『レキシコン』の項目「S」終了、下訳完成

 

 20日夕に最後の項目「S」が終了した。ページ数74、見出し語1282、用例文3016、成句97であった。こうした数を数えるだけで21日の午前中いっぱいかかってしまった。


 ここで全体像がわかった。体裁はA4版で各頁58行の本文(どんなものかはJSA大会に持参する)、辞書本体が640頁。見出し語12892、用例文24762、成句715であった。


 


 振り返ってみる。20008月から辞書作りに向けて「ワープロ」にポツポツと見出し語や語形変化を入力し始めた。本格的には「パソコン」を入手して、そこへこれまでのワープロに入れていたものを入れ替えてからである。それが2004年の11月から。以来、見出し語、語形変化、用例を入力するのに1年間、用例を4年間を翻訳してここ2000910月に至った。丸五年かけて下訳を終えた。


 今後は「見直し」である、この見直しはすでに行なっている。各項目が完成し次第、アウトプットして、私製「辞書」として使用していた。辞書は「使用しながら」手直しするのが最善と思う。


 すなわち、これからこれを使用し続けて完成させるのであるが、それではいつ終了になるのか、答えエンドレス。適当なところでやめるしかない。今後、約1年間で見直したい。


 


 我ながら「よくやった」と思う。自分への「ご褒美」を用意した。それが「フランス旅行」。フランスといえばパリ、パリといえば凱旋門。その凱旋門に「ただで」のぼってはいけない。凱旋にふさわしい者がのぼるべきだ、と勝手に決めていた。私の場合、この「レキシコン」終了(まだ出版していないが、ここで「山を越えた」と思っている、あとは形をつけるだけ)をもって「人生の凱旋」にしたい。


 それで117日からフランスに行く、その間、このブログは休憩(予告)。「辞書作り」なんて馬鹿のやることである。どこが馬鹿か、まずは莫大な時間がかかって一銭にもならない(私の場合)。辞書はほとんどの場合「あって当然」とされ、感謝されない。皆さん、辞書を引きながら、辞書をつくった人に感謝してますか? しないよね、私もしていないもの。「割が合う、合わない」からして、馬鹿。


 しかし、その馬鹿がいなくちゃ、辞書はできない。俗な話題に進む。私は教員だった、たいていは栄達を望む、すなわち、校長になることである。世間体もよい、学校社会の中では権力もある、もちろん給料もアップ・・・よいこと尽くめ。うぬぼれではないが私には校長になれる素質その他が(いくらでも)あった、目指さないのは(世の評価では)馬鹿者。


 私の価値観は「人のやらないことをやる」。校長になりたい人はいっぱいいるし、校長もいくらでもいる。しかし、辞書をつくってみよう、さらには「つくる人」は50年に一人いるか、いないか、と思う。その一人となれた、まさに凱旋門ものだろう。


 こんな馬鹿者に、「好きなようにやったら」と寛恕してくれた女房への(何もしてやれない私であるが)やはりせめてものご褒美ある。年金生活者である、金はない、でもここでなけなしの金をはたいてでも出さないなら、いつ出すの?


 私は俗物である、「一流」なるものをこの目で見たい、それで、フランス、そしてパリに行く。昔を思い出す、中学3年生のとき模写ではあるが(画集の中でなく)実物大の「モナリザ」を見て、驚いた。「こんな絵があるのか」と。その実物に会う日も近い。 

俗な話をしたくなった:辞書とは権威の象徴

 

 私は俗物である、一見、俗世界を捨てたやはり俗物である。


 若し頃、人は何を望むのか。私は「権威」にあこがれた(権力じゃないよ)。どんな分野でもよい、その世界で一目置かれる存在である。言葉を変えるなら、同じようなことを言っても、「あの人の言うことなら、聞いてみようか」というような存在である。たとえば、「親孝行をしろ」という言葉はだれが言っても「親孝行」。でも、ある人が「親孝行をしろ」と言ったとき、改めて、聞き耳をたてないか。あの人は、「何を、どうとらえて、親孝行をしろ」と言っているのか、聞いてみる気にならないか。それが権威。その人に「裏打ちされた何か」を感じるから、聞く耳を持つのである。


