす」ことが「実力をつける」おおもとだと思う。(1) の原文を読みながら、「この語の意味は何だろう?」と思い、(2) の直訳から、「これをうまく訳すとどうなるだろう」と工夫する、ここで「実力がつく」と思う。


 あわてて先を急いで読み進めても、頭は空回りするだけ。せっかく原典を読むのだから、スルメを噛むつもりになってじっくり取り組むとよい。


 漫然とした、通り一遍の読み方ではあっても、もともとがスヴェーデンボリの文章なのだから、何らかの意味で、人生を生きてゆく上での「実力」はつくと思う。蛇足ながら「この世で成功する」実力ではない。 

感想:原典講読『天界と地獄』から その2

 

715(no.71) 「天界は・・・充満することで閉ざされると信じる者はどれほど欺かれているか」


 「天界は満員になったら締め切られる?」というこの内容から思い出すのが「エホバの証人」である。スヴェーデンボリに出会ったあと、しばらくしてからエホバの証人の家庭訪問教育を2年ほど受けたことがある。聖書の勉強会のためにわざわざ個人の家に(無償で)出向いてくれる。布教、また聖書の勉強には熱心であった。彼らは「救われる」とは「この宗教を広めること」と思っている。スヴェーデンボリの教えがすばらしいとわかっていたので(そのときまだ日本に新教会があることを知らなかった)信者になることはなかったが、集会にも出たりし、いろいろ勉強になり、ある意味で感謝している。


 彼らは聖書を字義通りに信じている。最後の審判のあと、「この世に」新しい世界が設立される。そのとき死んだ人たちの中からその世界を構成する人たちが呼び集められる。その人たちの数は144千人。根拠は「黙示録」7:14


 その仲間入りするために布教活動して努力している。しかし、エホバの証人の信者の数だけでもこの数をはるかにオーバーする。それで、「それじゃ少ないでしょう、加われない人が出てくるでしょう?」と問うと、「残りの者は「奴隷級」(というもの)に属する、その仲間に加わりたい」と答えた。「奴隷級」なんて聖書のどこに書いてあるのだろうか? 


 私がこの「聖書のどこに?」、また「聖書の原文にそんなことが書いてるあるのですか?」と問うたがこときっかけとなって、私が初めてヘブル語聖書を見せてもらったのはエホバの証人からであった(ヘブル語聖書が出版されていて存在する、と知ったことは大きかった)。


 


721考察:divinunの語について


 ここで通常「神的なもの」と訳されるdivunumの語をdivinumdivinitasとともに考えてみた。


 最初にdivinusは、形容詞であり、「神の、神的な、神に特有の」といった意味である。通常「神的な」とすればよい。次にdivinusは、形からは、形容詞divinusの中性形である。形容詞が実詞の働きをするところが、私はラテン語の最大の特徴の一つと思っている。すなわち、形容詞の中性形は「抽象名詞」を表わすことである。中性名詞divinumの訳語は、通常「神的なもの」である。あくまでも「もの」であるが、「神的なもの」では長たらしく感じることがあり、この個所のように、より抽象的なものの言い方で「神性」と訳すことがある。


 「神的なもの」と「神性」とは厳密には意味が違ってくるが、大きく捉えてよいなら、使いわけにこだわることはないと思う。これについては、このあとverusでもう一度触れる。私が「神性」の訳語を当てはめているもう一つの言葉がある。


 女性名詞divinitasである。これは厳密には「神的存在の性質」である。divinumが「もの」であるのに対してこちらはより抽象性か高くて「性質」である。それで純粋に「神性」を意味する言葉はこのdivinitasである。


 まとめれば、divinis「神の、神的な」→divinius「神的なもの」→divinitas「神性」。


 それでも「神的な」「神的なもの」と「神性」との境界を厳密に定めるのはむずかしいだろう。


 有名なDivinus Humanusは、直訳すれば「神的なもの、人間的なもの」であるが「神的人間性」と訳しているし、このときDivinusだけを取り出すなら「神性」となる。


 厳密にやりたいのだが、場面に応じて「神的なもの」と「神性」にしている。


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 同様のことがverusverumvaritasで言える。やはりそれぞれ形容詞、中性名詞、女性名詞である。すなわち、verus「真の、真実の」→verum「真実であるもの、真理」→veritas「真理」。


 抽象名詞どうしであるverumveritasの違いについて、その境界を厳密に定めるのはむずかしいだろう。かつてスヴェーデンボリがverumveritasをどれくらい意識的に使い分けているか調べたことがあった。veritasを「真理そのもの」「まさに真理」のようない意味で使っており、特に主からの真理にveritasを当てはめていることがわかった。それでこのブログの『信仰について』では、verumを真理、veritasをカギカッコをつけて「真理」と区別した。


 しかし、「神性」の言葉についてそこまでする必要ないと思っている。スヴェーデンボリもこの語については厳密に使い分けているように見えないからである。


 


729(no.106) theatrum(劇場)について


 この「universa natura sit theatrum repraesentativum regni Domini 全自然は主の王国を表象する劇場である」は『天界の秘義』4939番の文である。同書10196番にもまったく同じ文がある(そこではsitest)。これはスヴェーデンボリの持論ともいえる文句のようである。私は「ラテン語を学ぼう―ついでに」で取り上げたことがある。


 「劇場」と訳したtheatrumは、「舞台」の意味、また何かが演じられている「場面」の意味ある。建物ではなくてこの意味が強い。この世は主の劇が演じられる「舞台」「場面」なのである。それでも、その劇を演じる入れ物と見なせば「劇場」とも言える。


 この世とは何だろう? そのとき「劇」と思うのもよいかもしれない。脚本家は主なのか? 役者はそれぞれの皆さん、そしていろいろな「役」を与えられて、人生を演じている。「真の舞台」はこの世なのか、来世なのか、「どちらもあり」という気がしてくる。対応しているのだから。


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 話題をやや変える。植物学者牧野富太郎は、「私に日蓮ほどの文才があれば、植物学から宗教を起こすことができただろう」という趣旨のことを語ったと言う。人間の登場しない植物界という「舞台背景」ではあるが、自然を深く観察し、そこに神秘を見いだす時、神の国が投影されていることを感じたのであろう。牧野博士はどのような世界を垣間見たのであろうか(その後、私は同博士の墓のある谷中(やなか)霊園を訪れた)


 


81(no.112) qualis homo talis vita「このような人間に、そのような生活」


 この「qulistalis・・・」の構文に出会ったとき、いかにもラテン語らしいと感じたので、ここに取り上げてみよう。ここのqulis usus tale bonumは『秘義』3049番の言葉である。柳瀬氏はこれを「用があるがままに、善もあるからである」とややラテン語らしく訳している、ここの訳「用のいかんに、善が応じている」よりもよいかもしれない。私には「善が応じている」では日本語とは思えない。なお文法上ではbonumが中性なので、talisも中性形のtaleとなっている。私の訳「そのような役立ち、このような善」はもちろん直訳である。みなさまはどのように意訳されるであろうか?


