(1) 原文
23. Ex his sunt tria haec consequentia:
(i.) Quod si homo bona vult et facit, antequam fugit mala ut peccata, bona non sint bona.
(ii.) Quod si homo pia cogitat et loquitur, et non fugit mala ut peccata, pia non sint pia.
(iii.) Quod si homo scit et sapit multa, et non fugit mala ut peccata, usque non sapiat.
(2) 直訳
Ex his sunt tria haec consequentia: これらから、三つのこれらの帰結がある―
(i.) Quod si homo bona vult et facit, antequam fugit mala ut peccata, bona non sint bona. (i.) もし人間が善を意志し、行なうなら、悪を罪として避ける前に、善は善ではないこと。
(ii.) Quod si homo pia cogitat et loquitur, et non fugit mala ut peccata, pia non sint pia. (ii.) もし人間が敬虔なことを考え、話し、そして悪を罪として避けないなら、敬虔なことは敬虔なことではないこと。
(iii.) Quod si homo scit et sapit multa, et non fugit mala ut peccata, usque non sapiat. (iii.) もし人間が多くのことを知り、賢明であり、そして悪を罪として避けないなら、それでも(やはり)賢明ではないこと。
(3) 訳文
これらから、次の三つのことが帰結される―
(i.) 悪を罪として避ける前に、人間が善を意志し、行なうにしても、その善は善ではないこと。
(ii.) 人間が敬虔なことを考え、話し、しかも悪を罪として避けないなら、その敬虔なことは敬虔なことではないこと。
(iii.) 人間が多くのことを知り、賢明であり、しかも悪を罪として避けないなら、やはり賢明ではないこと。
(1) 原文
24. (i.) Quod si homo bona vult et facit, antequam fugit mala ut peccata, bona non sint bona, est quia non prius est in Domino, ut supra dictum est: prout si det pauperibus, opem ferat egenis, impendat templis et hospitalitiis, benefaciat ecclesiae, patriae et concivibus, doceat Evangelium et convertat, agat justitiam in judiciis, sinceritatem in negotiis, et rectitudinem in operis; et tamen mala ut peccata nihili facit, sicut fraudes, adulteria, odia, blasphemias, et similia alia; tunc non aliter potest facere bona, quam quae intus mala sunt; facit enim illa ex se, et non ex Domino; ita est ipse in illis, et non Dominus; et bona, in quibus ipse homo est, sunt omnia conspurcata malis ejus, et spectant ipsum et mundum. Attamen eadem illa facta, quae supra recensita sunt, interius bona sunt, si homo fugit mala ut peccata prout fraudes, adulteria, odia, blasphemias, et similia alia: facit enim illa a Domino, et vocantur “in Deo facta” (Joh. iii. 19-21).
(2) 直訳
(i.) Quod si homo bona vult et facit, antequam fugit mala ut peccata, bona non sint bona, est quia non prius est in Domino, ut supra dictum est: (i.) もし人間が善を意志し、行なうなら、悪を罪として避ける前に、善は善ではないこと、〔このことは〕前もって主の中にいないからである、上に言われたように。
prout si det pauperibus, opem ferat egenis, impendat templis et hospitalitiis, benefaciat ecclesiae, patriae et concivibus, doceat Evangelium et convertat, agat justitiam in judiciis, sinceritatem in negotiis, et rectitudinem in operis; 例えば、もし貧しい者に与える、乏しい者に助けを行なう、礼拝所(教会)や収容所にささげる、教会、祖国と(同胞)市民に善を行なう(よくしてやる)、福音を教え、回心させる、裁判で公正を、取り引きで誠実を、働き(仕事)で正直を行なう。
