(1) 原文
91. Communis opinio hodie est, quod salvari sit credere hoc aut illud, quod ecclesia docet; et quod salvari non sit facere praecepta Decalogi, quae sunt “non occidere,” “non adulterari,” “non furari,” “non false testari,” in stricto et in lato sensu; dicitur enim, quod non spectentur opera, sed fides a Deo; cum tamen quantum quis in illis malis est, tantum non fidem habet (videatur supra, n. 42-52). Consule rationem, et perspice, num quis homicida, adulter, fur et falsus testis, quamdiu in concupiscentia illorum est, possit fidem habere; tum etiam, num concupiscentia illorum possit aliter discuti, quam per non velle facere illa quia peccata sunt, hoc est, quia infernalia et diabolica: quare qui opinatur quod salvari sit credere hoc aut illud quod ecclesia docet, et usque talis est, ille non potest non esse stultus, secundum Domini verba apud Matthaeum (cap. vii. 26). Talis ecclesia describitur ita apud Jeremiam,
“Sta in porta domus Jehovae, et proclama ibi verbum hoc:… Sic dixit Jehovah Zebaoth Deus Israelis: Bonas reddite vias vestras, et opera vestra:….ne confidite vobis super verbis mendacii, dicendo, Templum Jehovae, Templum Jehovae, Templum Jehovae, illi. ….Num furando, occidendo, et adulterando et jurando per mendacium,….deinde venietis et stabitis coram Me in domo hac, super qua nominatur nomen meum, et dicetis, Erepti sumus, dum facitis abominationes… illas? num spelunca latronum facta est domus haec….? Etiam Ego. ecce, vidi, dictum Jehovae” (vii. 2-4, 9-11).
(2) 直訳
Communis opinio hodie est, quod salvari sit credere hoc aut illud, quod ecclesia docet; 今日の一般の見解である、救われることはこれをまたはそれを信じることであること、教会の教えること。
et quod salvari non sit facere praecepta Decalogi, quae sunt “non occidere,” “non adulterari,” “non furari,” “non false testari,” in stricto et in lato sensu; そして、救われることは十戒の戒めを行なうことではないこと、それらは「殺すこと〔を行なってはなら〕ない」、「姦淫すること〔を行なってはなら〕ない」、「盗むこと〔を行なってはなら〕ない」、「偽りの証言を〔を行なってはなら〕ない」、である、狭い、また広い意味で。
dicitur enim, quod non spectentur opera, sed fides a Deo; なぜなら、言われているから、神から働きは見られないこと、しかし、信仰〔が見られる〕。
cum tamen quantum quis in illis malis est, tantum non fidem habet (videatur supra, n. 42-52). そのときそれでも、どれだけだれかがこれらの悪の中にいるか〔によって〕、それだけ信仰を持たない(上の42-52番に見られる)。
Consule rationem, et perspice, num quis homicida, adulter, fur et falsus testis, quamdiu in concupiscentia illorum est, possit fidem habere; 理性に諮れ、そして見通せ(把握せよ)、人殺し、姦淫者、盗人、偽証する者のだれが、それらの強い欲望の中にいながらも、信仰を持つことができるかどうか。
tum etiam, num concupiscentia illorum possit aliter discuti, quam per non velle facere illa quia peccata sunt, hoc est, quia infernalia et diabolica: さらにまた、それらの強い欲望が異なって追い散らされることができるか、それらを行なうことを欲しないことによって以外に、罪であるからと、すなわち、地獄のものと悪魔のもの〔である〕からと。
quare qui opinatur quod salvari sit credere hoc aut illud quod ecclesia docet, et usque talis est, ille non potest non esse stultus, secundum Domini verba apud Matthaeum (cap. vii. 26). それゆえ、救われることは教会の教えること〔である〕これをまたはそれを信じることであることという信念を抱く(意見を持つ)者は、またやはりこのよう〔な者〕である、彼は愚かな者でないことができない、主のみことばにしたがって、「マタイ福音書」に(第12章26)。
Talis ecclesia describitur ita apud Jeremiam, このような教会はこのように述べられている、「エレミヤ書」に、
“Sta in porta domus Jehovae, et proclama ibi verbum hoc: 「エホバの家の門の中に立て、そしてそこにこのことばを宣言せよ―
… Sic dixit Jehovah Zebaoth Deus Israelis: ・・・イスラエルの神、万軍のエホバはこのように言われた。
Bonas reddite vias vestras, et opera vestra: あなたがたの道を善へ戻せ☆、またあなたがたの働き(行ない)を。
☆ 「善へ戻せ」はヘブル原典では一つの単語「改めよ」です。
….ne confidite vobis super verbis mendacii, dicendo, Templum Jehovae, Templum Jehovae, Templum Jehovae, illi. ・・・信頼してはならない、あなたがたに、偽りのことばの上に、「エホバの神殿、エホバの神殿、エホバの神殿、あれは」と言う。
….Num furando, occidendo, et adulterando et jurando per mendacium,….deinde venietis et stabitis coram Me in domo hac, super qua nominatur nomen meum, et dicetis, Erepti sumus, dum facitis abominationes… illas? ・・・盗み、殺し、姦淫し、偽りによって誓っていないか・・・その後、あなたがたは、この家の中のわたしの前に来て、立つ、その上にわたしの名前が名づけられている、そしてあなたがたは言う、「私たちは救い出された」、これらの忌まわしいことをあなたがたは行なう時に?
num spelunca latronum facta est domus haec….? 強盗の洞窟とするのか、この家を?
