私のライフワークとして取り組んでいる『レキシコン』もおそらく明日で項目「S」が、すなわち全部の翻訳が終わりそうだ。これまで気が遠くなるような時間を費やしてきた。60歳で定年退職し、その後、定職を持たなかったのは「レキシコン」を完成したかったから。60過ぎたら人生の残り時間などわからない。「あれをやっておけばよかった」と後悔したくない、すると一番やりたいことを先にやるべきだろう、それも人のやっていないことのほうが望ましい。となれば私にとってそれは「レキシコン」であった。
このすばらしい辞書に出会ったことが、その翻訳の原動力である。浅学も顧みず私が「原典翻訳」に踏み出すことができたのは、この辞書があったればこそである。
そのすばらしさの一つが「必要にしてかつ十分な語彙・語義」である。
高校の数学では「必要条件」「十分条件」「必要十分条件」を教える。このようなこと学ぶのが数学であり、他の教科ではなかなか学べない。不幸なことに多くの生徒はこれをちゃんと理解しないまま卒業してしまう。厳密な定義は数学の時間ではないからやめる。次のような理解でよい。
翻訳には語学力が「必要」である。他の要素ももちろん必要であるが、たとえばその一つとして語学力である。このとき翻訳の「必要条件」が語学力である。
また、何かの出費に50万円が見込まれるとする、そのとき100万円用意すれば「十分」であろう。すなわち、その支出に対し100万円は「十分条件」となっている。
50万円の支出に対し40万円では足りない、あと10万円必要である。60万円あれば十分だが10万円は不要である。50万円ぴったりならば、それが「必要十分」となっている。
さて、この予備知識をもとに『レキシコン』に話を戻そう。
スヴェーデンボリの著作を読むための辞書で理想的なものは? まずはスヴェーデンボリの使用した言葉が載ってなくちゃ話にならない。これが必要条件である。載っていればそれでよいかとなれば、ここにも重大問題がある。普通の辞書と異なる意味で使用しているかもしれないのである。
私は最初、研究社の『羅和辞典』で読もうとした。そしたら、全然だめだった(必ずや同じ思いをした人がいると思う)。まずは載っていない言葉がある、そして載っていても「どうも(辞書の語釈とスヴェーデンボリの使用している)意味が違うな」と多々感じた。それで暗礁に乗り上げたままだった。
そこで、「スヴェーデンボリがどのようなつもりで使ったか」まで踏まえた語義の載っている辞書が「必要」となってくる。
さて次に、では何でも掲載してある「大辞典」なら用が足りる、となるであろうか、すなわち十分条件。私はこれを否定する。すなわち、スヴェーデンボリが使用しなかった言葉がいくら載っていても何の足しにもたたない。また、語義も、スヴェーデンボリの念頭にないものはじゃまなだけである。「著作」を読むとき、適切な言葉を見いだすのに時間・労力がかかり過ぎてしまう。
ある言葉の語義は一つではなく、いろいろと派生した意味がある、でもある個人がその全部の意味を用いることはまずない。それでスヴェーデンボリが使用した語義だけ載っていればよい。十分であることはこの場合、決してよいことではない。
この二つの条件を満たしている辞書がチャドウィックの『レキシコン』である。スヴェーデンボリ(の神学著作)を読むためだけに特化した辞書であり、私はこの辞書を近ごろのスヴェーデンボリ研究の金字塔と思っている。この訳書が日本で出版されたとき、日本のスヴェーデンボリ研究の水準が一段階アップすると信じて疑わない。
(付記:このようなことをなぜ述べるのかといえば、JSA大会の講演で『レキシコン』について説明するため、その準備)