et tamen mala ut peccata nihili facit, sicut fraudes, adulteria, odia, blasphemias, et similia alia; そしてそれでも、罪として悪を何ものでもないとするなら、欺瞞、姦淫、憎悪、冒涜、そして似た他のもののような。
tunc non aliter potest facere bona, quam quae intus mala sunt; その時、異なって善を行なうことはできない、内部で悪であるもの以外に。
facit enim illa ex se, et non ex Domino; なぜなら、それらを自分自身から行なうから、そして主からでない。
ita est ipse in illis, et non Dominus; このように(したがって)それらの中に自分自身がいる、そして主がいない。
et bona, in quibus ipse homo est, sunt omnia conspurcata malis ejus, et spectant ipsum et mundum. そして善は、その中に人間自身がいる、すべては彼の悪で汚されている、そして自分自身と世を眺めている。
Attamen eadem illa facta, quae supra recensita sunt, interius bona sunt, si homo fugit mala ut peccata prout fraudes, adulteria, odia, blasphemias, et similia alia: しかしながら、それらの同じ行為が、それらは上に列挙された、内的に善である、もし人間が罪として悪を避けるなら、例えば、欺瞞、姦淫、憎悪、冒涜、そして似た他のもの〔のような〕。
facit enim illa a Domino, et vocantur “in Deo facta” (Joh. iii. 19-21). なぜなら、主からそれらを行ない、そして「神の中で行なわれた」(ヨハネ3:19-21)と呼ばれるから。
(3) 訳文
(i.) 悪を罪として避ける前に、人間が善を意志し、行なうにしても、その善は善ではないことは、前に述べたように、前もって主の中にいないからである。例えば、貧しい者に与え、乏しい者に助けを行ない、礼拝所や収容所にささげ物をし、教会や祖国や市民に善を行ない、福音を教え、回心させ、裁判では公正に、取り引きでは誠実に、仕事では正直に行なっても、それでも、欺瞞、姦淫、憎悪、冒涜、また似たような他の悪を、罪として何ものでもないとするなら、その時、内部では悪である善しか行なうことができない。なぜなら、それらを自分自身から行ない、主から行なうのではなく、したがって、それらの中に自分自身がいて、主はいないから。そして人間自身がその中にいる善は、すべて彼の悪で汚されていて、自分自身と世を眺めている。しかし、前に列挙されているその同じ行為が、欺瞞、姦淫、憎悪、冒涜、また似たような他の悪を、もし人間が罪として避けるなら、内的に善である。なぜなら、主からそれらを行ない、それらは「神の中で行なわれた」(ヨハネ3:19-21)と言われるから。
(1) 原文
25. (ii.) Quod si homo pia cogitat et loquitur, et non fugit mala ut peccata, pia non sint pia, est quia non est in Domino. Ut si frequentat templa, devote auscultat praedicationes, legit Verbum et pietatis libros, obit sacramentum Cenae, cottidie fundit preces; immo si multum cogitat de Deo, et de salute, et tamen mala, quae sunt peccata, nihili facit, (ut fraudes, adulteria, odia, blasphemias, et similia alia,) tunc non potest aliter cogitare et loqui pia, quam quae intus non pia sunt, nam ipse homo cum malis suis est in illis. Haec quidem tunc nescit, sed tamen inibi sunt, et coram illo latent; est enim sicut fons, cujus aqua est impura ex vena. Exercitia pietatis ejus vel sunt modo solennia ex habitu, vel sunt meritoria, vel sunt hypocritica: ascendunt quidem versus caelum, sed reflectunt se in via et decidunt, sicut fumi in aere.
(2) 直訳
(ii.) Quod si homo pia cogitat et loquitur, et non fugit mala ut peccata, pia non sint pia, est quia non est in Domino. もし人間が敬虔なことを考え、話し、そして悪を罪として避けないなら、敬虔なことは敬虔なことではないこと、〔このことは〕主の中にいないからである。