 羅和辞典にはqualis dominus, talis servusの例が載っており「この主人にして、このしもべあり」と訳してあり。この訳にならえば「この役立ちにして、この善あり」。同じく田中の『引用語辞典』にはいろいろ載っている。qualis pater, talis filiusは「この父にして、この子あり」。


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 スヴェーデンボリの用例を取り上げてみよう。これは名文句のような気がする。『秘義』1oo5番にある、この見出しの言葉である。柳瀬氏はあいかわらず「人間の如何にその生命が応じている」と訳しているが、これでは名文句の気がしない。田中にならって訳せば「この人間にして、この人生あり」となるのであろうか。やや名文句の気がしてくる。


 直訳派の私は「このような人間に、そのような生活〔がある〕」でよいとしている。「qtを定める」原則からは、「人間」がその人自身の「生活」を定める。


 意訳すれば「人には人の人生(生活)がある」となるのであろう。


 


86(no.122) 「現在する」のことばについて


 私が時々使う「現在する」のことばについて読者の皆様はどのように思われているであろうか。「現在」という文字ズラを眺めれば「現にいます」と書いてあり、「現在、その場に存在する」という意味が浮かび上がる。そして辞書でも認められている用い方である。


 しかしあまりにも「今の時」を意味する「現在」が広まっていて(私はこの用法が後からできたのではないかと思っている)、このような用い方に初めて出会うと、異様に感じるかもしれない。でもpraesenntiaの訳語としてはぴったりの気がするので、慣れてほしい。


 


816(no.142) ヘブル語の「東・西・南・北」


 天界の言語に似ていると言われるヘブル語で方位を示す言葉は興味深い。簡単に紹介しよう。


:「ミズラー」は「日が昇ること」と「東」の意味がある(ヨシュア記1216章など)。「ケデム」は「前・前方」の意味であり、その変化形「ケデマー」は「東へ」の意味である(創世記128など)。なおギリシア語でも「日の昇ること、夜明け」を意味する「アナトレー」は「東」意味する(マタイ21,2,9)


:南を意味するヘブル語はいくつかあるが、「ヤーミーン」は「右」の意味であり、「南」意味を持つ(サムエル記Ⅰ2319,24節、新改訳聖書の脚注参照)


西:「海」という意味の「ヤーム」があるが(地形的に西は地中海である)、太陽の沈む方を示す「マアラーブ」は「西」として使われる(イザヤ43:5など)


:語源不詳の「ツァーフォーン」が圧倒的に多く使われているが、「左」を意味する「セモール」が「北」の意味で使われることがある。「創世記」14:15「ダマスコの北にある」(新改訳)は『天界の秘義』では「ダマスコの左にある」となっている。


 


820(no.149) 随想:着席場所


 席が定められている場合は別として、どこにでも着席が自由な場合、人はどこに座るであろうか? もちろん目的によってほぼ決まる場合もある、例えば、ゆっくり食事をしようとするなら、客や従業員の通路から離れた、景色のよいところ、といえば窓際となるであろう。音楽会ならよく聞こえるところ、観劇ならよく見えるところなどである。


 私は教員をしていた。教室での着席場所はたいてい自由であった。そのとき勉強熱心な子はほど必ず前の方、中央に座る。熱心でない子の多くは離れた「窓際」。「窓際族」は会社だけの用語ではない。


 会議の席ではどうだろうか? 議長が中央に座り、「着席自由として」、その右側にどのような立場の人が座るか、また議長と正対する側にどのような人が座るか考えたことがあるだろうか? その組織の責任者・執行部の面々が右側に並ぶ、当面する問題を真正面から見据えようとする人、意見を持っている人が正面に来る。意見を持たない人は隅のほうで傍観しようとする。こうしたことは心の内部の状態を反映しているのであろう。普段と違う席に着くと居心地悪い。


 


823(no.156) 「外にあるものは、内にあるにしたがって定まる」こと


 このことは折に触れて感じることである。すなわち、自分の周りの世界は、自分を取り巻く環境は、自分の心の世界の反映、投影であること。少し前に「席」について述べたが、自分の気持ちにぴったりする席に座ると心が落ち着く、自然とその席を選んでいる。すなわち、自分の心を反映した環境を知らず知らずに選んでいる。自分の周りを見渡せば、そこには自分の心を反映した世界がある。これは「人」にも言える。「類は友を呼ぶ」という。自分の心に合った人物に出会う。成長を願っていれば自分の成長に資する人物が現われる。逆に言えば、願っていなければ、出会っても見過ごしている。このことは興味深いので、またの機会に述べたい。


 


824(no.158) 「状態の変化とその理由」


 天界の天使たちのことでなく、自分のこととして考えてみよう。状態が、状況が変わる。定年退職して、このように原典を訳している。自分の状態が変わってきている。これは周囲の状況が変わったのではない、自分がその状況の中へ突き進んで行くのである。いろいろな環境の変化は、「環境」の変化ではなく、「自分」の変化である、と気づくのは重要であろう。もう少し積極的で、月並み言い方をすれば「自分が変われば、回りも変わる」。このようなことを説明する好例が、「太陽と地球の関係」であり、よくわかる。これと逆(回りが変われば自分も変わる)ではあるが「孟母三遷の教え」も思い出す。


 


827(no.167) 「永遠に」と「永遠から」


 「に」と「から」ではどのように違うのか? このような場合、訳語としての日本語だけから考えることは、私にとって非常に「不安」である。原語で「に」や「から」に、どのような語が使われているのか確かめ、貧弱な語学力であっても、そこから考えないと、「考えている気がしない」。


 それぞれ「in」と「ab」である。abは「状態・起源・時間・位置・原因」などからの「~から」である。ここで「永遠から」とは「永遠の状態から」と思えばよい。「in」には多様な意味がある。


 私は、結論的に「神が永遠に存在される」のも「神が永遠から存在される」のも、どちらも「時間」を考えなければ同じことであり、「存在される」状態にあることを示す(in)ことと、その起源・原因を示す(ab)ことの違いと理解している。 

感想:原典講読『天界と地獄』から その3

 

95(no.185) ibi atem in sua arte esseについて


 ut dicas(あなたが言うように)とあるのであまり有名でない「ことわざ」だったのであろうか? 動詞が省略された文なので、どのようにでも解釈できそうである。「そこに術を(対格)」となっているから、略された動詞として「見いだす」が考えられる。すなわち、文を後ろから捕えて「術の存在する中に、そこに術を見いだす」、意を汲んで、ちょっとことわざらしく変えれば「(芸)術のあるところ、そこに(芸)術あり」といったところであろうか。