Etiam Ego. ecce, vidi, dictum Jehovae” (vii. 2-4, 9-11). わたしもまた、見よ、わたしは見た、エホバは言われる」(7:2-4, 9-11)。
(3) 訳文
救われることは、教会の教えるあれやこれやを信じることであり、また、救われることは「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、「偽りの証言をするな」という十戒の戒めを狭い意味や広い意味で行なうことではない、というのが今日の一般的な見解である。なぜなら、神により働きは見られないが、信仰が見られる、と言われているから。そのときそれでも、だれかがこれらの悪の中にいるほど、それだけ信仰を持っていないのである(前の42-52番に見られる)。
だれか、人殺し、姦淫者、盗人、偽証する者が、それらの欲望の中にいながらも、信仰を持つことができるかどうか、さらにまた、それらの欲望が、罪であるから、すなわち、地獄のものや悪魔のものであるからと、それらを行なうことを欲しないことによる以外に、追い散らされることができるか、理性にはかり、把握せよ。それゆえ、救われることは、教会の教えるあれやこれやを信じることであるという信念を抱く者は、「マタイ福音書」(第12章26) の主のみことばにあるような愚かな者でしかない。
このような教会は、「エレミヤ書」に次のように述べられている、
「エホバの家の門に立ち、そこでこのことばを宣言せよ―
・・・イスラエルの神、万軍のエホバはこのように言われた。あなたがたの道とあなたがたの行ないを改めよ。・・・あなたがたは、「エホバの神殿、エホバの神殿、エホバの神殿、あれは」と言う偽りのことばを信頼してはならない。・・・盗み、殺し、姦淫し、偽りによって誓っていないか・・・その後、あなたがたは、わたしの名前がつけられているこの家の中のわたしの前に来て、立ち、これらの忌まわしいことをあなたがたが行なう時に、あなたがたは、「私たちは救い出された」言うのか? この家を強盗の巣とするのか? 見よ、わたしもまた見た。
エホバは言われる」(7:2-4, 9-11)。
月: 2009年8月
7月27~29日:ディブ牧師夫妻とともに
どのような箱根旅行だったか、ざっと紹介しよう。Dibb牧師が「宗教施設や歴史」に興味がある、というので、そうしたものがメインとなっている。雑談なので、気楽に読まれたい。
7月27日(月) 朝9時、ホテル・ギンモンドに集合。総勢は牧師夫妻と松本さん、私の4名。私の車(正確には私の女房の車)で出発。「東名」「小田原・厚木」を通って、最初に湯本の「早雲寺」、後北條五代の墓がある。続いて「天山」という温泉。今日はこれがメイン。ゆっくり過ごす。土室のサウナ風呂が変わっている。ここで「山のにぎり」を初めて食べた。鮨であるが、ネタが山のものである。非常に珍しく、またおいしかった。早めに強羅の「早雲荘」。まずは入浴。
夕食後、「カラオケ」、ジェネラルチャーチの聖職者で日本の誇る(?)文化「カラオケ」を経験したのはこのディブ夫妻が初めてであろう。だれにも経験してもらいたい、と思っていたがなかなかその機会がなかった。松本さんうまい。ディブさんへた。私は? いちおう「へた」としておきます。
7月28日(火) 松本さんは早朝5時半ちょっと前の登山鉄道で強羅から下山。出勤である。ごくろうさま。ここからはリタイアした私がたどたどしい英語で案内しながら付き合う。あいにく本日は雨が降ったり止んだりの天気だった。最初に「三河屋旅館」純和風のホテルを見てもらいたかった。「中を見せてほしい」と求めたが、玄関先しか見せてもらえなかった。残念。次、ロープウエイで大涌谷へ。雨天なので「閻魔台」へは行かない。湖尻で、95年にバス主教を迎えて集会をもった「箱根アカデミーハウス」を示す(その時は私が集会の主宰者だった、それからもう14年が経った)。続いて「箱根神社」美しい。「箱根関所」前に来た時よりも拡大されていた。旧街道の名所「甘酒茶屋」へ。カーら夫人は甘酒がおいしかったようである。三種類の「力餅」を食べる。木造かやぶきの風情ある茶店。石畳の道を少しだけ歩いた。「六道地蔵」を見て、最後は「ガラスの森」。2時半に着いたらちょうど「ガラスの楽器」の演奏をした。その後、カンツォーネを聞きながらコーヒー・紅茶(餅も食べたし、あまり腹が減っていないとのことだった)。ゆっくり5時まで見物。カーラ夫人がすぐ「みやげ物」見る、そのたび私たちは「Next time」を連発だった。宿「早雲荘」に戻り、夕食後は翌朝の8時まで完全にフリータイム。前日はカラオケをしたが、まったく何もしない時があったほうがよいだろう、休養できるだろう、と思った。
7月29日(水) 宿を9時半に出発。箱根は昨日で終わり、御殿場経由で「山中湖」へ。山中湖畔が意外と良かった。ここは大学時代に、また教師になってからも合宿できたところ。やはり、いろいろな団体が会堂沿いをランニングしていた。「忍野八海」では古民家へ。私の母の実家もこのような「かやぶき」の大きな家だった。続いて富士吉田の「富士浅間神社」、ここへ来たかったので、帰り道を中央高速経由としたのだった。立派な杉並木と杉の大木。ここは富士山登山の北口の基点である。33回登山記念の碑が「大願成就」としていくつも立っている。八王子インターで降りて、「へぎそば」(6月23日ブログ参照)を食べた後、やや逆コースになるが、貴重な機会なので「天皇稜」を見学。その後、我が家へ。ビールを飲みながら、私の翻訳物など見てもらった。グーテンベルグの「聖書」の複製版を2葉持っていたが、ディブ師にプレゼントできた。非常に喜んでいた。奥様には、美恵子手作りの「布わらじ」をプレゼント、これも喜んでいた。7時過ぎに家を出て、電車で小伝馬町の「ホテル・ギンモンド」へ。
7月30日(木) 朝9時に集合、9時半ごろ岩崎さんの車で成田へ。10時半ごろ到着、そのままお別れ。牧師夫妻は1:30便で韓国ソウルの新教会へ向かう。出発前の空港での自由時間が3時間、これは短くも長くもなく、最適だと思う。残念なのは富士山を一度も見れなかったこと、これはNext time。
