原典講読『神の愛と知恵』 211, 212

 

(1) 原文


211.  Quoniam omnes res civiles, morales et spirituales similiter per gradus progrediuntur, sicut res naturales, non solum per gradus continuos, sed etiam per gradus discretos, et progressiones graduum discretorum se habent sicut progressiones finium ad causas, et causarum ad effectus, volui rem praesentem, quae est, quod gradus ultimus sit complexus, continens et basis graduum priorum, illustrare et confirmare per supradicta; nempe per illa quae sunt amoris et sapientiae, voluntatis et intellectus, affectionis et cogitationis, ac charitatis et fidei.


 


(2) 直訳


Quoniam omnes res civiles, morales et spirituales similiter per gradus progrediuntur, sicut res naturales, non solum per gradus continuos, sed etiam per gradus discretos, et progressiones graduum discretorum se habent sicut progressiones finium ad causas, et causarum ad effectus, volui rem praesentem, quae est, quod gradus ultimus sit complexus, continens et basis graduum priorum, illustrare et confirmare per supradicta; 市民的な、道徳的なまた霊的なすべての物事は、同様に段階を通して進む、自然的な物事のように、連続した段階によってだけでなく、しかしまた分離した段階によって〔進む〕、また分離した段階の進行は、目的の原因への進行、また原因の結果への〔進行〕のように振る舞うので、私は現在の物事(問題、主題)を~したい、それは、最終的な(最外部の)段階は前の段階の合成物、容器、基礎であることである、上述のことによって説明し、証明すること。


nempe per illa quae sunt amoris et sapientiae, voluntatis et intellectus, affectionis et cogitationis, ac charitatis et fidei. すなわち、それらによって、それらは愛と知恵の、意志と理解力の、情愛と思考の、そして仁愛と信仰のものである☆。


ここで長島訳は見逃せない、とんでもない誤訳をしています。(4) ひどすぎる誤訳、で述べます。


 


(3) 訳文


211. 市民的な、道徳的な、また霊的なすべてのものは、自然的なものと同様に連続した段階によってだけでなく、分離した段階によってもまた進む。また分離した段階の進行は、原因への目的の進行、また結果への原因の進行のようであるので、私は、最終的な段階は前の段階の合成物、容器、基礎であるという現在の主題を前述のことによって、すなわち、愛と知恵、意志と理解力、情愛と思考、そして仁愛と信仰に属するものよって説明し、証明したい。


 


(4) ひどすぎる誤訳:長島訳


 本節の最後の部分を長島訳は、「すなわち、愛と英知、意志と理性、情愛と思考、仁愛と信仰の関係は、そのような関係になります」とある。


 これだと、「すなわち」がまとめを導く言葉とみなされ、この部分が「結論」であるかのようである。おわかりと思うが、この「すなわち」は直前の事柄を追加説明している。スヴェーデンボリは「それらによってper illa」説明し、証明したいのであり、その内容を追記している。


 長島訳はこのper illaをまったく無視し、「そのような関係となります」と原文にまったくない言葉で結論としている。ひどすぎる。これでこの個所はまったく理解できないものとなっている。よく「スヴェーデンボリの著作はむずかしい」という評価を聞くことがあるが、こうした誤訳がその一因ではないかと思う。


 指摘ついでに言えば、ここでスヴェーデンボリの証明したいことは「見出し」の「末端的な段階は、合成的になる。しかも、先にある諸段階を受け入れる土台になる」(長島訳)であり、その同一内容がここで(はっきりさせたいのは、)終・末端の段階は、先行する段階を含みもつ合成であり、土台であるということです」(同じく長島訳、以下、前述の「結論」に続く)としている。なぜ、ここで同一の本文の訳文を変えるのか? これでは統一性、また論理のつながりが不明確となってしまう。


 じっくり考えて訳したとは到底思えない。そんな訳を読まされる読者は不幸だと思う。ご本人が存命なら「欠陥商品だ」と「リコール」を要求したい。すなわち、無料で訂正版と取り替えること。


 


(1) 原文


212.  Quod Gradus ultimus sit complexus, continens et basis graduum priorum, constat manifeste ex progressione finium et causarum ad effectus. Quod effectus sit complexus, continens et basis causarum et finium, a ratione illustrata potest comprehendi; sed non ita clare, quod finis cum omnibus ejus, et causa cum omnibus ejus, actualiter sint in effectu, ac quod effectus sit plenus complexus eorum. Quod res talis sit, a praedictis in hac Parte constare potest, ex illis imprimis, quod unum sit ab altero in serie triplicata; et quod effectus non sit aliud quam finis in suo ultimo; et quia ultimum est complexus, sequitur quod ultimum sit continens, et quoque basis.


 


(2) 直訳


Quod Gradus ultimus sit complexus, continens et basis graduum priorum, constat manifeste ex progressione finium et causarum ad effectus. 最終的な(最外部の)段階は前の段階の合成物、容器、基礎であることは目的と原因の結果への進行からはっきりと明らかである。


Quod effectus sit complexus, continens et basis causarum et finium, a ratione illustrata potest comprehendi; 結果が原因と目的の合成物、容器、基礎であることは、照らされた理性により理解されることができる。


sed non ita clare, quod finis cum omnibus ejus, et causa cum omnibus ejus, actualiter sint in effectu, ac quod effectus sit plenus complexus eorum. しかし、そのようにはっきりとでない、目的はそのすべてのものとともに、また原因はそのすべてのものとともに、実際に結果の中にあること、そして結果はそれらの完全な合成物であること。


Quod res talis sit, a praedictis in hac Parte constare potest, ex illis imprimis, quod unum sit ab altero in serie triplicata; 物事がこのようであることは、この部の中で言われたことから明らかにすることができる、それらから特に、一つのものは他のものから三重の系列の中にあること。


et quod effectus non sit aliud quam finis in suo ultimo; また結果はその最終的な(最外部の)ものの中の目的でしかないこと。


et quia ultimum est complexus, sequitur quod ultimum sit continens, et quoque basis. また最終的な(最外部の)ものは合成物なので、最終的な(最外部の)ものは容器、そしてまた基礎であるということになる(ことが帰結される)


 