 このようなことをじっくり考えていると翻訳のペースは落ちる、しかしこれこそ「遅読」の味わい。


 


913 長島訳の本章(23)の題名(見出し)について


 長島訳の本章の表題を見て、びっくりし、あらためて愕然とした。


 私の直訳は「天界の形について、それにしたがってそこに交わりと伝達〔がある〕」、


  長島訳は「第23章 天界の〈かたち〉―その交流と社会形成の規範」である。


 全然違う、どうしてこのような訳となるのであろうか? その章の中の各記事を見れば、私が「伝達」と訳しているcommunicatioを長島氏は「交流」と訳していることがわかる。communicatioは英語のcommunicationであり、「伝達手段、伝達、連絡」の意味である。交際の意味合いをもつ「交流」とは違う、『霊魂と肉体の交流』の著作で名高い「交流」はcommerciumであり、これには「交際、相互作用」という意味がある。


 さて、問題なのは「社会形成の規範」の部分である。表題を原文とまったく異なって訳すなら、その章の内容を長島氏が解釈し、それを要約したものとみるのが普通であろう。しかし、この章の内容はどうか。「天界の形にしたがって、霊的なものであるそれぞれの天使の知性と知恵が、またより一般的には真理と愛が伝達すること」が述べられている。この内容のどこを捉えると「社会形成の規範」となるのか? この題名では誤訳どころではなく、自分の「思い込み」を述べており、とうてい「翻訳」とは言えない。翻訳とは、なにはともあれ著者の言わんとするところを忠実に伝えることであろう。


 


918(no.216) 思い出:柳瀬訳の「ホゼア」について


 静思社に初めて行き(891)、柳瀬師より授洗し(3)、礼拝以外でも足しげく通ううち、校正のお手伝いをするようになった(6月中旬から)。当時翻訳中だった『黙示録講解』第9巻であるその後、第10巻も、さらにその他の品切れになったいくつかの訳書を改版ついでに校正した。


 これは今から19年前のことであり、その際、「校正の仕方」また現代仮名遣いなど「表記の仕方」を独学しながら、校正し、そのことが今でも役立っている。ありがたい機会であった。


 静思社の訳書を読まれた方なら、お気づきと思うが、預言者ホセアが全面的に「ホゼア」となっている。これはミスプリではない。私もホゼアをホセアと直し、その訂正原稿とともに、柳瀬師に「ホゼアはホセアではありませんか?」と質問したことがある。師は「ホゼアというのもあるんだよ」と答えられた。当時は雲の上の存在とも思えた師に、あえて「その根拠は?」とは恐れ多くて質問できなかった。それで、静思社の出版物は「ホゼア」のままである。


 しかし、以来、他の書物で「ホゼア」なる表記に出会っていない。師が何を根拠にこのよう言われたのか、疑問のままである。薄弱ながらもその根拠を推測するに、ドイツ語読みすればHoseaはホゼア、しかしこんなのは無意味。ヘブル語ではホーシェーアである。


 私はここに師の意固地な一面を見る思いがした。


 


921(no.219) 「主の王国は役立ちの王国である」


 これはスヴェーデンボリの思想の根幹の一つであり、天界がどのようなものか理解する鍵でもある。私たちが満足や幸福を感じるのは、何か人のために役立った、と思えるときである。このことはときどきしか感じない。そしてこれが天界の、そしてよく見ればこの世の「原動力」である。


 この世に存在するものには「何かしらの役立ちがある」(逆に言えば、役立たないものは存在できず、消える)。そして、もちろん私たち一人ひとりにそれぞれの役立ちがある。これが生きる原動力。「役立たない」との思いに囚われる時、生きる力を失う。


 「ただ生きているだけだ、何の楽しみも、希望もない」と思うかもしれない、でも、生きて、存在するかぎり、神の節理のもと、何らかの役立ちを果たしている。その摂理が見えないだけ、今はわからないだけである。このことは「いのちを大切にしよう」につながっている。


 


924(no.227) 「主の神的人間性を認めること」


 天地の神、主がどのよう方であるか理解すること、これが天界での教えの本質である、と言われいるる。この地上でもそうだ。結局のところ、「神をどのような方と思うのか」、これのことにすべてが尽くされる、といっても過言でないかもしれない。


 主はご自分の「神性」に「人間性」をまとわれた。その人間性をまとうために、このように来られ、地獄と戦い、十字架刑にあわれた・・・スヴェーデンボリの教えの繰り返しであり、長くなるのでやめよう。


 人間性とは「真の人間であること」である。卑近な例で言えば、悪行に対し、「そんなの、人間のやることじゃない」とか、卑劣な者に向かって「おまえなんか、人間じゃない」と叫ぶときの「人間」である。愛に満ち、わけ隔てなく、心底、人を思いやる人間である。


 


925(no.228) 第26章「天界の天使たちの力について」


 やはり違和感「長島訳」:この章の題名が長島訳で「天界における天使たちの力」となっている。「おける」のことばが付加されているが、原文のどこにもない。「天界における」では、「天界の中で」天使たちが力を発揮することになるが、229番からわかるように「霊界で」力を発揮する。特に悪や虚偽に対してである。天界に悪や虚偽はないので、その力を発揮することもなく、ごく普通に、穏やかに生活していると思う。231番には、力の象徴として「腕」が天界に現われることはある。


 ここからこの見出し「おける」は、余計な付加どころでなく、章の内容と異なる「誤訳」である。


 


930(no.236) この個所は興味深い


 ここには興味深いことが述べられている。


(1) 天界の言語は一つであって学ぶ必要がないこと。「創世記」第11章の「全地は一つのことば(原語は「くちびる」)、一つの話しことばであった」世界である。しかし、互いにことばが通じなくなった(11:7)。この世が多言語に分かれていることにどのような摂理があるのだろうか?


