本日JSA大会で無事「講演」を終えた、その講演のために用意した資料を以下に紹介する。これまでこのブログ上で語ってきたことと重複するのは許してほしい。
講演では、1時間半も話したのに脱線と雑談で、メインの「レキシコン」の話はあまりできなかった。
参加者には私が教員時代にどのような授業を行なっていたか、だいたい推測がついたかもしれない。
2009年11月22日 JSA大会講演資料 世田谷・赤堤:東京新教会で
原典を読む:スヴェーデンボリのラテン語
鈴木泰之
0. はじめに(謝辞)
(1) 今、私のしていることを振り返る機会。
(2) 原典を読みましょう、という誘い・願いを述べる機会。
すなわち、原典を読む人がひとりでも増えてほしい。このことがスヴェーデンボリを学ぶ者たちのレベルアップにつながり、ひいてはスヴェーデンボリを広めることにつながると思う。
(3) 現在取り組んでいるレキシコン『スヴェーデンボリ・レキシコン』の紹介とその宣伝の機会。
これらの機会が与えられたことに感謝する。
(この講演のきっかけは、去年、京都集会で大賀さんを会ったこと、「どうしていますか?」「出版は中断していますが、続けていますよ・・・」「話してもらおうかと思っています」・・・そこで、普段、原典から翻訳しながら気づいたこと、感じていることなどを話せればよいかな、と気軽に「いいですよ」と引き受けた)
(4) 皆様への話の内容として
私のしてきたこと、今していることを通して、原典とはどんなものか知ること、読んでみようか、という人がでてくること、そして原典を読んでみたい人の少しでも参考になれれば、と願っている。
1 振り返る
2 原典主義
3 ラテン語の習得
4 レキシコンについて
5 スヴェーデンボリのラテン語について
6 質疑応答
1. 振り返って見る(学びの略歴)
現在、62歳、ネット上にほぼ毎日「原典講読」を連載している(サイト「スヴェーデンボリのラテン語」の中のブログで、今は『神の愛と知恵』)。このようなことを最初から目指していたのではない、努力(人から見れば、自分としては好きなこと)し、これまでの積み重ねの上に(不思議なもので何かを終えると、それまで見えなかった次のものが見えてくる、与えられる)、また時代の流れのうちに、導かれるようにしてこうなったのかもしれない。(「時代の流れ」とは、著作の普及もインターネットを媒介とするようになったこと)
(1) 自己紹介とこれまで
聖書を読み始めたのが29歳、遅いと思う。それでも「自分から」読む気になった。「創世記」が新鮮であった(若いころ読んでいたら新鮮さは失われていただろう)。だれもがそうだろうと思うが「レビ記」でつまずく。飛ばして「歴史」に入る。物語なのである程度読めた。詩篇、預言者などつまらず、「福音書」へ。
福音書はさすがにおもしろかった。ただ、文章が微妙に「つながっていない」のが気になった。たとえば、弟子たちの質問に対するイエスの答えがすれ違っているのである(もちろん、後に内意でつながっているとわかった)。これまでにない「不思議な書物である」と、人から言われず、自分で実感した。
「何かこれには意味があるな」とは思っても、それっきりである。聖書の注解書もそうとうに読んだ。しかし、その解説は腑に落ちない。ほんとうの解説とは思えなかった。たとえば「湖の上を歩くイエス」は「ガリラヤ湖は遠浅の部分があってそこを歩いている姿が弟子たちには湖上を歩くように見えた」←こんなのは解説ではない! 何も説明していない。