23日の到着から30日の出発まで、毎日付き合った。こんなこと、フリーな人間でなければできないと思う。そして観光地などある程度知っていて、また英語もなんとか通じなければならない。すなわち三拍子そろわないといけない。でも、もう一つ! これで私に金(かね)があれば、「鬼に金棒」。
原典講読『生活』 92, 93, 94
(XII.)
QUOD NON ALIQUIS POSSIT FUGERE MALA UT PECCATA,
USQUE UT INTERIUS AVERSETUR ILLA,
NISI PER PUGNAS CONTRA ILLA.
ある者は悪を罪として避けることができないこと、
内的にそれを退けるようにまでも、
もしそれに対する闘争によってでないなら
(1) 原文
92. Quisque ex Verbo et ex doctrina e Verbo novit, quod proprium hominis a nativitate sit malum; et quod inde sit, quod ex innata concupiscentia amet mala et feratur in illa, ut quod velit vindicare, velit defraudare, velit diffamare, et velit adulterari; et si non cogitat quod peccata sint, et propterea resistit illis, ea faciat quoties occasio se praebet, et non fama propter honorem aut lucrum patitur. Accedit, quod homo faciat illa ex jucundo, si non religio ei sit.
(2) 直訳
Quisque ex Verbo et ex doctrina e Verbo novit, quod proprium hominis a nativitate sit malum; だれでもみことばから、またみことばからの教えから知っている、人間のプロプリウム(固有のもの)☆は出生から悪であること。
☆ この語を長島訳は「エゴ」としていますが、エゴは「自我」の同義語で、その意味は確固として定まっていて、それとは別概念であるpropuriumの訳語としてはまったく不適当と思います。「エゴと訳すことは長島さんのエゴでしかありません」(エゴの言葉はこのように使います)。
et quod inde sit, quod ex innata concupiscentia amet mala et feratur in illa, ut quod velit vindicare, velit defraudare, velit diffamare, et velit adulterari; そしてここからであること、生来の強い欲望から悪を愛し、その中に運ばれること、復讐することを欲すること、だますことを欲すること、中傷することを欲すること、そして姦淫することを欲することのように。
et si non cogitat quod peccata sint, et propterea resistit illis, ea faciat quoties occasio se praebet, et non fama propter honorem aut lucrum patitur. そしてもし罪であり、そしてさらにそれに抵抗することを考えないなら、それを機会が提供されるたびごとに行なう、そして名誉または利益のための評判(うわさ)が傷つかない。
Accedit, quod homo faciat illa ex jucundo, si non religio ei sit. 追加の事実は(追加しておく)、人間はそれを楽しみから行なうこと、もし宗教が彼にないなら。
(3) 訳文
みことばから、またみことばからの教えから、だれでも、人間のプロプリウム(固有のもの)は出生から悪であること、そしてここから、生来の欲望から、復讐することを欲し、だますことを欲し、中傷することを欲し、姦淫することを欲するといった悪を愛し、その中に運ばれること、そして、罪であり、さらにまたそれに抵抗しようと考えず、名誉または利益のための評判が傷つかないなら、それを機会が与えられるたびごとに行なうことを知っている。人間は宗教をもたないなら、それを楽しみから行なうこと追加しておく。
(1) 原文
93. Quoniam hoc proprium hominis primam radicem vitae ejus facit, patet qualis homo arbor foret, si non illa radix exstirparetur, et nova radix implantaretur: foret arbor putris, de qua dicitur, quod exscindenda et in ignem conjicienda sit (Matth. iii. 10; cap. vii. 19). Haec radix non removetur, et nova loco ejus inditur, nisi homo spectat mala, quae faciunt radicem, ut damna animae suae, et propterea vult abalienare illa; sed quia sunt proprii ejus, et inde jucunda, non potest id nisi invito, et cum lucta, ita cum pugna.
