丘の中腹にある私の家から見ると、地平線が、大地と大空が出会う直線がよくわかる。その先は何もなく、空だけである。
奇妙にも、その線はいくつかの畑を、いくつかの小さな村も通り過ぎる。そこの村人にとって、やっかいな代物に違いない。世の境界線上で生活するには、十分に用心深くないといけない。いつなんどき落ち込んでしまうかもしれない! 私がやや当惑することは、もっとよく見ようとして丘に登ると、地平線がその位置を変えるように思えることである。
この地方の地図上に地平線はまったく記入されていないが、それでもこの全域の主要な境界線であることは明らかである。事実、地図には地平線を越えて広がる地域が示されている。なんて不合理なんだ! ぜひとも標識を得て、このばかげた地図に地平線を記入したいものだ。
あるとき、この問題を決着するため、私は馬に乗り、地平線へ向かった。しかし、ある理由のために、私は決して地平線に到着しなかった。私が近づくと後退するように見えた。実際にここに世の境界線が位置している、と私自身の目で観察した小さな村に到着したとき、境界線の形跡は何もなかった。境界線はどこにあるのか村人に質問したとき、彼らは笑い、もっと遠くの別の、その先には空しかない地平線を指し示した。それで、私は、世の国境を捜して旅を続けた。しかし、国境はなかった、終点もなかった。ただ新しい景観がいつまでも広がっていた。
そこで、だれもが自分自身の地平線を持っていることを理解するようになった。その地平線は、自分の「共感」を拡大することで、常に拡大できるものである。私たちはみな、私たちの視野の限界がすべての物事の果てであると思ってしまう傾向がある。私たち自身の小さな世界の向こうには何も存在しない(と私たちは信じてしまう)、そして異なる見解を持つ人々と接触するとき、私たちは彼らを、奇人・変人・よそ者、気にする価値はないとして、退ける。私たちの生活の中で、これと似たものの中にとどまる者がいる――島国根性の(狭量で)、自己中心的な、独りよがりで、新しい概念を恐れ、新しい状況に適応できない者である。私たちの生活は、わくわくするような新しい並木道を通り過ぎて行く☆1。しかし、いやだ! ぜひとも標識を得て、固定した線を地図上に引こう。それは私たちの地平線であり、ここを越えたら何もない。
この態度を宗教に当てはめることができる。神を私たちとは違ったふうに考える者はだれでも、「柵を越えている☆2」――地平線を越えている! しかし、彼らの幼児から教育や伝統の立場に私たち自身を置いてみれば、私たちは非常な利点とともに視点を広げることができる。古い地平線はもはや存在せず、私たちがそれに向かって前進するとき、その線は永遠に退く。ここには、私たちの理解力と共感には、事実、国境はない。これに全世界を含めることができる。私たちが世界中を巡る旅をし、出発点に戻るとき、依然として、どんな地平線にも達していない。
さて、私は今や老境に入っている☆3、そして刻々と他の種類の地平線に近づいている――死の国境である。この線は確かなものだ! 私の死の日付は公けに記録され、死亡記事が載り、死は私にとってすべてのものの終わりのしるしとなる。そうなるだろうか? 霊界での真の生活は、この地上の生活とはいろいろな点で違っているだろう、しかし、その移住は非常にすんなりした容易なものであり、おそらく私はそのことが起こったとき、これを正確に知るのは困難であろう。
「地平線」は天界と地の出会うところである。この世の観点からは、地が現実で、天界はまったく空虚なものである。しかし、死後、天界の景観が現実であり、地は空虚である。そのようにあらゆるものが逆転する。しかし私もまた逆転しているだろうし、この逆転は気づかれない! 事実、死は地平線が現実である以上に現実である。それはヴェールのこちら側の人々にとって、単なる視野の限界であり、あらゆる個人にとって異なるものである。私たちが死に向かって近づくとき、それは消え、私たちの霊的な性質が広がり、発展するとき後退し続けるもう一つの地平線を通り過ぎる。そこには長い旅すら含まれない、単に視野の拡大があるだけである。それがすぐに来ますように。
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「注」☆1注の必要はないかもしれません。地平線を求めて馬に乗って出かけた時に通った並木道と話をダブらせています。
☆2「柵を越えている」とは「受け入れられない、仲間じゃない」の意味。
☆3「付記」参照。
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「付記」
スヴェーデンボリ協会の機関誌『聞かれ、見られたもの』2008年夏季号から。(この機関誌名は言うまでもなく『天界と地獄』の副題です)
ブライアン・キングズレイク(Brian Kingslake)とだけあり、その紹介記事がないので、この時点での投稿記事とすれば同師は1907年生まれなので100歳を越える高齢です。
最後に、死を地平線に見立て、その準備(覚悟)が語られていますね。
月: 2009年6月
原典講読『生活』 27, 28, 29
(1) 原文
27. (iii.) Quod si homo scit et sapit multa, et non fugit mala ut peccata, usque non sapiat, est ex simili causa, de qua prius; quod sapiat a se et non a Domino. Prout si sciat doctrinam ecclesiae suae, et omnia ejus ad amussim; si sciat confirmare illa per Verbum et per ratiocinia; si sciat doctrinas omnium ecclesiarum a saeculis, et simul edicta omnium conciliorum; immo si sciat veritates, et quoque videat et intelligat illas, ut si sciat quid fides, quid charitas, quid pietas, quid paenitentia et remissio peccatorum, quid regeneratio, quid Baptismum et Sacra Cena, quid Dominus, et quid redemptio et salvatio; is usque non sapit si non fugit mala ut peccata: sunt enim cognitiones absque vita, quia modo intellectus ejus et non simul voluntatis ejus sunt; et quae talia sunt, tempore pereunt, ex causa, de qua supra (n. 15); post mortem etiam ipse homo ejicit illa, quia cum amore voluntatis ejus non concordant. Sed usque cognitiones maxime necessariae sunt, quia illae docent quomodo homo faciet; et cum facit illas, tunc apud illum vivunt; non prius.