(3) 訳文


212. 最終的な段階は前の段階の合成物、容器、基礎であることは目的と原因の結果への進行からはっきりと明らかである。結果が原因と目的の合成物、容器、基礎であることは、照らされた理性により理解されることができる。しかし、目的はそのすべてのものとともに、また原因はそのすべてのものとともに、実際に結果の中にあること、そして結果はそれらの完全な合成物であることは、そのようにはっきりと理解することはできない。このようであることは、この部の中で言われたことから、特に、一つのものは他のものから三重の系列の中にあること、また結果はその最終的なものの中の目的でしかないことから明らかにすることができる。そして最終的なものは合成物なので、最終的なものは容器であり、基礎でもあるということになる。 

原典講読『神の愛と知恵』 213, 214

 

(1) 原文


213.  Quod amorem et sapientiam attinet: est amor finis, sapientia causa per quam, ac usus est effectus; ac usus est complexus, continens et basis sapientiae et amoris; atque usus est talis complexus et tale continens, ut omnia amoris et omnia sapientiae actualiter illi insint; est simultaneum eorum. Sed probe sciendum est, quod omnia amoris et sapientiae, quae homogenea et concordantia sunt, usui insint, secundum illa, quae supra (in articulo n. 189-194) dicta et ostensa sunt.


 


(2) 直訳


Quod amorem et sapientiam attinet: 愛と知恵については☆―


quod attinetで「~については、~に関しては」という意味です。


est amor finis, sapientia causa per quam, ac usus est effectus; 愛は目的である、知恵はそれによっての☆原因、そして役立ちは結果である。


ここは「手段となる」と意訳したほうがよいでしょう。


ac usus est complexus, continens et basis sapientiae et amoris; そして役立ちは知恵と愛の合成物、容器、基礎である。


atque usus est talis complexus et tale continens, ut omnia amoris et omnia sapientiae actualiter illi insint; そして、役立ちはこのような合成物とこのような容器である、愛のすべてのものと知恵のすべてのものは実際にそれに内在するような。


est simultaneum eorum. それらの同時に存在するものである。


Sed probe sciendum est, quod omnia amoris et sapientiae, quae homogenea et concordantia sunt, usui insint, secundum illa, quae supra (in articulo n. 189-194) dicta et ostensa sunt. しかし、正しく(十分に)知らなければならない、愛と知恵のすべてのものは、それらは同質で、一致(調和)である、役立ちに内在すること、それらにしたがって、それらは上に(189-194番の章の中に)言われ、示されている。


 


(3) 訳文


213. 愛と知恵については―愛は目的であり、知恵は手段となる原因であり、役立ちは結果であり、役立ちは知恵と愛の合成物、容器、基礎である。そして、役立ちは、愛のすべてと知恵のすべてが実際に内在するような合成物とそのような容器であり、それらが同時に存在するものである。しかし、前に(189-194番の章の中に)言われ、示されていることにしたがって、愛と知恵のすべてのものは、同質で、調和するものであって、役立ちに内在することを十分に知らなければならない。


 


(1) 原文


214.  In serie similium graduum sunt quoque affectio, cogitatio et actio; quia omnis affectio se refert ad amorem, cogitatio ad sapientiam, et actio ad usum. In serie similium graduum sunt charitas, fides, et bonum opus; nam charitas est affectionis, fides est cogitationis, et bonum opus est actionis. In serie similium graduum sunt etiam voluntas, intellectus, et exercitium; nam voluntas est amoris et inde affectionis, intellectus est sapientiae et inde fidei, et exercitium est usus et inde operis. Sicut itaque usui insunt omnia sapientiae et amoris, ita actioni insunt omnia cogitationis et affectionis, bono operi omnia fidei et charitatis, et sic porro; sed omnia homogenea, hoc est[,] concordantia.


 


(2) 直訳


In serie similium graduum sunt quoque affectio, cogitatio et actio; 情愛、思考、活動(行為)もまた同様の段階の系列の中にある。


quia omnis affectio se refert ad amorem, cogitatio ad sapientiam, et actio ad usum. すべての情愛は愛に関係するからである、思考は知恵に、また活動(行為)は役立ちに。


In serie similium graduum sunt charitas, fides, et bonum opus; 仁愛、信仰、善の働き(善行)は同様の段階の系列の中にある。


nam charitas est affectionis, fides est cogitationis, et bonum opus est actionis. なぜなら、仁愛は情愛のものであるから、信仰は思考のもの、また善の働きは活動(行為)のもの。


In serie similium graduum sunt etiam voluntas, intellectus, et exercitium; 意志、理解力、実行(実践)もまた同様の段階の系列の中にある。


nam voluntas est amoris et inde affectionis, intellectus est sapientiae et inde fidei, et exercitium est usus et inde operis. なぜなら、意志は愛のもの、またここから情愛のものであるから、理解力は知恵のもの、またここから信仰のものである、また実行(実践)は役立ちのもの、またここから働きのものである。


Sicut itaque usui insunt omnia sapientiae et amoris, ita actioni insunt omnia cogitationis et affectionis, bono operi omnia fidei et charitatis, et sic porro; そこで、知恵と愛のすべてのものは役立ちに内在するように、このように思考と情愛のすべてのものは活動(行為)に内在する、信仰と仁愛のすべてのものは善の働き(善行)の中に、等々。


sed omnia homogenea, hoc est[,] concordantia. しかし、すべてのものは同質、すなわち、一致(調和)。


 


(3) 訳文


214. 情愛、思考、行為もまた同様の段階の系列の中にある。すべての情愛は愛に、思考は知恵に、行為は役立ちに関係するからである。仁愛、信仰、善の働きも同様の段階の系列の中にある。なぜなら、仁愛は情愛に属し、信仰は思考に属し、また善の働きは行為に属すから。意志、理解力、実践もまた同様の段階の系列の中にある。なぜなら、意志は愛に、またここから情愛に属し、理解力は知恵に、またここから信仰に属し、また実践は役立ちに、またここから働きに属すから。そこで、知恵と愛のすべてのものは役立ちに内在するように、思考と情愛のすべてのものは行為に内在する、信仰と仁愛のすべてのものは善の働きに内在する、等々。しかし、すべてのものは、同質、すなわち、調和している。 