(2) 直訳
Quoniam hoc proprium hominis primam radicem vitae ejus facit, patet qualis homo arbor foret, si non illa radix exstirparetur, et nova radix implantaretur: この人間のプロプリウムは彼のいのち(生活)の最初の根であるので、人間がどのような木になるか明らかである、もしその根が根こそぎにされ、そして新しい根が植え付けられないなら。
foret arbor putris, de qua dicitur, quod exscindenda et in ignem conjicienda sit (Matth. iii. 10; cap. vii. 19). 腐った木となる、それについて言われている、切り倒されて、火の中に投げ込まれなくてはならないこと(マタイ3:10、第7章19)。
Haec radix non removetur, et nova loco ejus inditur, nisi homo spectat mala, quae faciunt radicem, ut damna animae suae, et propterea vult abalienare illa; この根は遠ざけられない(取り除かれない)こと、そしてそれに代わって新しいものが植え付けられる(与えられる)、もし人間が悪を見ないなら、それは根となっている、自分の霊魂に害として、またさらにそれを取り去ることを欲する。
sed quia sunt proprii ejus, et inde jucunda, non potest id nisi invito, et cum lucta, ita cum pugna. しかし、彼のプロプリウムのものであるので、そしてここから楽しみ〔なので〕、そのことはできない、もし不本意に(いやいやながら)、そしてもがいて、このように(したがって)闘争をもってでないなら。
(3) 訳文
人間のこのプロプリウムは、彼の生活の最初の根であるので、その根が根こそぎにされ、新しい根が植え付けられないなら、人間がどのような木になるか明らかである。腐った木となり、それについては、切り倒されて、火の中に投げ込まれなくてはならと言われている(マタイ3:10、7:19)。もし人間が、その根となっている悪を自分の霊魂に害として見て、さらにまたそれを取り去ることを欲しないなら、この根は取り除かれ、それに代わって新しい根が植え付けられない。しかし、彼のプロプリウムであり、ここから楽しみを得ているので、いやいやながらも、もがいて、したがって闘争ともにでないなら、そのことはできない。
(1) 原文
94. Omnis qui credit quod infernum et caelum sint, et quod caelum sit felicitas aeterna, ac quod infernum sit infelicitas aeterna, et qui credit quod in infernum veniant qui mala faciunt, et in caelum qui bona faciunt, is pugnat; et qui pugnat, ille ex interiori agit, et contra ipsam concupiscentiam, quae facit radicem mali; nam qui pugnat contra aliquid, is non vult illud, et concupiscere est velle. Inde patet, quod radix mali non amoveatur quam per pugnam.
(2) 直訳
Omnis qui credit quod infernum et caelum sint, et quod caelum sit felicitas aeterna, ac quod infernum sit infelicitas aeterna, et qui credit quod in infernum veniant qui mala faciunt, et in caelum qui bona faciunt, is pugnat; 信じる者、すべての者は、天界と地獄が存在すること、また天界は永遠の幸福であること、そして地獄は永遠の不幸であること、そして悪を行なう者は地獄の中にやって来ることを信じる者は、また善を行なう者は天界の中へ、彼は闘う。
et qui pugnat, ille ex interiori agit, et contra ipsam concupiscentiam, quae facit radicem mali; そして闘う者は、彼は内的なものから行動する、そして強い欲望そのものに対して、それは悪の根となっている。
nam qui pugnat contra aliquid, is non vult illud, et concupiscere est velle. なぜなら、何かに対して闘う者は、彼はそれを欲しないから、そして強く欲することは欲すること。
Inde patet, quod radix mali non amoveatur quam per pugnam. ここから明らかである、悪の根は除かれないこと、闘争によって以外に。
(3) 訳文
天界と地獄が存在し、天界は永遠の幸福であり、地獄は永遠の不幸であることを信じ、また悪を行なう者は地獄へ、善を行なう者は天界の中へやって来ることを信じるすべての者は、闘う。そして闘う者は、内的なものから、悪の根となっている欲望そのものに対して、行動する。なぜなら、欲望することは欲することであって、何かに対して闘う者はそれを欲しないから。ここから、闘争による以外に、悪の根は除かれないことが明らかである。
原典講読『生活』 95, 96, 97
(1) 原文
95. Quantum itaque quis pugnat, et sic amovet malum, tantum loco ejus succedit bonum, et ex bono tantum videt malum in facie, et tunc quod infernale sit et horrendum; et quia tale, non modo fugit illud, sed etiam aversatur illud, et tandem abominatur illud.