(2) 直訳
(iii.) Quod si homo scit et sapit multa, et non fugit mala ut peccata, usque non sapiat, est ex simili causa, de qua prius; もし人間が多くのことを知り、賢明であり、そして悪を罪として避けないなら、それでも(やはり)賢明ではないこと、〔このことは〕同様の理由からである、それらについて前のもの。
quod sapiat a se et non a Domino. 自分自身から賢明であり、主からでないこと。
Prout si sciat doctrinam ecclesiae suae, et omnia ejus ad amussim; 例えば、もし自分の教会の教えを知っても、またそのすべてを正確に。
si sciat confirmare illa per Verbum et per ratiocinia; もしそれらをみことばによって、また推論によって確信することを知っても。
si sciat doctrinas omnium ecclesiarum a saeculis, et simul edicta omnium conciliorum; もし時代(世紀)から教会のすべての教えを知っても、そしていっしょに教会会議のすべての布告(勅令)。
immo si sciat veritates, et quoque videat et intelligat illas, ut si sciat quid fides, quid charitas, quid pietas, quid paenitentia et remissio peccatorum, quid regeneratio, quid Baptismum et Sacra Cena, quid Dominus, et quid redemptio et salvatio; 実に、もし真理を知っても、そしてまたそれらを見て(認めて)、理解する、例えば、もし信仰とは何か知っても、仁愛とは何か、敬虔とは何か、悔い改めと罪の許しとは何か、再生とは何か、洗礼と聖餐とは何か、主とは何か、そしてあがないと救いとは何か。
is usque non sapit si non fugit mala ut peccata: その者はそれでも、賢明ではない、もし悪を罪として避けないなら。
sunt enim cognitiones absque vita, quia modo intellectus ejus et non simul voluntatis ejus sunt; なぜなら、生活なしの思考であるから、単なる彼の理解力のものであり、同時に彼の意志のものではないので。
et quae talia sunt, tempore pereunt, ex causa, de qua supra (n. 15); そしてそれらはこのようなものである、時が経つにつれて☆滅びる、理由から、それについて上に(15番)。
☆ tempore(直訳:時間で)だけで「時が経つにつれて」という意味です。
post mortem etiam ipse homo ejicit illa, quia cum amore voluntatis ejus non concordant. 死後、〔その〕人間自身もまたそれらを投げ出す(追い払う)、彼の意志の愛に一致しないので。
Sed usque cognitiones maxime necessariae sunt, quia illae docent quomodo homo faciet; しかしそれでも、知識は最も必要である、それらは人間がどのように行なうべきか教えるので。
et cum facit illas, tunc apud illum vivunt; そしてそれらを行なうとき、その時、彼のもとで生きる。
non prius. 〔それ〕以前ではない。
(3) 訳文
(iii.) 人間が多くのことを知り、賢明であり、しかも悪を罪として避けないなら、やはり賢明ではないことは、前のものと同様に、自分自身から賢明であり、主から賢明ではないという理由からである。例えば、自分の教会の教えを、そのすべてを正確に知っても、それらをみことばによって、また推論によって確信することを知っても、数世紀にわたる教会のすべての教えを、それとともに教会会議のすべての布告 知っても、実に、真理を知り、さらにまたそれらを認め、理解しても、例えば、信仰とは何か、仁愛、敬虔、悔い改めと罪の許し、再生、洗礼と聖餐、主、そしてあがないと救いとは何か知っても、それでも、その者は、もし悪を罪として避けないなら、賢明ではない。なぜなら、生活なしの思考であり、単なる理解力のものであって、同時に意志のものではないからである。そしてそれらは、前に述べた(15番)理由から、時が経つにつれて滅びるようなものである。死後、その人間自身もまた、彼の意志の愛に一致しないので、それらを投げ出すのである。しかしそれでも、それらの知識は、人間がどのように行なうべきか教えるので、最も必要なものである。そしてそれらを行なうとき、彼のもとで生きたものとなり、それ以前ではない。
(1) 原文
28. Haec omnia, quae hactenus dicta sunt, Verbum multis in locis docet; ex quibus sequentia modo adducentur. Verbum docet quod nemo possit in bono esse et simul in malo; seu quod idem, quod nemo possit quoad animam in caelo esse et simul in inferno. Docet hoc in his:-
“Nemo potest duobus dominis servire; nam aut unum odio habebit et alterum amabit, aut uni adhaerebit et alterum contemnet: non potestis Deo servire et mammonae” (Matth. vi. 24).