もやもやしながらも聖書は読み続けた。36歳(83年9月、26年前)でスヴェーデンボリの著作に出会い、37歳から柳瀬訳『天界の秘義』を喜びとともに読み始めた。毎朝2~3時間かけて、1年4ヶ月かかった。このような大作を読了したのは初めてであり、大いなる満足を覚えた。ヘブル語(それとギリシア語)の勉強も始めた。もちろん、聖書を読むためである(40歳で定時制に移り(87年)、以来定年まで定時制、昼の時間は勉強に、それで翻訳物の出版などもできた)。そしてもう一度、3年後にヘブル原典とともに『天界の秘義』を読み始めた。これは1年8ヶ月かかった。37~38歳、40歳~41歳の丸3年間で2回読んだ。その後、英文で48~50歳のとき2年半かけて、すなわち、3回読んだ。もう一度読むときがあるかわからない、その時はもちろん原典で。
(2) 何かを極めたかった(余談)
話はややそれるが、教員になったのもの、夏休みなど自由な時間が多いと思えたからで、決して楽をしたいからではなく、その時間を使って「何かを極めたかった」。とことん納得できるまで、最後はその道の最前線まで、別の言葉で「道を切り開く」ことをしたかった。若いころの「志」とでもいうのか。そして現在、その「極めたいもの」に出会い、これまで関わってこれたことに満足し、感謝している。
2. 原典主義(私の基本姿勢)
(1) 何でも自分で確認しないと気がすまない
原典には、ほんとうはどんなことが書いているのか、他人が言っても、ほんとうにそんなことが書いているのか、自分で原典にあたらないと承知できない。私の性格であり、今の翻訳の姿勢にもつながっている。
(原典を読んでみたいという人もこのように思っている人が多いのではないか。しかし、いろいろな理由であきらめていると思う。そのことについては後述する)
「自分でやる」のが根本なので、語学も独学である。ヘブル語の勉強では苦労した。最初は全然見当がつかなかった。まるで別体系の言語である。でも、かじりついているとだんだんわかってくる。独学は遅く、要領が悪いと思う、しかしその「遅さ」「要領の悪さ」、すなわち、ああでもない、こうでもない、といじりまわしている感じが私にはぴったりだったと思う。そして「言語とは何か」について自分なりの考えが持てた。
一つの視点を紹介しよう。「言語(狭くは文法)とは表現法である」
たとえば「食べる」という動詞。食べろ(命令)、食べたい(願望)、食べている(単純な叙述・描写)、食べるなら、食べなくてならない、食べながら・・・いろいろなニュアンスがあり、ある言語がそのニュアンスに対してどのような表現法(記述法)持っているか、それを体系的に整理したのが「文法」である。そして言語に得意な、特有な、特異である表現がある。その一つが「格変化」。英語と比較して少し話そう。
ラテン語には(古典語のギリシア語も)格変化があり、語順と関係なく、意味が定まる。格変化を失った英語はその「代わり」に語順が重要なものとなる。
一見面倒に思える格変化であるが、(a) 関係が明確となるとともに、(b) 語順で強調などのニュアンスを伝えることができる。(その例を示そう)
文法は重要である、守らなくてはいけない規則だからではなく、思いを伝えるための手段であるから。規則どおりに表現してくれなければ、またその規則どおりに受け取らなければ、「伝わらない」。
文法を無視したら、誤解する。文法が多くて、きちっとしていると窮屈に感じるだろうか? そうではない、意味がはっきりし、特に独習者には逆に学びやすい。余談となるが、(古典)ギリシア語があって「学問」ができあがり、ラテン語があって「法律」が成立した、と言われる。(使う言語が厳密でなければ成り立たない、ということ)
話はややそれたので戻そう。(私の授業は脱線ばかりだった、人生もそうかもしれない)
(2) 原典にまさるものはない
原典を読むのは、人の話しを「直接聞く」のと、「また聞き」の違い。(a) どうしても仲介者を通して「さまざまな雑音」が意図的にも、無意識にも、まぎれ込む。(b) またいわゆる「息吹」を感じない。
私にとって翻訳物は「読んだ」とは言えない。たとえば、源氏物語をいかにすぐれた現代訳で読んでも(参考にはなるが)、源氏物語を読んだと私は言わない(味わったのではなく、かじった)。