(2) 直訳
Quantum itaque quis pugnat, et sic amovet malum, tantum loco ejus succedit bonum, et ex bono tantum videt malum in facie, et tunc quod infernale sit et horrendum; そこで、どれだけだれかが闘争するか、またこうして悪を除くか〔によって〕、それだけそのところに(それに代わって)善が続く、そして善からそれだけ悪を顔の中で☆見る、そしてその時、地獄のものであること、恐るべきもの〔であることを見る〕。
☆ もちろん直訳ですfacies「顔、外観」の中で見る、とはどういう意味でしょうか? 英語にlook ~ in the faceで「~をまともに見る」という表現があります。これはラテン語からきたものでしょうか。
et quia tale, non modo fugit illud, sed etiam aversatur illud, et tandem abominatur illud. そしてこのようなものなので、それを避けるだけでなく、しかしまたそれを退ける、そしてついにそれを忌み嫌う。
(3) 訳文
そこで、だれかが闘争し、こうして悪を除くほど、それだけそれに代わって善が続き、そして善から、それだけ悪をまともに、その時、地獄のもの、恐るべきものであることを見る。このようなものなので、それを避けるだけでなく、退け、そしてついにはそれを忌み嫌う。
(1) 原文
96. Homo qui contra mala pugnat, non potest non pugnare sicut a se; nam qui non sicut a se, ille non pugnat, stat sicut automaton nihil videns et nihil agens, et continue cogitat ex malo pro illo, et non contra illud. Sed usque probe sciendum est, quod solus Dominus pugnet in homine contra mala, et quod modo appareat homini sicut ille pugnet ex se, et quod Dominus velit ut ita homini appareat, quoniam absque illa apparentia non existit pugna, ita nec reformatio.
(2) 直訳
Homo qui contra mala pugnat, non potest non pugnare sicut a se; 人間は、悪に対して闘う者は、自分自身からのように闘わないことはできない。
nam qui non sicut a se, ille non pugnat, stat sicut automaton nihil videns et nihil agens, et continue cogitat ex malo pro illo, et non contra illud. なぜなら、自分自身からのようでない者は、彼は闘わないから、何も見ないで、何も行なわないで自動人形のように立って、そして絶えず悪から考える、そのために、そしてそれに反してでなく。
Sed usque probe sciendum est, quod solus Dominus pugnet in homine contra mala, et quod modo appareat homini sicut ille pugnet ex se, et quod Dominus velit ut ita homini appareat, quoniam absque illa apparentia non existit pugna, ita nec reformatio. しかし、それでも、よく知っておくべきである、主おひとりが人間の中で悪に対して闘うこと、そして単に人間に見えること、彼が自分自身から闘うように、そしてこのように人間に見えるように望むこと、その外観なしに闘争は存在しないので、こうして改心もない。
(3) 訳文
悪に対して闘う人間は、自分自身からかのように闘わざるをえない。なぜなら、自分自身からかのようでないなら、その者は闘わず、自動人形のように何も見ず、何もせず立ち、絶えず悪から、悪のために、悪に反することなく考えるから。しかし、それでも、主おひとりが人間の中で悪に対して闘かわれ、人間にはただ自分自身から闘うようにしか見えず、その外観なしに闘争は存在せず、こうして改心もないので、主は人間にこのように見えるようにと望まれていることは、よく知っておくべきである。
(1) 原文
97. Pugna illa non gravis est nisi illis, qui omnia frena concupiscentiis laxaverunt, et ex proposito illis indulserunt; et quoque illis, qui sancta Verbi et ecclesiae in obfirmatione repudiaverunt. At reliquis non gravis est; resistant malis in intentione modo semel in septimana, aut bis in mense, et percipient mutationem.
(2) 直訳
Pugna illa non gravis est nisi illis, qui omnia frena concupiscentiis laxaverunt, et ex proposito illis indulserunt; この闘争は彼ら以外にきびしくない、強い欲望のすべてのくつわ(抑制)をゆるめた者、そしてはっきりとした目的で(故意に)それらにふけった者。
et quoque illis, qui sancta Verbi et ecclesiae in obfirmatione repudiaverunt. そしてまた彼ら〔以外に〕、みことばと教会の聖なるものを頑固さの中で拒んだ者。
At reliquis non gravis est; しかし、残りの者はきびしくない。
resistant malis in intentione modo semel in septimana, aut bis in mense, et percipient mutationem. 意図の中で悪に抵抗する、一週間にただ一度、またはつきに二度、そして変化を知覚する。
(3) 訳文
欲望のすべての抑制をゆるめた者、そして故意にそれらにふけった者以外に、また、みことばと教会の聖なるものを頑固に拒んだ者以外に、この闘争はきびしいものではない。他の者にはきびしくなく、彼らは、一週間にただ一度、または月に二度、意図的に悪に抵抗すれば、変化を知覚する。
原典講読『生活』 98, 99, 100
(1) 原文
98. Vocatur Ecclesia Christiana ecclesia pugnans, et non potest pugnans dici nisi contra diabolum, ita contra quae ab inferno; infernum est diabolus. Tentatio, quam homo ecclesiae subit, est pugna illa.