 でも人間は弱い。その「裏づけ」を具体的に知りたい。でもそうすると「裏」でなくなる。


 私はずっと生きてきた、いい加減すぎる人生を送ってきた。これじゃ「権威」もへったくそもない。じゃ、どうするのか、「形」にたよる、すなわち、「辞書」である。


 いつか述べたかもしれない、一流出版社とは何か? 発行部数じゃない、一つの見方が「辞書を出しているか」である。辞書はおいそれとは出せない、すなわち「馬鹿に徹する部分、採算を度外視した部分」がなければ到底できない。そこにあえて踏み込んだ出版社に私は敬意を払う。


 私は辞書を出そうとしている、自画自賛だ。でも、敬意を払うところに権威が生まれる。


 あこがれであった「権威」を今や「辞書出版」を手段として得ようとしている・・・。私はやはり俗物であった。

原典講読『神の愛と知恵』 147, 148

 

(1) 原文


147.  Supra ostensum est quod Deus non sit in spatio, et quod per id sit omnipraesens; tum quod Divinum sit idem ubivis, sed quod apparens varium Ejus sit in angelis et hominibus ex varia receptione. Nunc quia Divinum procedens a Domino ut Sole est in luce et calore, ac lux et calor influunt primum in universalia recipientia, quae in mundo vocantur athmosphaerae, et hae sunt recipientia nubium; constare potest, quod quemadmodum interiora, quae sunt intellectus apud hominem aut angelum, talibus nubibus circumvelata sunt, ita sit receptaculum Divini procedentis. Per nubes intelliguntur nubes spirituales, quae sunt cogitationes, quae si ex veris sunt, concordant cum Divina Sapientia, si autem ex falsis, discordant; quare etiam cogitationes ex veris in mundo spirituali, quando ad visum sistuntur, apparent sicut nubes candidae, et cogitationes ex falsis sicut nubes atrae. Ex his constare potest, quod Divinum procedens sit quidem in omni homine, sed quod ab illo varie obveletur.


 


(2) 直訳


Supra ostensum est quod Deus non sit in spatio, et quod per id sit omnipraesens; 上に示された、神は空間の中にいないこと、またそのことによって遍在すること。


tum quod Divinum sit idem ubivis, sed quod apparens varium Ejus sit in angelis et hominibus ex varia receptione. さらに神性はどこでも同一であること、しかし、その方のいろいろな外観は、いろいろな受容(受け入れ)から天使と人間たちの中にあること。


Nunc quia Divinum procedens a Domino ut Sole est in luce et calore, ac lux et calor influunt primum in universalia recipientia, quae in mundo vocantur athmosphaerae, et hae sunt recipientia nubium; 今や、太陽としての主から発出する神性は光と熱の中にあるので、そして光と熱は最初に普遍的な受け入れるものの中に流入する、それは世の中で大気と呼ばれる、またそれらは雲を受け入れるものである。


constare potest, quod quemadmodum interiora, quae sunt intellectus apud hominem aut angelum, talibus nubibus circumvelata sunt, ita sit receptaculum Divini procedentis. 明らかにすることができる、内的なもののように、それらが人間または天使のもとの理解力である、このような雲によってまわりをおおわれている、このように発出する神性の受け入れるものであること


Per nubes intelliguntur nubes spirituales, quae sunt cogitationes, quae si ex veris sunt, concordant cum Divina Sapientia, si autem ex falsis, discordant; 雲によって霊的な雲が意味される、それは思考である、それがもし真理からであるなら、神的な知恵と調和する、しかしながら、もし虚偽からなら、調和しない。


quare etiam cogitationes ex veris in mundo spirituali, quando ad visum sistuntur, apparent sicut nubes candidae, et cogitationes ex falsis sicut nubes atrae. それゆえまた、霊界の中で真理からの思考は、視覚に見える形で示される時、輝く雲のように見える、また、虚偽からの思考は黒くした雲のように。