(2) 話し方に2つの要素「音と言葉」があり、そこに情愛と思考が現われていること。この世でも(外国語など)言葉がわからなくても、声色から相手の「感情」は、喜怒哀楽はわかる(もちろん顔つきも見ます)。感のよい人は話し方から相手の心を読み取る。


(3) さまざまな情愛があり、状況に応じてその情愛は入れ替わるが、それらの中に「支配愛」があること。「支配愛」はうまい訳語とは言えないかもしれない。「主調愛」と訳した人がいる。音楽で言えば、曲想はいろいろ変わっても基調となる「ハ長調」「イ短調」などの「調」である。人によって「ハ長調」や「イ短調」などの人がいるのである。


 いろいろな愛がある中で、その人が一番大事だと思う、そのためなら何でもする、いのちすらかける、それがその人の支配愛であって、すべての情愛の上方にこの愛が「支配するかのように」君臨しているのである。この「支配愛」の概念はスヴェーデンボリ思想の特徴の一つである。


 


101(no.237) ヘブル語は印象的


 ヘブル語が天界の天使たちの言語に似ていることは、ここの個所から知っていた。また、スヴェーデンボリが『天界の秘義』の著述を始める前にヘブル語を学んだことも知っていた。私は柳瀬訳『天界の秘義』を読み始めた849月から、ほぼ並行してヘブル語を学び始めた。


 『天界の秘義』二度目の通読の際は(871月~889)「ヘブル語聖書」とともに読み進めた。


 最初は海のものとも山のものとも見分けのつかなかったヘブル語も、よい参考書に恵まれて、読めるようになった。「急がば回れ」を実際に味わった。すなわち、ヘブル語の学習は非常な「回り道」に思える。しかし、内意に迫りたい私にとって避けることのできない道だった。そして、結局これが「近道」だった。ヘブル語を学んだ利点は何と言っても聖書(旧約聖書の部分)が原典で読めることである。原典で読めるほどありがたいものはない(この『天界と地獄』でも原典で読めばこその発見がある)


 それ以外にもよいことはいっぱいある。まるで異なる体系の言語を学んで、「言語とは何か」について思索が深まった。日本語以外には英語しか知らなかったが(他の言語もかじってはいた)同じく学び始めたギリシア語などと比較して「言語の特長」なども理解できるようになった。


 長くなるのでこの辺でやめたい、ヘブル語の印象を二つ紹介しておこう。


(1)まさにこれが聖書の書かれた言語だ! との印象である。そしてこの個所の「ヘブル語に一致するものがあること」を単に「へぇ~、そんなものなのかな」でなく、「そうだ、そのとおりだ」と心からから思えることである。(旧約)聖書の一つ一つの文は短い、複雑な構文はない。しかし、その短い文を、淡々と並べ立て、積み重ねた文章から、圧倒的な迫力を感じる。


(2) 意外と日本語と似ている! 一つ述べればともに「時制」がないことである。英語を学び始めたとき、日本語に時制の概念がないので、その学習に戸惑った人が多いのではなかろうか。


 そしてその学習を通して日本語にも「時制」があると勘違いしてしまっている人もいるのでなかろうか。日本語「あった」とは「完了」である。何かを見つけたとき「あった、あった」と言う。本来なら「ある、ある」と言ってもおかしくない。でも、見つけるという行動が「完了」したので「あった」となる。未来時制もない。「~だろう」は「推量」である。未来のことは不明なので、「推量」する、それで未来時制を訳す時に推量をあてはめている。ヘブル語にも時制はなく、あるのは「完了形」と「未完了形」だけである。時制は文脈からわかる、これは日本語と共通である。


 


108(no.248) 霊による話しかけは舌にまで伝わること


 ここには興味深いことが書かれている。また、スヴェーデンボリ以外のだれかが語っているとも思えない。霊視とともに、「霊に語りけられた」ことはよく聞く話しである。霊から話しかけられることは(その姿が見えないことと)、他人には聞こえない〔ここに書かれている〕ことなどから、それとわかるのであろうが(私には経験がない)、それが空耳でなく内側からのものである証拠として、「舌」をかすかに振動させることである。


 


109(no.249) 霊と話すことは危険であること


 霊能者とは何か、考えたことがあるだろうか? テレビに登場する俗な霊能者である。私は霊視を否定しないし、霊(多くは亡くなった肉親)からの話を取り次ぐ能力を持った人もいるだろうと思う。


 しかし、その霊が肉親の霊であるとどうしてわかるのであろうか? 偽り装う霊はいくらでもいる。肉親を装って、その人間を支配できるなら、その霊にとってこんな好都合な話はないだろう、ひそかに滅びの道へ誘導されるかもしれない。このような番組を制作しているテレビ関係者は、こうした危険についてわかっていないのだろう、だから放送している。


 


1021」 訳語「派遣霊」について


 原語subjectusは「霊界のある共同体からの使者または代表者の霊に与えられた名前」である。スヴェーデンボリ独自の概念と思えるので、訳語も新しいものとしたい。長島氏は「代霊」、柳瀬氏は「被派遣者」(他の箇所では「被術者」ともしている、これは英語のsubjuctをそのまま訳した)としている。


 私は「使者霊」も考えたが、使者にはemissariusがあるので、使者でなく「派遣」とした。うまい訳語が思い浮かんだなら教えてもらいたい。


 


1013(no.257) 霊が普通の人にとりつくことはない、ということか?


 ここに「今日(こんにち)では霊が人間にとりつく(憑依)はない」と書かれているが、それでも、憑依現象は聞くところである(私は多重人格などとされる「宮崎勤」は霊が憑依していたとみる)


 それで、これは一般論であって、特定の条件(霊を呼び寄せる儀式など)のもとで、今日でも起こることと思っている。それでも、普通に生活する人は厳然と主により守られているのであろう。 

感想:原典講読『天界と地獄』から その4

 

119(no.286) 「柳瀬訳」での重大な誤りについて


 ラテン語の接続詞seuは英語のorに相当し、訳語として「または」「すなわち」である。その訳語の使い分けは文脈にもよるが(ラテン語の場合)、句読点が区別の基準となる(英語の場合は絶対的基準)


 すなわち、英語で「A or B」と「A, or B」は後者にカンマ一つが付くだけであるが、意味は異なってくる。「AまたはB」と「AすなわちB」であり、前者はABを並置して述べているが、後者はAについて言葉を変えて(説明して)述べている。


 「柳瀬訳」を読んで、「何か今ひとつよくわからないな」という印象を持たれている読者がいるかと思う。その原因の一つがここにある。すなわち、柳瀬訳はその全部が「AまたはB」と訳されていて、この区別がなされていない! 今後、柳瀬訳を読むとき、「または」が出てきたら、「すなわち」と置き換えて読めば、よくわかるところがあるだろう。


 


1113(no.290) mensanimusについて


 スヴェーデンボリは多くの概念にある種の「段階」を設定している。「心」も同様である。ここのmenscor(愛の座としての心)と対比して用いられることが多く、「知性の座としての心」である。理性的な心であり、「精神」の訳語がいちばんぴったりするかもしれない。animusは「意識や思考の座としての心」であるが、mensと対比するとき「下位の心、外的なまたは自然的な心」であり、「アニムス」と音訳することもある。アニムスが内在するから「動物(アニマル)」である。ここからアニムスの最も下に位置するる心は、動物にも意識や感覚があるので「動物と共通する心」といえるかもしれない。