この、息吹に触れたい、生の声を聞きたい、というのが、原典を読みたい人の大半の願いであろう。
(3) 原典とは原点、それに向かう
ラテン語のもう一つの特徴(?)は死語(厳密には生きている)であること。死語は「意味が変化しない」。生きている語は語義・語彙が(文法も)変化する、それで常に「最新訳」が必要となってくる、英語版も和訳もしかり。余談ながら、アラビア語はずっと昔から変化していない。口語と文章語があり、この文章語が不変なのである。それで旧約聖書のヘブル語の学者はアラビア語も学んだ。昔のアラビア語はヘブル語の親戚であり、そのアラビア語からヘブル語の意味を推測するためであった。
さて、著作(単に「著作」といえば、私たちの業界ではスヴェーデンボリの神学著作を指す)で、「よくわからない、原典はどうなっているのですか?」という質問はいつでも歓迎する。私自身、この疑問が原典を読む原点であった。そして、原典を読んだらよくわかった、またはわからないまでも、原典にもそう書いてあったのかと納得した。すなわち、「翻訳が悪い」のかもしれない、人のやることだから信用していない。
これも余談。本を読んでよくわからないとき、特にそれが翻訳ものなら、自分を頭の悪さを疑う前に、翻訳が悪いのではないか、と疑うほうが精神衛生上よい。そしてこれはほとんどの場合「正しい」。
出版社で編集する者から聞いた話。ある著者がいた、その人に、「先生、よくわからないので、書き換えてもらえませんか」、「これでわからないのは読む者の頭が悪い」というやりとりがあったとのこと。
すなわち、訳しているとわかっている、またはわかったつもりになる。しかし、読む立場は別。翻訳者ほど読み込んでないので、ある程度かみくだいた訳が必要となる。そのために「寝かす」。しばらくすると他人の立場になって読める、すると「よくわからない」個所が出てくる。そしてそこが誤訳であることも多い。
「ほんとうに原典にはそんなことが書いてあるの?」と確かめるために、私は原典に向かった。ここから、「私の翻訳の方針」も定まり、今も変わらない。なるべく「直訳」する、である。
「原典にはこう書いてある」、そのことを最大限に示すにはこうするしかないと思う。「意訳」は読みやすく、意味も汲める、しかし、そこに翻訳者の主観が入り込みやすい。どちらを取るか。
私は、あくまでも著者の言わんとすることを忠実に伝えたい、それでも私の個性が、良いにしろ、悪いにしろ、にじみ出るだろう。
3. ラテン語の習得(私の学習法)
それでも、ラテン原典にすぐさま取り組めたのではない。原典を読んでみたい、けれどもそこには大きな障害がある。それで「あきらめる」人も多い。
すぐに思い浮かぶ障害として、(a) 原典はどこ? (b) ラテン語で書かれている! (c) 時間
(1) 原典を得る
ロンドン・スヴェーデンボリ協会で出版している。注文して取り寄せなければならに。15年ほど前に集中的に、科学的著書も含めて(絶版を除いて)全部を取り寄せた。今はネット上で公開されている(初版の写真版すらも!)。原典が身近なものとなった。
まずは入手し、本棚に飾って置く。これが肝心な第一歩。その背表紙に誘われるかのように、そのうち読みたくなる。これを「積ん読」という。
またまた余談。「速読法」なるものにまったく興味がない。ものには適した「速度」がある。工事で言えば適正な工期、急いで完成させると、どこかで手抜きをし、後から補修することになって、結局、時間を食う。本も同じ、急いで読んでも、よくわからなくなって、読み返すことになってしまう。読み返さないでなら、わからないままなら、読んだだけむだ。私は『天界の秘義』を読みながら、このことに気づいた。自分がある一定のペースで読んでいることにである。速く読んでもわからない、遅くても論理のつながりが途切れてしまう。自分の思考ペースにあった自分の速度である。