(2) 直訳
Vocatur Ecclesia Christiana ecclesia pugnans, et non potest pugnans dici nisi contra diabolum, ita contra quae ab inferno; キリスト教会は闘う教会と呼ばれる、そして闘うと呼ばれることはできない、悪魔に対してでないなら、このように(したがって)地獄からのものに対して〔闘わないなら〕。
infernum est diabolus. 地獄は悪魔である。
Tentatio, quam homo ecclesiae subit, est pugna illa. 試練は、それを教会の人間はこうむる(下に行く)、その闘争である。
(3) 訳文
キリスト教会は闘う教会と呼ばれ、悪魔に対し、したがって地獄からのものに対して闘わないなら、闘うと呼ばれることはできない。地獄は悪魔である。教会の人間がこうむる試練は、その闘争である。
(4) 「闘う教会である」こと
教会に入れば、教会に属すれば「救われる」と思っている人が大多数かもしれない。違う。必ずや試練が始まる。闘わなくてはならない。逆に言えば、何らかの闘争が起こらなかったら、ほんとうにキリスト教徒の仲間入りをしたことにならない。そしてその敵とは、外部の敵ではない。古くから自己のうちにある敵である。だれもがこの敵と闘わなくてはならない。そして、勝つとは限らない。私のように。
(1) 原文
99. De pugnis contra mala, quae sunt tentationes, multis in locis in Verbo agitur. Intelliguntur per haec Domini verba:
“Dico vobis, Nisi granum tritici cadens in terram moriatur, ipsum solum manet; si vero moriatur, multum fructum fert” (Joh. xii. {1}24).
Tum per haec:
“Quisquis voluerit post Me venire, abrogato se ipsum, ac tollat crucem suam, et sequatur Me. Quisquis… voluerit animam servare, perdet eam; qui vero perdiderit animam suam propter Me, et propter Evangelium, hic servabit illam” (Marc. viii. 34, 35):
per “crucem” intelligitur tentatio
(ut quoque Matth. x. 38; cap. xvi. 24: Marc. x. 21: Luc. xiv. 27);
per “animam” intelligitur vita proprii hominis
(ut quoque Matth. x. 39; cap. xvi. 25: Luc. ix. 24: et imprimis Joh. xii. 25);
quae etiam est vita “carnis,” quae non prodest quicquam (Joh. vi. 63). De pugnis contra mala, et de victoriis super illa, loquitur Dominus ad omnes ecclesias in Apocalypsi.
Ad Ecclesiam in Epheso: “Qui vincit, dabo ut comedat de arbore vitae, quae est in medio paradisi Dei” (Apoc. ii. 7).
Ad Ecclesiam in Smyrna: “Qui vicerit, non damnum patietur in morte altera” (Apoc. ii. 11).
Ad Ecclesiam in Pergamo: “Qui vincit, illi dabo ut comedat de manna abscondita; et dabo illi calculum album, et super calculo nomen novum scriptum, quod nemo novit nisi qui accipit” (Apoc. ii. 17).
Ad Ecclesiam in Thyatiris: Qui vicerit et servaverit ad finem opera mea, illi dabo potestatem super gentes;… et stellam matutinam” (Apoc. ii. 26, 28).
Ad Ecclesiam in Sardibus: (“{2}Qui vicerit induetur vestimentis albis; et non delebo nomen ejus e libro vitae; et confitebor nomen ejus coram Patre meo et coram angelis Ejus” (Apoc. iii. 5).
Ad Ecclesiam in Philadelphia:) “Qui vicerit, eum faciam columnam in templo Dei mei et scribam super eum nomen Dei, et nomen urbis Dei Novae Hierosolymae, quae descendit e caelo a Deo.., et nomen meum novum” (Apoc. iii. 12).
Ad Ecclesiam in Laodicea: “Qui vicerit, illi dabo ut sedeat Mecum in throno meo” (Apoc. iii. 21).
@1 24 pro “25” @2 Dicta ad Ecclesiam in Sardibus, Apoc. Rev., n. 71, similiter desunt.
