(1) 原文
6. Haec in Latino sermone ita sunt:-
Haec est via et hoc est medium, ut quis fiat dignus particeps Sanctae Cenae: primarium est, ut exploret suae vitae facta et commercia secundum normam praeceptorum Dei; et in quibuscunque animadvertit se offendisse voluntate aut loquela aut facto, tunc deploret vitiosam suam naturam, et confessionem faciat coram omnipotente Deo, cum pleno proposito emendandi vitam. Et si animadvertit offensas tales esse, ut non modo sint contra Deum, sed etiam contra proximum, tunc reconciliabit se illi, et promptus erit ad restitutionem et satisfactionem ex omni potentia sua, propter injurias et mala alicui facta; et similiter promptus erit ad remittendum aliis offensas, quemadmodum vult ut offensae suae remittantur a Deo: alioquin receptio Sanctae Communionis non facit nisi quam aggravet damnationem. Quapropter si quis vestrum est blasphemator Dei, obtrectator aut sugillator Verbi Ipsius, aut adulter, aut in malitia vel in malevolentia, aut in aliquo alio enormi crimine, paenitentiam a peccatis age; si non, ad Sanctam Cenam ne accedas; alioquin post receptionem ejus Diabolus intraturus est in te, sicut intravit in Judam, et impleturus te omni iniquitate, et destructurus et corpus et animam.
(2) 直訳
Haec in Latino sermone ita sunt:- これらはラテン語の会話でこのようである―
Haec est via et hoc est medium, ut quis fiat dignus particeps Sanctae Cenae: これが道(方法)であり、これが手段である、聖餐をあずかるのにふさわしい者となるために。
primarium est, ut exploret suae vitae facta et commercia secundum normam praeceptorum Dei; 最初の(主要な)ものである、自分の生活の行為と交際を調べること、神の戒めの規則にしたがって。
et in quibuscunque animadvertit se offendisse voluntate aut loquela aut facto, tunc deploret vitiosam suam naturam, et confessionem faciat coram omnipotente Deo, cum pleno proposito emendandi vitam. そして意志あるい話し方あるいは行動のどんなものの中にも違反していることに(自分自身で)気づく〔とき〕、その時、自分の性質の欠点を悔やまなければならない、そして全能の神の前に告白をしなければならない、生活を矯正(改善)しようとする十分な意図とともに。
Et si animadvertit offensas tales esse, ut non modo sint contra Deum, sed etiam contra proximum, tunc reconciliabit se illi, et promptus erit ad restitutionem et satisfactionem ex omni potentia sua, propter injurias et mala alicui facta; そしてもしこのような違反(罪)に気づいたなら、神に反しているだけでなく、しかし隣人にもまた反しているような、その時、彼に和解しなければならない、そしてすぐ(喜んで)しなくてはならない、自分のすべての力からつぐない(賠償)と謝罪を、他の者になした害(損害)と悪のための。