くどいがもう一例を挙げる。本でなくて芸術作品としよう。時間が許せばずっと眺めていたい絵画があったとする。これを「1分で鑑賞する方法」なんて本があったら、そのばかばかしさがわかる。
(2) ラテン語を学ばなければならない
語学は避けて通れない。私は好きだが「苦手」だった。勉強科目では英語がいちばん不得意、それでも大学入試に向けてそれなりの勉強をした。大学入試は悪いものではない。しかし、どうしても「点数を稼ぐ」ための勉強となってしまうのが難点。こんな劣等生だった者が、今では「原典講読」をやっている! 世の中,先の事はわからない。
思考伝達の「手段・道具」として勉強し直した。最初は英語、著作の英訳書を入手し、それを読みたかった(そのころはラテン原典を読むことなど夢想だにしなかった)。その後、聖書をしっかり読むためにヘブル語、ギリシア語。定時制に移った40代前半はこれに没頭した。もうこれ以上「語学」はやりたくなかった。
語学に疲れたのと、ラテン語を勉強するための適切な「教科書・辞書」がなかったからである。
ハードルとして (a) 原典を得る (b) ラテン語を習得する、もあるが、(c) そのための時間がない、これも大きいかもしれない。
(c) 時間がない、について少し語っておく。
実際にそのような人もいて、それであきらめる。しかし、熱意がないことの逃げ口上かもしれない。幸い、私には時間あった、というより、そのようにした。定時制に移ったのは「時間」を求めたのだった。
このことはまた自分自身をある意味「追い込んだ」のでもある。大げさに言えば「背水の陣」。砕けた言い方をすれば、これだけ時間があるんだから、「時間がなかった」とは言わせないよ、と。これは定年退職して、もう職に就こうとしない、今も言えることである。
時間をかけながら「でこぼこの曲がりくねった道」を、道草しながら歩けた。私のしたことが「舗装事業」となって、少しでも歩きやすい道となれば、その後に歩く人の「時間の節約」なるだろう(私自身も先人の恩恵を受けているのだから)。
(3) 語学には「教科書と辞書」
定番である研究社の『羅和辞典』はとっくに手に入れ、使ってみた。そこそこ文法書も読んだ。しかしどうにも「通用しない」。こんなことで原典が読めるようになるとは到底思えなかった。他の方々もここで挫折するのだと思う。原典を読みたいが、どうにもならない、この暗やみの中にしばらくいた。そんななか、二つの光明を得た。すなわち「教科書」と「辞書」。
(a) 理想的だったドールの教科書『スヴェーデンボリのラテン語』
副題が「神学著作を読むために」であり、例文がもちろんスヴェーデンボリの文章。(簡単にいって、日本の今ある教科書はローマ時代の古典ラテン語。スヴェーデンボリ当時のネオラテン語、学術ラテン語とは異なる) そして、文法とは表現法であって、スヴェーデンボリが多用した表現法に重点を置いて説明している。スヴェーデンボリが用いなかった表現法などいくら詳しく説明してあっても何の価値もない。
スヴェーデンボリ独特の表現法を詳しく書いてあるような特化した文法書が、私たちにとって望ましい。この教科書をしっかりと学ぶため、「翻訳」した。
これも余談。ある本をじっくり学ぶための一方法は、それが外国語なら「翻訳する」ことである。本書は「ぶどうの木出版」から2002年に300部刷ったが、いずれ「あおい出版」から再版する予定。
同時に小林標(こずえ)の『独習者のための楽しく学ぶラテン語』(これは私にとって最高、今も手放せない)も学び、これで「文法」はほぼマスターできた。スヴェーデンボリの文章は易しく、読めそうな気がしてきた。
それでも「原典翻訳」には踏み出せない。なぜか? 「辞書」がない。
(b) ここで「原典翻訳」に決定的な要因となったのが、ジョン・チャドウィックの『レキシコン』だった。この辞書に出会って、私にも「原典翻訳」ができる、と思えた。