(2) 直訳
De pugnis contra mala, quae sunt tentationes, multis in locis in Verbo agitur. 悪に対する闘いについて、それは試練である、みことばの多くの個所で述べられている。
Intelliguntur per haec Domini verba: 主のこれらのことばによって意味される―
“Dico vobis, Nisi granum tritici cadens in terram moriatur, ipsum solum manet; 「わたしはあなたがたに言う。もし小麦の穀粒が地に落ちて、死なないなら、それ自体は単に残る☆。
☆ ギリシア原典の意味は「それは単独で残る」です。
si vero moriatur, multum fructum fert” (Joh. xii. {1}24). しかし、もし死ぬなら、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。
Tum per haec: さらに、これらによって―
“Quisquis voluerit post Me venire, abrogato se ipsum, ac tollat crucem suam, et sequatur Me. 「わたしの後ろにやって来ることを欲するだれでも、自分自身を終わりにしろ〔捨てよ〕、そして自分の十字架を取り、わたしについて来る。
Quisquis… voluerit animam servare, perdet eam; だれでも・・・自分の霊魂を救うことを欲する、それを滅ぼす〔失う〕。
qui vero perdiderit animam suam propter Me, et propter Evangelium, hic servabit illam” (Marc. viii. 34, 35): しかし、わたしのために自分の霊魂を滅ぼした〔失う〕者は、この者はそれを救う」(マルコ8:34,35)。
per “crucem” intelligitur tentatio 「十字架」によって試練が意味される
(ut quoque Matth. x. 38; cap. xvi. 24: Marc. x. 21: Luc. xiv. 27); (マタイ10:38、第16章24、マルコ10:21、ルカ14:27にもまたのように)。
per “animam” intelligitur vita proprii hominis 「霊魂」によって人間のプロプリウムの生活(いのち)が意味される
(ut quoque Matth. x. 39; cap. xvi. 25: Luc. ix. 24: et imprimis Joh. xii. 25); (マタイ10:39、第16章25、ルカ9:24、また特にヨハネ12:25にもまたのように)。
quae etiam est vita “carnis,” quae non prodest quicquam (Joh. vi. 63). それはまた「肉の」生活(いのち)である、それは何かを生じない☆(ヨハネ6:63)。
☆ 「生じない」はギリシア原典は「益がない」です。
De pugnis contra mala, et de victoriis super illa, loquitur Dominus ad omnes ecclesias in Apocalypsi. 悪に対する闘いについて、それとその勝利について、主は『黙示録』の中のすべての教会に語られている。
Ad Ecclesiam in Epheso: “Qui vincit, dabo ut comedat de arbore vitae, quae est in medio paradisi Dei” (Apoc. ii. 7). エペソにある教会に―「勝つ☆1者〔に〕、わたしは、いのちの木から☆2食べることを与える、それは神のパラダイスの真ん中にある」(黙示録2:7)。
☆1 ここと一つ飛ばしてペルガモの教会では、現在形vincitが使われており、他は未来完形vicerit(文意からはこれに統一するのが普通と思う)が使われています。なぜこのように表現を変えているのかわかりません(ギリシア原典に違いはありません)。
☆2 新改訳、協会訳は「木の実から」としていますが、ギリシア原典に「実」のことばはありません。
Ad Ecclesiam in Smyrna: “Qui vicerit, non damnum patietur in morte altera” (Apoc. ii. 11). スミルナにある教会に―「勝つ者〔は〕、損害を第二の死の中で被らない」(黙示録2:11)。
Ad Ecclesiam in Pergamo: “Qui vincit, illi dabo ut comedat de manna abscondita; ペルガモにある教会に―「勝つ者、彼にわたしは隠れたマナから食べることを与える。
et dabo illi calculum album, et super calculo nomen novum scriptum, quod nemo novit nisi qui accipit” (Apoc. ii. 17). また、わたしは彼に白い(小)石を与える、(小)石の上に新しい名前が書かれている、それをだれも知らない、受ける者でないなら」(黙示録2:17)。
Ad Ecclesiam in Thyatiris: Qui vicerit et servaverit ad finem opera mea, illi dabo potestatem super gentes; テアテラにある教会に―「勝ち、最後までわたしのわざに仕える者、彼にわたしは諸国の上に権威を与える。
… et stellam matutinam” (Apoc. ii. 26, 28). ・・・また、わたしは明の明星を〔与える〕」(黙示録2:26,27)。
Ad Ecclesiam in Sardibus: [“{2}Qui vicerit induetur vestimentis albis; サルデスにある教会に―「勝つ者は白い衣を着せられる。
et non delebo nomen ejus e libro vitae; そして、わたしは彼の名前をいのちの書から消さない。
et confitebor nomen ejus coram Patre meo et coram angelis Ejus” (Apoc. iii. 5). そして、わたしは彼の名前をわたしの父の前とその天使たちの前で言明する」(黙示録3:5)。