“Quomodo potestis bona loqui, cum mali estis?… ex abundantia cordis os loquitur; bonus homo ex bono thesauro cordis sui emittit bona, et malus homo ex malo thesauro emittit mala” (Matth. xii. 34, 35).
“Arbor… bona non facit fructum malum, neque arbor mala facit fructum bonum: omnis… arbor ex proprio fructu cognoscitur; non enim ex spinis colligunt ficus, neque ex rubo vindemiant uvam” (Luc. vi. 43, 44).
(2) 直訳
Haec omnia, quae hactenus dicta sunt, Verbum multis in locis docet; これらすべてを、それらはこれまで言われたこと、みことばは多くの個所で教えている。
ex quibus sequentia modo adducentur. それらから次のものだけが提示される。
Verbum docet quod nemo possit in bono esse et simul in malo; みことばは教えている、だれも善の中にいると同時に悪の中に〔いること〕ができないこと。
seu quod idem, quod nemo possit quoad animam in caelo esse et simul in inferno. あるいは同じこと〔である〕こと、だれも霊魂に関して天界の中にいると同時に地獄の中に〔いること〕ができないこと。
Docet hoc in his:- このことを教えている、これらの中で――
“Nemo potest duobus dominis servire; 「だれも二人の主人に仕えることはできない。
nam aut unum odio habebit et alterum amabit, aut uni adhaerebit et alterum contemnet: なぜなら、または一方を憎しみを持ち、他方を愛する、または一方に結びつき、他方を侮るから。
non potestis Deo servire et mammonae” (Matth. vi. 24). あなたがたは神とマモン(富)に仕えることはできない」(マタイ6:24)。
“Quomodo potestis bona loqui, cum mali estis?… ex abundantia cordis os loquitur; 「どのようにあなたがたは善いことを話すことができるのか、悪い者であるとき?・・・心の満ちていることから、口で話す。
bonus homo ex bono thesauro cordis sui emittit bona, et malus homo ex malo thesauro emittit mala” (Matth. xii. 34, 35). 善い人間は(自分の)心の善い宝庫から善いものを出す、そして悪い人間は悪い宝庫から悪いものを出す」(マタイ12:34, 35)。
“Arbor… bona non facit fructum malum, neque arbor mala facit fructum bonum: 「善い木は悪い実を結ばない、悪い木も善い実を結ばない。
omnis… arbor ex proprio fructu cognoscitur; すべての木は固有の(それ自体の)実から知られる。
non enim ex spinis colligunt ficus, neque ex rubo vindemiant uvam” (Luc. vi. 43, 44). なぜなら、いばらからいちじくを集めない☆、いばらのやぶ(野バラ)からぶどうを収穫もしない☆から」(ルカ6:43, 44)。
☆ 二つの動詞「集める」「収穫する」を長島訳はどちらも「実らせる」としています。非難したくなくても見過ごすことはできません。みことばなのですから、こんないい加減なことをしてほしくありません。
(3) 訳文
これまで述べられたすべてのことは、みことばの多くの個所で教えられている。それらから次のものだけを提示する。みことばには、だれも善の中にいると同時に悪の中にいることができないこと、あるいは同じことであるが、だれも霊魂に関して天界の中にいると同時に地獄の中にいることができないことが教えられている。このことが次のものの中で教えられている―
「だれも二人の主人に仕えることはできない。なぜなら、一方に憎しみを抱き、他方を愛する、または一方に結びつき、他方を侮るから。あなたがたは神とマモン(富)に仕えることはできない」(マタイ6:24)。
「悪い者であるのに、どのようにしてあなたがたは善いことを話すことができるのか? ・・・心に満ちるものから、口で話す。善い人間は心の善い宝庫から善いものを出す、そして悪い人間は悪い宝庫から悪いものを出す」(マタイ12:34, 35)。
