原典講読『生活』 112, 113, 114(最終回)

(1) 原文
112. Simile est cum omnis generis furtis et defraudationibus; cum omnis generis homicidiis et vindictis; et cum omnis generis falsis testimoniis et mendaciis: nemo ab illis mundari et purificari potest a se; unicuique enim concupiscentiae insunt infinita, quae homo non videt nisi sicut unum simplex, Dominus autem videt singularissima in omni serie. Verbo, homo non potest semet regenerare, hoc est, novum cor et novum spiritum in se formare, sed solus Dominus, qui est Ipse Reformator et Regenerator: quare si homo ex sua prudentia ac intelligentia vult se novum facere, est modo sicut faciei deformi inducere fucum, ac parti interiori tabe infectae illinere smegma.
(2) 直訳
Simile est cum omnis generis furtis et defraudationibus; 〔前項で姦淫や淫行を例としたが〕すべての種類の盗みや欺瞞(詐欺)も同様である。
cum omnis generis homicidiis et vindictis; すべての種類の殺人(殺害)と復讐も。
et cum omnis generis falsis testimoniis et mendaciis: またすべての種類の偽証と偽りも。
nemo ab illis mundari et purificari potest a se; だれもこれらからきれいにされ、清められることはできない、自分自身から。
unicuique enim concupiscentiae insunt infinita, quae homo non videt nisi sicut unum simplex, Dominus autem videt singularissima in omni serie. なぜなら、強い欲望のそれぞれに無限のものが内在するから、それらを人間は単純な一つのもののようにしか見ない、しかしながら、主は最も個別のもの〔ですら〕すべての系列(連続)〔するもの〕の中で見られる。
Verbo, homo non potest semet regenerare, hoc est, novum cor et novum spiritum in se formare, sed solus Dominus, qui est Ipse Reformator et Regenerator: 一言でいえば(要するに)、人間は自分自身を再生させることはできない、すなわち、新しい心と新しい霊を自分自身の中に形作ること〔はできない〕、しかし、主おひとりが〔できる〕、「改革者」と「再生者」ご自身であられる者。
quare si homo ex sua prudentia ac intelligentia vult se novum facere, est modo sicut faciei deformi inducere fucum, ac parti interiori tabe infectae illinere smegma. それゆえ、もし人間が自分自身の思慮分別と知性から自分自身を新しいものにすることを欲するなら、単に醜い顔に紅(見せかけの外観)を着せること、そして内側が腐敗に感染した部分に洗剤を塗りつけることである。
(3) 訳文
 〔前項で姦淫や淫行を例としたが〕すべての種類の盗みや欺瞞も、すべての種類の殺人と復讐も、またすべての種類の偽証と偽りも同様である。これらから、だれも自分自身により、きれいにされ、清められることはできない。なぜなら、欲望のそれぞれに無限のものが内在すし、それらを人間は単純な一つのもののようにしか見ないるから。しかし、主は最も個々のものですら、連続するすべてのものの中で見られている。一言でいえば、人間は自分自身を再生させることは、すなわち、自分自身の中に新しい心と新しい霊を形作ることはできないが、しかし、「改革者」と「再生者」ご自身であられる主おひとりがおできになる。それゆえ、もし人間が自分自身の思慮と知性から自分自身を新しいものにすることを欲するなら、それはただ醜い顔に紅(べに)を着せ、内部が腐敗した部分に洗剤を塗りつけるだけことである。
(1) 原文
113. Idcirco dicit Dominus apud Matthaeum,
“Pharisaee caece, purga prius interius poculi et patinae, ut fiat etiam exterius mundum” (xxiii. 26):
et apud Esaiam,
“Lavate vos, purificate vos, et removete malitiam operum vestrorum a coram oculis meis, cessate malum facere:….et tunc si fuerint peccata vestra sicut coccinea, sicut nix albescent, si rubra fuerint sicut purpura, sicut lana erunt” (i. 16, 18).