感想:原典講読『天界と地獄』から

 

感想:原典講読『天界と地獄』から


2008617日~2008618


 


 原典講読『天界と地獄』の「(4) 感想」の部分をまとめてみました。読みやすいようにとやや変えた部分もあります。翻訳しながら思いついたことなのでどうしても「訳語」などの話題が多くなっています。それでも、本文の内容から想起することを語ったものもあります。


 ひまなときに拾い読みしていただければ幸いです。


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617


 「スヴェーデンボリの代表作は?」と聞かれれば、『真のキリスト教』とする人もいるかもしれないが、私は『天界の秘義』とする。でも「一番有名な著作」なら『天界と地獄』である。


 初めて読んだスヴェーデンボリの著作が『天界と地獄』だった人は多いのではなかろうか。私もそうである。839(36)のときであった。出会いが遅かったのかようにも思うが、その前にキリスト教について勉強していたので、人生の中でちょうどよい時期だったかもしれない。


 他の「著作」を読みながら、読了したのが84年の9月。それ以来、英訳書を通読しただけで、あまり読んでいない。どちらかというと、聖書の内意に興味があり、『天界の秘義』などを読んでいた、またそのために、ヘブル語、ギリシア語を学んでいた。そして、93年ごろからは原典を読むために、ラテン語を学び始めたからである。


 しかし、このあたりで、『天界と地獄』を読み直す時期が来たのだろうと思う。原典講読の講座を連載しながら、これからの約1年間、じっくり読んでみたいと思っている。


 


618


 『天界と地獄』は、スヴェーデンボリが1749年~56年にほぼ毎年1巻、計8巻の『天界の秘義』をロンドンで発刊した後、その創世記の前半の解説の前後で語った事柄のうち、霊界に関することをまとめ、書き改めて、1758年、70歳のとき、同じくロンドンで発行したものである。同じときに「ロンドン五部作」とした発刊した『宇宙間の諸地球』『新しいエルサレムとその天界の教え』『白い馬』もやはり『天界の秘義』にあるものを書き改めたものである(もうひとつは『最後の審判』、これはスヴェーデンボリが前年に経験した事柄である。すなわち、「最後の審判」霊界で1757年に起こった)


 これまで和訳書も多く出されてきたが、それ以上に英訳書も多く(1778年に最初の英訳書が現われ、これまで最低でも20種あると言われている)、また、各国語にも訳されていて、その翻訳書がどれほどの数になるかわからない(その一つに私の訳がこれから仲間入りしようとしている)


 内容については有名なので言うまでもないであろう。本書の表題の副題に「ex auditus et visis」とあるように、霊界で「聞き、見たことから」の著作である。霊界の実相を、本書以上に詳しく、整然と述べたものは、これまでになく、今後もないであろう。キリスト教界だけでなく、全宗教界、全世界から注目を集めた本であり、本書がその後、全世界へ及ぼした影響は計り知れない。


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 さて、この講座では、(1)原文、(2)直訳、(3)訳文、と原典講読『信仰について』と同じ構成とする。関連して何か特別に語りたくなったとき(私は根からの雑談好きである)項目(4)を置く。もちろんこの講座の特徴は、「(2)直訳」の部分である。ここがあるから「講座」といえるであろう。


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 「『天界の秘義』からEX ARCANIS CAELESTIBUS」の部分について述べておく。


 ラテン原典からの本邦初訳の長島訳では省略されている(長島氏は『天界の秘義』訳了後に完全版をつくる計画であった)。本講座ではもちろん取り上げる。そしてその(2)直訳部分では『天界の秘義』からの参照番号を省略し、また文章も簡単なものが多いので、(3)訳文も省略する。そして文頭のQuod「~こと」の訳出もしない。省略しても意味に変わりはなく、すっきりするからである。


 「『天界の秘義』から」の参照番号については、なぜこのように大量に付けられているのか疑問に思いる。読者の便を思えば、代表的な個所だけをよいではないかと思ってしまう。それとも、読者にじっくり『天界の秘義』を読み直すひと時を持ってもらいたかったのであろうか。


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 スヴェーデンボリは『天界の秘義』の「索引」をすでに個人用に作成していた(「索引」については『霊界体験記』でも作成している)。それで、改めて、『天界の秘義』の著作を見直さないでも、この「『天界の秘義』から」の個所は、すぐさま執筆できたと想像している。


 


620(no.2) alter vitaの訳語「来世」について


 直訳すれば「別の生活」または「もうひとつのいのち」といった訳になる。意味するものは「死後の世界」である。柳瀬訳これを「他生」としているが、これは仏教用語であり、スヴェーデンボリが否定する「前世」の概念を含むのでふさわしくない(長島訳は「来世」)。内容から「来世、あの世」と訳すのがよいと思う。


 


625(no.13) 訳語「相応」について


 correspondentia(英語correspondence)を柳瀬訳も長島訳も「相応」としている。これは鈴木大拙の訳語を踏襲したのであろう。仏教用語として「複数の事柄が親しく和合していたり、統一されていたりすること」の意味があるので、この意味で大拙の役は適当かもしれない。しかし、今日、相応といえば「ふさわしいこと、つりあっていること」の意味が普通である。「身分不相応」や「能力に相応した・・・」といった用い方をするのでこの訳語では「不相応」。特殊な意味合いをもってくる仏教用語は使わないですめば、そのほうがであろう、それでやや意味がぼやけるが「対応」でよいと思う。


 


627(no.20) 「天界は二つの王国に区別されていること」


「天界の区分」について


 天界は「天的」と「霊的」の二つの王国、またno.29からは「第三・第二・第一」(これらは天的・霊的・自然的)と呼ばれる)の三つある、とある。すると「天界は大まかにいくつに分けられるのだろう?」という疑問がわく。「2×3=6なんでしょ」ということになるのか。でも、個別的にはいくらでもある。人間社会を眺めての私見を述べよう。「見方で、見る方向から、いろいろな種類に見える」のだと思う。大きく分けて男と女の二種類、または経済体制の資本主義と共産(社会)主義(これは崩壊したかもしれない)。そしてたとえば、社会階層を上・中・下の三つとするようなものではなかろうか。資本主義社会の上流階級もあれば、社会主義国家の下層民もいるわけであるが、同じ地球の人々である。私たちの心の中では天界といっても、これら二つ、あるいは三つは、渾然一体となっている。