 柳瀬訳のこの個所は「合理的な心」と「自然的な心」であり(よい意味で)意訳している。


 


1114(no.291) 人間と霊界との結びつきについて


 「神の存在について」はさて置き、自分の中(あるいは世の中)の「善と悪の存在」について考えたことがあるだろうか。たいした善人とも思えない自分でも「善業」らしいことを行なうことがある。また、悪はしょっちゅう行なっている。そして、「私の中に、なぜ、こんな悪(善)があるんだろう?」と、それらの根源について、それが決して自分自身に根ざしていると思えないことがある。善にしろ悪にしろ、自分以外の「外から」やって来たとしか思えない。その「外とは何か」と考えるとき、これから述べられるここの教えを肯定するともに、その流入してくる「外」である「霊界(天界と地獄、また霊たちの世界の総称)」の存在を信じざるをえない。〔神の存在は信じないが、悪魔の存在は信じる、という人がいる〕


 


1119(no.296) まったくの誤訳となっている長島訳


 ここの冒頭の部分の文章が長島訳では次のものである。「主が人をみちびかれるにあたって、霊をとおしてなさるということは、天界の秩序によるものではなく、地獄から悪に由来するものですから、神の秩序にまったく反しているのです」(何度か読み直してほしい)


 変である。文意は「霊を通して人間を導く(厳密には「支配する」)ことは、地獄から悪に由来する(「由来する」という言葉は訳者の勝手な勝手な思い込みによる付加)ので、神の秩序に反する」である。


 現実に「霊を通して人間が(ある意味で)支配されている」、そしてそのことが「神の秩序に反する」というのである。では、どうすれば、神の秩序にかなうのか? 現実に行なわれていることは「神の秩序」そのもののはずである。この世で起こること、行なわれることは、神の秩序、神の摂理にしたがっているはずである。これでは「変である」。すなわち、誤訳だから。


 一般論として、翻訳文では「文意が通じない時は、(理解できない自分の頭が悪いのかな、と思わず)、誤訳かなと疑い、原典にあたるのが、正しい、しかも精神的に健康な態度である」。


 〔私の訳は次のものである、「人間が主により霊たちを通して支配されることは、〔人間が〕天界の秩序にいないからである、なぜなら、〔人間は〕地獄のものである悪の中に、したがって神的な秩序に完全に反するものの中に生まれているから」


 


127(no.318) だれでも自分の宗教にしたがって善に生きれば救われること


 どこにでもなんらかの宗教がある。日本には神道、インドには、アラブの国々には・・・と。どんな宗教も現世だけでなく、来世を、神を視野に入れている(このような宗教がなければ・・・と言うより、それは宗教ではない)。そのとき、現世のみを考慮する考えから視野が、価値観が変わる、神に目を向ける。すなわち、外的なものから内的なものへ目を向ける。これが最も重大事であって、そのとき宗派など、は問題でなくなる、そのために一手段でしかなくなる。こうした考えを持つとき、宗教上の争い(宗教戦争)はなくなる。雑談ながら、この点、日本人はすぐれているのではないだろうか。すなわち、神道、仏教、キリスト教をみごとに融和させて取り入れている。すなわち、初詣、七五三などの宮参り、いろいろな祈願、また結婚式や葬式で、みごとなほどに融通無礙である(ある意味、無宗教ともいえる)


 さて、これをキリスト教界内でいえば、カトリックでも、プロテスタントでもよい、すなわち「新教会」でなくてもよい。この世で善に生きれば、「真の救い主」に気づかなくても、素地ができているので、来世で、そのことを教えられる〔そして天界に行く〕。


 あえて、争ってまで、新教会を広めようとは思わない(布教に積極的になれない、しかしこうした宗教はこれまでいっぱいあった。隠れた存在とも言えよう)。ただ、求める者のために、またこの世と来世との結びつきのために、真の教えが存在すればよい。そしてこのこともまた、主が備えてくださっていると思う。


 


128(no.319) 異教徒は、たとえ世で純粋な真理の中にいなくても、来世で、愛からそれらを受ける


 この結論は重要だと思う。確かに「真理」には高低、優劣があると思える。それでも、宗教であるかぎりそこには「神性を認め、隣人に悪をなさない」という教えがあるはずである。そして、その教えにしたがって、(自分自身に導かれない=自分を神としない)道徳的な生活を送れば、天界に行き、真理への愛から、純粋な真理を受けるのである。この世は完全でないのだから、純粋な真理を得るのは難しいであろう、しかし、どっちみち来世で得られるのである。このとき、真理の純粋さを競っても、すなわち、「どちらの真理ほうが程度が高いか」など意味がなくなる。まして宗教戦争など。


 「たとえ」としてやや的外れかもしれないが「学歴」を考えてみる。学歴は高いほうがよいし、同じ学歴ならいわゆる優秀な学校で学ぶほうがよいであろう。すなわち、より広く、深い人生観を形成できる。でも、人生を決定するのは学ぶことだけではない、その人生観に基づいて、どのように生きるかのほうがよっぽど重要である。


 このことを宗教にあてはめれば「名門宗教」と「低劣な宗教」があるかもしれない。でも、それらを学校だとすれば、たしかに学校の選択も重要であるが、それ以上に、そこで何を学び、それをどう生かすかのほうがはるかに重大事であろう。このとき「どっちの学校がよいの、悪いの」といって争うのは、あまり意味がないとわかる。


 ただし、学校にも営利だけを目的としたものがある(信者から金を集めることだけに関心がある宗教)、このような学校に入ってはいけない。しかし、この心配はここの読者には無用であろう。


 


1211(no.323) みことばは天的なものと霊的なものの表象と表意である


 聖書を29歳になって(遅かったです、でもこれでよかったかもしれない)はじめて読んだとき、「これは普通の本ではない」と直感できた。もちろん「創世記」から読み始めた。天地創造など、一見、幼稚である。しかもギクシャクしている。5節で「第一日」と言いながら、日にちの区別となる「太陽」らしきものは14節にならないと出てこない。その前に(太陽が存在する前に)「夕があり、朝があった」も、すごく変。すなわち、読み始めてすぐさま第5節で「異様だ」と気づく。


 でも『古事記』など読んでいたので、理詰めで考えることはしなかった。このような異様な表現で「何かを語ろうとしている」んだろう、とは察しがつくからである。


 ともかく、知らないことだらけなので、単純に「知識」として読み進んだ。平行して世の解説書も読んだ。しかし、「異様な感じ」がどうしてするのか、その疑問は抱えたままだった。