「善い木は悪い実を結ばない、悪い木も善い実を結ばない。すべての木はそれ自体の実から知られる。なぜなら、いばらからいちじくを集めないし、いばらのやぶからぶどうを収穫もしないから」(ルカ6:43, 44)。
(1) 原文
29. Verbum docet, quod nemo possit bonum facere a se, sed a Domino. Dixit Jesus,
“Ego sum Vitis…, et Pater meus Vinitor: omnem palmitem in Me non ferentem fructum, tollit illum: omnem autem fructum ferentem, putabit illum, ut plus fructus ferat. Manete in Me, etiam Ego in vobis: quemadmodum palmes non potest ferre fructum a se ipso, nisi manserit in vite, ita neque vos, nisi in Me manseritis. Ego sum Vitis, vos palmites; qui manet in Me, et Ego in illo, hic fert fructum multum; quia sine Me, non potestis facere quicquam. Nisi quis manserit in Me, ejectus est foras sicut palmes, et arefactus est, et colligunt illum, et in ignem conjiciunt, et comburitur” (Joh. xv. 1-6).
(2) 直訳
Verbum docet, quod nemo possit bonum facere a se, sed a Domino. みことばは教えている、だれも自分自身から善を行なうことができないこと、しかし、主から。
Dixit Jesus, イエスは言われた、
“Ego sum Vitis…, et Pater meus Vinitor: 「わたしは・・・ぶどうの木であり、わたしの父はぶどう園の働き人〔である〕。
omnem palmitem in Me non ferentem fructum, tollit illum: わたしの中で実を結ばないすべての枝を、それを取り除く。
omnem autem fructum ferentem, putabit illum, ut plus fructus ferat. しかしながら、実を結ぶすべてのものを、それを剪定する、もっと多くの実を結ぶように。
Manete in Me, etiam Ego in vobis: わたしにとどまれ、私もまたあなたがたの中にどどまる。
quemadmodum palmes non potest ferre fructum a se ipso, nisi manserit in vite, ita neque vos, nisi in Me manseritis. 枝がそれ自体から実を結ぶことができないように、ぶどうの木にとどまらないなら、このようにあなたがたも〔実を結ば〕ない、あなたがたがわたしにとどまらないなら。
Ego sum Vitis, vos palmites; わたしはぶどうの木であり、あなたがたは枝〔である〕。
qui manet in Me, et Ego in illo, hic fert fructum multum; わたしにとどまる者は、わたしもその人の中に〔とどまる〕、この者は多くの実を結ぶ。
quia sine Me, non potestis facere quicquam. わたしなしで、あなたがたは何もすることができないからである。
Nisi quis manserit in Me, ejectus est foras sicut palmes, et arefactus est, et colligunt illum, et in ignem conjiciunt, et comburitur” (Joh. xv. 1-6). だれかがわたしにとどまらないなら、枝のように外へ投げ出される、そして枯れる、そしてそれを集める、そして火の中へ投げ入れる、そして焼かれる(火で滅ぼされる)」(ヨハネ15:1-6)。
(3) 訳文
みことばには、だれも自分自身からは善を行なうことができず、主からであることが教えられている。イエスは言われた、
「わたしは・・・ぶどうの木であり、わたしの父はぶどう園の働き人である。わたしの中で実を結ばないすべての枝を、彼はそれを取り除く。しかし、実を結ぶすべて〔の枝〕を、もっと多くの実を結ぶように、それを剪定する。わたしにとどまれ、私もまたあなたがたの中にどどまる。ぶどうの木にとどまらないなら、枝がそれ自体から実を結ぶことができないように、あなたがたがわたしにとどまらないなら、あなたがたもそのようである。わたしはぶどうの木であり、あなたがたは枝である。わたしにとどまる者は、わたしもその人の中にとどまり、この者は多くの実を結ぶ。わたしなしに、あなたがたは何もすることができないからである。だれかがわたしにとどまらないなら、枝のように外へ投げ出され、枯れ、それを集め、火の中へ投げ入れ、そして焼かれる」(ヨハネ15:1-6)。