 


71(no.34) 「内部、内的など」の訳語について


 「内なる」や「内的な」など、いろいろと出てくる。スヴェーデンボリは厳密に使い分けているのでここに私の使用する訳語を載せておこう(形容詞であり、それぞれ文法上は原級、比較級、最上級である)


  internus「内なる、内部の」、interior「内側の、内的な」、intimus「最内部の」


  externus「外なる、外部の」、exterior「外側の、外的な」、extremus「最外部の」


 


75(no.46) 類は友を呼ぶ


 このあたりの話は経験と照らし合わせてよくわかる。「気心の知れた」仲間内なら、気持ちがほぐれ自由を感じる。何かの集まりに出て、「場違いだな、私の来るところではなかったかな」と感じたことがあるのではないだろうか。こうしたものの源泉が霊界にあり、霊の状態の同・不同からくるのである。仲のよい仲間を眺めると、何か「似た者どうし」の気する。霊の状態、愛と広い意味での信仰(神だけでなく、何かの主義主張など)が同じなのであろう。


 


77(no.50) 「単純な者は辺境にいる・・・天使たちの最良の者たちである」


 ここから想起することは、都会の町並みと田舎の「家」である。長く都会暮らしした人間が田舎にあこがれるのはどうしてなのか。


 都会の町並みは、こまごまとしていて、またいろいろあって何か新しい発見があるような気がしてくる。しかし「平和」は感じない。


 田舎に行き、点在する民家を見る。萱葺(かやぶき)ならばもっとよい。辺りにあるのは自然だけで目新しいものは何もない。しかし穏やかで平和な気配を強く感じる。そこに最も善良な天使たちが住んでいるからだろう。


 


79(no.56) 「多様性から益がもたらされる」


 「なるほど」と思う。ここの「56番」また『天界の秘義から』の「すべてのものは多くのものの調和と一致から存在する」は、なるほどそうかと思わされる。こうでなければ、ものに性質は存在しない。


 いろいろなものから成り立っても、そこに調和、一致がなければ、またそこまでにいたらなければ「性質」とはならない。「性質」とはこういうものかと思う。個体のように、何らかの組織体でもこのことがいえる。ばらばらでは組織の体(てい)をなさない。


 


710(no.58) 訳語「支配愛」について


 スヴェーデンボリの文章で「支配愛」に初めて出会うとき、異様な言葉と感じる人が多いかもしれない。もとのラテン語がここのamor regnansである。regnoは「支配する、統制する」という意味で、同族の言葉にregnum「王国」regimen「統治・政治・支配」rex「王」などがある。


 その人間を統治し、君臨する、最上位の愛が「支配している愛」であり、これを簡略して「支配愛」と訳している。スヴェーデンボリ神学を読み解く鍵となる言葉の一つであり、よく使われるのでそのうち慣れるであろうが、訳語として工夫の余地があるかもしれない。ただし、『用語集』のようなものが出て、そこで解説されれば、一般読者がとまどうことはないであろう。


 


714 「原典講読」の実力のつく学び方


 「実力のつくと思える読み方」を考えてみた。


 本来どのように読もうが読者の勝手、忙しい方はさっと目を通すだけかもしれない。それでも、「講読」の名前が付けられていることからも、じっくり学びたい方がおられるかもしれない。老婆心ながらそのような方々への余計な話である。用意するものは別にいらないが、静思社の柳瀬訳、アルカナ出版の長島訳があるとよい。時間があるとき読み比べるなら、いろいろと得るところがあるかもしれない。


 この原典講読に即して述べよう。


 まずは (3) の「訳文」を読んで、だいたいの内容を頭に入れる。


 その後 (1) の「原文」を最低2読む。そのとき、内容がわからなくてもよい。句読点に注意し、セミコロン()コロン()ピリオッド()でその節の文頭に戻って読む。余計な話しのついでにその句読点の働きを述べよう。セミコロンは一まとまりの内容を述べ終えたとき。コロンも一まとまりの内容を述べ終えてはいるが、その内容について、次に補足説明など付け足したいとき。もちろんピリオッドは英語でフルストップとも言われるように、それまでの内容に終止符を打ちたいとき。


 さて、読み方戻れば、たとえば「ABC.」という構成の文は「A-B-C」と続けて読み、もう一度「A-B-C」と読むのでなく、「A-A, B-B, C-C」と読む。こう読む利点の一つは「長くなると前のことを忘れるから」。


 このとき文頭、または2番目に来る「接続詞」が文のつながりの重要なヒントとなる。よく使われる接続詞は書き出しておいて、そのメモを横目で見ながら読み進めるとよい。


 接続詞だけをよく捕えて(押さえながら)眺めていくだけで、なんとなく(嬉しいことに)内容がわかってくる気がするはず。スヴェーデンボリの文章は論理的なので接続詞は普通の文章以上に内容を捕える上で重要である。


 メインである (2) の「直訳」部分では、どの語がどの語に訳されているか見比べるだけで勉強になるはず。学習者のことを慮ってだいたいは原文の語順どおりに訳語も並べるようにしている。辞書を引く必要はない。というより、学ぶための適切な辞書はまだない(チャドウックの『レキシコン』がそのうち出版される)。原語の一語、一語を追っていくとよい。


 さらに実力をつけたい方は、この「直訳」から自分なりの「訳文」をつくってみるとよい。「原文の趣旨を訳文の中でどのように生かしたらよいだろう」、とあれこれ考え、工夫するはずである。


* * * * *


 さて、私は「あれこれ考える」こと、「ああだろうか、こうだろうかと思い巡らす」ことが「実力をつける」おおもとだと思う。(1) の原文を読みながら、「この語の意味は何だろう?」と思い、(2) の直訳から、「これをうまく訳すとどうなるだろう」と工夫する、ここで「実力がつく」と思う。


 あわてて先を急いで読み進めても、頭は空回りするだけ。せっかく原典を読むのだから、スルメを噛むつもりになってじっくり取り組むとよい。


 漫然とした、通り一遍の読み方ではあっても、もともとがスヴェーデンボリの文章なのだから、何らかの意味で、人生を生きてゆく上での「実力」はつくと思う。蛇足ながら「この世で成功する」実力ではない。 