 その疑問が晴れるのは、37歳になって『天界の秘義』を読んだときである。一言でいえば「聖書には霊的なものが表象され、意味されて、書かれている」からである。


 


1216(no.329) 幼児infansの他の訳書の訳語について


 この語は多くの用例からも(5,6歳の)「幼い子供」「幼児」を意味する。


 さて柳瀬訳のこの329番の見出しは「小さな子供」であり、本文中は「子供」、最後に「小さな子供」となっている。また次の330番では「幼児のようなinfantilis」とある。これだと「小さな子供」と「子供」また「幼児」は別の言葉と思ってしまうが、同一である(英訳書でlittle childrenchildrenとしているのを忠実に訳してあるが)。このような訳し方を私は受け入れことができない(もちろん、文脈によって訳語が変わることはある、ここではその必要を認めない)。同一単語は同一訳語で通して欲しい、意味がぼやけてくる気がするからである。


 長島訳は「みどりご」としている。長島氏は日本語を知らない(正確に使っていない、という意味である)。「みどりご」とは(生まれたばかりの)赤ん坊である私は「普通でない日本語の用い方をする人だなあ」と思っているが、これもそうした言葉遣いの一つである。そして、337番以降、突然と「幼児」の言葉を使用している(変更している)、これは上記の趣旨から、いただけない。


 


1222(no.338) 幼児のもつ観念は、あらゆるものが生きているかのようであること


 『天界と地獄』の中で、私にとって一番印象深い部分がここである。幼児の目にはすべてのものが「生きている」と思えるのである。私自身も、目の前の無機物、例えば、パソコン、本・・・などが「いのち」を持っているような気がするときがある。木のような生物にはもちろん「精」が宿っている気がする。


 パソコンや本に生命としての「いのち」はないが、その物体を通してその奥にある「いのち」を感じるのである。たとえば、本なら、その中に書かれている「内容」に、著者の表現したいものに、その著者を生かしているいのち(執筆させる原動力)を感じるのである。また車などもいろいろな動物に思えるときがある、犬、馬、象・・・のように。そして、その車に製作者のいのちを、走っている時には運転手のいのちを感じる。


 こうした思いを抱くのは、目の前の物質世界の奥にある精神世界を意識するからであり、幼児の場合、そんなことを少しも考えずに、おもちゃ、また身の回り物にいのちを感じるのであろう。


 


1225(no.342) 遺伝悪について


 これもスヴェーデンボリ神学の特徴の一つであると思う。すなわち親から受け継ぐものは身体的特徴(これは万人の認めるところ)の外面だけでなく、性格(ある程度年取ると、自分の行動などが親と似ていると気づく、特に「くせ」と言われるものである)など、内面的なものも似ている。しかし、それだけでなく、何と行なった悪まで(語られていないが当然「善」も)遺伝するのである。


 「親の因果が子に報い・・・」と言われ、聖書にも「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」(ヨハネ9:2)とあるが、漠然と「そんなことないだろう」と受け止めていた。しかし、スヴェーデンボリはきちっと語っていた。スヴェーデンボリに出会あって「遺伝悪」を意識させられた。「自分はなんでこんなに悪人なんだろう」と漠然と思っていたことに答えが与えられた。そしてだれにも遺伝悪が隠れていて、いつか現われてくるのである。自分の遺伝悪と向き合わないで一生を終える人がいるとは思えない。そして、自分の悪行が子に遺伝するのは、ちょっと恐ろしいし、借金を子供に残すようで、責任も感じる。


 人は何のために生きるのか、いろいろあるが「遺伝悪と戦い」の一面があると思う。


 ついでに、一つだけよくわからないことがある。自分が遺伝させる悪は、子が生まれるまでのものであって、生まれた後に行なった悪は遺伝するのか、しないのか? 確信ないが、しないと思っている。


 


1227(no.344) ここは印象的な個所と思う


 やや長くなるが本文を以下に引用する。


 「・・・私は大きな都会に街路にいて、少年たちがけんかしているのを見た。やじ馬が群がり集まって、これを大喜びで見ていた。両親自身が幼い子供をこのような争いへ煽り立てていることに気づいた。私の目を通してこれを見た善霊や天使たちは・・・両親が彼らをこのようなことへけしかけることに、私がその恐怖感に気づくほどの拒絶を示した。そして次のように言った。こうして最初の年齢のうちに主から幼児たちに与えられたすべての相互愛とすべての無垢を消滅させてしまい、幼児たちを憎しみと復讐へ導く・・・それで、自分の子どもに善を欲する両親は、このようなことに用心しなければならない」


* * * * *


 気をつけないといけない。つい、「やれ、やれ」という気になってしまう。これを大規模にしたものが「戦争」であろう。原因や理由がどうであろうと、憎しみ、殺し合うことが「人間性」に(神の御心に)反していることは明らか。不正に対する憎しみ、怒りは当然である、その憎しみ、怒りをどのような形で表わし、訴えるか、そこに、知性と知恵、そして愛があるのであろう。 

感想:原典講読『天界と地獄』から その5

 

11(no.349) 雑談:マタイの法則(原理)


 (タラントのたとえの後)「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられる」(マタイ25:29)とある


 根っから雑談好きなので正月早々、雑談で失礼する。マタイの法則(Matthew plinciple)と言われるものがある。銀座が、軽井沢がドンドンと膨張する。すなわち、「軽井沢」というブランド名にあやかって、周辺の地名を「南軽井沢」、「北軽井沢」と称するのである。北軽井沢など、「ここが軽井沢?」と疑問符が付くような範囲まで広がっている。同じ例は、弘法大師の掘った井戸が各地にある。同じ井戸なら、弘法大師が掘ったことにすれば、同じ水が一味違ってくるのだろう。


 ちょっと違う例は「犯罪人には親戚が少なく、有名人には親戚が多い」。直ぐわかると思うが、だれもわざわざ親戚の例として犯罪人の名前を挙げないが、有名人なら、「あの人の○○にあたる」と名乗りやすい。すなわち、親戚が多い。


 小学生のころ、話好きの伯父から聞いた。「お金というものは寂しがりやで、仲間のところ、お金のあるところに集まる」というものである。すなわち、金はあるところに集まってくる。


 その他いろいろ、これらすべては「マタイの法則」である。


* * * * *


 少し、まじめになって、ここの「持っている」とは「何を」持っているのだろうか?