Ex his constare potest, quod Divinum procedens sit quidem in omni homine, sed quod ab illo varie obveletur. これらから明らかにすることができる、発出する神性は確かにすべての人間の中にあること、しかし、彼らにより多様におおわれていること。


 


(3) 訳文


147. 神が空間の中におられず、またそのことによって遍在されること、さらに神性はどこでも同一であるが、しかし、その方のいろいろな外観がいろいろな受け入れから天使と人間たちの中にあることは前に示された。それで、太陽としての主から発出する神性は光と熱の中にあるので、光と熱は最初に世で大気と呼ばれる普遍的に受け入れるものの中に流入する。その大気は雲を受け入れるものでもある。人間または天使のもとの理解力である内的なものが、発出する神性を受け入れるとき、このような雲によってまわりをおおわれていることを明らかにすることができる。雲によって霊的な雲が意味され、それは思考であり、それがもし真理からのものであるなら、神的な知恵と調和するが、しかし、もし虚偽からのものなら、調和しない。それゆえまた、霊界の中で、真理からの思考は視覚に見える形で示されるとき輝く雲のように見え、虚偽からの思考は黒い雲のように見える。これらから、発出する神性は確かにすべての人間の中にあるが、しかし、彼らにより多様におおわれていることを明らかにすることができる。


 


(1) 原文


148.  Quoniam ipsum Divinum per calorem et lucem spiritualem in angelo et in homine est praesens, ideo dicitur de illis, qui in veris Divinae Sapientiae et in bonis Divini Amoris sunt, dum afficiuntur illis, et ex affectione cogitant ex illis de illis, quod incalescant Deo, quod fit etiam quandoque ad perceptionem et sensationem, ut dum praedicator ex zelo loquitur. De iisdem etiam dicitur, quod illustrentur a Deo, quia Dominus per Divinum suum procedens non modo accendit voluntatem calore spirituali, sed etiam illustrat intellectum luce spirituali.


 


(2) 直訳


Quoniam ipsum Divinum per calorem et lucem spiritualem in angelo et in homine est praesens, ideo dicitur de illis, qui in veris Divinae Sapientiae et in bonis Divini Amoris sunt, dum afficiuntur illis, et ex affectione cogitant ex illis de illis, quod incalescant Deo, quod fit etiam quandoque ad perceptionem et sensationem, ut dum praedicator ex zelo loquitur. 神性そのものは霊的な熱と光によって天使の中と人間の中に現在するので、それゆえ、それらについて言われる、その者たちは神的な知恵の中と神的な善の中にいる、それらに働きかけられる時、情愛から考えるそれらからそれについて、「神によって熱くなる」こと、時々、知覚と感覚にもまた生ずること、説教者が熱意から語る時のように。


De iisdem etiam dicitur, quod illustrentur a Deo, quia Dominus per Divinum suum procedens non modo accendit voluntatem calore spirituali, sed etiam illustrat intellectum luce spirituali. 同じ者についてもまた言われる、「神から照らされる」こと、主はご自分の発出する神性によって霊的な熱で意志に火をつける(燃え立たせる)だけでなく、しかしまた霊的な光で理解力を照らすので。


 


(3) 訳文


148. 神性そのものは霊的な熱と光によって天使と人間の中に現在するので、それゆえ、それらについて、神的な知恵の中と神的な善の中にいる者が、それらに働きかけられ、それらから、それについて、情愛から考える時、「神によって熱くなっている」と言われる。これは時々、説教者が熱意から語る時のように、知覚と感覚にもまた生ずる。同じ者について、「神から照らされている」こともまた言われる。主は、ご自分の発出する神性によって、霊的な熱で意志を燃え立たせられるだけでなく、霊的な光で理解力もまた照らされるからである。