et similiter promptus erit ad remittendum aliis offensas, quemadmodum vult ut offensae suae remittantur a Deo: そして同様に、すぐ(喜んで)しなくてはならない、他の者に違反(罪)を赦すようにしなけれはならない、自分の違反(罪)が神から赦されるように欲するように。
alioquin receptio Sanctae Communionis non facit nisi quam aggravet damnationem. そうでなければ聖餐の受け入れは断罪を重くする(悪くする)ことにしかならない。
Quapropter si quis vestrum est blasphemator Dei, obtrectator aut sugillator Verbi Ipsius, aut adulter, aut in malitia vel in malevolentia, aut in aliquo alio enormi crimine, paenitentiam a peccatis age; それゆえ、もしあなたがたのだれかが神の冒涜者であるなら、その方のみことばのそしる者または侮辱する者、または姦淫者、または悪意☆の中にあるいは悪意☆の中に、または何らかの他の憎むべき罪悪の中に〔いるなら〕、罪からの悔い改めを行なえ。
☆ ラテン語だとmalitiaもmalevolentiaも「悪意」です。ここはもとの英語のenvy「ねたみ・嫉妬」がよいですね。
si non, ad Sanctam Cenam ne accedas; もし〔そうし〕ないなら、聖餐に近づいてはならない。
alioquin post receptionem ejus Diabolus intraturus est in te, sicut intravit in Judam, et impleturus te omni iniquitate, et destructurus et corpus et animam. そうでなければその受け入れの後、悪魔があなたの中に入ってくる、ユダに入ったように、そしてあなたをすべての不法で満たす、そして身体と霊魂☆を破壊する。
☆ 長島訳は「精神」としていますが、私からすれば「でたらめ」です。ここはanimaの対格であり、彼自身がアニマは「魂・霊魂」であるとしています(アルカナ出版『天界の秘義』第1巻末尾の「語彙」)。
本書5番のもとの英文もsoulであり、これは通常「魂・霊魂」と訳す言葉です。英語のsoulに「精神」の意味もあり、それでぎりぎり許容範囲かと思ってしまいそうですが、スヴェーデンボリは「霊魂と身体」のように「身体」に「霊魂」を対比させて使用しており、「身体と精神」という対比は他のどこでもしていません(「健全な身体に健全な心」という言葉を思い出しますが、そこの「心」はmens)。すなわち、スヴェーデンボリの教えの根幹から見て「でたらめ」です。
(3) 訳文
これらはラテン語で次ぎのようである―
聖餐をあずかるのにふさわしい者となるための方法であり、手段であるものは―
最初のものは、神の戒めを基準として、自分の生活の行為と交際を調べることである。そして意志や話し方あるいは行動のどんなものの中であれ、違反していることに気づくなら、その時、自分の性質の欠点を悔やみ、生活を改善しようとする十分な意図とともに、それを全能の神の前に告白をしなければならない。そしてもし、神に反しているだけでなく、隣人にもまた反しているような罪に気づいたなら、その時、彼と和解し、自分の力のかぎり、すぐにも他人にした損害と悪のためのつぐないと謝罪をしなくてはならない。また同様に、自分の罪が神から赦されることを望むように、すぐにも他の者に罪を赦すようにしなけれはならない。さもないと、聖餐を受けることは断罪を重くすることにしかならない。それゆえ、もしあなたがたのだれかが神を冒涜し、その方のみことばをそしるか侮辱する、または姦淫する、または悪意あるいはねたみの中に、または何らかの他の憎むべき罪悪の中にいるなら、罪からの悔い改めを行なえ。もしそうしないなら、聖餐に近づいてはならない。さもないと、聖餐を受けた後、悪魔がユダに入ったように、あなたの中に入ってきて、あなたをすべての不法で満たし、身体と霊魂を滅ぼすであろう。
(4) まず悔い改めなければ、何も始まらない
昔のことことを思い出すとき、良い思いでもあれば、「何てばかだったんだ、悪いことをしたなあ」と悔やむこともいっぱいある。そのほうが多いかもしれない。
でも過去は取り戻せない(それで私は「ある意味で貴重である」と思う)。今となっては賠償もできなければ謝罪もできない。そのときどうするのか? まずは神に許しを請うことであろう。なので、神を認めない人は、過去の罪にどのように対処するのか? 結局、うやむやにしてしまうのか?
自分が(取り戻しせかない)罪ある人間であることを自覚し、赦しを願いながら、今後、少しでも善良に生きるしかない。
日: 2009年6月23日
6月23日は何の日か?