 タレントのたとえの文脈の中なら、タレント(才能)であり、「才能は、生かせば増え、生かさないと枯れる」であるが、それでは世俗的な説明でしかない。『天界と地獄』のこの個所から「情愛と願望」、そのもとである「愛」とわかる。すなわち「愛を持っている者は・・・」と読むと、そのとおりだな、とうなずける。


 


19(知識について) 人間はまず知識を得なければならないこと、でも。


 何事であれ、まずはそれ相応の知識がなければ始まらない。ある適度の知識がなければ、お互いの話しも通じない。すなわち「基盤」なのである。でも、その基盤の上に何を「建てるか」が問題である。土地と作物で言えば、知識は土地であり、よく学び、よく訓練された人は、よく耕された土地であろう。どんな種を蒔くにしろ、その土地からはよい作物、よい収穫が得られる。


 霊的なものが重要であっても、その基盤は、私たちがこの世に生きるかぎりは自然的な知識である。そしてその知識が真理となるか虚偽となってしまうか、その違いがここに書かれている。


 やや話が変わるが、ここで「種まきのたとえ」(マタイ13)を思い出す。


 どうか、私たちが「良い地」となれますように。


 


117(no.364) 富は祝福ではない、公平に与えられないものは祝福とはいえない、時間も


 この世は「金(かね)」の世界なので、常に金が問題になる。お金(富)に恵まれる者もいれば、貧乏人もいる。でも不公平とは思わない。祝福ではないから。神は、主は、人間にほんとうに必要なものは(神の目から見て)公平に与えてくださっていると思う(ここに、特別な慈悲はない、と言われている)。生活の程度、境遇はともかく、「いのち」は公平に与えられている。与えられた「いのち」をどのように使うか、使わせてもらうかが問題であろう。なくなることもある金ではなく、才能を考えてみる。恵まれる者もいれば、何の才能もないような者もいる。おそらくその人にその才能は不要なのだろう、金が不要の人間がいるのと同じである。


 若死にする人もいれば長寿に恵まれる(?)人もいる。なぜ、疑問符が付くかといえば、長寿が即祝福ではないから。だらだらと長く、不満たらたらと過ごすよりも、短くても「輝く時」を持てた人間のほうが幸せであるのは間違いない。「時は金なり」という。何千万円もかけて心臓手術をして、少しでもいのちを延ばしたいらしい(手術後10年ぐらいしか持たない)。すると1年間のいのちはいくらに相当するのか? 「いのちを永らえることができるなら、いくらでも金を出す」という人もいる。一方で、長患いの身をもてあまし「長生きし過ぎた」と嘆く者もいる。


 現在、私は幸い還暦過ぎまで元気に生きている。普段、生きるのは当然と思っているが、よく考えればお金以上のものを恵まれている。さて、それをどのように使うのか、使わせてもらうのがよいのだろうか。それで、この文章を書いている。(続く)


 


118(no.365) 続き:前日の唐突な結論への補足、「役立ちの王国」


 前日の結論「それで、この文章を書いている」は唐突だったか? はしょっても勘のよい方ならおわかりになると思ったが、この「続き」で補足しよう。


 「主の王国は、天界は役立ちの王国である」。主から頂いた、そのいのちを自分のためだけに消費してよいものだろうか、このような疑問への答えはすでに与えられている。スヴェーデンボリの著作を原典で読み、高尚な思索にふけっている方々に、この駄文を読んでいただくのは気が引ける。同じスヴェーデンボリ神学を学ぶ者の感想と受け止めてもらいたい。


 私は、少しでもお役に立てば、すなわち、スヴェーデンボリの原典を読む一助になれば、と思っている。もちろん、人様に公表するとなれば、正確を期さなければならない、それが私自身の勉強ともなっている。「それでこの文章を書いている」。


 


125(no.378) この世は混じり合う傾向、あの世は純化


 ここの記事からは、人種間の「混血」など天界ではありえないようである。サラブレッドは速い馬を掛け合わせてつくられたという。すなわち、混血をだんだんと排除し、「速い馬」という純血種の血統を(人為的に)つくった。霊界では霊たちの世界にしばらくいてから、天界と地獄へ分かれて行く。そして天界でも自分にぴったりの社会に居つく。いわゆる異分子がいないので、住みやすく、平和である。こうみてくると、この世の「特権」が「混じり合うこと」のようである。そこに活力(というよりも新しいもの、新局面といったもの)はあるが、混乱も生じる。


 この世で起こった混乱が来世で沈静化するようにも思える(しかし、いろいろと制約のあった活動はさらに活発となる)。ある意味で、この世がやはり天界の苗床・基盤であるとわかる。


 


212(no.403) ある霊らは・・・天界の幸福は暇な生活に・・・あると信じた。


 「小人閑居して不善をなす」を思い浮かべる


 注文など殺到し、忙しいだけの仕事はもうかるかもしれないがきつく、つらい。働きすぎで健康を損ねる恐れがある。またお客などが少なくて、暇な仕事もやはりつらい。適当な、快い速度で仕事がはかどるとき、幸せである。せっせと仕事に精を出すとき、その仕事が「楽しい」のである。


 私の経験でも、職場で「お、何かニコニコしているね」と言われたとき、何らかのやりがいのある課題に取り組み、それが思うように進捗しているときであった。仕事に取り組んでいて、その楽しさが表にでてくる。みんながニコニコ働いているような職場はよい(私はそれを目指してきた)。


 教員社会(どこも同じと思う)では、お互いに仕事を分担する、そのとき楽な仕事、暇な部署につこうとする人が出てくる。しかし、眺めていると、そういう人は幸せそうに見えなかった。過重な負担は避けなければならないが、適当に忙しいほうが健康であると思う。過重で思い出すが、私にも過重な仕事が割り当てられる時があった、しかし、精一杯やっていると、それでもやり終えることができそうもないとき、必ずどこからか「助け」があった。このような経験は何かを懸命やった人なら必ず持っていると思う。


 


212(no.404) 神を賛美し、称賛するとは仁愛の善をなすこと


 いわゆる世の中のためになる役立ちを果たすこと、それがそのまま神への賛美であることが言われている。私利私欲のためだけに働くのではなく(働くのは何らかの役立ちになっている)、それが神への賛美となっているから「労働は神聖」なのであろう。


 


216(no.408) 幸福である者が大きな者であること、なるほど


 自分がちっぽけな人間に感じられるときがある、いろいろなものの不足(能力、金、時間など)から物事がうまく行かないときなどである。そんなとき「不幸」も感じる。ここにこの逆の状態が書かれている。


 幸福なとき、胸が膨らむ思いがする、自分が「大きく」なった気がする。何かの成長や充実を感じるときもそうである。純粋な意味で「大物」とは、天界的な意味で「幸福な者」であろう。どんな大人物でも心の中で不満や不幸を感じているなら、その人は「小物」である。そしてその幸福は「心から他の者によかれと願うこと」から得られる。このことに今更ながら納得する。


 


