俗な話をしたくなった:辞書とは権威の象徴

 

 私は俗物である、一見、俗世界を捨てたやはり俗物である。


 若し頃、人は何を望むのか。私は「権威」にあこがれた(権力じゃないよ)。どんな分野でもよい、その世界で一目置かれる存在である。言葉を変えるなら、同じようなことを言っても、「あの人の言うことなら、聞いてみようか」というような存在である。たとえば、「親孝行をしろ」という言葉はだれが言っても「親孝行」。でも、ある人が「親孝行をしろ」と言ったとき、改めて、聞き耳をたてないか。あの人は、「何を、どうとらえて、親孝行をしろ」と言っているのか、聞いてみる気にならないか。それが権威。その人に「裏打ちされた何か」を感じるから、聞く耳を持つのである。


 でも人間は弱い。その「裏づけ」を具体的に知りたい。でもそうすると「裏」でなくなる。


 私はずっと生きてきた、いい加減すぎる人生を送ってきた。これじゃ「権威」もへったくそもない。じゃ、どうするのか、「形」にたよる、すなわち、「辞書」である。


 いつか述べたかもしれない、一流出版社とは何か? 発行部数じゃない、一つの見方が「辞書を出しているか」である。辞書はおいそれとは出せない、すなわち「馬鹿に徹する部分、採算を度外視した部分」がなければ到底できない。そこにあえて踏み込んだ出版社に私は敬意を払う。


 私は辞書を出そうとしている、自画自賛だ。でも、敬意を払うところに権威が生まれる。


 あこがれであった「権威」を今や「辞書出版」を手段として得ようとしている・・・。私はやはり俗物であった。

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