感想:原典講読『天界と地獄』から その2

 

715(no.71) 「天界は・・・充満することで閉ざされると信じる者はどれほど欺かれているか」


 「天界は満員になったら締め切られる?」というこの内容から思い出すのが「エホバの証人」である。スヴェーデンボリに出会ったあと、しばらくしてからエホバの証人の家庭訪問教育を2年ほど受けたことがある。聖書の勉強会のためにわざわざ個人の家に(無償で)出向いてくれる。布教、また聖書の勉強には熱心であった。彼らは「救われる」とは「この宗教を広めること」と思っている。スヴェーデンボリの教えがすばらしいとわかっていたので(そのときまだ日本に新教会があることを知らなかった)信者になることはなかったが、集会にも出たりし、いろいろ勉強になり、ある意味で感謝している。


 彼らは聖書を字義通りに信じている。最後の審判のあと、「この世に」新しい世界が設立される。そのとき死んだ人たちの中からその世界を構成する人たちが呼び集められる。その人たちの数は144千人。根拠は「黙示録」7:14


 その仲間入りするために布教活動して努力している。しかし、エホバの証人の信者の数だけでもこの数をはるかにオーバーする。それで、「それじゃ少ないでしょう、加われない人が出てくるでしょう?」と問うと、「残りの者は「奴隷級」(というもの)に属する、その仲間に加わりたい」と答えた。「奴隷級」なんて聖書のどこに書いてあるのだろうか? 


 私がこの「聖書のどこに?」、また「聖書の原文にそんなことが書いてるあるのですか?」と問うたがこときっかけとなって、私が初めてヘブル語聖書を見せてもらったのはエホバの証人からであった(ヘブル語聖書が出版されていて存在する、と知ったことは大きかった)。


 


721考察:divinunの語について


 ここで通常「神的なもの」と訳されるdivunumの語をdivinumdivinitasとともに考えてみた。


 最初にdivinusは、形容詞であり、「神の、神的な、神に特有の」といった意味である。通常「神的な」とすればよい。次にdivinusは、形からは、形容詞divinusの中性形である。形容詞が実詞の働きをするところが、私はラテン語の最大の特徴の一つと思っている。すなわち、形容詞の中性形は「抽象名詞」を表わすことである。中性名詞divinumの訳語は、通常「神的なもの」である。あくまでも「もの」であるが、「神的なもの」では長たらしく感じることがあり、この個所のように、より抽象的なものの言い方で「神性」と訳すことがある。


 「神的なもの」と「神性」とは厳密には意味が違ってくるが、大きく捉えてよいなら、使いわけにこだわることはないと思う。これについては、このあとverusでもう一度触れる。私が「神性」の訳語を当てはめているもう一つの言葉がある。


 女性名詞divinitasである。これは厳密には「神的存在の性質」である。divinumが「もの」であるのに対してこちらはより抽象性か高くて「性質」である。それで純粋に「神性」を意味する言葉はこのdivinitasである。


 まとめれば、divinis「神の、神的な」→divinius「神的なもの」→divinitas「神性」。


 それでも「神的な」「神的なもの」と「神性」との境界を厳密に定めるのはむずかしいだろう。


 有名なDivinus Humanusは、直訳すれば「神的なもの、人間的なもの」であるが「神的人間性」と訳しているし、このときDivinusだけを取り出すなら「神性」となる。


 厳密にやりたいのだが、場面に応じて「神的なもの」と「神性」にしている。


* * * * *


 同様のことがverusverumvaritasで言える。やはりそれぞれ形容詞、中性名詞、女性名詞である。すなわち、verus「真の、真実の」→verum「真実であるもの、真理」→veritas「真理」。


 抽象名詞どうしであるverumveritasの違いについて、その境界を厳密に定めるのはむずかしいだろう。かつてスヴェーデンボリがverumveritasをどれくらい意識的に使い分けているか調べたことがあった。veritasを「真理そのもの」「まさに真理」のようない意味で使っており、特に主からの真理にveritasを当てはめていることがわかった。それでこのブログの『信仰について』では、verumを真理、veritasをカギカッコをつけて「真理」と区別した。


 しかし、「神性」の言葉についてそこまでする必要ないと思っている。スヴェーデンボリもこの語については厳密に使い分けているように見えないからである。


 


729(no.106) theatrum(劇場)について


 この「universa natura sit theatrum repraesentativum regni Domini 全自然は主の王国を表象する劇場である」は『天界の秘義』4939番の文である。同書10196番にもまったく同じ文がある(そこではsitest)。これはスヴェーデンボリの持論ともいえる文句のようである。私は「ラテン語を学ぼう―ついでに」で取り上げたことがある。


 「劇場」と訳したtheatrumは、「舞台」の意味、また何かが演じられている「場面」の意味ある。建物ではなくてこの意味が強い。この世は主の劇が演じられる「舞台」「場面」なのである。それでも、その劇を演じる入れ物と見なせば「劇場」とも言える。


 この世とは何だろう? そのとき「劇」と思うのもよいかもしれない。脚本家は主なのか? 役者はそれぞれの皆さん、そしていろいろな「役」を与えられて、人生を演じている。「真の舞台」はこの世なのか、来世なのか、「どちらもあり」という気がしてくる。対応しているのだから。


* * * * *


 話題をやや変える。植物学者牧野富太郎は、「私に日蓮ほどの文才があれば、植物学から宗教を起こすことができただろう」という趣旨のことを語ったと言う。人間の登場しない植物界という「舞台背景」ではあるが、自然を深く観察し、そこに神秘を見いだす時、神の国が投影されていることを感じたのであろう。牧野博士はどのような世界を垣間見たのであろうか(その後、私は同博士の墓のある谷中(やなか)霊園を訪れた)


 


81(no.112) qualis homo talis vita「このような人間に、そのような生活」


 この「qulistalis・・・」の構文に出会ったとき、いかにもラテン語らしいと感じたので、ここに取り上げてみよう。ここのqulis usus tale bonumは『秘義』3049番の言葉である。柳瀬氏はこれを「用があるがままに、善もあるからである」とややラテン語らしく訳している、ここの訳「用のいかんに、善が応じている」よりもよいかもしれない。私には「善が応じている」では日本語とは思えない。なお文法上ではbonumが中性なので、talisも中性形のtaleとなっている。私の訳「そのような役立ち、このような善」はもちろん直訳である。みなさまはどのように意訳されるであろうか?