Ad Ecclesiam in Philadelphia:] “Qui vicerit, eum faciam columnam in templo Dei mei,….et scribam super eum nomen Dei, et nomen urbis Dei Novae Hierosolymae, quae descendit e caelo a Deo.., et nomen meum novum” (Apoc. iii. 12). フィラデルフィヤにある教会に―「勝つ者、彼をわたしはわたしの神の神殿の中の柱とする・・・そして、わたしは彼の上に神の名前を書く、また神の都の名前、新しいエルサレムを、それは神から〔出て〕天から降る・・・、また、わたしの新しい名前を」(黙示録3:12)。
Ad Ecclesiam in Laodicea: “Qui vicerit, illi dabo ut sedeat Mecum in throno meo” (Apoc. iii. 21). ラデオキヤにある教会に―「勝つ者、彼にわたしは、わたしとともに、わたしの座にすわることを与える」(黙示録3:21)。
@1 24 pro “25” 注1 「25」の代わりに24
@2 Dicta ad Ecclesiam in Sardibus, Apoc. Rev., n. 71, similiter desunt. 注2 サルデスにある教会に言われた、『啓示された黙示録』71番、同様に欠けている。〔サルデスにある教会に言われたことは『啓示された黙示録』71番でも同様に欠けているが、ここではそれを補っている〕
(3) 訳文
試練である悪に対する闘いについては、みことばの多くの個所で述べられている。主の次のことばによって意味されている―
「わたしはあなたがたに言う。もし小麦の穀粒が地に落ちて、死なないなら、それは単独で残る。しかし、もし死ぬなら、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。
さらに、これらによって―
「だれでもわたしについて来たいと欲するなら、自分捨て、自分の十字架を取り、わたしについて来いなさい。自分の霊魂を救おうと欲する者はだれでも、それを失う・・・しかし、わたしのために自分の霊魂を失う者は、それを救う」(マルコ8:34,35)。
「十字架」によって試練が意味される(マタイ10:38、16:24、マルコ10:21、ルカ14:27でもまた)。
「霊魂」によって人間のプロプリウムの生活が意味される (マタイ10:39、16:25、ルカ9:24、また特にヨハネ12:25でもまた)。
それはまた何も益のない「肉の」生活である(ヨハネ6:63)。
悪に対する闘いとその勝利について、主は『黙示録』の中のすべての教会に語られている。
エペソにある教会に―「勝つ者に、わたしは、神のパラダイスの真ん中にあるいのちの木から食べることを与える」(黙示録2:7)。
スミルナにある教会に―「勝つ者は、第二の死で損害を被らない」(黙示録2:11)。
ペルガモにある教会に―「勝つ者に、わたしは隠れたマナから食べることを与える。また、わたしは彼に白い石を与える。石の上には、受ける者でないなら、だれも知らない新しい名前が書かれている」(黙示録2:17)。
テアテラにある教会に―「勝ち、最後までわたしのわざに仕える者に、わたしは諸国を支配する権威を与える。・・・また、わたしは明の明星を与える」(黙示録2:26,27)。
サルデスにある教会に―「勝つ者は白い衣を着せられる。そして、わたしは彼の名前をいのちの書から消さない。わたしは彼の名前をわたしの父の前とその天使たちの前で言明する」(黙示録3:5)。
フィラデルフィヤにある教会に―「勝つ者を、わたしはわたしの神の神殿の中の柱とする・・・そして、わたしは彼の上に神の名前を、また神から出て天から降る神の都、新しいエルサレムの名前を、わたしの新しい名前を書く」(黙示録3:12)。
ラデオキヤにある教会に―「勝つ者に、わたしは、わたしとともに、わたしの座に着くことを与える」(黙示録3:21)。
(1) 原文
100. De Pugnis illis, quae sunt Tentationes, in specie actum videatur in Doctrina Novae Hierosolymae, Londini, anno 1758 edita (a n. 187-201): unde et quales sunt (n. 196, 197): quomodo et quando fiunt (n. 198): quid boni efficiunt (n. 199): quod Dominus pugnet pro homine (n. 200): de pugnis seu tentationibus Domini (n. 201).
(2) 直訳
De Pugnis illis, quae sunt Tentationes, in specie actum videatur in Doctrina Novae Hierosolymae, Londini, anno 1758 edita (a n. 187-201): これらの闘争について、それらは試練である、特に扱われている〔のが〕見られる、『新しいエルサレムの教え』の中に、ロンドン、1758年出版(された)(187-201番から)。
unde et quales sunt (n. 196, 197): どこから、またどんなものであるか(196, 197番)。
quomodo et quando fiunt (n. 198): どのように、またいつ起こるか(198番)。
quid boni efficiunt (n. 199): 善の何をひき起すか(199番)☆。
☆ 199番の表題となっているこの個所は「Tentationes quid boni efficiunt.(試練は善の何をひき起すか)」であり、「ひき起す」主語は「試練」です。意訳して「どのような善がもたらされるか」とすることも可能と思います。
quod Dominus pugnet pro homine (n. 200): 主は人間のために闘われること(200番)。
de pugnis seu tentationibus Domini (n. 201). 主の闘争または試練について(201番)。
(3) 訳文
試練であるこれらの闘争について、ロンドンで1758年に出版された『新しいエルサレムの教え』の中で(187-201番から)、特に扱われているので、参照されたい。
〔その闘争が〕どこから、またどんなものであるか(196, 197番)。
どのように、またいつ起こるか(198番)。
どのような善がもたらされるか(199番)。
主は人間のために闘われること(200番)。
主の闘争または試練について(201番)。