教員時代に修学旅行で沖縄によく行った。定時制に移ってからは、生徒はなるべく遠くに行きたいらしい、それで行き先は北海道か沖縄である。
沖縄は梅雨がないので、この6月23日を含む期間が修学旅行であった。下見や引率のとき、新教会の那覇集会の指導者だった亀島善侑(よしゆき)さんと泡盛を飲みながら親交がもてた。現地の人である亀島さんに案内してもらえたこと、何よりも信仰を同じくする友がいるのは、ありがたかった。
6月23日は「沖縄終戦の日」である。8月15日が「終戦の日」であるが、4月にアメリカ軍上陸で始まった沖縄戦、その組織的抵抗は島の最南部である摩文仁の丘まで追い詰められた日本軍の司令官牛島中将の自決の日に終わった。なお、中将は「最後の一兵までも戦え」と命じ、それで散発的な抵抗が続き、アメリカ軍は掃射戦を続け、最終的な決着は9月に入ってからだった(もちろん8月15日に終戦している!)。戦争のむごさを教える生きた教材が沖縄にある。この日、沖縄各地で追悼式が行なわれる。
これまではこれだった。今は違う。私の祖先が「八王子城の戦い」の敗残兵であると言った(南高麗村を訪れた話し)。秀吉が天下を平定した年の天正18年(1590年)、その6月23日は「八王子城落城の日」である。四国・中国を平定した秀吉は「以後、領土争いなどしてはならぬ」とのお触れを出した。
しかし、関東全域を支配下に置きたかった小田原の北条氏はその後も関東北部への侵略を続けた。そこで秀吉は上洛(顔を出せ)を命じたが、北条は従わなかった。総勢17万(?)の征伐軍が小田原を目指した。主力は東海道を進み、水軍も房総などに向かう。現在の甲州街道を前田利家・上杉景勝の連合軍が進んだ(「愛」かぶとで有名な直江兼続も付き従っている、証拠もある)。その行く手を阻んだのが「八王子城」。
降伏してしまう城も多々あったなか、八王子城は主戦を選んだ。豊臣軍は、ここは徹底的につぶそう、とした。今後の、北條軍の士気を殺ぐためである。皆殺しに近い戦闘が行なわれたらしい。(深夜に進軍し)未明に始まった戦いは一日で終わった。そこを逃げ延びたのが私の祖先。奥多摩の奥まで逃げ、そこで自害した指揮官だった武将もいる。こうなると下っ端のほうがいい。追っ手もきつくない。かっこう悪いかもしれないが、逃げたおかげで今の私がある。
さて、先祖の家を訪れ、そこに槍があった。前田利家を倒そうとして戦ったのかもしれない。今度行ったときには、その槍を構えたみたい。前田や上杉を目の前にしたつもりになって。
それで先祖の戦った地「八王子城」を女房・美恵子とともに今日22日(もう23日である)に訪れた(落城とき多くの女・子供も自害したので心霊スポットとされていて23日に地元の人は行かない)。
ついでにすぐそばにある高尾の「多摩御陵(武蔵野陵)」も訪れることにした。多摩御陵に私は何度も行ったことがあるが(最近ではヨン・ジン牧師夫妻を案内して)、美惠子は初めて。
最初に御陵に着いたとき門前払い。「今日は催し物がある」という。後からニュースで知ったが「天皇がハワイ・カナダ訪問する」からである。天皇が海外に出かけるとき両親(すなわち昭和天皇・香淳皇后)に事前に報告するのである。「いつ終わりますか」「1時ごろ」「また、そのころ来ます」
それで、先に「八王子城跡」。とたんに町中の喧騒を離れ、山の中。八王子城は「山城」である。麓の「御主殿」だけでなく山頂の「本丸」まで行った(そこには八王子のいわれとなった「八王子神社」もある)。往復1時間10分の山道で足にきた。なお山歩きは去年夏の尾瀬いらい。
すぐ近くの八王子城主だった北條氏照(先祖の主君だ)の墓も訪れた。ここはまさに心霊スポットだ、その気配を感じた。夜に一人では来れない。
さて、1時近くなって御陵に向かう道路、沿道に人だかり。「こりゃ、天皇の帰りを見送る人たちだな」と思っていたら、日ごろの心がけが良いせいか、対向車線に白バイ等をつき従えた天皇の車列。大名行列の現代版。すれ違った。なかなかできる経験ではない。着いた多摩御陵では警備も終わり、後片付けもほぼ終わり、報道車も去り、人ッ気なし。小雨の中、静かな多摩御陵、武蔵野陵であった。
帰り道、「天へぎ」の看板を出していた蕎麦屋に寄った。てんぷらと「へぎそば」である。「へぎ」蕎麦と言われてなんのことかわかれば、あなたはそば通。むずかしいことはない、「ざる」に盛るから「ざるそば」、「へぎ」に盛るから「へぎそば」。つなぎに海藻を使っている越後そばである。
久々にうまいそばを食べた。八王子に行く機会があったら「弥彦」のそばをご賞味あれ。
原典講読『生活』 7, 8
(1) 原文