Ut si frequentat templa, devote auscultat praedicationes, legit Verbum et pietatis libros, obit sacramentum Cenae, cottidie fundit preces; 例えば、もし礼拝所(教会)をしばしば訪れる、信心深く説教を聞く、みことばや信心書を読む、聖餐の典礼に臨む、毎日、祈りを(長々と)唱える。
immo si multum cogitat de Deo, et de salute, et tamen mala, quae sunt peccata, nihili facit, (ut fraudes, adulteria, odia, blasphemias, et similia alia,) tunc non potest aliter cogitare et loqui pia, quam quae intus non pia sunt, nam ipse homo cum malis suis est in illis. 実に、もし神について、また救いについて、多くのことを考えるなら、そしてそれでも悪を、それは罪である、何ものでもないとする、(例えば、欺瞞、姦淫、憎悪、冒涜、そして似た他のもの)その時、異なって敬虔なことを考え、話すことはできない、内部で敬虔でないもの以外の、なぜなら、人間自身が自分の悪とともにそれらの中にいるから。
Haec quidem tunc nescit, sed tamen inibi sunt, et coram illo latent; 確かに、これらの者はその時、知らない、しかしそれでもその中に(内部に)ある、そして彼の前に隠れている。
est enim sicut fons, cujus aqua est impura ex vena. なぜなら、泉のようであるから、その水は出口から不潔である。
Exercitia pietatis ejus vel sunt modo solennia ex habitu, vel sunt meritoria, vel sunt hypocritica: 彼の敬虔の実践は、あるいは習慣からの単なる儀式(いつものこと)である、あるいは功績である、あるいは偽善である。
ascendunt quidem versus caelum, sed reflectunt se in via et decidunt, sicut fumi in aere. 確かに、天界に向かって上る、しかし、途中で自分の向きを変えて☆下る、大気中の煙のように。
☆ reflectoは第一義が「向きを変える」です。ここから(光など)「反射する」する意味が生じ、心の中で反射させるとき「熟考する、考慮する」の意味もあり、「反省する」もありえます。それでもここの長島訳「自分を反省し・・・」は「反省」の意味からして、非常に奇妙です。
(3) 訳文
(ii.) 人間が敬虔なことを考え、話し、しかも悪を罪として避けないなら、その敬虔なことは敬虔なことではないことは、主の中にいないからである。例えば、礼拝所をしばしば訪れ、信心深く説教を聞き、みことばや信心書を読み、聖餐の典礼に臨み、毎日、祈りを唱え、実に、神について、また救いについて、多くのことを考えるにしても、それでも罪である悪を(例えば、欺瞞、姦淫、憎悪、冒涜、また似たような他のもの)何ものでもないとするなら、その時、内部では敬虔でないような敬虔なことしか考え、話すことはできない。なぜなら、人間自身が自分の悪とともにそれらの中にいるから。確かに、その時、それらの者は知らないが、しかしそれでもその敬虔なことの内部にあり、彼の前では隠れている。なぜなら、水が出口から不潔である泉のようなものであるから。彼の実践する敬虔さは、は習慣からの単なる儀式、あるいは功績、あるいは偽善である。確かに、天界に向かって上る、しかし、大気中の煙のように、途中で向きを変えて、下ってしまう。
(1) 原文
26. Datum est videre et audire multos post mortem, qui enumeraverunt bona sua opera, et pietatis exercitia, quae nunc supra (n. 24, 25) memorata sunt, et plura adhuc. Inter illos etiam vidi quosdam habere lampades et non oleum. At inquisitum est num fugerint mala ut peccata, ac inventi, quod non; quare illis dictum est, quod mali sint. Visi etiam postea intrare cavernas, ubi similes mali erant.
(2) 直訳
Datum est videre et audire multos post mortem, qui enumeraverunt bona sua opera, et pietatis exercitia, quae nunc supra (n. 24, 25) memorata sunt, et plura adhuc. 死後の多くの者らを見ることと聞くことが与えられた、その者らは、自分の善の働き、それと敬虔なことの実践を列挙した、それらは今や上に(24,25番)記されている、そして(その上)さらに多くのもの。
Inter illos etiam vidi quosdam habere lampades et non oleum. さらにまた彼らの間にある者を私は見た、明かりを持っている、そして油のない。
At inquisitum est num fugerint mala ut peccata, ac inventi, quod non; しかし、質問された、悪を罪として避けたかどうか、そして見られた、ないこと。
