私の疑問に対する答え・弘法にも筆の誤り

 昨晩(9月26日)『神の愛と知恵』86番の最後の部分「流入は対応によって行なわれる、連続によって行なわれることはない」で、「連続」とは何かわからないと疑問を述べた。
 本日の聖日礼拝(ジェネラルチャーチ東京グループ)の後の、午後の勉強会で、その指導者松本士郎さんから回答を得た(このように指摘してもらえるのはありがたいことである)。
 スヴェーデンボリ神学に独特なものの一つに「段階gradusの教義」がある。そして二つの段階がある。すなわちgradus continui「連続の段階」とgradus discreti「分離の段階」である(天界と地獄38:2)。
松本さんは、この「連続」のことである、と教えてくれた。
 さて、このことは『本書』184番以降に詳しく述べられている。186番にはgradus discretiは高さの段階(gradus altitudinis)とも呼ばれ、これは流入(influx)によって行なわれる。そしてこれは連続によって(per continuum)行なわれるものとはまったく異なっている・・・とある。松本さんの言うとおりである。
 それでも、私が「わからない」と述べたことは、ある意味「正しい」のである。すなわち、突然、ここに「連続」が出てきても、わからないが当然。スヴェーデンボリは本書の前に『天界と地獄』を出版し、そこで上述のように「連続の段階」について触れている。しかし、すべての読者がそのことを周知しているわけではないし、本の書き方として、他の本に出てくることを前提としてはならず、「参照事項」にとどめるべきである。そしてこの連続については「後述の内容」なので、この86番では「このことについては後述しよう(184番以降)」との一言があればよかった。そうでないと不親切であり、読者はまごつく。
 スヴェーデンボリとしては説明済みのことと思い込み、つい筆がすべったのであろう。ここからわかることは、スヴェーデンボリでも完全無欠な著述をしていないことである。念のため申し添えるが、内容ではなく、その著述の仕方にやや足りないところがあった、ということ。「弘法にも筆の誤り」とはこのことだろうか。

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