7. Datum est interrogare aliquos presbyteros Angliae, qui solam fidem confessi sunt et praedicaverunt, quod factum est in mundo spirituali, num quando in templis praelegerunt illam orationem, in qua non nominatur fides, crediderint quod ita sit; ut, quod si mala faciunt, et non paenitentiam agant, Diabolus intraturus in illos sicut in Judam, et destructurus illorum et corpus et animam. Dixerunt, quod in illo statu, in quo fuerunt cum praelegerunt orationem, non aliud sciverint et cogitaverint, quam quod illa essent ipsa religio; sed quod cum sermones suos seu praedicationes concinnarent et elimarent, non similiter cogitaverint, quia de fide quod esset unicum medium salutis, et de bono vitae quod esset accessorium morale pro bono publico. Sed usque convicti sunt, quod etiam illis communis perceptio esset, quod qui bene vivit salvetur, et qui male vivit condemnetur, et quod haec perceptio illis sit, quando non in suo proprio sunt.
(2) 直訳
Datum est interrogare aliquos presbyteros Angliae, qui solam fidem confessi sunt et praedicaverunt, quod factum est in mundo spirituali, num quando in templis praelegerunt illam orationem, in qua non nominatur fides, crediderint quod ita sit; イギリスのある聖職者たち☆に質問することが与えられた、その者は信仰のみを言明(告白)し、説教した、〔これは〕霊界で行なわれたこと〔である〕、教会でそれらの祈りが朗読される時、その中には信仰は名前が挙げられていない、そのようであることを信じたのかどうか。
☆ presbyterは「教会の長老、聖職者」という意味です。『霊界体験記』6061ではcum presbytero congregationis Moravianae「モラヴィア派会衆の長老と」と言っています。すなわち「長老派教会」とは無関係であり(スヴェーデンボリはどこであれ、その意味で使用してない)、長島訳「長老派の人たち」はでたらめです。
ut, quod si mala faciunt, et non paenitentiam agant, Diabolus intraturus in illos sicut in Judam, et destructurus illorum et corpus et animam. 例えば、もし悪を行ない、そして悔い改めを行わないなら、悪魔が彼の中に入る、ユダの中にのように、そして彼の身体と霊魂☆とを破壊する。
☆ 6番で指摘しましたがamimaは「霊魂」であり、長島訳はここでは「霊魂」としています。正しいのですが、それで6番を「精神」するのは、訳語が「ばらばらだ」と非難したくなります。
Dixerunt, quod in illo statu, in quo fuerunt cum praelegerunt orationem, non aliud sciverint et cogitaverint, quam quod illa essent ipsa religio; 〔彼らは〕言った、その状態の中で、その中にいた、祈りが朗読されたとき、他のものを知らなかった、考えなかった、それらは宗教そのものであったこと以外に。
sed quod cum sermones suos seu praedicationes concinnarent et elimarent, non similiter cogitaverint, quia de fide quod esset unicum medium salutis, et de bono vitae quod esset accessorium morale pro bono publico. しかし、自分の説教(談話)あるいは教え(説教)を作り上げ、精錬させるとき、同様に考えなかったこと、信仰について、救いの唯一の手段であったもの、そして生活の善ついて、公共の善のための付加的な(補助的な)道徳であった〔と考えた〕ので。
Sed usque convicti sunt, quod etiam illis communis perceptio esset, quod qui bene vivit salvetur, et qui male vivit condemnetur, et quod haec perceptio illis sit, quando non in suo proprio sunt. しかしそれでも、確信された、彼らにもまた共通の知覚があったこと、善く生きた者は救われること、そして悪く生きた者は断罪されること、そしてこの知覚が彼らにあること、自分自身のプロプリウムの中にいない時。
