JSA大会での講師役を終える、雑談をしなくてはならない

 

 脱線だらけ(かつての私の授業そのもの)の講演であり、「時間の制約」もあって、半分しか話せなかったが、何とか終えた。あとは用意した「資料」を読んでいただこう。資料としてはこのほかに、ブログには掲載していないが、『レキシコン』の項目Qの見本も用意した(これについては話せなかった)


 久しぶりの世田谷の東京新教会で、いろいろな人に出会えたのはありがたかった。高橋和夫さんには、原典訳『天界と地獄』出版に向け、「原稿を送りますよ」と約束してしまった。今後1ヶ月ほどの間に、この前に連載し終えた原典講読『天界と地獄』を見直さなければならない。


 「時間の制約」とは、当日、講演の後、「今後のJSA」を話し合う時間を設けたからである。その話し合いでは、会計報告の後、①会費の大部分を占めていた「会報」は止め(原稿を集めるのが大変)、それに伴い、②会費無料、③今後は活動発表・連絡等の大半はインターネットによることなどを決めた。これも時代の流れでしょう。


 帰り道、國枝さんから「経堂にはラーメン屋がいっぱいあり、激戦地なので、うまいラーメン屋があるがある」ということで、みんなと別れ、國枝・大賀・私の三人で経堂駅へ向かう。國枝さん紹介の店で「小麦ラーメンのつけ麺」を食べた。見かけはまるっきり「もりそば」であるが、使用している粉がそば粉でなく、小麦粉。「うまい!」。つい先ごろフランスでうまいパンなど食べてきたが、こっちの方が(やはり日本人だから味覚が合うのでしょうね)上。(また食べるために東京新教会に出席してもよいくらいだ)


 さて、講演の中で、「私は無職である、やりたいことがあり、後悔したくないから、そうしている」などを話した(すでに掲載済みの「資料」参照)。大賀さんから「理想ですよ」とうらやましがられた。また同じく彼から「雑談はしないのですか?」とも言われた。「雑談」とはこのプログ上での雑談である。やはり、雑談を「楽しみにしている人」がいたんですね。それで、この雑談をしている。


 


 では雑談本論:「自分の現在の年齢は“人生を一日”とすれば何時ごろあたるか」を述べてみたい。これはずっと前から思っていたことである。寿命が長くなったので昔50年だった人生を80年としよう。一年で考えれば、春の時期は10代終わりまでの20年、青春期と重なる。夏は2030代の20年、秋は40歳で折り返した60歳まで、ほとんどの人が「定年」となる、また「還暦」である60から80までの20年間が冬となる。これは「起・承・転・決」でもあろう。


 これが一日なら24時間であり、24÷3×1080なので、「自分の年齢に3を掛けて10で割ったもの」が「人生を一日」に換算した時の「時間」である。


 たとえば60歳なら(これは計算しないでもわかるが)60×318018(時)、すなわち夕方の6時である。50歳なら15なので午後の3時である。


 私はそろそろ63なので63×3189すなわち18.9時、夕方7時に近い6時と0.9時間。この0.9時間は十進法なので60進法に直さないと「分」がわからない。「0.9時間は何分か」とは、ちょっとした数学の問題なのか? 910 = x60を解けばよい。x = 9×6 = 54となって、54分。


 すなわち「端数がでたら、それを6倍すればよい」


 これで「人生を80年を一日に換算としたとき、自分の年齢が一日のうちの何時ごろに相当するか」わかった。計算してみるとよい。すると、人生の「残り時間」を実感できる。私は残り5時間ちょっと。 

原典講読『神の愛と知恵』 201

 

(1) 原文


201.  Hic non dicetur de perfectionibus vitae, virium et formarum crescentibus aut decrescentibus secundum gradus latitudinis seu continuos, quia hi gradus in mundo noti sunt; sed de perfectionibus vitae, virium et formarum ascendentibus aut descendentibus secundum gradus altitudinis seu discretos, quia hi gradus in mundo non noti sunt. At quomodo perfectiones secundum hos gradus ascendunt ac descendunt, parum potest cognosci a visibilibus in mundo naturali, sed clare a visibilibus in mundo spirituali. Ex visibilibus in mundo naturali modo detegitur, quod quo interius spectantur, eo mirabiliora occurrant: ut pro exemplo, in oculis, in auribus, in lingua, in musculis, in corde, pulmone, hepate, pancreate, renibus, et in reliquis visceribus; tum in seminibus, fructibus et floribus; et quoque in metallis, mineris et lapidibus. Quod in his et in illis mirabiliora, quo interius spectantur, occurrant, notum est: attamen ex illis parum innotuit, quod illa interius perfectiora sint secundum gradus altitudinis seu discretos; ignorantia horum graduum id celavit. At quia iidem gradus in mundo spirituali perspicue exstant, est enim totus ille mundus, a supremo ad infimum, in illos distincte discretus, ideo exinde potest illorum cognitio hauriri: ex quibus dein concludi potest ad perfectiones virium et formarum, quae in similibus gradibus sunt in mundo naturali.