 羅和辞典にはqualis dominus, talis servusの例が載っており「この主人にして、このしもべあり」と訳してあり。この訳にならえば「この役立ちにして、この善あり」。同じく田中の『引用語辞典』にはいろいろ載っている。qualis pater, talis filiusは「この父にして、この子あり」。


* * * * *


 スヴェーデンボリの用例を取り上げてみよう。これは名文句のような気がする。『秘義』1oo5番にある、この見出しの言葉である。柳瀬氏はあいかわらず「人間の如何にその生命が応じている」と訳しているが、これでは名文句の気がしない。田中にならって訳せば「この人間にして、この人生あり」となるのであろうか。やや名文句の気がしてくる。


 直訳派の私は「このような人間に、そのような生活〔がある〕」でよいとしている。「qtを定める」原則からは、「人間」がその人自身の「生活」を定める。


 意訳すれば「人には人の人生(生活)がある」となるのであろう。


 


86(no.122) 「現在する」のことばについて


 私が時々使う「現在する」のことばについて読者の皆様はどのように思われているであろうか。「現在」という文字ズラを眺めれば「現にいます」と書いてあり、「現在、その場に存在する」という意味が浮かび上がる。そして辞書でも認められている用い方である。


 しかしあまりにも「今の時」を意味する「現在」が広まっていて(私はこの用法が後からできたのではないかと思っている)、このような用い方に初めて出会うと、異様に感じるかもしれない。でもpraesenntiaの訳語としてはぴったりの気がするので、慣れてほしい。


 


816(no.142) ヘブル語の「東・西・南・北」


 天界の言語に似ていると言われるヘブル語で方位を示す言葉は興味深い。簡単に紹介しよう。


:「ミズラー」は「日が昇ること」と「東」の意味がある(ヨシュア記1216章など)。「ケデム」は「前・前方」の意味であり、その変化形「ケデマー」は「東へ」の意味である(創世記128など)。なおギリシア語でも「日の昇ること、夜明け」を意味する「アナトレー」は「東」意味する(マタイ21,2,9)


:南を意味するヘブル語はいくつかあるが、「ヤーミーン」は「右」の意味であり、「南」意味を持つ(サムエル記Ⅰ2319,24節、新改訳聖書の脚注参照)


西:「海」という意味の「ヤーム」があるが(地形的に西は地中海である)、太陽の沈む方を示す「マアラーブ」は「西」として使われる(イザヤ43:5など)


:語源不詳の「ツァーフォーン」が圧倒的に多く使われているが、「左」を意味する「セモール」が「北」の意味で使われることがある。「創世記」14:15「ダマスコの北にある」(新改訳)は『天界の秘義』では「ダマスコの左にある」となっている。


 


820(no.149) 随想:着席場所


 席が定められている場合は別として、どこにでも着席が自由な場合、人はどこに座るであろうか? もちろん目的によってほぼ決まる場合もある、例えば、ゆっくり食事をしようとするなら、客や従業員の通路から離れた、景色のよいところ、といえば窓際となるであろう。音楽会ならよく聞こえるところ、観劇ならよく見えるところなどである。


 私は教員をしていた。教室での着席場所はたいてい自由であった。そのとき勉強熱心な子はほど必ず前の方、中央に座る。熱心でない子の多くは離れた「窓際」。「窓際族」は会社だけの用語ではない。


 会議の席ではどうだろうか? 議長が中央に座り、「着席自由として」、その右側にどのような立場の人が座るか、また議長と正対する側にどのような人が座るか考えたことがあるだろうか? その組織の責任者・執行部の面々が右側に並ぶ、当面する問題を真正面から見据えようとする人、意見を持っている人が正面に来る。意見を持たない人は隅のほうで傍観しようとする。こうしたことは心の内部の状態を反映しているのであろう。普段と違う席に着くと居心地悪い。


 


823(no.156) 「外にあるものは、内にあるにしたがって定まる」こと


 このことは折に触れて感じることである。すなわち、自分の周りの世界は、自分を取り巻く環境は、自分の心の世界の反映、投影であること。少し前に「席」について述べたが、自分の気持ちにぴったりする席に座ると心が落ち着く、自然とその席を選んでいる。すなわち、自分の心を反映した環境を知らず知らずに選んでいる。自分の周りを見渡せば、そこには自分の心を反映した世界がある。これは「人」にも言える。「類は友を呼ぶ」という。自分の心に合った人物に出会う。成長を願っていれば自分の成長に資する人物が現われる。逆に言えば、願っていなければ、出会っても見過ごしている。このことは興味深いので、またの機会に述べたい。


 


824(no.158) 「状態の変化とその理由」


 天界の天使たちのことでなく、自分のこととして考えてみよう。状態が、状況が変わる。定年退職して、このように原典を訳している。自分の状態が変わってきている。これは周囲の状況が変わったのではない、自分がその状況の中へ突き進んで行くのである。いろいろな環境の変化は、「環境」の変化ではなく、「自分」の変化である、と気づくのは重要であろう。もう少し積極的で、月並み言い方をすれば「自分が変われば、回りも変わる」。このようなことを説明する好例が、「太陽と地球の関係」であり、よくわかる。これと逆(回りが変われば自分も変わる)ではあるが「孟母三遷の教え」も思い出す。


 


827(no.167) 「永遠に」と「永遠から」


 「に」と「から」ではどのように違うのか? このような場合、訳語としての日本語だけから考えることは、私にとって非常に「不安」である。原語で「に」や「から」に、どのような語が使われているのか確かめ、貧弱な語学力であっても、そこから考えないと、「考えている気がしない」。


 それぞれ「in」と「ab」である。abは「状態・起源・時間・位置・原因」などからの「~から」である。ここで「永遠から」とは「永遠の状態から」と思えばよい。「in」には多様な意味がある。