221(no.414) Senescere in Caelo est Juvenescere


 読みは「セネスケーレ イン カエロ エスト ユウェネスケーレ」。


 「天界で年取ることは若返ることである」とは印象的な言葉である。私たちも「年齢を感じさせない」などと言う。何か懸命に取り組んでいる人の「心」は若々しく感じる。このとき、心の世界である天界を垣間見る思いがする。


 話はちょっと逸れるが、今のように翻訳をしているとき、自分がいつまでも学びの、修業の途中にある「若造」の気がしてならない。読むたびに新しい発見があるから。


 その例として、スヴェーデンボリの文章は「省略」の多いことが特徴となっていることがある(読者の方もすでにお気づきであろう)。そして、この省略文が何が省かれているのだろうか? と勉強になる。そしてこれは論理の道筋をきちっと追っていればわかることである(逆に、わからないのは読み込みが足りないといえる)。


 


225(no.418) 一致して(一つ心でunanimiter)まとまるには


 ここの最後の部分にはすべての団体や組織などにいえることが書かれている(言語的に「一致」とは「一つ」+「心」であることがおもしろい)。そしてそのためには「共通の」目的があることである(ここでは「主」)。共通の目的があるとき、みんなの視線はそこに向かって一致する。そのとき「一人は全員のために、全員は一人のために」といった気持ち(ここでは「善」)が生じる。


 


226(no.420) 著書『天界と地獄』の7割は「天界」について


 「天界と地獄」の題名からは、それぞれ半分ずつ扱われているような気がするが、その内容の7割は「天界」について、残りの3割のうち2割は「霊たちの世界」について、「地獄」については最後の1割である。すなわち大部分は「天の御国がどのようなものであるか」を述べている。


 ここで、その7割分が終わった。明日からは「霊たちの世界」である。やや努力を怠ったこともあって予定よりやや遅れたかな、と思っている。それでも「毎日掲載する」気持ちは失っていない(何日か遅れたことがある)。それというのも日々のアクセス数に励まされているから。すなわち、毎日読んでいてくださる方がいるのでは休む気になれない。読者の皆様に感謝する。


 


43(no.477) 「支配愛」とは


 スヴェーデンボリ神学の特徴を表わす言葉の一つが「支配愛」である。どのような概念を表わす言葉かここからも少しわかるが、私なりに補足してみる。


 心の中にはさまざまな愛がある。あたかもいろいろな人がいるかのようである。その人々はばらばらではない。秩序をもって一人の主導者(これが国なら王)のもとに統治されている。その主導者たる愛が支配愛である。それで「主導愛」の訳語が考えられる。そして人がそれぞれ異なるように、その人の支配愛も異なる。というよりも支配愛が異なるから、人の性格も異なるのである。主への愛が最も強ければ「天的な人間」、隣人への愛がまさっている人が「霊的な人間」と呼ばれるのは周知のこと。「愛」でなく「欲」と言えば、悪人にも通用する。


 自分の支配愛が何か知ることはそれほどむずかしいことではないようである。金銭や時間など、はたまた人目など、何も制約がないとき、最もしてみたいこと、寝食を忘れてやれることは何であろうか? そのことへの愛が支配愛であろう。しかし、王様一人だけで王国が成り立たないように、それに仕える愛が付随する。そして普段それらの愛にうずもれて王様が見えないことも多いようである。私も、自分がどこに向かおうとしているのか、わからなくなることがよくある。


 よくわからなくなったところで話を少し変える。音楽に「調」がある。すなわちハ長調、イ短調などである。それぞれの曲に基調となる音(主音keynote)が定まっている。支配愛もこのように考えることができる。そのとき「主調愛」の訳語も考えられる。音楽用語の属音をドミナントdominatと言うが、これは「主要なもの、優勢なもの」という意味をもつ。


 


44(no.479) ここの「霊たちの世界」の出来事は、この世でも感じられること


 ここに書かれていることに対し、私と同感の人が多いと思う。すなわち、この世でも同様のことを感じることである。内容の繰り返しになるかもしれないが、同じ順に述べてみる(本文参照)


[1] 「類は友を呼ぶ」「類を以って集まる」と言う。気心の知れた仲なら抵抗感がない。場違いなところだと、居心地が悪い。それぞれの情愛、ひいては支配愛が異なるからである。


[2] この世での人間の成長に対し一般的に言えることである。すなわち、虚偽が取り去られること、この世では遅いが霊たちの世界では速やかに行なわれる。そして何か目標を持ったり、何かに囚われたりするとき、常にそのことが目から離れない。すなわち、常に目の前にあるような気がする。


[3] 世と共通であることは、書かれてあるとおり。ただし、支配愛の範囲内で(縛られているかのように)行動することは、自分の日ごろの行ないなどを反省しないとよくわからないかもしれない。すなわち、日ごろの自分の行動は支配愛に導かれていること。


[4] 私は他人との会話、いろいろな集会など実感していることである。すなわち、愛の一致する者の存在感が大きい、しかし、違和感を持つ者は、いないように、どっかにいってしまったように感じられる。


私は、目の前にいる人が、あるとき黒く見えたことがある(すぐもとに戻ったが)。そうでなくても、ある人の本性を垣間見るようなときがないだろうか。


[5] 人間は木でもあり、動物でもある。自分にふさわしいものを、それぞれ取り入れている。そしてそれぞれの者に「道」がある。たとえで、進路や進むべき方向を「道」という。この世の道は心の中にある、そして振り返れば歩いてきた道は見えるが、行き先は見えない(全部でないが、一部見えることもある)、しかし、霊たちの世界では現実にそれが見える。


 このようなことを感じるのも、霊界からの流入、または対応があるからだと思う。


 


419(no.500) 思考は意志の形であり、それは分析によって示されること


 こうした表現をどのように読み取るのであろうか? 私なりの理解の仕方を述べてみる。


 意志は(そして思考も)目に見えない。それで「思考は意志の形である」と言われても、思考自体も普通の意味で「形」ではないので理解に苦しむ。それでも、「概念」という形をとっていると思う。意志は行為となったとき外にその姿を現わすが、思考は「概念」として頭の中に「形」としてあると考える。その思考の根源が意志である。そしてその意志を探るには分析的思考を働かせなくてはならない。そうして捕らえた意志が思考の中に形をとって見えてくるのであろう。


 


422(no.508) 「人間は生活によってその性質をおびる」homo per vitam induit naturam.


 「ある人とその人の生活との関係は?」と考えるとき、その職業、行なっていることなどは、その人が心で「こうありたい」と思っていることの反映であろう。そしてまた、その日々の生活からその人の性質、性格などが後天的に形作られる(職人気質など)。人間は(内面的には)意志そのものであり、その意志が(外面的に)反映された生活がその性質を形成する。こうして、内なるものと外なるものが対応している。