 


(2) 直訳


Hic non dicetur de perfectionibus vitae, virium et formarum crescentibus aut decrescentibus secundum gradus latitudinis seu continuos, quia hi gradus in mundo noti sunt; これは言われない、増大するまたは減少する、いのち、力、形の完全性について、幅のあるいは連続した段階にしたがって、これらの段階は世の中でよく知られているので。 


sed de perfectionibus vitae, virium et formarum ascendentibus aut descendentibus secundum gradus altitudinis seu discretos, quia hi gradus in mundo non noti sunt. しかし、〔述べよう〕上るまたは下る、いのち、力、形の完全性について、高さのあるいは分離した段階にしたがって、これらの段階は世の中でよく知られていないので。


At quomodo perfectiones secundum hos gradus ascendunt ac descendunt, parum potest cognosci a visibilibus in mundo naturali, sed clare a visibilibus in mundo spirituali. しかし、これらの段階にしたがってどのように完全性が上り、そして下るか、自然界の中の目に見えるものにより知られることはほとんどできない、しかし、霊界の中の目に見えるものによりはっきりと。


Ex visibilibus in mundo naturali modo detegitur, quod quo interius spectantur, eo mirabiliora occurrant: 自然界の中の目に見えるものから単に明らかにされる、内なるもの(内部)が眺められれば眺められるほどますます驚くものが出てくること。


関係文「quoeo・・・」は比較級を伴って「~であればあるほどますます・・・」という意味です。


ut pro exemplo, in oculis, in auribus, in lingua, in musculis, in corde, pulmone, hepate, pancreate, renibus, et in reliquis visceribus; 例えば例として、目の中に、耳の中に、舌の中に、筋肉の中に、心臓の中に、肺、肝臓、膵臓、腎臓、また他の内臓の中に。


tum in seminibus, fructibus et floribus; さらに、種子、果実、また花の中に。


et quoque in metallis, mineris et lapidibus. そしてまた金属、鉱物、石の中に。


Quod in his et in illis mirabiliora, quo interius spectantur, occurrant, notum est: これらの中に、またそれらの中に、驚くものが、内なるもの(内部)が眺められれば眺められるほどますます☆出てくること、がよく知られている。


quoeo・・・の関係文とみなします。それでここにeoが省略されていると思います。


attamen ex illis parum innotuit, quod illa interius perfectiora sint secundum gradus altitudinis seu discretos; それにもかかわらず、それらからほとんどよく知られるようになっていない、それらの内なるもの(内部)の完全性が高さのまたは分離した段階にしたがっていること。


ignorantia horum graduum id celavit. これらの段階〔について〕の無知がそれを隠す。


At quia iidem gradus in mundo spirituali perspicue exstant, est enim totus ille mundus, a supremo ad infimum, in illos distincte discretus, ideo exinde potest illorum cognitio hauriri: しかし、同じ段階が霊界の中にはっきりと現われるので、なぜなら、その世界の全部は、最高のものから最低のものまで、その中に区別して分離して存在するから、それゆえ、このゆえ(この結果から)それらの知識を取り入れられ(吸収される)ことができる。


ex quibus dein concludi potest ad perfectiones virium et formarum, quae in similibus gradibus sunt in mundo naturali. それらからその後(それから)力と形の完全性について結論されることができる、それらは同様の段階の中にある、自然界の中で。


 


(3) 訳文


201. いのち・力・形の完全性について、幅の段階あるいは連続した段階にしたがって増大または減少する、それらの段階は世の中でよく知られているので、述べないでおく。しかし、いのち・力・形の完全性について、高さの段階あるいは分離した段階にしたがって上るまたは下る、それらの段階は世の中でよく知られていないので、述べよう。それでも、これらの段階にしたがって、どのように完全性が上り、下るかは、自然界の中の目に見えるものにより知ることはほとんどできないが、しかし、霊界の中の目に見えるものによりはっきりと知ることができる。自然界の中の目に見えるものからは、内部が眺められれば眺められるほどますます驚くべきものが出てくることだけが明らかにされる。例えば例として、目、耳、舌、筋肉、心臓、肺、肝臓、膵臓、腎臓、他の内臓の中に、さらに、種子、果実、花の中に、そしてまた金属、鉱物、石の中に見られるものである。これらやそれらの中に、内部が眺められれば眺められるほどますます驚くべきものが出てくることがよく知られている。それにもかかわらず、それらから、それらの内部の完全性が高さ段階のまたは分離した段階にしたがっていることは、ほとんどよく知られるようになっていない。それをこれらの段階についての無知が隠している。しかし、同じ段階が霊界の中にはっきりと現われるので、なぜなら、その世界の全部ものは、最高のものから最低のものまで、その中に区別され分離して存在するからであり、それゆえ、このことから、それらの知識を取り入れことができる。それで、それらから、力と形の完全性について、それらは自然界の中で同様の段階の中にある、と結論することができる。


 


(4) いのち・力・形の完全性に段階があること


 いのち・力・形も分離した段階(明確には述べていませんが三段階)がある、と主張しています。どのようなことなのか、まだ見当がつきません。この次の202番でなんとなくわかります。


 私はそれぞれ「目的の~」「原因の~」「結果の~」と理解しています。たとえば「姿」(容姿でもよいでしょう)を考えましょう。「現在ある姿」は「結果の姿」です。それでも「求める姿」、こうありたいと「願う姿」があるでしょう、これが「原因となっている姿」です。「理想の姿」ともいえるでしょう。でも「何のために」その姿を求めるでしょうか? これが目的からの姿です。


 いのちや力も同じです。目的としての力(目的を求める力)、原因の力(原因となる力)、結果として働いている力の三段階です。