 私は、結論的に「神が永遠に存在される」のも「神が永遠から存在される」のも、どちらも「時間」を考えなければ同じことであり、「存在される」状態にあることを示す(in)ことと、その起源・原因を示す(ab)ことの違いと理解している。 

感想:原典講読『天界と地獄』から その3

 

95(no.185) ibi atem in sua arte esseについて


 ut dicas(あなたが言うように)とあるのであまり有名でない「ことわざ」だったのであろうか? 動詞が省略された文なので、どのようにでも解釈できそうである。「そこに術を(対格)」となっているから、略された動詞として「見いだす」が考えられる。すなわち、文を後ろから捕えて「術の存在する中に、そこに術を見いだす」、意を汲んで、ちょっとことわざらしく変えれば「(芸)術のあるところ、そこに(芸)術あり」といったところであろうか。


 このようなことをじっくり考えていると翻訳のペースは落ちる、しかしこれこそ「遅読」の味わい。


 


913 長島訳の本章(23)の題名(見出し)について


 長島訳の本章の表題を見て、びっくりし、あらためて愕然とした。


 私の直訳は「天界の形について、それにしたがってそこに交わりと伝達〔がある〕」、


  長島訳は「第23章 天界の〈かたち〉―その交流と社会形成の規範」である。


 全然違う、どうしてこのような訳となるのであろうか? その章の中の各記事を見れば、私が「伝達」と訳しているcommunicatioを長島氏は「交流」と訳していることがわかる。communicatioは英語のcommunicationであり、「伝達手段、伝達、連絡」の意味である。交際の意味合いをもつ「交流」とは違う、『霊魂と肉体の交流』の著作で名高い「交流」はcommerciumであり、これには「交際、相互作用」という意味がある。


 さて、問題なのは「社会形成の規範」の部分である。表題を原文とまったく異なって訳すなら、その章の内容を長島氏が解釈し、それを要約したものとみるのが普通であろう。しかし、この章の内容はどうか。「天界の形にしたがって、霊的なものであるそれぞれの天使の知性と知恵が、またより一般的には真理と愛が伝達すること」が述べられている。この内容のどこを捉えると「社会形成の規範」となるのか? この題名では誤訳どころではなく、自分の「思い込み」を述べており、とうてい「翻訳」とは言えない。翻訳とは、なにはともあれ著者の言わんとするところを忠実に伝えることであろう。


 


918(no.216) 思い出:柳瀬訳の「ホゼア」について


 静思社に初めて行き(891)、柳瀬師より授洗し(3)、礼拝以外でも足しげく通ううち、校正のお手伝いをするようになった(6月中旬から)。当時翻訳中だった『黙示録講解』第9巻であるその後、第10巻も、さらにその他の品切れになったいくつかの訳書を改版ついでに校正した。


 これは今から19年前のことであり、その際、「校正の仕方」また現代仮名遣いなど「表記の仕方」を独学しながら、校正し、そのことが今でも役立っている。ありがたい機会であった。


 静思社の訳書を読まれた方なら、お気づきと思うが、預言者ホセアが全面的に「ホゼア」となっている。これはミスプリではない。私もホゼアをホセアと直し、その訂正原稿とともに、柳瀬師に「ホゼアはホセアではありませんか?」と質問したことがある。師は「ホゼアというのもあるんだよ」と答えられた。当時は雲の上の存在とも思えた師に、あえて「その根拠は?」とは恐れ多くて質問できなかった。それで、静思社の出版物は「ホゼア」のままである。


 しかし、以来、他の書物で「ホゼア」なる表記に出会っていない。師が何を根拠にこのよう言われたのか、疑問のままである。薄弱ながらもその根拠を推測するに、ドイツ語読みすればHoseaはホゼア、しかしこんなのは無意味。ヘブル語ではホーシェーアである。


 私はここに師の意固地な一面を見る思いがした。


 


921(no.219) 「主の王国は役立ちの王国である」


 これはスヴェーデンボリの思想の根幹の一つであり、天界がどのようなものか理解する鍵でもある。私たちが満足や幸福を感じるのは、何か人のために役立った、と思えるときである。このことはときどきしか感じない。そしてこれが天界の、そしてよく見ればこの世の「原動力」である。


 この世に存在するものには「何かしらの役立ちがある」(逆に言えば、役立たないものは存在できず、消える)。そして、もちろん私たち一人ひとりにそれぞれの役立ちがある。これが生きる原動力。「役立たない」との思いに囚われる時、生きる力を失う。


 「ただ生きているだけだ、何の楽しみも、希望もない」と思うかもしれない、でも、生きて、存在するかぎり、神の節理のもと、何らかの役立ちを果たしている。その摂理が見えないだけ、今はわからないだけである。このことは「いのちを大切にしよう」につながっている。


 


924(no.227) 「主の神的人間性を認めること」


 天地の神、主がどのよう方であるか理解すること、これが天界での教えの本質である、と言われいるる。この地上でもそうだ。結局のところ、「神をどのような方と思うのか」、これのことにすべてが尽くされる、といっても過言でないかもしれない。


 主はご自分の「神性」に「人間性」をまとわれた。その人間性をまとうために、このように来られ、地獄と戦い、十字架刑にあわれた・・・スヴェーデンボリの教えの繰り返しであり、長くなるのでやめよう。


 人間性とは「真の人間であること」である。卑近な例で言えば、悪行に対し、「そんなの、人間のやることじゃない」とか、卑劣な者に向かって「おまえなんか、人間じゃない」と叫ぶときの「人間」である。愛に満ち、わけ隔てなく、心底、人を思いやる人間である。


 


925(no.228) 第26章「天界の天使たちの力について」


 やはり違和感「長島訳」:この章の題名が長島訳で「天界における天使たちの力」となっている。「おける」のことばが付加されているが、原文のどこにもない。「天界における」では、「天界の中で」天使たちが力を発揮することになるが、229番からわかるように「霊界で」力を発揮する。特に悪や虚偽に対してである。天界に悪や虚偽はないので、その力を発揮することもなく、ごく普通に、穏やかに生活していると思う。231番には、力の象徴として「腕」が天界に現われることはある。


 ここからこの見出し「おける」は、余計な付加どころでなく、章の内容と異なる「誤訳」である。


 


930(no.236) この個所は興味深い


 ここには興味深いことが述べられている。


(1) 天界の言語は一つであって学ぶ必要がないこと。「創世記」第11章の「全地は一つのことば(原語は「くちびる」)、一つの話しことばであった」世界である。しかし、互いにことばが通じなくなった(11:7)。この世が多言語に分かれていることにどのような摂理があるのだろうか?