(3) 訳文
これは霊界で行なわれたことであるが、信仰のみを言明し、説教したイギリスのある聖職者たちに、教会でそれらの祈りが朗読される時、その中に信仰の言葉は出てこないが、そのようであると信じたのかどうか、質問することが与えられた。例えば、もし悪を行ない、悔い改めを行わないなら、悪魔がユダの中に入ったように、彼の中に入り、彼の身体と霊魂を滅ぼすことである。彼らは、祈りが朗読されたとき、それらは宗教そのものであるとしか知らず、他に考えることもない状態の中にいたが、しかし、自分の説教あるいは教えを作り、それを仕上げているとき、信仰が救いの唯一の手段であり、生活の善は公共の善のための付加的な道徳であると考えたので、同じようには考えなかった、と言った。しかしそれでも、彼らにもまた、善く生きた者は救われ、悪く生きた者は断罪されるという共通の知覚があり、そして彼らにこの知覚があるのは、彼らが自分自身のプロプリウムの中にいない時であることが確信された。
(1) 原文
8. Quod omnis religio sit vitae, est quia unusquisque post mortem est sua vita; manet enim eadem, quae ei fuerat in mundo, et non mutatur; mala enim vita in bonam non potest converti, nec bona in malam, quia oppositae sunt, et conversio in oppositum est exstinctio: quare quia oppositae sunt, vita bona vocatur vita, et vita mala vocatur mors. Inde est quod religio sit vitae, et quod vita sit bonum facere. Quod homo sit post mortem qualis ejus vita fuerat in mundo, videatur in opere De Caelo et Inferno (n. 470-484).
(2) 直訳
Quod omnis religio sit vitae, est quia unusquisque post mortem est sua vita; すべての宗教は生活のものであることは、それぞれの者は死後、自分自身の生活(いのち)であるからである。
manet enim eadem, quae ei fuerat in mundo, et non mutatur; なぜなら、同じものにとどまるから、それは彼に世であったもの、そして変わらない。
mala enim vita in bonam non potest converti, nec bona in malam, quia oppositae sunt, et conversio in oppositum est exstinctio: なぜなら、悪の生活は善いもの〔生活〕に変えられることはできないから、善いもの〔生活〕が悪いもの〔生活〕にも、対立しているので、そして対立したものへの変化は消滅である〔から〕。
quare quia oppositae sunt, vita bona vocatur vita, et vita mala vocatur mors. それゆえ、対立しているので、善い生活はいのち(生活)と呼ばれ、また悪い生活は死と。
Inde est quod religio sit vitae, et quod vita sit bonum facere. ここからである、宗教は生活のものであること、そしてその生活は善を行なうこと。
Quod homo sit post mortem qualis ejus vita fuerat in mundo, videatur in opere De Caelo et Inferno (n. 470-484). 人間は死後、世で彼の生活(いのち)があったように存在すること、著作『天界と地獄』の中に見られる(470-484番)。
(3) 訳文
すべての宗教は生活のものであることは、死後、だれもが自分自身の生活(いのち)であるからである。なぜなら、世でその者にあったのと同じ生活(いのち)にとどまり、変わらないから。なぜなら、悪の生活は善い生活に、また善い生活が悪い生活に、変えられることは、対立しているのでできず、そして対立したものへ変化することは消滅であるから。それゆえ、対立しているので、善い生活〔こそ〕が生活(いのち)と呼ばれ、悪い生活は死と呼ばれる。ここから、宗教は生活のものであり、そしてその生活は善を行なうことである。死後、人間が世で彼の生活(いのち)があったように存在することは、著作『天界と地獄』の中に見られる(470-484番)。