(2) 直訳
Idcirco dicit Dominus apud Matthaeum, それゆえ、主は「マタイ福音書」に言われる、
“Pharisaee caece, purga prius interius poculi et patinae, ut fiat etiam exterius mundum” (xxiii. 26): 「盲目のパリサイ人よ、最初に杯と皿の内側を清めよ、外側もまたきれいになるように」(23:26)。
et apud Esaiam, また「イザヤ書」に、
“Lavate vos, purificate vos, et removete malitiam operum vestrorum a coram oculis meis, cessate malum facere: 「あなたがたを洗え、あたながたを清めよ、わたしの目の前からあなたがたの悪意の働きを取り除け、悪を行なうことを粉砕せよ。
….et tunc si fuerint peccata vestra sicut coccinea, sicut nix albescent, si rubra fuerint sicut purpura, sicut lana erunt” (i. 16, 18). ・・・その時、たとい、あなたがたの罪が緋のようであったにしても、雪のように白くなる、たとい、紫のように赤くあったにしても、羊毛のようになる」(1:16, 18)。
(3) 訳文
 それゆえ、主は「マタイ福音書」で言われている、
 「盲目のパリサイ人よ。まず、杯と皿の内側を清めよ、外側もまたきれいになるように」(23:26)。
 また「イザヤ書」に、
 「あなたがたを洗え、あたながたを清めよ、わたしの目の前からあなたがたの悪意の働きを取り除け、悪を行なうことをやめよ。・・・その時、たとい、あなたがたの罪が緋のようであったにしても、雪のように白くなる。たとい、紫のように赤くあったにしても、羊毛のようになる」(1:16, 18)。
(1) 原文
114. Supradictis adjicientur haec:-
(i.) Quod charitas Christiana sit cuique, ut suam functionem fideliter agat; sic enim, si fugit mala ut peccata, cottidie facit bona, et ipse est suus usus in communi corpore; sic etiam consulitur communi, et unicuique in particulari.
(ii.) Quod reliqua non sint propria charitatis opera; sed vel ejus signa, vel beneficia, vel debita.
(2) 直訳
Supradictis adjicientur haec:- 前述のことにこれらが結びつけられる―
(i.) Quod charitas Christiana sit cuique, ut suam functionem fideliter agat; (1) それぞれの者にキリスト教の仁愛があること、自分の職務を誠実に行なう(果たす)こと。
sic enim, si fugit mala ut peccata, cottidie facit bona, et ipse est suus usus in communi corpore; なぜなら、このように〔して〕、悪を罪として避けるなら、毎日、善を行なう、またその者自身が全体(共通の身体、共同体)の中で自分自身の役立ちである。
sic etiam consulitur communi, et unicuique in particulari. さらにまた、このように〔して〕共通のもの〔善〕が思いやられる(利益が図られる)、またそれぞれのものが特定的に(個別的に)。
(ii.) Quod reliqua non sint propria charitatis opera; (2) 残りのもの(その他のもの)は仁愛の固有の(ほんとうの、本来の)働きではないこと。
sed vel ejus signa, vel beneficia, vel debita. しかし、あるいはそのしるし、あるいは善行(親切)、あるいは義務〔である〕。
(3) 訳文
 前述のことに次のことをつけ加えよう―
 (1) 自分の職務を誠実に果たすそれぞれの者にキリスト教の仁愛があること。なぜなら、このようにして、悪を罪として避けるなら、日々、善を行ない、その者自身が全体の中で自分自身の役立ちとなっており、さらにまた、このようにして共通の善が、また個別的にそれぞれの善がはかられるからである。
 (2) その他のものは仁愛の本来の働きではなく、そのしるしであるか、あるいは親切、あるいは義務である。
     * * * * *
(4) 原典講読『生活について』を終えて
 本書はスヴェーデンボリ神学の特徴を最もよく示している著作の一つではないでしょうか。冒頭の「すべての宗教は生活のものであり、その生活は善を行なうことである」は標語ともいえるものです。
 私にとって、実践的な宗教を意図するこの著作を読むのは、これが三度目です。
 最初は、スヴェーデンボリを知った年の暮れ柳瀬訳を1983年の12月 に(37歳)。
 二回目は、1991年の8月で、これは英訳書とともに読みました(44歳)。
 ここで三度目となった2009年6~8月は、ご覧のとおり、原典からです(62歳)。
 「三」の内意は「はじめから終わりまでの完全」(秘義5708)なので、これで完了でしょう。
 明日からは、これまたスヴェーデンボリ神学の特徴を最もよく示している著作の一つといえる『神の愛と知恵』を始めます。「この世とは何か、この世の根本原理は何か」についての(哲学的)論考です。私自身、この著作をじっくり読んでみたかったので、取り上げます。

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