(2) 話し方に2つの要素「音と言葉」があり、そこに情愛と思考が現われていること。この世でも(外国語など)言葉がわからなくても、声色から相手の「感情」は、喜怒哀楽はわかる(もちろん顔つきも見ます)。感のよい人は話し方から相手の心を読み取る。


(3) さまざまな情愛があり、状況に応じてその情愛は入れ替わるが、それらの中に「支配愛」があること。「支配愛」はうまい訳語とは言えないかもしれない。「主調愛」と訳した人がいる。音楽で言えば、曲想はいろいろ変わっても基調となる「ハ長調」「イ短調」などの「調」である。人によって「ハ長調」や「イ短調」などの人がいるのである。


 いろいろな愛がある中で、その人が一番大事だと思う、そのためなら何でもする、いのちすらかける、それがその人の支配愛であって、すべての情愛の上方にこの愛が「支配するかのように」君臨しているのである。この「支配愛」の概念はスヴェーデンボリ思想の特徴の一つである。


 


101(no.237) ヘブル語は印象的


 ヘブル語が天界の天使たちの言語に似ていることは、ここの個所から知っていた。また、スヴェーデンボリが『天界の秘義』の著述を始める前にヘブル語を学んだことも知っていた。私は柳瀬訳『天界の秘義』を読み始めた849月から、ほぼ並行してヘブル語を学び始めた。


 『天界の秘義』二度目の通読の際は(871月~889)「ヘブル語聖書」とともに読み進めた。


 最初は海のものとも山のものとも見分けのつかなかったヘブル語も、よい参考書に恵まれて、読めるようになった。「急がば回れ」を実際に味わった。すなわち、ヘブル語の学習は非常な「回り道」に思える。しかし、内意に迫りたい私にとって避けることのできない道だった。そして、結局これが「近道」だった。ヘブル語を学んだ利点は何と言っても聖書(旧約聖書の部分)が原典で読めることである。原典で読めるほどありがたいものはない(この『天界と地獄』でも原典で読めばこその発見がある)


 それ以外にもよいことはいっぱいある。まるで異なる体系の言語を学んで、「言語とは何か」について思索が深まった。日本語以外には英語しか知らなかったが(他の言語もかじってはいた)同じく学び始めたギリシア語などと比較して「言語の特長」なども理解できるようになった。


 長くなるのでこの辺でやめたい、ヘブル語の印象を二つ紹介しておこう。


(1)まさにこれが聖書の書かれた言語だ! との印象である。そしてこの個所の「ヘブル語に一致するものがあること」を単に「へぇ~、そんなものなのかな」でなく、「そうだ、そのとおりだ」と心からから思えることである。(旧約)聖書の一つ一つの文は短い、複雑な構文はない。しかし、その短い文を、淡々と並べ立て、積み重ねた文章から、圧倒的な迫力を感じる。


(2) 意外と日本語と似ている! 一つ述べればともに「時制」がないことである。英語を学び始めたとき、日本語に時制の概念がないので、その学習に戸惑った人が多いのではなかろうか。


 そしてその学習を通して日本語にも「時制」があると勘違いしてしまっている人もいるのでなかろうか。日本語「あった」とは「完了」である。何かを見つけたとき「あった、あった」と言う。本来なら「ある、ある」と言ってもおかしくない。でも、見つけるという行動が「完了」したので「あった」となる。未来時制もない。「~だろう」は「推量」である。未来のことは不明なので、「推量」する、それで未来時制を訳す時に推量をあてはめている。ヘブル語にも時制はなく、あるのは「完了形」と「未完了形」だけである。時制は文脈からわかる、これは日本語と共通である。


 


108(no.248) 霊による話しかけは舌にまで伝わること


 ここには興味深いことが書かれている。また、スヴェーデンボリ以外のだれかが語っているとも思えない。霊視とともに、「霊に語りけられた」ことはよく聞く話しである。霊から話しかけられることは(その姿が見えないことと)、他人には聞こえない〔ここに書かれている〕ことなどから、それとわかるのであろうが(私には経験がない)、それが空耳でなく内側からのものである証拠として、「舌」をかすかに振動させることである。


 


109(no.249) 霊と話すことは危険であること


 霊能者とは何か、考えたことがあるだろうか? テレビに登場する俗な霊能者である。私は霊視を否定しないし、霊(多くは亡くなった肉親)からの話を取り次ぐ能力を持った人もいるだろうと思う。


 しかし、その霊が肉親の霊であるとどうしてわかるのであろうか? 偽り装う霊はいくらでもいる。肉親を装って、その人間を支配できるなら、その霊にとってこんな好都合な話はないだろう、ひそかに滅びの道へ誘導されるかもしれない。このような番組を制作しているテレビ関係者は、こうした危険についてわかっていないのだろう、だから放送している。


 


1021」 訳語「派遣霊」について


 原語subjectusは「霊界のある共同体からの使者または代表者の霊に与えられた名前」である。スヴェーデンボリ独自の概念と思えるので、訳語も新しいものとしたい。長島氏は「代霊」、柳瀬氏は「被派遣者」(他の箇所では「被術者」ともしている、これは英語のsubjuctをそのまま訳した)としている。


 私は「使者霊」も考えたが、使者にはemissariusがあるので、使者でなく「派遣」とした。うまい訳語が思い浮かんだなら教えてもらいたい。


 


1013(no.257) 霊が普通の人にとりつくことはない、ということか?


 ここに「今日(こんにち)では霊が人間にとりつく(憑依)はない」と書かれているが、それでも、憑依現象は聞くところである(私は多重人格などとされる「宮崎勤」は霊が憑依していたとみる)


 それで、これは一般論であって、特定の条件(霊を呼び寄せる儀式など)のもとで、今日でも起こることと思っている。それでも、普通に生活する人は厳然と主により守られているのであろう。