quare illis dictum est, quod mali sint. それゆえ、彼らに言われた、悪い者であること。
Visi etiam postea intrare cavernas, ubi similes mali erant. さらにまた私は見た、その後、ほら穴に入ること、そこに似た(性質の)悪い者がいた。
(3) 訳文
死後に自分の善の働きと敬虔なことの実践を数え上げた多くの者らを見、聞くことが与えられた。その数え上げたものは、ここ(24,25番)に記されたもの、またさらに多くのものである。私はまた、彼らの中に油のない明かりを持っている者を見た。彼らは悪を罪として避けたかどうか質問され、避けなかったことがわかった。それゆえ、悪い者である、と彼らは言われた。さらにまた私は、その後、彼らが似たような悪い者らがいる洞穴に入って行くのを見た。
日: 2009年6月29日
「地平線」 ブライアン・キングズレイク
丘の中腹にある私の家から見ると、地平線が、大地と大空が出会う直線がよくわかる。その先は何もなく、空だけである。
奇妙にも、その線はいくつかの畑を、いくつかの小さな村も通り過ぎる。そこの村人にとって、やっかいな代物に違いない。世の境界線上で生活するには、十分に用心深くないといけない。いつなんどき落ち込んでしまうかもしれない! 私がやや当惑することは、もっとよく見ようとして丘に登ると、地平線がその位置を変えるように思えることである。
この地方の地図上に地平線はまったく記入されていないが、それでもこの全域の主要な境界線であることは明らかである。事実、地図には地平線を越えて広がる地域が示されている。なんて不合理なんだ! ぜひとも標識を得て、このばかげた地図に地平線を記入したいものだ。
あるとき、この問題を決着するため、私は馬に乗り、地平線へ向かった。しかし、ある理由のために、私は決して地平線に到着しなかった。私が近づくと後退するように見えた。実際にここに世の境界線が位置している、と私自身の目で観察した小さな村に到着したとき、境界線の形跡は何もなかった。境界線はどこにあるのか村人に質問したとき、彼らは笑い、もっと遠くの別の、その先には空しかない地平線を指し示した。それで、私は、世の国境を捜して旅を続けた。しかし、国境はなかった、終点もなかった。ただ新しい景観がいつまでも広がっていた。
そこで、だれもが自分自身の地平線を持っていることを理解するようになった。その地平線は、自分の「共感」を拡大することで、常に拡大できるものである。私たちはみな、私たちの視野の限界がすべての物事の果てであると思ってしまう傾向がある。私たち自身の小さな世界の向こうには何も存在しない(と私たちは信じてしまう)、そして異なる見解を持つ人々と接触するとき、私たちは彼らを、奇人・変人・よそ者、気にする価値はないとして、退ける。私たちの生活の中で、これと似たものの中にとどまる者がいる――島国根性の(狭量で)、自己中心的な、独りよがりで、新しい概念を恐れ、新しい状況に適応できない者である。私たちの生活は、わくわくするような新しい並木道を通り過ぎて行く☆1。しかし、いやだ! ぜひとも標識を得て、固定した線を地図上に引こう。それは私たちの地平線であり、ここを越えたら何もない。
この態度を宗教に当てはめることができる。神を私たちとは違ったふうに考える者はだれでも、「柵を越えている☆2」――地平線を越えている! しかし、彼らの幼児から教育や伝統の立場に私たち自身を置いてみれば、私たちは非常な利点とともに視点を広げることができる。古い地平線はもはや存在せず、私たちがそれに向かって前進するとき、その線は永遠に退く。ここには、私たちの理解力と共感には、事実、国境はない。これに全世界を含めることができる。私たちが世界中を巡る旅をし、出発点に戻るとき、依然として、どんな地平線にも達していない。
さて、私は今や老境に入っている☆3、そして刻々と他の種類の地平線に近づいている――死の国境である。この線は確かなものだ! 私の死の日付は公けに記録され、死亡記事が載り、死は私にとってすべてのものの終わりのしるしとなる。そうなるだろうか? 霊界での真の生活は、この地上の生活とはいろいろな点で違っているだろう、しかし、その移住は非常にすんなりした容易なものであり、おそらく私はそのことが起こったとき、これを正確に知るのは困難であろう。
「地平線」は天界と地の出会うところである。この世の観点からは、地が現実で、天界はまったく空虚なものである。しかし、死後、天界の景観が現実であり、地は空虚である。そのようにあらゆるものが逆転する。しかし私もまた逆転しているだろうし、この逆転は気づかれない! 事実、死は地平線が現実である以上に現実である。それはヴェールのこちら側の人々にとって、単なる視野の限界であり、あらゆる個人にとって異なるものである。私たちが死に向かって近づくとき、それは消え、私たちの霊的な性質が広がり、発展するとき後退し続けるもう一つの地平線を通り過ぎる。そこには長い旅すら含まれない、単に視野の拡大があるだけである。それがすぐに来ますように。
* * * * *
「注」☆1注の必要はないかもしれません。地平線を求めて馬に乗って出かけた時に通った並木道と話をダブらせています。
☆2「柵を越えている」とは「受け入れられない、仲間じゃない」の意味。
☆3「付記」参照。
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「付記」
スヴェーデンボリ協会の機関誌『聞かれ、見られたもの』2008年夏季号から。(この機関誌名は言うまでもなく『天界と地獄』の副題です)
ブライアン・キングズレイク(Brian Kingslake)とだけあり、その紹介記事がないので、この時点での投稿記事とすれば同師は1907年生まれなので100歳を越える高齢です。
最後に、死を地平線に見立て、その準備(覚悟)が語られていますね。